無個性は個性をつくる 作:匿名希望
雄英への入学が決まってから、もう一つ済ませることがあった。
引っ越しだった。
「零司、それ本当に全部持っていくの?」
母が段ボール箱を見ながら聞いた。
「全部ではありません」
「これで?」
「使用頻度の低いものは置いていきます」
床には箱が並んでいる。
衣類。
本。
工具。
電子部品。
測定器。
記録媒体。
研究に使っている小型の装置。
一般的な高校進学に伴う引っ越し荷物がどの程度なのかは知らないが、衣類より本と機材の方が多いのは確かだった。
母は箱の側面に貼った紙を順番に読む。
「書籍、書籍、精密機器、工具、精密機器……」
「その箱は傾けないでください」
「分かってるわよ」
「こちらは多少傾けても問題ありません」
「もっと普通の引っ越し荷物はないの?」
「衣類はそちらです」
私は部屋の隅を指した。
母が見る。
箱は二つだった。
「少なっ」
「必要量はあります」
服を大量に持っていても、一度に着られる数は限られている。
不足したら買えばいい。
対して、専門書や機材は代替できないものが多い。
運ぶ優先順位が違うだけだった。
「まあいいけど」
母はそう言って、次の箱へ移った。
今回、引っ越すのは私一人だ。
両親は今までの家に住み続ける。
二人とも仕事があり、勤務先との距離を考えれば、わざわざ一緒に移る理由がなかった。
私は雄英へ通う。
両親は今まで通り仕事へ行く。
その条件を同時に満たすなら、別に暮らすのが一番簡単だった。
引っ越し先は神野区の郊外。
新しく買った家ではない。
もともとは母方の祖父母が住んでいた家だ。
二人ともすでに亡くなっている。
その後、家は母が相続していた。
すぐに住む予定はなかったため、最低限の管理だけ続けていたらしい。
雄英へ通える位置に、すでに使える家がある。
なら、そこを使えばいい。
私の進学のためだけに家を買う必要もない。
「本当に一人で大丈夫?」
母が聞いた。
「何がですか?」
「生活よ」
「問題ないと思います」
炊事。
洗濯。
掃除。
買い物。
必要な手順は分かる。
やったことがない作業があっても、調べればいい。
研究機器の管理より複雑とは思えなかった。
「食事とか」
「作れます」
「毎日?」
「必要なら」
「必要なのよ」
「分かっています」
父が少し離れたところで笑った。
母がそちらを見る。
「あなたも何とか言って」
「零司なら死にはしないだろ」
「基準が低い」
「じゃあ、普通に生活できるだろ」
「それなら分かります」
私が答えると、母は額を押さえた。
「そういうことじゃないのよね……」
何が問題なのかはよく分からなかった。
一人で生活できるかどうかなら、できる。
それ以外に確認すべきことがあるのだろうか。
◇ ◇ ◇
引っ越し当日は、両親も一緒だった。
正確には、今日から雄英の入学式が終わるまで、二人とも新しい家に泊まる。
仕事は休みを取っていた。
私の引っ越しを手伝うこと。
生活に必要なものを整えること。
それから入学式へ出席すること。
そのために有給休暇を使ったらしい。
「そこまでしなくても大丈夫ですが」
車の中でそう言うと、母がすぐに答えた。
「入学式くらい行くわよ」
「そういうものですか?」
「そういうものです」
助手席の父も言う。
「高校の入学式なんて一回しかないからな」
「留年して再入学などをしなければ、通常はそうですね」
「そういう話じゃない」
「分かりました」
二人が来たいなら止める理由はない。
私は窓の外を見た。
これから住む地域へ入る。
以前の家より建物の密度が低い。
神野区でも中心部ではなく郊外だからだろう。
道路沿いにも、敷地の広い家が増えてきた。
私が住む家も、その一つだった。
◇ ◇ ◇
家を見た最初の感想は、広い、だった。
豪邸というほどではない。
ただ、一人で暮らすには明らかに広い。
敷地にも多少余裕がある。
「一人で住む家じゃないわよね」
母が玄関の前で言った。
「三人でも余るくらいだからな」
父が続ける。
「使わない部屋は閉めておけばいいと思います」
「まあ、それしかないわよね」
母が鍵を開ける。
玄関へ入った。
長く人が住んでいなかった家の匂いがした。
