無個性は個性をつくる 作:匿名希望
公安が用意した面会室には、机と椅子が二つずつ置かれていた。
片側に座っているのは公安の担当者と、司法側から同席した人間。反対側には、拘束された黒霧がいる。
完全な拘束を解いたわけではない。『ワープゲート』を持つ人間を、何の対策もせず自由にする理由はなかった。
それでも、これまでの取り調べとは少し違う。
「今日は尋問ではない」
公安の担当者が最初にそう告げた。
黒霧の黄色い目が、静かにこちらへ向く。
「では、何でしょうか」
口調は穏やかだった。
敵意を露骨に出すこともない。かといって、こちらへ協力する意思を見せるわけでもない。
いつもの黒霧。
少なくとも、見た目はそうだった。
「取引の話だ」
「取引?」
「司法取引だと思ってもらっていい」
わずかに間が空いた。
黒霧は何も答えない。
担当者は資料を開いた。
◇ ◇ ◇
「先日のタルタロス襲撃で、我々はワープ能力の戦略的価値を再確認した」
黒霧の反応は薄い。
タルタロス襲撃へ本人は参加していない。それでも、誰が何のために襲ったのかは説明するまでもないだろう。
「空木零司が作ったワープゲートによって、オールマイトを含む戦力を短時間でタルタロスへ移動させた。結果として、オール・フォー・ワンの奪還は阻止された」
「……そうですか」
声が少しだけ低くなる。
「弔は」
「逃げた」
すぐに答える。
「生きている。少なくとも、我々が最後に確認した時点ではな」
黒霧が小さく息を吐いた。
安心したようにも見えた。
その反応は、以前から変わらない。
死柄木弔。
黒霧にとって、最優先で守るべき存在。
相澤消太と山田ひざしが接触した時も、白雲朧の反応が表へ出ながら、死柄木を案じる部分だけは強く残っていた。
「君が死柄木弔を守ろうとしていることは分かっている」
「私は、そのために存在しています」
迷いのない答えだった。
「そう作られたからか?」
黒霧が黙る。
「それとも、君自身がそうしたいからか?」
「……何を言いたいのですか」
「そこを含めて、君に決めてもらうための話だ」
◇ ◇ ◇
担当者は一枚の資料を机の中央へ置いた。
黒霧。
その下に。
白雲朧。
二つの名前が並んでいる。
「我々は、君をただの脳無として処理するつもりはない」
黒霧の視線が、資料へ落ちる。
「白雲朧の人格反応が残っていることは確認されている。相澤消太、山田ひざしとの面会でも、それは表に出た」
「私は黒霧です」
「そう名乗る自由もある」
担当者は否定しなかった。
「今日は、白雲朧に戻れと言いに来たわけじゃない」
そこで一度、言葉を区切る。
「君が今後、どう生きたいかを選べと言いに来た」
黒霧が顔を上げた。
◇ ◇ ◇
「条件を説明する」
司法側の人間が引き継いだ。
「これまでの犯罪行為が消えるわけではない。敵連合への協力、USJ襲撃を含め、君が関与した事件について責任がなくなることもない」
黒霧は何も言わずに聞いている。
「ただし、君が今後こちらへ協力するなら、その事実を処遇へ反映する。そのための正式な手続きを進める用意がある」
「協力とは?」
「公安所属のヒーローとして活動してもらいたい」
今度は、黒霧にも明確な反応があった。
「……ヒーロー?」
「そうだ」
「私が?」
「君には『ワープゲート』がある。救助、避難、警察やヒーローの輸送、災害対応。使い道はいくらでもある」
戦うことだけがヒーローではない。
むしろ、黒霧の能力は直接戦闘よりも支援で大きな価値を持つ。
安全な場所から負傷者を移す。
離れた場所へ救助隊を送る。
道路が寸断されても関係なく物資を運ぶ。
先日のタルタロスで、似た能力がどれだけ有効かは証明された。
