無個性は個性をつくる 作:匿名希望
目を閉じても、眠れるわけではなかった。
そもそも今の身体が、人間と同じように眠る必要があるのかも分からない。
視線を落とす。
手があるはずの場所には、黒い霧が揺れている。
意識すれば指の形らしいものは作れる。物を掴むこともできる。けれど、それを自分の手だと思おうとすると、頭のどこかが拒絶する。
俺の手は、こんなんじゃなかった。
もっと普通だった。
雄英の制服を着て、教室の机に肘をついて、ひざしにうるさいと言われるくらい喋って――いや、うるさいのはあいつの方だった。
そこまで考えたところで、別の記憶が重なる。
バーのカウンター。
死柄木弔。
先生。
敵連合。
USJ。
脳無。
オールマイト。
雄英高校への襲撃。
あの少年を守らなければならない。
危険から遠ざけなければならない。
逃走経路を確保する。
必要なら自分が盾になる。
それも全部、俺の記憶だった。
「……最悪だな」
声に出す。
白雲朧としての俺なら、もっと気の利いたことを言えた気がする。
黒霧としての俺なら、こんな独り言は口にしない。
どっちも自分だと分かるのが、一番困る。
◇ ◇ ◇
俺は死んだ。
そこだけは、はっきり覚えている。
現場。
崩れる建物。
子供たち。
ヴィラン。
相澤が戦っていた。
俺も動いた。
それから、上から来た。
避けられなかった。
衝撃。
痛みは、一瞬だった気がする。
最後に何を考えたのかは曖昧だ。
相澤のことだったかもしれない。
ひざしのことだったかもしれない。
まだやりたいことがあった、と考えた気もする。
そこから先はない。
白雲朧の記憶は、そこで一度終わっている。
なのに。
続きがある。
知らない施設。
身体を動かされている感覚。
自分ではない誰かの声。
思考の奥へ何かを押し込まれるような不快感。
それも次第に薄れていって。
気付いた時には、俺は黒霧だった。
死柄木弔を守る存在。
それを疑問にも思っていなかった。
彼が不機嫌なら先回りして動いた。
彼が危険なら守った。
失敗すれば、次は失敗しないよう考えた。
命令だからだけじゃない。
黒霧だった俺は、本当にあいつを気に掛けていた。
その感情まで偽物だと言われると、困る。
作られた理由はどうであれ、その時間を過ごしたのは俺だった。
だから余計に。
「死んだ後が長すぎるだろ……」
笑おうとした。
声だけが少し漏れた。
◇ ◇ ◇
扉の向こうが騒がしくなったのは、それから少ししてだった。
施設の人間が入ってくる。
「これから面会者が二名入ります」
「面会?」
「あなたの精神状態の安定に有効だと判断された人物です」
精神状態。
言い方は正しい。
俺自身、かなり散らかっている自覚はある。
誰が来るのかと考えた。
白雲朧を知る人間。
両親。
雄英の教師。
同級生。
そこまで考えて。
扉が開いた。
最初に見えたのは、長い黒髪だった。
昔よりずっと伸びている。
無精髭もある。
目の下の隈は、昔からあまり変わっていない。
その隣。
派手な髪。
サングラス。
昔よりさらにうるさそうな格好。
二人とも、足を止めていた。
俺も何も言えなかった。
何を言えばいいのか分からない。
久しぶり。
ではない。
俺の感覚では、二人と会わなくなってから十五年以上経っている。
でも黒霧としてなら、相澤とは会っている。
敵として。
雄英を襲った時に。
「……ショータ」
先に名前が出た。
相澤の目が僅かに見開かれる。
次に隣を見る。
「ひざし」
プレゼント・マイク。
山田ひざし。
昔から声が馬鹿みたいに大きくて、黙っていればそれなりなのに絶対に黙らない男。
ひざしは口を開いた。
何も出なかった。
あいつが口を開いて声が出ないのを、初めて見た気がする。
「……マジかよ」
やっと出た声は、驚くほど小さかった。
「お前がそんな声出せたんだな」
思わず言った。
ひざしの顔が歪んだ。
「第一声がそれかよ、白雲!」
今度は大きかった。
施設の職員が反射的に耳を押さえる。
「ああ。それだよ」
少しだけ安心した。
やっぱりひざしは、うるさい方がいい。
◇ ◇ ◇
二人が向かい側へ座る。
俺は拘束されたままだった。
当然だ。
白雲朧だと名乗ったからといって、黒霧として敵連合に所属していた事実が消えるわけじゃない。
そもそも今の身体には『ワープゲート』がある。
危険物として扱われるのは理解できる。
相澤はしばらく何も言わなかった。
昔からこういうやつだった。
考える前に喋るひざしとは逆だ。
俺は相澤を見る。
「老けたな、ショータ」
「お前は死んだ時のままだからな」
「いや、この見た目でそれ言う?」
黒い霧を少し持ち上げてみせる。
相澤は答えない。
ひざしが横から口を挟んだ。
「笑えねえんだよ!」
「笑うところだろ、ここ」
