無個性は個性をつくる 作:匿名希望
仮説は増えた。
減ると思っていたのだが、実際には逆だった。
人類が個性を持つようになった理由を調べ始めてから、私はいくつもの可能性を並べている。
突然変異。
遺伝。
環境要因。
未知の病原体。
個性因子そのものに備わった拡散性。
あるいは、まだ私が認識していない別の仕組み。
目の前に個性因子という明確な答えがあった頃とは違う。
個性を調べ始めた時は簡単だった。
正確には、研究自体は簡単ではなかったが、調べる対象は明確だった。
個性を持つ人間と持たない人間を比較する。
血液や組織を調べる。
違いを探す。
個性因子を見つける。
培養する。
複製する。
構造を理解する。
結果が目の前にある以上、そこへ至る道を探せばよかった。
今調べているものは違う。
なぜ人類に個性が生まれたのか。
その瞬間は過去にある。
現代人をどれだけ詳しく調べても、残っているのは結果だ。
死刑囚を使った実験で人間の発生過程を何度巻き戻しても、そこから得られる情報には限界がある。
仮説は作れる。
だが、正しいかどうかが分からない。
「答え合わせが必要ですね」
私は表示されている研究結果を閉じた。
個性兵が次の資料を表示する。
人間以外の生物における個性発現記録。
圧倒的に少ない。
人類では、もはや個性を持って生まれる方が普通だ。
一方で、他の生物ではそうなっていない。
それでも、ゼロではない。
根津校長がいる。
動物でありながら個性を発現した、極めて稀な個体。
この事実は大きい。
人間以外にも個性因子が成立する。
なら、人類だけが個性を持てる生物というわけではない。
問題は、なぜ人類にだけこれほど広がったのかだ。
私は死刑囚を使った実験結果と、世界中から集めた個性データを並べた。
始まりの個性。
歴史上、最初期に確認された発光する乳児。
当然、その本人を調べることはできない。
当時の生体試料も手元にはない。
だが、現在まで続く個性因子の共通構造はある。
世界中から集めた膨大なデータがある。
世代ごとの変化も、家系内での継承も、突然変異もある。
完全な復元はできない。
それでも、現在の個性因子から共通部分を削り出し、古い系統へ遡り、最初期に成立し得た単純な個性因子を推定することはできる。
以前なら仮説で終わった。
今なら作れる。
「試作品を作りましょう」
『対象能力を指定してください』
「能力そのものは重要ではありません。必要なのは発現機構と継承性です。現象は単純なもので構いません」
『承知しました』
個性兵が作業へ入る。
私は設計を続けた。
再現したいのは、歴史上の特定人物が持っていた個性そのものではない。
そんなものは資料不足で正確に復元できない。
必要なのは、始まりの個性に近い条件だ。
それまで個性を持っていなかった生物集団へ、新しい形質として個性因子が入り込む。
そして次世代へ伝わる。
それが人類で起きたことに近いのなら、別の生物でも同じことが起こる可能性がある。
逆に起きないなら、それも情報になる。
人間にだけ存在する何かが必要なのかもしれない。
あるいは哺乳類。
脊椎動物。
もっと広い分類。
どこに境界があるのか。
調べればいい。
◇ ◇ ◇
最初の対象は犬にした。
特別な理由はない。
繁殖させやすく、身体構造についての情報も多い。
人間との生活圏が近いため、観察もしやすい。
ただし一種類だけでは意味がない。
猫。
烏。
魚。
昆虫。
分類の離れた生物を選ぶ。
個体ごとの身体構造に合わせ、同じ原理の個性因子が成立するよう調整する。
人間用の個性因子をそのまま入れるわけではない。
それでは拒絶や発現不全が起きても、個性が人間以外へ広がらない証拠にはならない。
身体との適合だけは整える。
それ以上は触らない。
「犬、定着確認」
『正常です』
「遺伝機能は?」
『生殖細胞系列への反映を確認しています』
「次」
猫。
問題なし。
烏。
少し構造を変える必要があった。
魚も同様。
昆虫はさらに違った。
当然だ。
人間と同じ設計がそのまま使える方がおかしい。
それでも、個性因子という仕組みそのものは成立した。
私は記録を確認する。
ここまでは予想通りだった。
個性兵へ人工個性を積める時点で、個性が自然な人間の身体だけに依存する仕組みではないことは分かっている。
人工肉体でも動く。
なら、生物種が変わった程度で完全に不可能になるとは考えていなかった。
重要なのは、この先だ。
一個体に個性を与えただけなら、根津校長と大差ない。
知りたいのは波及するかどうか。
人類に起きたように。
一つの変化が世代を越え、変異し、混ざり、やがて種全体へ広がっていくのか。
実験室だけで世代を重ねる方法もある。