「もちろん、最初から完全な自由を認めるつもりはない。行動には制限が付くし、監督も付ける。ワープ能力の使用についても、当面は公安の管理下になる」
「それを自由と呼ぶのですか?」
「今よりは遥かに自由だ」
黒霧が周囲を見る。
拘束。
監視。
閉ざされた面会室。
否定はしなかった。
「協力実績を積めば、制限を緩和することも検討する。普通に外を歩くことも、自分で生活することも、将来的には選択肢に入る」
「……随分と都合のいい話ですね」
「公安だからな。こちらにも利益がある」
そこは誤魔化さなかった。
「君にも利益がある。我々にも利益がある。だから取引だ」
◇ ◇ ◇
黒霧は少し考えた後、自分の身体へ視線を落とした。
黒い霧に覆われた、脳無として作り変えられた身体。
「この姿で、ですか?」
その質問は想定していた。
「それについても話がある」
担当者は別の資料を出した。
そこに表示された名前を見て、黒霧の視線が止まる。
空木零司。
「彼のことは知っているな」
「……ええ」
自分を調べた人間。
黒霧の『ワープゲート』を研究し、そこから独自の空間接続能力まで作った少年。
「君の身体は、既に普通の人間とは違う。複数の個性因子を組み合わせ、脳無として作り変えられている」
「存じています」
「空木なら、それをさらに作り変えられる可能性が高い」
黒霧が顔を上げる。
「作り変える?」
「この姿のまま生きたくないなら、身体の調整を正式に依頼する」
まだ空木本人へ依頼したわけではない。
公安だけで決められる話でもない。
ただ、彼が既に持っている技術を考えれば、相談する価値は十分にある。
「君が望むなら」
担当者は続けた。
「生前の白雲朧に近い身体へ戻せないか、それも含めて頼むつもりだ」
◇ ◇ ◇
黒霧が動かなくなった。
「……私を」
声が少し変わる。
「白雲朧に?」
「完全に昔と同じになると、我々から約束はできない。そこは空木に確認する必要がある」
年齢。
脳無化された肉体。
個性。
人格。
何をどこまで維持し、何を変えられるのか。
技術的な部分は、技術者に聞くしかない。
「ただし、外見を生前の君へ近づけてほしいと希望するなら、その希望は伝える」
黒霧の手が、わずかに動いた。
「逆に、この姿を維持したいなら、それでもいい」
「……え?」
「最初に言っただろう。白雲朧に戻れと命令するための話じゃない」
黒霧として生きる。
それも選択肢。
白雲朧として生きる。
それも選択肢。
どちらを選んでも。
協力条件については話し合える。
「名前もそうだ。今後も黒霧を名乗りたいなら、こちらから無理に変えさせるつもりはない」
「……なぜ」
「君が何者かを、公安が決めても仕方がないからだ」
◇ ◇ ◇
長い沈黙が続いた。
公安側は急かさない。
今日中に答えを出させる必要は、本来ならなかった。
だが。
黒霧の中では。
別のことが動いているように見えた。
「白雲……朧」
自分の名前を。
確かめるように口にする。
一度。
もう一度。
「白雲朧」
黒霧の声とは違う。
完全に別人になったわけではない。
それでも。
少しだけ。
響きが変わった。
◇ ◇ ◇
「相澤消太と山田ひざしは、君をそう呼んでいる」
「……ショータ」
小さな声。
「ヒザシ」
記憶。
全部が戻ったわけではない。
断片。
教室。
屋上。
笑い声。
ヒーローを目指していた頃。
何か。
随分と昔のようで。
自分のものではないようで。
それでも。
知らないはずの名前が。
妙に自然に出てくる。
「俺は……」
言葉が止まった。
今度は。
明らかに敬語ではなかった。
公安側は何も言わない。
続きを待つ。
「俺は、死んだんだよな」
「そう記録されている」