定期的に管理はされていたらしく、荒れてはいない。
家具も一部残っている。
「覚えてる?」
母に聞かれた。
私は玄関と廊下を見る。
記憶を探す。
「少しだけ」
「来たことあるの、かなり小さい頃よ?」
「玄関の形は覚えています。それと、廊下の奥に大きな時計がありませんでしたか?」
母が止まった。
「……あった」
今はない。
おそらく処分したのだろう。
「あと庭に鉢植えが並んでいた記憶があります」
「お母さんが育ててたやつね」
母方の祖母だろう。
祖父母本人の記憶も少し残っている。
ただし、細かい会話まで明確に覚えているわけではない。
当時の私にとって、意識して記憶する対象ではなかった。
母はしばらく廊下を見たあと、奥へ進んだ。
「とりあえず窓開けようか」
「はい」
今日から数日間は三人で使う。
その後、両親は元の家へ戻る。
私はここに残る。
それだけだ。
◇ ◇ ◇
掃除をしながら、使う部屋を決めた。
寝室。
居間。
台所。
風呂。
日常生活に必要なのはその程度だった。
空いている部屋は複数ある。
「零司はどの部屋にする?」
母に聞かれ、二階を見て回った。
窓。
電源。
机を置ける位置。
本棚。
搬入経路。
生活する部屋として考えれば、それほど条件は多くない。
「ここでいいです」
「こっちの広い部屋じゃなくて?」
「必要ありません」
「一人なんだから、どこ使ってもいいのよ?」
「だからこそ、必要のない部屋まで使う理由がありません」
一番広い部屋を使ったからといって、生活の質が大きく変わるとは思えない。
現在持っている機材も、以前使っていた範囲のものだけだ。
小型の測定機器。
培養に使う装置。
工具。
資料。
大規模な設備はない。
必要なら雄英の設備を使う。
そのためにサポート科を選んだ。
家が広いからといって、空いている部屋へ研究設備を大量に置く予定はなかった。
少なくとも、現時点では。
「じゃあ、ここね」
「はい」
「他の部屋は?」
「使わないなら閉めておけばいいと思います」
「物置にするところだけ決めようか」
「それなら一階の奥がいいと思います。搬入が楽なので」
父が頷く。
「階段上げなくて済むしな」
用途が決まる。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
引っ越し業者が来てからは、荷物を順番に入れた。
家具。
家電。
生活用品。
私の荷物。
両親の荷物は少ない。
数日泊まるだけだからだ。
「精密機器はこっちで」
私は箱を確認する。
「その二つは二階です。こちらは一階の収納へお願いします」
運び込まれた機材は、自分で状態を確認した。
輸送中の破損。
固定の緩み。
外装の変形。
問題なし。
通電は後でいい。
「まだ始めないでよ」
後ろから母に言われた。
「確認しているだけです」
「今日は引っ越しなんだから」
「だから、輸送時の異常を確認しています」
「研究は?」
「まだしません」
「まだ、って言った」
「入学式まで何日かありますから」
母が私を見る。
「せめて荷解き終わってからにして」
「その予定です」
まず生活環境を整える。
研究はその後。
優先順位として間違ってはいない。
父が箱を一つ抱えて入ってきた。
「これは?」
「工具です」
「部屋?」
「はい」
「全部?」
「今使うものだけです」
「置いてきたのもあるのか」
「使用頻度が低いものは元の家に残しています」
必要になれば取りに行けばいい。
両親が住み続ける以上、元の家が使えなくなるわけでもない。
すべて移す必要はなかった。
◇ ◇ ◇
夕方になる頃には、生活に必要な部分はだいたい整った。
冷蔵庫。
洗濯機。
調理器具。
寝具。
日用品。
私一人になってから困らないよう、母が何度も確認している。
「ゴミの日、分かってる?」
「一覧をもらっています」
「分別は?」
「確認しました」
「洗剤は?」
「洗面所です」
「非常食」
「収納棚の下段」
「救急箱」
「居間の棚です」
「近くの病院」
「三か所確認しました」
「スーパー」
「徒歩圏に二軒あります」
「鍵」
「持っています」
母が黙った。
「他には?」
私が聞く。
「……ない」
「では問題ありませんね」