実際、事前検証はそうした。
時間加速を使えば、結果だけなら早く得られる。
だが、それでは環境との相互作用が足りない。
食物。
気候。
生存競争。
交配相手。
病気。
外敵。
人間との接触。
自然環境には変数が多い。
全部を実験室で再現するより、実際の環境へ置いた方が早い。
なら、野に放てばいい。
◇ ◇ ◇
もちろん、一か所では足りない。
環境が偏る。
気温。
湿度。
植生。
餌。
捕食者。
生息密度。
条件によって残る個性は変わるはずだ。
そこで複数地域を使う。
犬や猫のように人間社会へ近い種。
烏のように都市と自然の両方へ適応する種。
水中で生活する魚。
世代交代の速い昆虫。
それぞれへ、最初の種を入れる。
追跡用の情報は個性因子側へ組み込まない。
それでは自然発生した個性因子と条件が変わる。
観測は外部から行う。
個体識別。
繁殖。
子孫への継承。
変異。
新しい発現。
生存率への影響。
既存生態系への変化。
必要な情報だけを継続して集める。
「第一群、放出してください」
『実行します』
画面が分割される。
犬が走る。
猫が草の間へ消える。
烏が飛び立つ。
魚が水中へ潜る。
小さな虫が葉の裏へ移動する。
見た目は普通だった。
今のところは。
それぞれが持っている個性も、それほど強いものではない。
最初から極端な能力を与える必要はなかった。
重要なのは、能力の強さではない。
これが残るか。
広がるか。
変わるか。
人類の個性も、最初から今のようなものだったとは考えにくい。
世代を重ねた。
混ざった。
複雑化した。
そして今では、一人の人間が生まれつき持つ能力とは思えないほど複雑な個性も珍しくない。
同じことが他の生物でも起きるなら。
犬の個性。
猫の個性。
鳥の個性。
魚の個性。
虫の個性。
それぞれが生存と繁殖の中で選択され、変異し、別の形へ進んでいく。
人間とは違う身体。
違う感覚器官。
違う生活環境。
違う生存戦略。
そこから生まれる個性が、人間と同じになる理由はない。
むしろ違って当然だ。
水中でしか意味を持たない個性。
飛行する生物だから成立する個性。
群れ全体で作用する個性。
昆虫の短い世代交代の中で急速に変化する個性。
人間を調べているだけでは出会えない構造が生まれるかもしれない。
「面白そうですね」
久しぶりに、結果を待つこと自体が楽しみだった。
世界中から人間の個性データが集まるようになって、未知の個性に出会う頻度は下がった。
なら、母数を増やせばいい。
人類だけで足りないなら、人類以外も個性を持てばいい。
単純な話だった。
◇ ◇ ◇
すぐに世界が変わるわけではない。
犬が一匹、個性を持ったところで大したことは起きない。
猫も同じだ。
烏も、魚も、虫も。
その個体が死んで終わる可能性もある。
子へ継承されても、個性を持つことが生存に不利なら系統ごと消える。
逆に有利なら残る。
個性がさらに変異する可能性もある。
別の個性を持つ系統と交われば、新しい構造が生まれるかもしれない。
何世代必要なのかは分からない。
人類と同じように広がる保証もない。
途中で完全に途絶える種もあるだろう。
それも結果だ。
人類だけが特別だったのか。
それとも、偶然最初に個性が広がったのが人類だっただけなのか。
今回の実験で、その答えがすぐに出るとは思っていない。
むしろ、私が知りたい規模の変化なら長くかかる方が自然だ。
幸い、待つ時間はある。
私の身体は老化しない。
研究施設は自動で維持される。
観測は個性兵へ任せられる。
百年でも二百年でも、必要なら続ければいい。
その頃には、今とはまるで違う生態系になっている可能性もある。
世界中のすべての動物が個性を持つ。
そうなれば、人間だけを見ていた今までとは比較にならないほど多くの個性が生まれるはずだ。
個性を持つ犬が珍しくなくなる。
空を飛ぶ鳥が、飛行とはまったく関係のない能力を持つ。
海の中で、人間には使い道すら思いつかない個性が発達する。
虫が世代を重ねるたびに変わっていく。
そして、その中からまた未知の構造が生まれる。
人類だけでも、これほど多様になった。
なら、生物全体へ広がったらどうなるのだろう。
きっと今より、ずっと摩訶不思議な世界になる。
私は画面の一つを見る。
草原の中を、実験対象の犬が走っていた。
今はまだ、一匹だ。
その身体にある個性因子も、私が作った単純なものに過ぎない。
けれど、これが残るかもしれない。
子へ伝わるかもしれない。
変わるかもしれない。
何世代も先で、私が想像もしなかった個性になるかもしれない。
それを考えると、少し楽しい。
私は次の観測記録を開きながら、小さく呟いた。
「芽吹くと良いなあ」