「それで、あいつらに拾われて」
黒霧として。
作られた。
死柄木弔を守るために。
◇ ◇ ◇
「弔を守るのは」
また声が戻る。
黒霧と。
白雲。
その間。
「間違っているのでしょうか」
担当者は少し考えてから答える。
「それは、こちらが決めることじゃない」
「あなた方から見れば犯罪者でしょう」
「そうだ」
死柄木弔は、多数の犯罪へ関与している。
広域『崩壊』によって大量の被害も出した。
今も逃走中。
公安が守るべき対象として扱うことはない。
「だが、君が言っている『守る』が何を意味するのかは、君が考えることだ」
黒霧は黙った。
◇ ◇ ◇
死柄木弔。
幼い頃から。
黒霧は彼を見てきた。
苛立つ。
怒る。
失敗する。
成長する。
敵連合を作る。
仲間を得る。
黒霧にとって。
世話の必要な存在だった。
守るべき存在だった。
それは。
今も変わらない。
「弔は……」
黒霧が口を開く。
「放っておけば、自分を壊します」
誰かを壊す。
社会を壊す。
その度に。
本人も。
戻れない場所へ進んでいく。
「それでも私は、彼を逃がしてきた」
捕まりそうなら。
ワープさせる。
危険なら。
離す。
必要な場所へ運ぶ。
それが。
守ることだと思っていた。
「そうするように、作られましたから」
「今もそうしたいか?」
問い。
黒霧はすぐには答えなかった。
◇ ◇ ◇
もし。
今。
死柄木弔がここに現れたら。
自分はどうする。
以前なら。
迷わなかった。
ゲートを開く。
逃がす。
敵を遠ざける。
弔を守る。
だが。
その先は。
どうなる。
また人を殺す。
また壊す。
さらに大きな敵になる。
次は。
もっと多くのヒーローが来る。
もっと強い戦力が投入される。
そして。
いつか。
本当に殺される。
「……ああ」
小さな声が漏れた。
黒い霧が揺れる。
「それじゃ、駄目じゃん」
その言い方は。
黒霧らしくなかった。
◇ ◇ ◇
「守るって」
今度は。
ゆっくり。
考えながら言葉にする。
「逃がすことだけじゃないよな」
敬語が消えている。
「悪いことして、また逃げて、もっと悪いことして……最後にどうしようもなくなるまで行かせるのが、守るってことじゃない」
担当者たちは黙っている。
これは。
誘導して答えさせる場面ではなかった。
本人が。
自分で出す必要がある。
「弔は、止まらない」
黒霧として。
一番よく知っている。
「あいつ、自分で止まれるやつじゃない」
誰かが止めなければ。
進む。
壊す。
そして。
もっと大きな罪を背負う。
「だったら」
黒い指が。
ゆっくり握られる。
「捕まえた方がいい」
◇ ◇ ◇
「君が?」
公安担当者が尋ねる。
「……うん」
短い答え。
「弔は守る」
そこは変わらない。
「でも、もう逃がすのは違う」
黒霧だった頃から抱えていたもの。
死柄木弔への庇護。
それ自体を捨てる必要はない。
「これ以上、罪を増やす前に捕まえる。あいつが嫌がっても」
少しだけ。
声に笑うような響きが混じった。
「それくらいしないと、面倒見てた意味ないだろ」
公安担当者は。
そこで初めて。
目の前にいる人間が。
黒霧ではないように感じた。
◇ ◇ ◇
「では、取引を受けると?」
「その前に聞きたい」
「何だ?」
「本当に、戻せるのか?」
自分の身体を見る。
黒い霧。
脳無として作られた身体。
「昔の俺に」
「約束はできない」
公安担当者は正直に答えた。
「ただし、空木零司へ正式に依頼する。生前の白雲朧に可能な限り近い身体へ再構成できないか。君がそれを望んでいることも含めて伝える」
「個性は?」
「それも相談事項だ」
今の『ワープゲート』を維持するのか。
元々の『雲』をどう扱うのか。
