無個性は個性をつくる 作:匿名希望
「どうして、この式では空気抵抗を無視しているんですか?」
父は、コーヒーを飲もうとしていた手を止めた。
私が広げている本と私の顔を交互に見て、それから少しだけ眉を寄せる。
「……どの式?」
「ここです」
指で示す。
机の上にあるのは、子供向けの図鑑ではない。大学で使うような基礎力学の教科書だった。
数式が多いので、最初は読みづらかった。
ただ、記号の意味を前のページへ戻って一つずつ確認すれば、読めないわけではない。
知らない単語は辞書で調べればいい。
説明が省略されている部分については、その前後から考えれば大体分かる。
それでも分からないところが残れば、人に聞く。
今回はそうしただけだった。
父は本を覗き込み、しばらく黙った。
「零司。これ、意味分かって読んでるのか?」
「分からなければ質問できません」
「いや、それはそうなんだけどな……」
父は椅子を引いて私の隣へ座った。
私が開いていたページを読み、さらに前のページを何枚かめくる。
読む速度は私より遅かった。
「たぶん、問題を簡単にするためだな。現実には空気抵抗があるけど、まずはないものとして計算して……」
「それは書いてあります」
「……書いてあるか」
「はい。私が分からないのは、どの程度までなら無視しても計算結果への影響が小さいのかです。物体の形や速度で変わりますよね?」
父はもう一度黙った。
今度はさっきより長かった。
「そこから先は、お父さんには分からないな」
「そうですか」
「悪いな」
「いえ。分からないなら仕方ありません」
答えられないこと自体に問題はない。
分からないことが分かった。
それなら、別の資料を探せばいい。
私は机の端に置いていた紙へ、本のページ番号と疑問点を書いた。
あとで確認するためだ。
父はその様子を見ていた。
「零司」
「はい」
「お前、今いくつだっけ?」
「三歳です」
「そうだよな」
知っているはずなのに、なぜ確認したのだろう。
私は少し考えたが、理由が分からなかったので本へ視線を戻した。
四歳になるまでは、まだ少し時間があった。
◇ ◇ ◇
私が本を読むようになった時期を、私は正確には覚えていない。
文字を覚えた時期も同じだ。
ただ、読めるようになってからは、本の種類を年齢で区別する必要を感じなかった。
絵本にも知らないことは載っている。
図鑑にも載っている。
教科書にも専門書にも載っている。
違うのは、一冊に含まれている情報の量と、その説明に必要とされる前提知識だった。
当然、前提知識が足りなければ理解できない。
だから前提になっている本から読めばいい。
最初はそれだけだった。
「次、これが欲しいです」
休日、両親と一緒に書店へ行った私は、棚から抜いた本を母へ渡した。
母は表紙を見た。
「……生化学?」
「はい」
「この前、電気回路の本を買わなかった?」
「読みました」
「もう?」
「はい」
母が数秒止まった。
最近はよくある反応だった。
「難しくなかった?」
「知らない記号が多かったので、最初は少し時間がかかりました」
「少しって?」
「二日くらいです」
母は私の手にある本をもう一度見た。
それから横にいる父を見る。
父は何も言わず、肩をすくめた。
「他には?」
母が聞いた。
私は棚を見る。
欲しい本は一冊だけではない。
しかし、一度に買える量にも限度があるらしい。
両親は本を買うことについては比較的自由にさせてくれたが、だからといって書店の棚を全部買っていいわけではなかった。
「材料工学の入門書も欲しいです」
「何に使うの?」
「まだ決めていません」
「決めてないのに読むの?」
「知らないので」
それ以上の理由はなかった。
知らない。
だから読む。
読めば分かる。
読んでも分からなければ、別の本を読むか、人へ聞く。
一つ分かると、その説明の中に知らない言葉が出てくる。
それを調べると、さらに別の分からないものが出てくる。
終わりはまだ見えなかった。
私はそれが気に入っていた。
母は困ったように笑って、二冊とも買い物籠へ入れた。
「まあ、ゲーム買ってって言われるよりいいのかしら」
「ゲームも構造は面白いと思います」
「やりたい?」
「分解していいなら」
「買ったばかりのものは駄目」
「分かりました」
駄目なら仕方がない。
私は別の棚へ向かった。
背後で父が小さく笑っていた。
◇ ◇ ◇
大人は、私が本を読んでいるとよく話しかけてきた。
