世界一じゃなくても   作:ayano27

7 / 10
第七章 伽藍堂

 高校二年になった頃、あたしは自分の中に何かがぽっかりと空いていることに気づき始めていた。

 それが何なのか、はっきりとは分からなかった。ただ、鏡を見るたびにそこに映る自分が少しずつ薄くなっていくような感覚があった。朝、制服に着替える時も髪を整える時も、鏡の中の自分と目が合うたびにどこか他人事のような違和感を覚えた。

 特技も好きなことも、いつの間にか思い出せなくなっていた。運動が得意だったはずなのに、体育の授業でもあたしは本気を出すことを忘れていた。バスケットボールの授業でシュートが決まっても、以前のような達成感を感じなくなっていた。ダンスも歌も、あたしはそれに触れることすら避けていた。音楽の授業でみんなが楽しそうに歌っている中、あたしはただ口を動かすふりをしていることが増えていた。

 それらは全部、お姉ちゃんの領域だから。

 無意識にそう線を引いていた自分に気づいたのは、つい最近のことだった。何年もかけて築き上げてきたその境界線が、今になってあたし自身を苦しめ始めていることに、あたしはようやく気づき始めていた。

 

 

 

 

 お姉ちゃんは最近、アイドル科での活動が忙しく、帰りが遅くなることが多かった。今日もキッチンであたしが夕食を用意して、お姉ちゃんの帰りを待っていた。

 

「ただいま佑芽。今日も遅くなっちゃった、ごめんね」

「ううん、大丈夫。ご飯、ちょうど今できたところだよ」

 

 お姉ちゃんは疲れた様子も見せずに席についた。最近はこういう遅い夕食も珍しくなくなっていた。

 過去に戻る前、お姉ちゃんは二十時には就寝して、朝四時に起きる生活をしていたけれど、今はそんなことはない。自分を限界まで追い込む必要がないから、普通の生活リズムだった。もちろん努力は怠らないけれど、それは常識的な範囲内でのものに変わっていた。それもまた、良い変化なのかもしれない。

 

「佑芽、最近何か楽しいことあった?」

 

 お茶碗を持ちながらお姉ちゃんがそう聞いてきた。その質問にあたしは一瞬、答えに詰まった。楽しいこと。最後にそう感じたのはいつだっただろう。

 

「うーん……特にないかな」

 

 あたしはいつもの調子でそう答えた。お姉ちゃんはその答えに少しだけ眉を寄せた。

 

「そっか……。最近の佑芽、なんか元気ないように見えるわね」

「そんなことないよ」

 

 あたしは笑ってみせた。上手く笑えているかどうか、自分では分からなかった。表情筋を動かす感覚だけが、やけに機械的に感じられた。

 

「……ならいいけど」

 

 お姉ちゃんはそれ以上は追及してこなかった。でも、その表情には微かな引っかかりが残っているように見えた。食事の間、お姉ちゃんは何度かあたしの様子をちらちらと窺っていた。あたしはそれに気づかないふりをしながら箸を進めた。

 

 

 

 

 夜、自分の部屋のベッドに横たわりながら、あたしは天井を見つめていた。電気を消した部屋の中、窓から差し込む月明かりだけが天井のシミをぼんやりと照らしていた。

 あたしはここに来て、何がしたかったんだろう。

 ふとした瞬間にそんな疑問が浮かんだ。お姉ちゃんを守りたくて、ここまで来た。それは間違いない。お姉ちゃんは今、あの疲れた笑顔を知らない。世界一であろうとして自分を追い込むことも、もうない。その事実だけを見れば、あたしの選択は間違っていなかったはずだった。

 でも、あたし自身は?

 あたしはここで、何を諦めてきたんだろう。

 競うことをやめた。夢を追いかけることをやめた。お姉ちゃんの隣で、守られる存在であり続けることを選んだ。それは、本当にあたしが望んでいたことだったんだろうか。

 記憶の中の、あの日のH.I.Fの舞台。あの日、あたしは確かに勝ちたいと願っていた。お姉ちゃんに追いつきたくて、必死に練習を重ねていた。あの情熱は今、どこに行ってしまったんだろう。

 分からなかった。分からなくなっていた。目を閉じても、答えは見つからなかった。ただ、胸の奥にある空洞の感覚だけがじわじわと大きくなっていくのを感じていた。

 

 

 

 

 数日後、学校の帰り道であたしは偶然、アイドル科のレッスン室の前を通りかかった。ガラス越しにお姉ちゃんが一人で練習しているのが見えた。夕暮れの光がレッスン室の中を橙色に染めていた。

 振り付けを繰り返し確認する姿。汗を拭いながら、鏡の中の自分を見つめる目。時折、小さくガッツポーズをして、自分の成長を確かめているような仕草も見えた。

 その姿は記憶にある、あの疲れ切った背中とは違う。もっと生き生きとしていた。目の前にあることに夢中になっている顔だった。誰かに強制されているわけでもなく、ただ純粋に、自分の可能性を追い求めている顔。

