無個性は個性をつくる 作:匿名希望
リハビリが終わった。
医療検査も、運動試験も、長時間負荷も問題なし。
空木少年が作った人工個性は完全に定着し、私の身体はもう「動けるかどうか」を確認する段階ではなくなっていた。
走れる。
跳べる。
戦える。
全盛期の自分とまったく同一ではない。それでも、実戦能力という意味では限りなく近い。
その事実だけでも十分に現実感が薄い。
だが。
今、私の目の前に置かれているものの方が、妙に感慨深かった。
「……素晴らしい」
雄英の食堂。
普段の生徒たちが使う時間からは少し外してあり、周囲に人は少ない。
私たちのテーブルの中央には、大きな皿が置かれていた。
そして私の前には。
分厚いステーキ。
アメリカで活動していた頃を思い出すような、実に堂々とした厚みだった。
表面にはきれいな焼き目がついている。
切れば中から肉汁が滲む。
付け合わせの野菜もある。
ポテトもある。
パンもある。
それだけではない。
まだ追加があるらしい。
私は思わず両手を合わせた。
「いただきます!」
「お前、さっきからステーキしか見てねえな」
グラントリノが呆れた声を出した。
「仕方がないだろう!?」
私は即座に返した。
「仕方なくない!」
「俊典が食事でここまで騒いでるのは、ずいぶん久しぶりだねえ」
リカバリーガールは笑っている。
その向かいでは、根津校長が楽しそうに紅茶を飲んでいた。
塚内君もいる。
緑谷少年と爆豪少年まで呼ばれていた。
この場にいるのは、私が元々無個性だったこと、ワン・フォー・オールを緑谷少年へ譲ったこと、そして神野以降の私がどういう状態だったのかを正しく知っている人間が中心だ。
世間には、人工個性によってオールマイトが高い身体能力を取り戻した、とだけ説明されている。
間違ってはいない。
だが、今ここにいる人たちは、その意味をもっと正確に知っている。
そして全員が。
私の皿を見ていた。
「食べないのか?」
爆豪少年が言った。
「ああ、いや。食べるとも!」
ナイフを入れる。
厚い肉が切れる。
一切れを口へ運ぶ。
噛む。
肉の味がする。
当たり前だ。
当たり前なのだが。
「……美味い!」
思わず声が出た。
◇ ◇ ◇
ランチラッシュが用意してくれたステーキは、本当に美味かった。
私はもう一切れ切る。
食べる。
また切る。
そして食べる。
止まらない。
長く食事量を制限されてきた。
神野以前からそうだった。
大きな古傷によって消化器官を失い、身体そのものも弱っていた。
食べられないわけではない。
だが量には明確な限界があった。
食事は、生きるために必要なものを無理なく取る作業へ近づいていた。
昔は違った。
若い頃。
アメリカにいた頃。
ヒーローとして走り回っていた頃。
腹が減れば食べた。
たくさん動けば、その分だけ食べた。
大きな肉を見て喜んだ。
人と一緒に食べることそのものも好きだった。
それが何年もできなくなっていた。
だから今。
「美味いなあ……!」
以前より楽しんでいる気さえする。
失っていた時間があるからなのかもしれない。
「八木」
リカバリーガールの声が飛んでくる。
「はい!」
「ちゃんと噛みな」
「もちろん!」
「お前の『もちろん』は信用ならないんだよ」
「そんな!」
昔から診てもらっているだけあって厳しい。
私は少し速度を落とした。
新しく形成される疑似胃の機能は、検査上もう問題ない。
普通の食事どころか、今の運動量に必要な栄養を十分取れる。
それでも、長い間食事制限があった人間が急に大食いへ戻るのだから、本人の癖の方は少し見ておいた方がいいらしい。
「でも、本当に問題ないんですよね?」
緑谷少年がリカバリーガールへ聞いた。
