お姉ちゃんに見つめられたまま、あたしはしばらく動けなかった。リビングの照明がやけに明るく感じられた。窓の外では風が木々を揺らす音がかすかに聞こえていた。
言うべきか、言わざるべきか。ずっと胸の奥に閉じ込めてきた真実が、堰を切ったように喉元までせり上がってくる。何年も抑え込んできた言葉が今にも溢れ出しそうだった。
「あのね、お姉ちゃん。信じられないかもしれないけど……」
声が震えた。それでも、あたしは続けた。一度口を開いてしまえば、もう止まらなかった。
「あたし、本当は……違う未来を知ってるの」
お姉ちゃんは怪訝そうな顔をした。それでも遮ることなく、あたしの言葉を待ってくれた。その静かな眼差しに、あたしは背中を押されるように言葉を継いだ。
「その未来だとね。あたしはお姉ちゃんを追いかけてアイドル科に入学して、あたしたちは競い合ってた」
あたしは一呼吸おいて、言葉を続けた。
「それで、H.I.Fであたしがお姉ちゃんに勝ったの。その後も競い合ってたけど、結局あたしはお姉ちゃんに勝ち続けてね。それで、お姉ちゃんはボロボロになって、疲れちゃって……それで結局、アイドルをやめて、トレーナーになるって言った。……そんな未来」
今からほんの少し未来の話。でも、あたしにとっては遠い過去の話。
「あたし、その未来から戻ってきたの。ちょうど、小学生になる少し前の頃に」
馬鹿げた話だと分かっていた。それでも、あたしは止まらなかった。一度堰を切った言葉はもう誰にも止められなかった。
「あたし、その未来で……トレーナーになるって言い出したお姉ちゃんに言いたかったの。お姉ちゃんにずっと隣にいてほしいって。ずっと一緒にアイドルやりたいんだって。でも言えなくて、そのままお姉ちゃんは……壊れていくみたいに、頑張り続けて」
視界が滲んだ。あの夜の記憶が鮮明に蘇ってくる。自販機の前で肩を震わせていたお姉ちゃんの背中。あの光景を、あたしは二度と見たくなかった。
「その時、燐羽ちゃんに言われたの。あたしが昔言った言葉がお姉ちゃんを縛ってたって。あたしが『世界一のお姉ちゃん』なんて言ったから、お姉ちゃんはそう在り続けなきゃいけないって、そうお姉ちゃんに思わせちゃったんだって。だからあたし、神社で願ったの。その言葉を言う前に、戻してって」
お姉ちゃんは何も言わなかった。ただ、じっとあたしを見つめていた。その視線の奥に何を思っているのか、あたしにはまだ読み取れなかった。
「それで、あの日に戻ってきて。あたし、その言葉を言わなかった。お姉ちゃんをあたしがかけちゃった呪いから、解放したかったから」
言い終えると、あたしは大きく息を吐いた。何年もかけて抱え込んできた秘密をようやく口にできた。その解放感と、これからどうなるか分からない不安が同時に押し寄せてきた。
◇
長い沈黙があった。時計の針が動く音だけが部屋の中に響いていた。あたしはお姉ちゃんの反応を息を止めて待っていた。
「……それで?」
お姉ちゃんが静かに口を開いた。その声には怒りも、戸惑いも、あたしが予想していたどの感情とも違う、もっと深いものが滲んでいた。
「それで、佑芽は幸せだったの?」
その問いにあたしは答えられなかった。幸せ。その言葉をあたしは自分自身に問いかけたことが、これまであっただろうか。
「アイドルの夢を諦めて。わたしの後ろに隠れて。それで、佑芽は本当に良かったの?」
「あたしは……」
言葉が出てこなかった。喉の奥が締め付けられるように痛んだ。
「お姉ちゃんがボロボロになっていくのが嫌だった。お姉ちゃんを守れたなら、それでいいって思ってた」
「わたしは、守られたかったんじゃない」
お姉ちゃんの声は静かだったけど、確かな芯があった。あたしはその言葉の強さに思わず息を呑んだ。
「わたしは、佑芽と競い合いたかった。一緒に走りたかった。それが、わたしにとってのお姉ちゃんでいることだったのに」
あたしはその言葉に打ちのめされた。ずっと、お姉ちゃんを守ることだけを考えてきた。でも、それが本当にお姉ちゃんの望んでいたことだったのか、あたしは一度も真剣に考えたことがなかった。
「佑芽が自分を抑えてるのを、わたし、ずっと見てた。何かがおかしいってずっと思ってた。でも、理由が分からなくて」
お姉ちゃんの目にうっすらと涙が浮かんでいた。あたしはその涙を見た瞬間、自分がどれだけの時間、お姉ちゃんに気づかれないように振る舞い続けてきたかを改めて思い知らされた。
「今、全部分かった。佑芽、あなたはわたしのために、ずっと自分を殺してたのね」
その言葉にあたしはとうとう、堪えきれずに泣き崩れた。
お姉ちゃんは泣き崩れるあたしをそっと抱きしめてくれた。あたしの背中に回された腕の力強さに、あたしはますます涙が止まらなくなった。
「ごめんね、佑芽。わたし、全然気づいてあげられなかった」
「ちがう、あたしが……あたしが、ちゃんと言わなかったから……」
しゃくり上げながら、あたしはなんとかそう言葉を紡いだ。お姉ちゃんはあたしの頭を優しく撫でながら、静かに首を振った。
「二人とも悪くないわ。ただ、伝え方を間違えただけ。あなたの言う、未来のわたしも含めてね」
その言葉にあたしは少しだけ救われる思いがした。でも、まだ心の奥には消化しきれない感情が渦巻いていた。
「時間を戻したなんて話、本当に信じるかどうか正直まだ分からない。でも」
お姉ちゃんはあたしの顔を覗き込むようにして、続けた。
「佑芽が何年もこんな思いを抱えてたことだけは、痛いほど分かった」
その言葉にあたしはもう一度涙を溢れさせた。長い間、誰にも打ち明けられなかった秘密をようやく共有できたことへの安堵と、これから二人の関係がどう変わっていくのかという不安が複雑に絡み合っていた。
「ねえ。これから、どうしたい? 佑芽」
お姉ちゃんの問いに、あたしはしばらく答えを探した。涙で滲んだ視界の中、お姉ちゃんの顔だけがはっきりと見えていた。
「あたし……もう一度、ちゃんとお姉ちゃんと同じ場所に立ちたい」
その言葉を口にした瞬間、あたしの中で何かが吹っ切れたような感覚があった。長い間、蓋をしていた本当の願いがようやく外の世界に出てきた。
「うん」
お姉ちゃんは静かに頷いた。その表情には、あたしが記憶しているあの疲れた笑顔とはまるで違う、穏やかな強さが宿っていた。
「一緒に頑張ろう。今度こそちゃんと」
きっと、まだ間に合う。
そうお姉ちゃんは付け足すように言葉にして、再度あたしを抱きしめてくれた。