身体をどこまで戻せるのか。
そのあたりを今ここで公安が決めることはできない。
「ヒーローとして必要になるのは、今のワープ能力だ。ただし、身体や個性をどう処理するかは、空木の技術判断と君の希望を擦り合わせる」
白雲は少し考える。
「……あいつ、そこまでできるの?」
「我々も最近、それを考えるのをやめ始めた」
担当者の口から。
少しだけ疲れた声が出た。
「聞いた方が早い」
白雲の口元。
霧の中で。
僅かに上がったように見えた。
◇ ◇ ◇
「公安所属のヒーロー」
白雲が言う。
「そうだ」
「監視付き」
「当面はな」
「自由はある?」
「任務外まで四六時中拘束するつもりはない。段階的になるが、協力実績に応じて生活上の自由も認める方向で調整する」
「ショータとヒザシには会える?」
少しだけ。
質問の種類が変わった。
「君たちが望むなら、その機会を拒む理由はない」
「雄英は?」
「いきなり自由に出入りできるとは言えない」
「そりゃそうか」
軽い返事。
やはり。
黒霧の話し方とは違う。
「猫飼える?」
「……何?」
公安担当者が初めて聞き返した。
「いや、昔。ヒーローになったら、三人で事務所やって、猫とか拾ってさ」
記憶なのか。
感覚なのか。
本人にも。
まだはっきり分かっていない。
「まあ、それは後でいいや」
「法的に問題のない住居を持つ段階まで行けば、公安が猫まで禁止する理由はない」
「そっか」
白雲は。
少しだけ楽しそうだった。
◇ ◇ ◇
それから。
机の上にある二つの名前を見る。
黒霧。
白雲朧。
長い間。
自分は黒霧だった。
それが偽物だったとも思わない。
死柄木弔を守った。
敵連合と過ごした。
そこで考え。
話し。
動いた。
その時間まで。
全部なかったことにするつもりはない。
ただ。
その前にも。
自分はいた。
「名前」
白雲が言った。
「はい?」
司法側の人間が応じる。
「白雲朧で頼む」
はっきりと。
そう言った。
「黒霧じゃなく?」
「黒霧だった俺まで消すつもりはないよ」
死柄木を守ろうと思う気持ちも。
まだある。
それを。
捨てるつもりもない。
「でも、これから生きるなら」
少し考えて。
続ける。
「白雲朧として生きてみたい」
◇ ◇ ◇
司法側が条件を確認する。
公安への協力。
能力使用時の管理。
逃亡しないこと。
ヴィラン側へ無断接触しないこと。
任務。
監督。
処遇の見直し。
具体的な法的条件については、今後さらに詰める必要がある。
それでも。
大枠は決まった。
白雲朧は、公安へ協力する。
可能なら。
公安所属のヒーローとして。
そして。
身体については。
空木零司へ正式に依頼する。
「最後に確認する」
公安担当者が言った。
「死柄木弔と再会した場合、どうする?」
白雲は。
少しだけ目を閉じた。
かつてなら。
答えは一つ。
守る。
逃がす。
だが。
今は。
「捕まえる」
迷わなかった。
「弔は、俺が守るよ」
公安側の人間が。
僅かに表情を強張らせる。
その意味を誤解したのだろう。
白雲は続けた。
「だから捕まえる」
今度は。
はっきり笑った。
「これ以上あいつに罪を重ねさせない。その方が、どう考えても本人のためだろ」
逃がすことだけが。
守ることではない。
間違えているなら。
止める。
もう戻れない場所へ行こうとしているなら。
引っ張ってでも戻す。
かつてヒーローを目指していた白雲朧なら。
たぶん。
最初から。
そうしていた。
「じゃあ」
白雲は公安担当者を見る。
「ヒーロー復帰の話、進めてくれ」
黒い霧に包まれた姿は。
まだ何も変わっていない。
それでも。
その日。
黒霧は。
これからを。
白雲朧として生きることを選んだ。