――憂鬱だ。とても憂鬱。憂鬱、憂鬱、憂鬱。
自分でもどうしてここまで深い感情を抱いているのか分からない。気持ちが沈む、というよりは、焦燥に駆られて動悸がするような感じの憂鬱だ。
一体どうして憂鬱なのだろう。
「……」
今朝に起床してから今の時刻に至るまで、確かに憂鬱になりそうなことはあった。駅の自販機でコーヒー缶が売り切れていたこと、転んで右手の甲を擦りむいたこと、にわか雨に降られてカバンの中が少し湿ったこと。でも、それらをすべてまとめて考えてもこう憂鬱な気分になるほどのものでもない。
ならば一体なんだろうか。先程からそればかり考えている。この事実もまた憂鬱だが、やはり違う。
――ててーんてーん。
気の抜けた調子の入店音に遅れ、僕の横の席にひとりの人物が現れたことで、ようやく深い思考から現実へ引き戻された。
「朝っぱから学校サボってファミマのイートインスペースたぁ、また変なことしてんな、チビ」
「……
僕より頭ひとつ分は背の高い、ファー付きのモッズコートに身を包んだ女子学生。目つきは鋭く、髪にはいくつかの赤色のメッシュを入れている。いかにも不良――といった出で立ちだ。
菜無野……下の名前は何だったか。いまだに覚えられない。まあ、名字を覚えているだけでも他のクラスメイトよりはマシだろう。コイツに関しては、関わる回数が多すぎた。
「別に?」肩をすくめる菜無野。「非行少年が非行すんのは当たり前だろ」
「自分そう説明するのは初めて見たな。……おい、イートインはココで買ったものを食べる場所だ」
「おっと、じゃあパスタでも買ってくるか。オマエもなんか食うか? 奢るぜ」
「安いパン」
「はいはい」
妙なところで律儀な非行少女だ。
菜無野の何も考えてなさそうな面を拝んだせいか、少しは気が晴れた。熱いブラックコーヒーを一口飲んでから、手元のスマートフォンに目を落とす。
ニュース、特に面白いものはない。どこかで豪雨があったとか、どこかで新薬の開発が進んだとか。僕の生活に関わるようなものじゃないし、記事に書いてある内容はどれも陳腐で目新しさがない。無論、雨に見舞われた当事者からしてみれば僕の考えは怒るに値するかもしれないが。
「ほらよ。スナックサンド好きだろオマエ」
「どうも」
菜無野がぽいっと僕の手元へパックをひとつ投げてよこす。あちらはシンプルなカルボナーラを温めてきたらしい。
スナックサンドは好きだ。数少ないマトモな好物といっていいだろう。手軽で味もいい、バリエーションの多さについては別に可否はないが、僕はハムタマゴが特に好みだ。次点でピーナツ。
「うめー、パスター」
そうしてパスタを頬張る彼女を横目に僕もコーヒーを飲み終え、再び別れてコンビニをあとにした。
* * *
「……」
カチ、カチ、カチ。手元で正確な時を刻み続ける懐中時計。銀で縁取られた、新しくもなく華美でもない、どこにでもあるような『使い古された懐中時計』。
「起きるな。じき」
『本当に参加する気か、ヤマガエ。……死ぬぞ』
黒のレザージャケットに隠れた首元の骨伝導イヤホンから、音質の悪い女の声が届く。
「やるさ。今更退けねェだろ。それにどの道俺は死ぬ。これに参加しようがしまいがな」
『やれやれ……強情なことだ』
「はっ、テメェといい勝負なんじゃねェか。イカれてんのはお互い様だろ」
『フン……まあいい。私もキミのことを託された身だ。どうしてもやるのなら、サポートしよう』
彼は足を止めた。その視線の先にあるのは、小さな教会――の、残骸。
今は既にどこかへ移転したらしく、時代遅れの小さな空き家がボロボロの残骸になって残っているだけだ。そういい立地でもないためか、取り壊して売り払う気はないらしい。
「五十八分……」
『あと二分、か』
右手の中で、時計が静かに震えている。秒を刻む感覚が克明に手のひらへ伝わる。
取り壊されなかったのはこちらにとって僥倖だ。いい隠し場所として、そしてある程度『魔術的』な意味を持ち、さほど吹き飛ばしても面倒のない地点として、ちょうどよかった。
さあ、すべての用意は整っている。あとは待つだけだ。すべて、整っている。
今、己の悲願を遂げるために――。
『……ゼロ!』
イヤホン越しの声とともに、教会跡は爆炎に呑まれ、木っ端微塵に吹き飛ばされた。