「笑えるか!」
「昔なら笑ってたぞ」
「昔とは状況が違いすぎんだろーが!」
それはそうだ。
死んだ同級生が十数年後、ヴィランの身体で喋っている。
俺でも逆の立場なら困る。
しばらくして、相澤が口を開いた。
「どこまで覚えてる」
その聞き方が相澤らしかった。
会えて嬉しいか。
苦しくないか。
そういうことより、まず現状確認。
「かなり」
「白雲だった頃は?」
「覚えてる」
「最後は」
俺は少し黙った。
「死んだところまで」
ひざしの表情が固まる。
相澤は動かなかった。
「現場も覚えてる。潰されたのも。その後がなかったことも」
自分で言って、妙な感じがした。
死んだ本人が自分の死を説明している。
「でも、そこから先もある」
俺は続けた。
「黒霧としての記憶も全部じゃないと思うけど、かなり残ってる。死柄木のことも。連合のことも。雄英を襲ったのも」
相澤の目を見る。
「お前と戦ったのも覚えてる」
相澤は短く答えた。
「そうか」
責める声ではない。
だから余計に言わなければいけない気がした。
「あの時の俺は、本気でお前たちを敵だと思ってた」
「分かってる」
「違う」
俺は首を振る。
「命令されてたから、とかじゃない。もちろん、それもあった。でも黒霧だった俺は、ちゃんと考えてた。死柄木を守ろうとしてた。あいつが無茶すれば止めようとしたし、危険なら逃がそうとした」
ひざしが黙っている。
「今でも、あいつのことを考えると心配になる」
それが一番気持ち悪い。
白雲朧として考えれば、死柄木弔はヴィランだ。
多くの人間を傷つけている。
相澤たちの敵でもある。
それなのに黒霧として積み重ねた感情は消えていない。
「俺はあいつを守るために作られたんだろ?」
誰に聞くでもなく言った。
「そのために頭まで弄られて。だから、この気持ちが俺のものなのか、入れられたものなのか分からねえ」
ひざしが拳を握った。
相澤は少しだけ目を伏せる。
それから言った。
「分ける必要はないんじゃないか」
「ショータ?」
「作られたきっかけが何であれ、お前が実際に過ごした時間なんだろ」
相澤は俺を見る。
「空木が外したのは、お前の記憶じゃない。強制されていた優先順位や、話せなくするための処理だと聞いてる」
「……ああ」
「だったら残ってるものまで、俺たちが勝手に偽物扱いする必要はない」
相澤らしい。
慰めようとして、きれいなことを言う男じゃない。
事実を整理して、それをそのまま置く。
「白雲だった記憶もある。黒霧だった記憶もある。それで今のお前がいる。それだけだ」
「簡単に言うなあ」
「複雑にしたところで状況は変わらない」
「そういうとこ変わってねえな」
「お前もな」
少しだけ、昔に戻った気がした。
◇ ◇ ◇
ひざしはずっと黙っていた。
珍しい。
俺がそちらを見ると、サングラスの奥から睨まれた。
「何だよ」
「いや。静かだなと思って」
「誰のせいだと思ってんだ!」
「俺?」
「お前以外誰がいんだよ!」
ひざしが立ち上がりかけて、職員が反応する。
相澤が片手を上げた。
「山田」
「分かってるよ!」
ひざしは座り直した。
それから、俺を真っ直ぐ見る。
「お前、死んだんだぞ」
「ああ」
「俺たちは、お前が死んだって思ってた」
「実際死んだ」
「そういう話してんじゃねえ!」
声が響く。
今度は誰も止めなかった。
「葬式やって! ずっといなくて! それで何年も経って! 急に黒霧の正体がお前だって聞かされて!」
言葉が詰まる。
「タルタロスまで来て、呼びかけて、それでも戻ってきたのか戻ってきてねえのか分かんなくて!」
原作とは違う記憶を俺は知らない。
でも黒霧としての記憶の中に、二人の声はあった。
相澤。
ひざし。
俺を白雲と呼んでいた。
理解できなかった。
なのに、何かが揺れた。
思い出せないはずのところが、確かに反応していた。
「……聞こえてたよ」
ひざしが止まる。
「何?」
「全部じゃない。でも、お前らが俺を呼んでた時」
黒霧としては理解できなかった。
自分は黒霧だ。
白雲朧ではない。
そう認識していた。
それでも声が引っ掛かった。
相澤の顔を見た時。
ひざしの声を聞いた時。
知らないはずなのに知っていた。
「多分、あの時も俺は中にいた」
二人とも何も言わない。
「出られなかっただけで」
相澤が顔を伏せた。
長い髪で目元が隠れる。
ひざしはサングラスを外した。
目が赤かった。
「遅えんだよ」
ひざしが言った。
「悪い」
「謝んな!」
「どっちだよ」
「うるせえ!」
「お前がな」
そこで初めて。
相澤が小さく息を漏らした。
笑ったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
しばらくして、今度は俺から聞いた。