「ああ。何度も検査してるよ」
「胃の方も?」
「空木の説明通りさ。食べた時に必要な消化機能を補ってる。今まで無理だった量を食べても、身体の方がちゃんと処理できてる」
緑谷少年の顔が明るくなる。
「よかった……!」
「少年!」
「はい!?」
私はフォークを置いて、力強く頷いた。
「ありがとう!」
「え、ぼ、僕!?」
「君がワン・フォー・オールを持っているからこそ、今回の話が始まったとも言える!」
「そこまで僕の手柄じゃないよ!?」
確かにそうかもしれない。
だが今は感謝したかった。
何にでも。
◇ ◇ ◇
「しかしまあ」
塚内君が苦笑しながら言った。
「こうして見てると、本当に何が起きたのか分からなくなるな」
「私もだよ」
そう答える。
つい少し前まで。
私は痩せていた。
細いどころではない。
自分で言うのも何だが、グラントリノに昔から言われていたように、本当に枯れ木のような身体だった。
咳き込む。
血を吐く。
長時間の活動はできない。
食事量にも制限がある。
ワン・フォー・オールの残り火すら失った後は、戦闘能力という意味では完全に一般人に戻っていた。
それが今。
私は厚いステーキを食べている。
昨日の訓練では、高速移動も高出力の打撃も問題なくこなした。
全身の各部は正常。
古傷由来の機能不全も人工個性が補っている。
疲労回復も早い。
何より、身体を動かした時の感覚が昔に近い。
「リハビリが早すぎるんだよ、お前は」
グラントリノが言った。
「しかし師匠、身体が動くなら動かしたくなるのが――」
「誰が師匠だ」
「師匠だろう!」
「今のお前をまたしごく気はねえぞ。床が壊れる」
「それは気をつける!」
「そういう問題じゃねえ」
いつもの調子だった。
だが、グラントリノの口元は少しだけ緩んでいる。
私が本当に動けるようになったことを、一番疑っていたわけではない。
一番慎重に見ていたのだ。
身体を壊すのではないか。
昔の感覚で無理をするのではないか。
人工個性が突然不調を起こすのではないか。
そういうことを、何度も確認していた。
その彼が今は文句を言いながら食事をしている。
それだけで、検査が終わったのだと実感できた。
◇ ◇ ◇
「空木君もすごいけれど」
根津校長が言った。
「八木君も大概だと思うよ」
「私かい?」
「もちろん」
「なぜ!?」
「昨日までに医学的なリハビリ課程を全部終わらせた人が、何を言っているんだい?」
「いや、だって身体が動くんだよ!」
「そういうところじゃないかね」
塚内君まで笑った。
「普通、新しい身体能力をいきなり与えられたら、もっと慣れるのに時間かかるんじゃないか?」
「元々やっていた動きだからね!」
私は胸を張った。
正確には、人工個性はワン・フォー・オールではない。
感覚も完全に同じではない。
だが私は何十年も、超人的な筋力と速度を使って戦ってきた。
踏み込む時にどれほど力を込めるのか。
高速移動でどう身体を傾けるのか。
打撃の反動をどう逃がすのか。
空中でどう姿勢を変えるのか。
身体能力が失われても、その経験まで消えたわけではなかった。
だから戻れば早い。
新しく覚えるというより、昔の動きを今の身体へ合わせ直す方が近かった。
「空木少年も同じことを言っていたよ」
「何をだい?」
緑谷少年が聞く。
「『本人の戦闘経験は残っているので、適応は早いと思います』と」
「……あいつ、最初から読んでたのか」
爆豪少年が不機嫌そうに言う。
「たぶんね」
根津校長が答えた。
「八木君が短期間で適応するところまで含めて、設計したんだろう」
「そこまでか……」
塚内君が頭を掻いた。
「何度聞いてもおかしいな、その高校一年生」
「私も最近そう思うようになったよ!」
