無個性は個性をつくる 作:匿名希望
四歳になる頃になっても、私には個性が出なかった。
そのことを最初に気にしたのは、私ではない。
「一度、ちゃんと診てもらった方がいいんじゃない?」
母がそう言った。
朝食の途中だった。
私は読んでいた本から顔を上げる。
「何をですか?」
「個性」
「まだ出ていないからですか?」
「そう。絶対にこの時期までに出るってわけじゃないみたいだけど、念のためね」
なるほど。
必要性は理解できた。
自覚できる異常はなかったが、本人が気付かない問題が存在する可能性はある。
個性が発現しないこと自体が異常なのかどうかも、私は詳しく知らなかった。
「分かりました」
それで話は終わった。
私は本へ視線を戻した。
その日は生物の発生について読んでいた。
一つの受精卵から、どうして異なる役割を持った細胞が作られるのか。
同じ遺伝情報を持っているのに、皮膚と神経と筋肉では形も働きも違う。
そちらの方が、まだ発現していない個性について想像するより面白かった。
◇ ◇ ◇
診察には両親と一緒に行った。
病院へ行くこと自体は珍しくない。
待合室には何人か子供がいた。
腕が四本ある子。
額から小さな角が生えている子。
母親の膝の上で眠りながら、髪だけがゆっくり揺れている子。
以前なら特に意識しなかったが、今日は個性について診てもらうために来ている。
そのためか、普段より目に入った。
個性。
同じ言葉で呼ばれているが、現れ方にはかなり差がある。
身体そのものが変化しているもの。
何かを発生させるもの。
外から見ただけでは何ができるのか分からないもの。
私はそれ以上考えず、持ってきた本へ戻った。
まだ、調べる対象として強い興味があったわけではない。
待ち時間を使うなら、読みかけを進めた方がいい。
名前を呼ばれて診察室へ入った。
いくつか質問をされ、検査を受けた。
私は聞かれたことへ答えた。
困っている症状はない。
身体に突然現れた変化もない。
物を動かせるようになったことも、何かを発生させたこともない。
自分だけに見えているものや聞こえているものも、認識している範囲ではない。
検査が終わってから、少し待った。
医師は結果を確認していた。
両親は私より緊張しているように見えた。
父は黙っている。
母は何度か私を見た。
私を見る必要があるのだろうか。
検査結果は私の顔に表示されてはいない。
やがて医師がこちらを向いた。
「現時点では、個性の発現は確認できません」
母の表情が固まった。
父もわずかに姿勢を変える。
医師は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「検査結果から考えても、空木くんは無個性と判断していいと思います」
無個性。
文字通りなら、個性がないという意味だ。
私は一度その言葉を頭の中で確認した。
特に何も起こらなかった。
昨日まで使えていたものが急に使えなくなったわけではない。
身体が悪化したわけでもない。
昨日の私にも個性はなかった。
今日、それが確認されただけだ。
「そうですか」
私が答えると、医師が一瞬こちらを見た。
母も見る。
「零司」
「はい」
「大丈夫?」
何について聞いているのか分からず、少し考えた。
「体調なら問題ありません」
「そうじゃなくて……」
母はそこで止まった。
「残念じゃない?」
今度は意味が分かった。
「何がですか?」
母が困った顔をした。
「個性がなかったこと」
「元々使えていませんでしたから、特には」
使えると思っていた能力を失ったのなら残念かもしれない。
しかし私は、どのような個性が発現するのかも知らなかった。
存在していないものへ期待していなかった以上、失った感覚もない。
父が息を吐いた。
笑ったようにも見えた。
「お前はそういう感じか」
「何か問題がありますか?」
「いや。ないならいい」
医師は私と両親を見比べていた。
「本人が気にしていないなら、無理に気にさせる必要はありません」
その意見には同意できた。
私は椅子に座ったまま、机の端に置かれている資料へ目を向ける。
個性について書かれているようだった。
少し読んでみたかったが、勝手に取るものではないだろう。
診察が終わる。
帰り道で、両親は普段より静かだった。
私は持ってきた本を開いた。
「車の中で読むと酔うぞ」
父に言われる。
「今まで酔ったことはありません」
「そうだけど」
「体調が悪くなったらやめます」
「……分かった」
それから家に着くまで、特に会話はなかった。
◇ ◇ ◇