最初は、文字を読めること自体を褒められる。
次に、本当に内容を理解しているのか確かめられる。
簡単な質問をされることもあった。
私が答えると、質問は少し難しくなる。
それにも答える。
何度か繰り返すと、大抵の人は両親を見る。
「すごいですね、この子」
そう言われる。
何がすごいのかは、相手によって少し違った。
文字を読むのが早い。
記憶力がいい。
計算ができる。
説明を一度で理解する。
大人と同じ話をする。
評価項目は色々あった。
ただ、結論はだいたい同じだった。
将来が楽しみだ。
きっと大物になる。
何でもできる。
そういう言葉を、私は何度も聞いた。
「零司くんは、大きくなったら何になりたいの?」
保育園でも聞かれた。
先生は笑っていた。
周りにいた子供たちは、それぞれ好きなものを答えていた。
ヒーロー。
警察官。
消防士。
お医者さん。
テレビで見た職業を答える子もいれば、親と同じ仕事を答える子もいる。
私は少し考えた。
「まだ決めていません」
先生が笑う。
「零司くんなら、何にでもなれそうだものね」
それは分からない。
職業にはそれぞれ必要な資格や能力がある。
年齢制限もあるだろう。
そもそも私は、世の中にどんな仕事がどれだけ存在するのかも知らない。
知らないものの中から選ぶことはできない。
「仕事の種類を全部知らないので、今決める必要はないと思います」
先生の笑顔が止まった。
「……そ、そうね」
「はい」
答えたので、私は読んでいた本へ戻った。
子供向けの宇宙図鑑だった。
専門書より説明は簡単だったが、写真が多いのでこれはこれで便利だった。
特に、恒星の大きさを比較したページは見やすい。
文章が難しい本が常に優れているわけではない。
目的に合っている方を使えばいい。
しばらくすると、隣で歓声が上がった。
見ると、同じ組の子供の指先から小さな光が出ていた。
白に近い、弱い光だった。
本人は驚いたあと、すぐに嬉しそうに笑った。
周囲の子供が集まる。
先生も駆け寄った。
「個性が出たのね!」
その言葉で、さらに騒がしくなる。
珍しいことではなかった。
私と同じくらいの年齢になると、すでに個性が現れている子供もいる。
見た目が最初から人と違う子もいた。
途中から身体の特徴が変わった子もいる。
あの光がどのような仕組みで発生しているのかは知らなかったが、その時の私は調べようとは思わなかった。
他に読んでいる途中のものが多かったからだ。
「零司くんは、まだだよね」
先生に言われた。
「はい」
「どんな個性が出るのかな。楽しみね」
「そうですね」
私は答えた。
実際、出るなら出た時に確認すればいい。
まだ起きていないことについて考えても、観察できる情報がない。
先生はなぜか嬉しそうだった。
「零司くんは頭がいいから、すごい個性まで出たら本当に大変ね」
頭の良さと、これから出る個性の性能に関係があるのだろうか。
少なくとも私は、そのような資料を読んだ記憶がなかった。
ただ、先生は質問をしているわけではない。
わざわざ訂正する必要もないだろう。
私は宇宙図鑑へ視線を戻した。
◇ ◇ ◇
両親も、私に期待していた。
それは言葉だけではなく、扱いからも分かった。
私が必要だと言った本は、多くの場合買ってもらえた。
分からないことを質問すると、答えを知らなくても怒られなかった。
代わりに本を探したり、詳しい人へ聞いたりしてくれた。
子供だから分からなくていい、と言われたことはほとんどない。
逆に、私が分かっていることを子供向けに言い直されることも少なくなった。
その方が話が早いので助かった。
ある日、母の知人が家へ来た。
私はリビングの隅で本を読んでいた。
会話へ参加する理由がなかったので、そのままにしていた。
「本当にずっと読んでるのね」
知人が言った。
「静かな時はだいたいあんな感じ」
母が答える。
「普通、三歳ってもっと走り回ったりするんじゃないの?」
「走ることもあるわよ。必要なら」
母の説明は少しおかしい。
走る必要がある状況はそれほど多くない。
「何読んでるの?」
聞かれたので、本の表紙を見せる。
知人の表情が変わった。
「え?」
「人体の生理学についての本です」
「……読めるの?」
「はい」
「内容も?」
「はい」
しばらく質問された。
呼吸。
血液循環。
神経。
筋肉。
私が読んだ範囲のことだったので答えた。
最後に、知人は母へ向き直った。
「この子、本当にすごいね」
「でしょう?」
