鬼さま&スグリ 助けてぽにぽに 作:助けてアオイ
キタカミの冷たい夕闇が完全に恐れ穴の周囲を支配していた。
耳をつんざくようなスグリの高笑いが岩壁にぶつかっては歪んだ残響となり、何度も何度もアオイたちの鼓膜を震わせる。
その手にしっかりと握られたハイパーボールのなかには、つい先ほどまでアオイを思ってバトルし泣き叫んでいた、あの小さなオーガポンが閉じ込められている。
信じられない光景だった。
信じたくない現実だった。
「……っ、うそ……でしょ……」
ゼイユの掠れた声が風に消えそうになりながら漏れ出た。
いつも気の強かった彼女の身体が今は見たこともないほど小刻みに震えている。その目は狂ったように笑い続ける実の弟と彼の掌にある重苦しい球体を、ただ呆然と見つめることしかできていなかった。
アオイは自分の両手を見つめたまま、その場に崩れ落ちるようにして膝を突いた。
(どうして……どうして、こんなことに、なっちゃったの……?)
胸の奥を底の抜けたような絶望と息が詰まるほどの激しい後悔が駆け巡る。
どこで間違えてしまったのだろう。
林間学校でこのキタカミの里にやってきてスグリと出会って一緒に看板を巡ってバトルして。あの時は確かにお互いを思いやる「友達」だったはずなのだ。
スグリが鬼さまに強い憧れを抱いていると知っていながらゼイユに口止めされたからと、おめんの真実を彼に隠し続けてしまったあの時だろうか。
それとも、おめんを取り戻す旅の途中、暗い顔をして「俺、行かない」と離れていってしまったスグリの背中を引き留めもせずに向こうへ行かせてしまったあの時だろうか。
『アオイは……鬼さままで俺の一番欲しかったものまで全部持ってっちゃうんだね』
先ほどスグリが吐き出した呪詛のような言葉がアオイの脳裏にリフレインする。
アオイにはスグリから何かを奪おうという意図など微塵もなかった。ただ目の前で困っているオーガポンを助けたくて、理不尽に奪われたおめんを返してあげたくて、必死に戦ってきただけだった。
けれど、そのアオイの「正しさ」や「強さ」そのものがスグリの心をずっと追い詰め、ズタズタに引き裂き続けていたのだ。
アオイがオーガポンとの絆を深めれば深めるほど、スグリにとっては「アオイにすべてを奪われる」という耐え難い拒絶の痛みに変わっていた。
誰も悪気なんてなかったはずなのに。
アオイはオーガポンを守りたかっただけ。
ゼイユはスグリを傷つけまいと不器用に立ち回っただけ。
スグリは、ただ純粋に誰よりも鬼さまに憧れて一緒にいたかっただけ。
全員がそれぞれの想いで動いていたはずなのに手元に残されたのはバラバラに壊れてしまった関係と狂気に落ちてしまった一人の少年の姿だけだった。
「スグリ……っ! あんた、正気に戻りなさいよ……! そんなの、そんなのあんたのやり方じゃないじゃない……!!」
ゼイユが涙をボロボロと溢れさせながら、一歩、スグリの方へと足を踏み出した。
その声は悲痛に満ちており、実の姉として変わり果てた弟の姿を見ていられないという、張り裂けんばかりの感情が乗っていた。
しかし、スグリは笑うのをピタリと止めると冷酷極まりない、凍りつくような視線だけでゼイユの言葉を遮った。
「……うるさいな、ねーちゃん」
その声には、かつてゼイユに怯えていた少年の面影など、ひとかけらも残っていなかった。
「俺は勝ったんだ。勝って、鬼さまを手に入れた。ねーちゃんにもアオイにも……誰にも文句は言わせない」
スグリはオーガポンの入ったハイパーボールをポケットの奥深くへと仕舞い込むと、まだ地面に膝を突いたまま立ち上がれないアオイを冷たく見下ろした。
その瞳の奥には勝利したはずの優越感などなく、ただ暗く深い孤独の闇だけが、いっそう色濃く広がっているように見えた。
アオイが絶望に打ちひしがれ、ゼイユが涙を流して立ち尽くすなか、変わり果てたスグリは冷たい表情をふっと緩めた。
それは以前の気弱で優しかったスグリの笑顔とは全く異なる、どこか壊れてしまった人間が見せる不気味なほど純粋で歪んだ笑みだった。
スグリはポケットのなかのハイパーボールに愛おしそうに触れたまま、地面に膝を突くアオイの前へと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
そして、まるで親しい親友に語りかけるような、驚くほど穏やかなトーンで言葉を紡ぎ出す。
「……ねえ、アオイ。俺さ、アオイに本当にお礼を言わなきゃって思ってたんだ」
「え……?」
アオイが怪訝そうに涙に濡れた顔を上げる。
スグリは小さく頷き、心からの喜びを噛み締めるように続けた。
「アオイがこの里にきて、鬼さまと出会ってくれたから……だから、アオイがいてくれなきゃ、鬼さまはずっと隠れたままで俺、一生会えなかったかもしれない。アオイのおかげで俺、鬼さまを仲間にすることができたんだよ。本当に……本当にありがとう!」
その言葉に宿る純粋な感謝の色が、かえってアオイの胸をナイフのように深く突き刺した。
スグリにとってアオイがオーガポンと紡いできた命がけの絆や優しさは自分が鬼さまを捕まえるための「お膳立て」に過ぎなかったのだ。自分の勝利とオーガポンの獲得を疑いなく喜ぶ弟の姿にゼイユは言葉を失い、ただただ愕然と口をあいたまま固まっていた。
すると、スグリは思い出したように、ぽんと自分の頭を叩いた。
「あ、そうだ。忘れるところだった。……明日言うつもりだったんだけどね、ブライア先生の急用ができちゃってさ。俺とねーちゃん、明日ブルーベリー学園に戻ることになったんだ。急でびっくりしちゃったよね」
学園への突然の帰還の知らせ。
スグリの口調は、まるで明日の天気の話でもするかのように淡々としていた。しかし、その言葉の裏にはオーガポンを手に入れた今、もうこの里に留まる理由は一切ないという冷徹な決別への意思が透けて見えていた。
「だからさ明日、村の入り口で見送りにきてよ。……ね? 約束だよ」
スグリはアオイの目を真っ直ぐに見つめ、いたずらっぽく微笑んだ。
アオイの心がどれほどズタズタに引き裂かれているかなど今の彼には関係がなかった。ただ、自分の世界の中心にいるアオイに自分の最高の瞬間を見届けてほしいという、強烈な執着だけがそこにあった。
「俺……ホントにアオイと友達でよかった。アオイと出会えて最高だったよ」
慈しむような、それでいて背筋が凍るようなその言葉を最後に残し、スグリはくるりと背を向けた。
その足取りは、先ほどまでの激戦の疲れを感じさせないほどに軽く、弾んでいた。
「じゃあね。また明日」
暗闇に溶けていくスグリの紫色の背中。彼は一度も振り返ることなく、山道を軽快に下り、自分たちの家がある村の方へと帰っていった。
夜の静寂が、再び恐れ穴の前に降りてくる。
残されたアオイとゼイユの耳には遠ざかっていくスグリの足音とポケットのなかで微かに擦れるハイパーボールの冷たい音だけが、いつまでも不気味な余韻として残り続けていた。