最初の数日は、何も変わらなかった。
私自身については。
朝起きる。
食事をする。
本を読む。
保育園へ行く。
帰宅する。
また本を読む。
無個性と診断されたことで、計算が遅くなることもなかった。
昨日理解できた文章が理解できなくなることもない。
覚えている内容が消えることもない。
だから、私には変化がなかった。
周囲にはあった。
最初に分かりやすかったのは、保育園の先生だった。
診断については両親から伝わっていたらしい。
「零司くん」
呼ばれたので顔を上げる。
「はい」
先生は少し迷ってから言った。
「病院、行ったんだってね」
「はい」
「そう……」
そこで会話が止まった。
何を言いたいのか分からない。
私は待った。
先生はやがて笑顔を作った。
「でも、零司くんは頭がいいからね」
でも。
その接続詞が気になった。
「はい」
何に対する肯定を求められているのか分からなかったので、とりあえず返事だけする。
「お勉強が得意なら、将来できることもたくさんあるから」
以前、同じ先生は私へ言っていた。
零司くんなら、何にでもなれそうだものね。
私は覚えている。
覚えておこうと思ったわけではないが、何度か似たことを言われていたので残っていた。
何にでもなれそう。
それが、
できることもたくさんある。
に変わった。
意味は似ている。
しかし、同じではない。
「そうですね」
私はそれ以上聞かなかった。
先生も何も言わなかった。
本へ戻る。
数ページ読んでから、さっきの会話をもう一度考えた。
私の能力について、先生は何か新しく確認しただろうか。
していない。
本を読めなくなったわけではない。
計算ができなくなったわけでもない。
話を理解できなくなったわけでもない。
変わった情報は一つだけ。
私に個性がないと診断されたこと。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
似たことは、その後も続いた。
家へ来た母の知人もそうだった。
第1話の頃、人体の本を読んでいる私へ質問してきた人だ。
「零司くん、病院行ったんだって?」
「はい」
「そっか……」
以前と同じように、少し黙る。
その沈黙が何を意味しているのか、今度は何となく分かった。
「残念だったね」
「そうでしょうか」
「え?」
「私は特に困っていません」
知人は曖昧に笑った。
「まあ、零司くんは頭いいからね。個性がなくても大丈夫よ」
また同じだった。
個性がなくても。
以前はそんな条件を付けていなかった。
将来は医者か研究者か。
ヒーローもある。
頭が良くて、さらにどんな個性が出るのか楽しみだ。
そう言っていた。
今は、
個性がなくても大丈夫。
になった。
私は本を閉じなかった。
会話を続ける理由もないので、そのまま読んでいた。
「研究者とかなら、個性がなくてもなれるでしょう?」
知人が言う。
「条件を満たせばなれると思います」
「そうそう。だから大丈夫」
何が大丈夫なのだろう。
研究者になると決めた覚えはない。
そもそも以前は、職業を決めていないと話したはずだ。
それでも相手は安心させるような顔をしている。
私は少しだけ不快だった。
慰められていることが、ではない。
前提が変わっていることがだ。
以前と現在で、私が見せた能力には何の差もない。
それなのに評価だけが変化している。
そこが分からない。
◇ ◇ ◇
両親の態度は、他の大人ほど露骨ではなかった。
必要な本を頼めば買ってくれた。
質問をすれば、答えられる範囲では答えた。
私が難しい本を読んでいても止めない。
その点は以前と同じだった。
ただ、将来の話は減った。
特に、個性についてはほとんど話さなくなった。
以前は、
どんな個性が出るのか。
頭を使う個性だったらどうなるのか。
ヒーローという選択肢もあるのではないか。
そういう話をしていた。
今はしない。
その代わりに、父がこんなことを言った。
「零司なら、勉強の方を伸ばせばいいだろ」
私は顔を上げた。
「今までも勉強はしています」
「そうじゃなくてな」
父は少し困った顔をする。
「お前は頭がいいんだから、そっちを活かせばいいってことだよ」
「個性があった場合は、活かさない予定だったんですか?」
父が止まった。
「いや、そういう意味じゃない」
「では、何が変わったんですか?」
「……何が?」
「病院へ行く前と後です」
父はすぐには答えなかった。
母がこちらを見る。
私は質問の仕方を間違えたのかと考えたが、内容自体は単純だと思う。