「問題なさそうなのが何か腹立つ」
理由は分からない。
父が笑っている。
「ちゃんと調べてるんだからいいだろ」
「分かってるけど」
母は部屋を見る。
「本当に一人で住むのね」
「その予定です」
「寂しくない?」
私は少し考えた。
現時点では特にそういう感覚はない。
「まだ二人ともいますが」
「入学式の後よ」
「必要なら連絡できますよね?」
「できるけど」
「なら問題ないと思います」
母はため息をついた。
父がまた笑った。
「零司に聞いたのが悪い」
「何ですか、それ」
「事実だろ」
私は会話の意味を完全には理解できなかったが、生活上の問題ではないらしいので気にしないことにした。
◇ ◇ ◇
夕食は三人で食べた。
新しい家で最初の食事だった。
母が作った。
入学式が終われば、基本的には自分で作ることになる。
「一応、作り置きもしておくから」
母が言う。
「自分で作れますよ」
「最初くらい使いなさい」
「分かりました」
拒否する理由もない。
「学校から帰って毎日研究して、ご飯忘れたりするなよ」
父が言った。
「忘れません」
「本当に?」
「栄養摂取が必要なことは理解しています」
「そうじゃなくてな」
何度か聞いた言葉だった。
私は食事を続ける。
「雄英までの経路も、明日一回確認しよう」
父が言う。
「すでに調べています」
「実際に行ってみるんだよ」
「入学式の日で十分では?」
「電車止まった時の迂回路とかも見といた方がいいだろ」
その意見には意味がある。
「では確認します」
父が満足そうに頷いた。
母も予定を確認する。
「明日は通学経路見て、足りないもの買って、明後日が入学式ね」
「はい」
「入学式終わったら、私たちは帰るから」
「分かっています」
「その日の夜から一人よ」
「はい」
母がじっと私を見る。
「本当に大丈夫?」
今日何度目だろう。
「問題が起きたら連絡します」
「問題が起きる前にも連絡していいのよ?」
「用事があれば」
「用事なくても」
「何を話すんですか?」
母は額を押さえた。
父が笑い出した。
私は理由が分からず、二人を見る。
「零司」
父が言う。
「たまには生存報告しろってことだ」
「なるほど」
それなら理解できる。
「定期的に連絡すればいいですか?」
「そうして」
「分かりました」
母がようやく納得したようだった。
◇ ◇ ◇
夜。
両親は一階の空いている部屋を使うことになった。
数日だけなので、必要最低限の寝具を置いている。
私は二階の自分の部屋へ入った。
机。
本棚。
ベッド。
これまで使っていた研究機材。
まだ箱に入ったままのものもある。
空いている部屋は、そのままだ。
この家は広い。
一人で暮らすには、明らかに余裕がある。
だからといって、その余裕を今すぐ何かで埋める必要はない。
ここは、私のために新しく用意された施設ではない。
母が祖父母から相続した家だ。
今は、雄英へ通うための住居として使う。
研究についても、以前から自分の手元に置いていたものを持ってきただけだ。
加工設備を追加する予定もない。
専用の研究区画を作る予定もない。
必要なものは学校にある。
それで足りる。
私は机に研究記録を置いた。
開こうとして、一度手を止める。
今日は荷解きがまだ完全には終わっていない。
母に先に終わらせるよう言われた。
合理性はある。
私は記録を閉じた。
残っていた箱を開ける。
本を棚へ並べる。
工具を整理する。
その途中、窓の外を見る。
知らない街。
知らない道。
数日後には、ここで一人暮らしが始まる。
さらにその前に、雄英へ入学する。
環境が変わる。
それ自体に特別な感慨はなかった。
ただ、使えるものが変わるなら、できることも変わる。
雄英には、今まで自宅では使えなかった設備がある。
教師がいる。
同じ分野を学ぶ生徒もいる。
何が得られるかは、まだ分からない。
なら、実際に行って確認すればいい。
私は最後の本を棚へ入れた。
今日から入学式までは、まだ両親がいる。
その後は一人だ。
生活も研究も、自分で管理することになる。
特に問題はないと思う。
必要なことを、必要な順番ですればいい。
まずは入学式。
雄英高校で何ができるのかを確認するのは、それからだった。