「二人ともヒーロー続けてんの?」
「続けてる」
相澤が答える。
「俺は雄英で教師もしてる」
「教師?」
思わず聞き返した。
「ショータが?」
「悪いか」
「いや。お前が生徒相手に?」
昔の相澤を思い出す。
人付き合いが得意な方ではなかった。
目立つことも嫌い。
効率が悪いことはもっと嫌い。
「毎日除籍してそう」
「必要ならする」
「するんだ」
ひざしが横から言った。
「こいつ担任だぜ!」
「担任!?」
それは本気で驚いた。
「ひざしも?」
「俺も雄英教師! 英語担当! プロヒーロー・プレゼント・マイクとして絶賛活動中だぜ!」
「うるさそうな授業だな」
「最高に分かりやすい授業だ!」
「鼓膜大丈夫?」
「そこを心配すんな!」
昔と同じだった。
何も同じではないのに。
話し方だけは、驚くほど戻れる。
それが嬉しいのかどうかも、よく分からない。
嬉しい。
多分、そうなんだと思う。
◇ ◇ ◇
「俺はどうなる?」
少し時間が経ってから聞いた。
二人は答えなかった。
「別に今すぐ答えが欲しいわけじゃないけどさ」
俺は自分の身体を見る。
黒い霧。
首の装置。
人間だった頃の面影は、ほとんどない。
「白雲朧は死んでる。戸籍上も、たぶんそうなんだろ?」
「そうだ」
「今の身体は脳無。黒霧としてヴィラン活動もした。覚えてるし、俺がやったことなのも否定する気はない」
誰かに操られていたから全部無罪。
そんな単純な話ではないと思う。
どこまで俺の責任で、どこからが作った人間の責任なのか。
それは俺には分からない。
法律の人間が考えることだ。
「しかも死柄木のことをまだ気にしてる」
ひざしが何か言いかける。
俺は先に続けた。
「助けに行くって意味じゃない。今の俺が何をするかは、自分で決める」
それは以前とは違う。
死柄木を守る。
その命令が一番上にあるわけじゃない。
今なら考えられる。
守りたいと思う。
でも、それが正しいかどうかも考えられる。
相澤が頷いた。
「それでいい」
「軽いな」
「お前が今ここで人生の結論を出す必要はない」
「死んだ後に人生って言う?」
「うるさい」
「はいはい」
少し懐かしい。
こんな感じだった。
俺が余計なことを言って。
相澤が嫌そうな顔をして。
ひざしがさらに騒ぐ。
「でもよ」
ひざしが言った。
さっきまでより、ずっと静かな声だった。
「何者か分かんねえなら、今決めりゃいいだろ」
俺を見る。
「白雲でも黒霧でも、両方でもよ。お前が決めりゃいい」
「珍しくまともなこと言うな」
「ぶっ飛ばすぞ!」
「収監者に暴力はまずくない?」
「そういうとこだぞ白雲!」
相澤が額を押さえた。
「山田。病み上がりに大声出すな」
「俺のせい!?」
「お前以外誰がいる」
「さっき聞いたぞその流れ!」
俺は笑った。
声が出た。
黒霧だった頃、笑ったことがあっただろうか。
あったかもしれない。
死柄木の前で。
バーで。
穏やかに。
でも、こんなふうに笑った記憶はなかった。
◇ ◇ ◇
面会時間が終わる。
職員が告げると、ひざしが露骨に嫌な顔をした。
「短くね?」
「規則だ」
相澤は立ち上がる。
昔からこういうところは真面目だ。
俺は二人を見る。
「また来る?」
聞いてから、少し子供みたいだったなと思った。
ひざしが即答した。
「来るに決まってんだろ!」
相澤も頷く。
「必要ならな」
「素直じゃねえなあ」
「お前の精神安定のために呼ばれてる。必要なら来る。それだけだ」
「ショータ」
「何だ」
「教師向いてないんじゃない?」
「帰るぞ山田」
「おい待てイレイザー! 俺まだ言いたいこと山ほど――」
「次にしろ」
二人が扉へ向かう。
その後ろ姿を見て。
記憶が重なった。
雄英の廊下。
まだ学生だった俺たち。
先に歩く相澤。
横で騒ぐひざし。
俺が後ろから二人に追いつく。
その記憶の直後に、別の景色が浮かぶ。
バー。
死柄木。
俺はカウンターの内側。
彼が苛立っている。
俺はそれを宥めている。
どちらも消えなかった。
どちらも自分の中にある。
扉が閉じる直前。
「ショータ! ひざし!」
二人が振り返る。
俺は少し考えた。
言いたいことはいくらでもあった。
生きていたのか。
死んでいたのか。
戻ったのか。
別のものになったのか。
まだ何も分からない。
だから、一番簡単なものにした。
「またな!」
ひざしが笑った。
昔みたいに、大きく手を上げる。
「おう!」
相澤はほんの少しだけ目を細めた。
「ああ」
扉が閉まる。
静かになる。
俺は黒い手を見た。
人間だった頃の手ではない。
これから元に戻るのかも知らない。
戻すべきなのかも、まだ分からない。
ただ。
死んだ時には言えなかった言葉を、今度は言えた。
またな。
少なくとも次がある。
今は、それで十分だった。