「私ができることは変わっていません。個性がないと分かった以外に、何か評価を変える情報がありましたか?」
父と母は顔を見合わせた。
しばらくして、父が頭を掻く。
「そう言われると……ないな」
「ですよね」
「でもなあ」
父は続けようとして、また止まった。
「個性がないと、やっぱり選べない道もあるだろ」
それは理解できる。
特定の能力が要求される仕事なら、その能力がなければ不利になる。
身体条件や資格が必要な職業と同じだ。
「それなら、その仕事についてだけ評価を変えればいいのでは?」
「うん?」
「例えば、特定の個性が必須の仕事があるなら、私はその条件を満たしていないことになります。それは分かります」
私は少し考えてから続けた。
「でも、関係のない能力まで低く評価する理由にはならないと思います」
父が黙った。
母も何も言わない。
「……零司は気にしてたの?」
母が聞いた。
「何をですか?」
「無個性だったこと」
「それ自体は別に」
私は答えた。
本当に、それ自体はどうでもよかった。
使えないものを使えないと言われただけだ。
問題は別にある。
「ただ、皆さんの反応が変わった理由がよく分かりません」
「みんな?」
「先生も、以前家に来た人もです」
母の表情が少し変わる。
「前は何にでもなれると言われていました。今は、個性がなくてもできることはある、と言われます」
言葉にして並べると、違いはさらに明確だった。
「私について確認された能力は変わっていません。なのに、個性がないと分かっただけで評価が下がっています」
父が何か言おうとする。
私は続けた。
「合理的ではないと思います」
それが一番近かった。
腹が立たないわけではない。
ただ、怒鳴りたいとは思わなかった。
それより、判断の手順がおかしい。
私はそう感じていた。
人間の能力を評価するなら、実際に何ができるのかを確認すればいい。
走る速さを見る。
力を測る。
知識を確かめる。
作業をさせる。
必要な条件を一つずつ確認する。
それなら分かる。
結果が悪ければ、評価が下がることも当然ある。
しかし私は、何も試されていない。
個性がない。
その一項目だけで、それまで言われていた将来の範囲が狭くなった。
「まあ……世の中、個性があるのが普通だからな」
父が言った。
「普通なら、評価を変えていいんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
「では、やはり分かりません」
父は困ったように笑った。
母は少し考えてから言った。
「零司ができることを、私たちが急にできないと思ったわけじゃないわよ」
「そうですか」
「うん」
その言葉については、そのまま受け取っておくことにした。
実際、両親は本を買うことも止めていない。
私への接し方も大きくは変わっていない。
他の大人より変化が小さいのは事実だった。
だから、それ以上追及する必要もない。
私は本へ戻った。
◇ ◇ ◇
それからも、大人たちの反応は似ていた。
かわいそう。
残念。
でも頭がいいから。
個性がなくてもできることはある。
勉強を頑張ればいい。
別の長所を伸ばせばいい。
私は、そのたびに同じ疑問を持った。
なぜ「でも」が必要なのか。
なぜ、無個性という一つの情報が、それまで確認されていた能力より強く扱われるのか。
ヒーローが嫌いになったわけではない。
テレビでヒーローが活動していれば、普通に見ることもある。
火を出す。
飛ぶ。
身体を巨大化させる。
物を動かす。
便利そうな能力もあれば、扱いづらそうな能力もある。
それを持っている人間に腹を立てる理由はない。
その人が生まれつき持っているものは、その人が決めたわけでもない。
だから問題は、ヒーローではなかった。
個性を持っている人間でもない。
私が気になっているのは、もっと別のことだった。
個性がある。
個性がない。
それだけで、大人たちの見る将来が変わる。
本人が何をできるのかを確認するより前に。
以前の私と、診断後の私は同じだ。
少なくとも私自身について、病院で新しく判明したのは個性が発現しないという一点だけだった。
それなのに、周囲から見た私は同じではないらしい。
私は机の上の本を閉じた。
別の本を取る。
その時はまだ、それ以上のことはしなかった。
なぜそうなるのか。
個性というものが、それほど重要なのか。
私はまだ知らなかった。
ただ一つだけ、納得できないことははっきりしていた。
私が何をできるのか、まだ何も確認していない。
それなのに、個性がないというだけで評価を変える。
それは、合理的ではなかった。