母は嬉しそうだった。
自分が褒められたわけではないのに、なぜ母が嬉しそうなのかは少し分からなかった。
「将来、医者とか研究者とか?」
「まだ本人は決めてないって」
「ヒーローもあるんじゃない? 頭のいいヒーローだっていっぱいいるし。それに個性もこれからでしょう?」
「そうなのよね」
二人の視線が私へ向いた。
「どんな個性が出るか、それも楽しみよね」
母が言った。
私はページをめくった。
「そうですね」
嘘ではない。
出るなら、どういうものかは興味がある。
ただ、それは今日読んでいる神経伝達の仕組みより優先順位が高いわけではなかった。
知人は帰るまで何度か私を褒めた。
そのたびに母は機嫌がよさそうだった。
◇ ◇ ◇
父も似ていた。
ただし、父は私へ直接何かを期待するというより、他人へ説明する時にそれが出やすかった。
「一回読んだら忘れないんだよ」
ある日、そう言っていた。
正確には少し違う。
私は見たものを何でも無条件に記憶しているわけではない。
覚えておく必要があると判断したものは、かなり長く保持できる。
逆に必要がないものまで全部覚えているわけではなかった。
その区別を説明すると長くなるので、普段は訂正していない。
「計算も?」
「普通にするよ」
「何桁まで?」
「さあ。聞いたことないな」
大人たちは、私が何かできると上限を知りたがる。
何桁まで計算できるのか。
何冊読めるのか。
何歳向けの問題まで解けるのか。
私はその質問をあまり有用だとは思わなかった。
計算は、必要な精度までできればいい。
本は、必要な内容が書いてあるものを読めばいい。
問題も、解く必要があるなら解けばいい。
上限を測るためだけに時間を使うより、知らないことを調べた方がよかった。
「零司、これ解けるか?」
父の知人に紙を渡されたことがある。
中学生が解く程度の数学の問題だった。
私は式を書いた。
特に難しくはなかった。
「合ってる」
「そうですか」
「嬉しくないの?」
「何がですか?」
「解けたこと」
私は少し考えた。
「答えが分からない問題なら、分かった時は面白いです」
「これは?」
「似た問題を本で見ました」
一度分かったことをもう一度確認しても、新しい情報はあまり増えない。
もちろん、反復に意味がないわけではない。
手順を速くしたり、間違いを減らしたりするなら有用だ。
ただ、この時はその必要がなかった。
知人は父を見た。
父は笑っていた。
「こういうやつなんだよ」
私は紙を返した。
悪く言われているわけではないらしいので、そのまま本へ戻った。
◇ ◇ ◇
夜。
両親が台所で話している声が聞こえた。
私はリビングの机で本を読んでいた。
「このまま行ったら、どうなるんだろうね」
母の声だった。
「さあな。でも、選択肢は多いだろ」
「学校とかも考えないとね」
「まだ三歳だぞ」
「もうすぐ四歳」
「それでも早いだろ」
少し間が空いた。
「個性も、そろそろかな」
父が言った。
「そうね」
「何が出るんだろうな」
「頭を使う個性だったら、とんでもないことになりそう」
二人とも楽しそうだった。
私に向けられている期待というものは、ああいう状態を指すのだろう。
将来、何か大きなことをする。
難しい学校へ行く。
優れた仕事をする。
強い個性が出る。
大人たちは、まだ起きていないことをかなり具体的に想像していた。
私は特に嫌ではなかった。
嬉しいとも思わなかった。
期待されていることで、本の内容が増えるわけではない。
理解できる範囲が広がるわけでもない。
反対に、期待されたからといって何かが減るわけでもない。
今のところ実害はなかった。
それなら、気にする必要はない。
私は本のページへ視線を戻した。
神経細胞が電気的な信号を伝え、その先で化学物質を使って別の細胞へ情報を渡す。
電気だけではない。
化学だけでもない。
一つの現象の中で、複数の仕組みが連続している。
面白かった。
さっきまで知らなかったことが、一つ分かった。
すると当然、次の疑問が出る。
なぜこの物質なのか。
濃度が変わればどうなるのか。
伝達速度は何で決まるのか。
他の生物では同じなのか。
私は紙を引き寄せ、調べたい項目を書き足していった。
台所ではまだ、両親が私の将来について話している。
私は私で、次に読む本のことを考えていた。
その頃の私にとって、それで十分だった。
個性について特別に調べようとは、まだ考えていなかった。
世の中には、知らないことが多すぎた。