私が力強く同意すると、全員の視線が集まった。
なぜだろう。
◇ ◇ ◇
「気づくのが遅い」
グラントリノが言った。
「いや、空木少年が普通のサポート科生徒ではないことは知っていたさ!」
「普通じゃないって段階はとっくに越えてるだろ」
爆豪少年が吐き捨てる。
「テメェ用の個性、何時間で作ったんだよ」
「数時間だそうだ!」
「だからそれがおかしいっつってんだよ!」
その通りではある。
私が空木少年へ相談したのは、ワン・フォー・オールを失った自分にも何かできないだろうか、というものだった。
彼は私を診た。
ワン・フォー・オールはもう残っていないと判断した。
それなら緑谷少年のワン・フォー・オールを参考にコピーできるとも言った。
だが、その必要はないとも言った。
私が必要としているのは、継承する力ではない。
歴代継承者の個性でもない。
全盛期に近い身体能力。
それだけ。
なら、必要な機能だけ作ればいい。
その結論から。
数時間だった。
「数時間でオールマイトを作った、と考えると、とんでもないねえ」
リカバリーガールが言う。
「私そのものではないよ!?」
「戦闘能力の話さ」
「それでも言い方が!」
「でも、以前にオールマイトを参考にした人工生命を作ってたんだろ?」
塚内君が聞く。
「そうらしい」
私が答える。
「その時の設計を私用に調整したと言っていた」
グラントリノが黙った。
そして数秒後。
「改めて聞くと頭痛くなってきたな」
「私も最初に聞いた時は驚いたとも!」
「お前を参考にした戦闘用の人工生命を高校一年生が持ってた、という時点で止まれ」
「それはそうだね!」
根津校長だけが楽しそうだった。
◇ ◇ ◇
「でも」
緑谷少年が言う。
「僕は、よかったと思います」
声が少し静かになる。
皆も自然に彼を見る。
「オールマイトがまた戦えるようになったこともそうですけど……」
緑谷少年は私の皿を見る。
かなり減っている。
「普通に食べられるようになったことも」
私は少し言葉に詰まった。
彼には、私が食事を制限していたところを何度も見られている。
ワン・フォー・オールの訓練を始めた頃からだ。
細い身体。
短い活動時間。
吐血。
弱っていく残り火。
彼は全部知っている。
だからこのステーキが何を意味するかも分かっている。
「……そうだね」
私は笑った。
「私も、こんなに嬉しいとは思わなかったよ」
戦える。
それは嬉しい。
もう一度、誰かを助けるために身体を張れる。
もし大きな危機が来れば、緑谷少年や現役のヒーローたちへ全部を背負わせずに済む。
教師として、守る側へもう一度立てる。
その意味は大きい。
だが。
食べる。
腹が減る。
美味いと思う。
次の一口を楽しみにする。
そういうものまで戻るとは思っていなかった。
「昔は、食事なんてできて当然だった」
私はステーキを一切れ切る。
「だから、ここまで嬉しくなかったのかもしれない」
口に入れる。
美味い。
「今の方が、昔より食事が楽しいな!」
「そりゃよかった」
リカバリーガールが優しく笑った。
◇ ◇ ◇
その時、厨房の方から追加の皿が運ばれてきた。
ランチラッシュだ。
今日のために、普段の食堂メニューとは別にいくつか用意してくれていた。
私の前に置かれたのは、二枚目。
先ほどと同じ、分厚いステーキだった。
「おおお……!」
思わず声が出る。
爆豪少年が露骨に顔をしかめた。
「まだ食うのかよ」
「もちろんだ!」
「八木」
リカバリーガール。
「はい」
「計測値見てからだよ」
「はい!」
私は素直に待つ。
簡単な測定。
消化。
循環。
代謝。
異常なし。
許可が出た。
「よし!」
「子供みてえだな」