 あたしはその光景から目が離せなかった。ガラスに額をつけそうなくらい近づいて、あたしはお姉ちゃんの一挙一動を見つめ続けていた。

 羨ましい。

 その感情に気づいた瞬間、あたしは自分でも驚くくらい強く動揺した。羨ましいなんて、思ってはいけないはずだった。この生活を選んだのはあたし自身なのに。誰に命令されたわけでもなく自分で選んだくせに、羨ましいだなんて。そんなの、絶対におかしい。

 お姉ちゃんがボロボロになっていくのが嫌だった。だから、守ったはずだった。救ったはずだった。それなのに、今あたしの中にあるのはお姉ちゃんへの羨望だった。ガラスの向こうで自由に踊るお姉ちゃんの姿が、まるであたしが失ったものの象徴のように見えた。

 そんな自らの身勝手な思いが、悍ましいもののように感じて。あたしは身震いした。

 あたしは逃げるようにその場を立ち去った。足早に渡り廊下を渡り、普通科の校舎へと戻る。息が少し上がっていた。

 自分の中に空いた穴の正体に、あたしはようやく気づき始めていた。

 でも、もうどうしようもない。あたしは、選んでしまったのだから。

 

 

 

 

 その夜、あたしは久しぶりに昔のアルバムを開いた。子供の頃、お姉ちゃんと一緒に写った写真が何枚も並んでいる。運動会での二人ショット、夏祭りでの浴衣姿、公園でのブランコの写真。

 どの写真の中でもあたしは屈託なく笑っていた。今のあたしの笑顔と何が違うんだろう。あたしはしばらくその写真たちを見つめ続けていた。

 そんな中、一枚の写真にあたしの目が止まった。幼稚園の運動会、リレーの写真だった。お姉ちゃんが先頭を走り、あたしがそのすぐ後ろを追いかけている。あの頃はまだ、二人で競い合うことが当たり前だった。あたしが時間を遡ってくる、ほんの少し前の記録だった。

 この写真の中のあたしは、今のあたしとはまるで別人のように見えた。輝いていた。全力で何かに向かって走っていた。

 アルバムを閉じて、あたしは自分の胸に手を当てた。心臓の音がいつもより速く感じられた。

 このままでいいんだろうか。

 その問いが初めて明確な形を持って、あたしの中に浮かび上がってきた。答えはまだ出なかった。でも、その問い自体から、あたしはもう目を逸らすことができなくなっていた。

 

 

 

 

 それから数週間、あたしは自分でも気づかないうちに少しずつ変化していった。授業中、教科書の隅に、無意識にダンスのステップを書き込んでいることがあった。イヤホンをして音楽を聴きながら、指先で密かにリズムを刻んでいることも増えた。

 ある日の放課後、誰もいない教室であたしは机を端に寄せて、少しだけスペースを作った。誰かに見られたら恥ずかしいと思いながらも、あたしはこっそりと体を動かし始めた。

 最初はぎこちなかった。何年も本気で踊っていなかった体は思うように動かなかった。でも、少しずつ感覚が戻ってくるのが分かった。身体が、筋肉が、リズムを思い出していく。

 夢中になって踊っているうちに時間を忘れていた。ふと我に返って時計を見ると、もう三十分近く経っていた。息が上がって、汗が滲んでいた。

 あたしは鏡代わりに使っていた窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。そこには、久しぶりに生き生きとした表情の自分がいた。

 その顔を見た瞬間、あたしは自分でも驚くくらい涙が溢れてきた。ずっと抑え込んできたものが、堰を切ったように溢れ出してくるようだった。

 どうして、こんなに簡単なことをあたしは何年も避け続けてきたんだろう。踊ることが、こんなにも自分を満たしてくれるということを、あたしはずっと忘れたふりをしてきた。

 涙を拭いながら、あたしは机を元の位置に戻した。誰にも気づかれないように、そっと教室を後にした。でも、その日から、あたしの中で何かが確実に動き始めていた。

 

 

 

 

 その週末、あたしは家で一人、久しぶりに音楽をかけて鏡の前で踊ってみた。お姉ちゃんは友達と出かけていて、家には誰もいなかった。

 鏡の中の自分と向き合いながら、あたしは体の隅々にまで意識を巡らせた。腕の角度、視線の運び方、リズムの取り方。全てが記憶の中に鮮明に残っていた。身体はそれを忘れていなかった。

 一曲踊り終える頃にはあたしは息を切らしながら、鏡の前に座り込んでいた。汗が額を伝う感覚がこんなにも心地よいものだったなんて、久しぶりに思い出した。

 鏡の中の自分に向かってあたしは小さく呟いた。

 

「あたし、本当はこれがしたかったんだ」

 

 その言葉は誰にも聞かれることなく、静かに部屋の中に消えていった。でも、あたし自身の中には確かにその言葉が刻まれた。もう、見て見ぬふりはできない。あたしの中の空洞は、この気持ちを押し殺し続けてきたことで生まれたものだったんだと、ようやく理解した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。