グラントリノが言う。
「師匠、食事というのは素晴らしいぞ!」
「知っとるわ!」
ナイフを入れる。
二枚目。
これも美味い。
「ランチラッシュ!」
厨房へ向かって言う。
「最高だ!」
向こうから親指が上がった。
ヒーローとして料理を作り、雄英の食堂を支えている彼らしい返事だった。
◇ ◇ ◇
「で」
塚内君が話を戻した。
「これからどうするんだ?」
私は咀嚼してから答える。
「教師は続ける」
そこは変わらない。
雄英に来たのは、後進を育てるためだ。
ワン・フォー・オールを失ったから始めた仕事ではある。
だが、力が戻ったから辞める理由にはならない。
「ただ、もう『戦えないから後ろにいる』必要はない」
自分の拳を見る。
人工個性。
ワン・フォー・オールではない。
師匠から受け継いだものでもない。
私が長く守ってきた火でもない。
それは今、緑谷少年の中にある。
この力は別物だ。
空木少年が、今の私のために作ったもの。
それで構わない。
「必要な時には、また前へ出るよ」
緑谷少年が真っ直ぐこちらを見た。
「はい!」
爆豪少年は鼻を鳴らした。
「足引っ張んなよ」
「少年!?」
「今の俺らも成長してんだよ。昔の感覚で一人で突っ走んなって言ってんだ」
少し驚いた。
それから笑う。
「もちろんだ!」
私はもう、すべてを一人で背負う平和の象徴ではない。
ワン・フォー・オールも渡した。
次の世代も育っている。
だから今度は、戻った力を同じように使う必要はない。
それも、悪くない。
◇ ◇ ◇
「しかし」
根津校長が紅茶を置いた。
「こうなると、空木君に何を相談するかは、やっぱり慎重に考えないといけないね」
「エリちゃんの時も同じこと言ってたねえ」
リカバリーガールが笑う。
「今度は何を頼んだんだっけ?」
塚内君が聞く。
私は答える。
「私は、『自分のワン・フォー・オールも何とかならないか』と」
沈黙。
グラントリノが額を押さえた。
爆豪少年も同じような顔をしている。
「そしたら?」
「『ワン・フォー・オールを作る必要はありませんね』と」
「で?」
「数時間後には私専用の個性が完成した!」
また沈黙。
「……依頼の規模がおかしいんだよ」
爆豪少年が言った。
「私のせいかい!?」
「半分くらいは」
「そんな!」
根津校長が楽しそうに笑う。
「まあ、八木君も空木君も、想定よりずっと先へ行ってしまうタイプという点では似ているのかもしれないね」
「私と空木少年が!?」
それはどうだろう。
空木少年は研究。
私はヒーロー。
考え方はかなり違う。
ただ。
全盛期並みに動けるようになった初日から、もっと出力を上げられないかと思ったのは事実だ。
数時間で専用個性を作る空木少年と。
短期間でそれを使いこなし始める私。
周囲から見れば、同じように見える部分もあるのかもしれない。
「……いやあ」
私は二枚目のステーキを切った。
「今は難しいことより、これを食べよう!」
「逃げたね、八木」
「逃げてはいないとも!」
笑い声が出た。
◇ ◇ ◇
食事は続いた。
昔の話。
神野の話。
緑谷少年の六個性の訓練。
私の復帰後の予定。
そして、空木少年が次に何を作るのか分からない、という話。
本人はいない。
おそらく今頃、研究室で別の何かをしているのだろう。
私を再び戦えるようにしたことも、彼にとっては依頼を一つ終えた程度なのかもしれない。
それでも。
私にとっては違う。
拳を握れる。
走れる。
誰かを守れる。
そして、食べられる。
私は最後の一切れを口へ運んだ。
肉の味をゆっくり噛みしめる。
全盛期だった頃よりも。
平和の象徴として世界中を走っていた頃よりも。
今の私は、一枚のステーキをずっと美味しいと思えた。