私は夢を見ない。
そもそも睡眠というものが不要だからだ。
けれど見れないわけではない。肉体疲労を極限にまで高めて目を閉じれば入れるだろう。だろうという曖昧な表現なのは私がそれをしたことがないからだ。
つまり初めての試みということになる。
「電気良し!お布団良し!それじゃあおやすみ!」
意識を深層へと移し、作り上げた微睡のなかへ落としていく。
最初に視界に入ってきたのは月光ではなく小春色の花嵐であった。小さな丘の上、桃色の蝶が空を舞い、人間が桃源郷と呼ぶべき美しい世界が広がっている。しかし空の顔色はよくない、消化に悪いものでも食べたのだろうか。
「ここは……ふむ、困ったな。
ここが現実世界ではないからだろうか。
現実において私が基本的にできないことの方が少ない。生命体を増やすことも根絶することも、億万長者として大成功することも世界最悪の科学者として大失敗することもできる。してはいけないんだけど。
だが夢という存在定義が曖昧な世界では私の認知もそこまで広く及ばないのだろう。世界の境界をひっくり返そうかな……いや、間違いなくポカるからやめておこう。夢が現実になるのは大丈夫だろうけど、現実が夢となるのはおそらくとんでもないことを引き起こしかねないからね。
「おっ、桃がなってる」
歩いて行った先の丘の頂上には熟成された桃の木がなっていた。
見たところ自然にできた郡生物らしいし、1つくらいなら貰って行ってもいいのではないだろうか。
木に登り、桃を1つ拝借する。果物の丸かじりとかしてみたかったんだよね。
「ぱく」
甘い。いい甘さだね、これは。
少し歯をつけただけで中の果汁が一気にあふれる。噛み心地の良い果肉とともに水々しさと甘さが病みつきになる。皮を斬り落とさなくても適度な旨みが数度にやってきて飽きさせない。
「美味しい〜」
私がこれまで食べてきた食べ物ランキングの3本指に入る。1位はこの前一緒に食べたビールと柿の種。2位はこの桃。3位は人肉の串焼きだ。おそらくこの順位は次々入れ替わると思う。夢の中だからもう一度同じものにありつけるかわからないのが勿体無いな。
片手の桃を食べ歩きながら、私は山の麓へやってくる。頭のてっぺんまで真っピンクの山だ。肉眼で確認してみたところ、蝶々以外の生命の気配は存在しない。
鼻部からの情報も、耳部からの情報もほとんどない。いや、夢の中だから当然っちゃ当然か。これがおそらく純粋な人間の感覚に近しいのだろう。いいね、不自由っていうのは。
「もぐ」
あ、食べ終わってしまった。
せっかく水分補給と栄養補給ができたのだ。頂上に登ってみることにしよう。
————りぃん
「ん?」
鈴の音だ。
多分山の奥の方から聞こえた。そちらを見ても見えるのは桃色の雑木林だけだ。
私を呼んでいるのか、もしくは関係なく置かれている設置物の音か。夢の中なので何があってもおかしくはない。
「こんにちはー」
————りぃん
あ、返事してくれた。
じゃあやっぱり私を呼んでいるのか。行ってみるか。
花畑の道を通り抜け、鈴の音がなる木々の隙間の先にあったのはこじんまりとした日本家屋。こんなところに人間が住んでるのか?珍しいことも……ああ、いや夢だからおかしくはないか。
玄関には立て札が置かれているが、なんて書いてあるのかわからない。漢字?英語?字が汚い訳ではないと思うが夢の中では外部接続のできない私にはわからないままだ。
「すいませーん、誰かいませんかー?」
扉を2回ノック。返事はない。
もう1度ノック、返事はない。しかし反応はあった。
扉は古びた音を立てて開いた。開けた人は誰もいない。自動ドアだ、すげぇ……コンビニで鏡張りの自動ドアを見たことはあるが、日本家屋の自動ドアとはまたハイテクな。
「えっと……入っていいのかな?」
————りぃん
「あ、失礼します」
お辞儀をしておそるおそる門をくぐる。
土の感触が心地いい。いい踏み心地だ。何十回でも踏んでいたい気分になる。
「おや、これはこれは。久方ぶりのお客様ですねぇ」
家屋の扉の前に来ると扉に触れる前にドアが開いた。また自動ドアかと思ったが、開いた相手は和服の老婆だった。歳は90、人相は柔らかい、物腰は低く親切そうな人物だ。
「こんにちは。私は佐藤太郎、鈴の音に導かれてきたんだけどここは何ですか?」
「これはこれはご丁寧に。鈴の音に導かれたのであれば、
「それはそれはご丁寧に。お邪魔します」
名前教えてくれなかったな。
鈴の音に導かれたから入れというのはどういうことか。
私が質問するよりも早く、目の前の老婆は居間へと案内してくれた。古びた家屋だからかレストランほどの小綺麗さはないが、客人のために丁寧に扱っていることがよくわかる。
「それではしばらくお待ちくださいね」
「え、何を」
「失礼いたします」
「行っちゃった……」
あの老婆は一体何なのか。人間か、それともゴーストタイプか。悪意のようなものを感じはしなかったが、逆に善意のようなものも微塵も感じなかった。そこにあるのは無、まるでスマートフォンの生成AIと話しているような気分だ。決められたプログラムに従うだけの人形。多少の返答はできるが、それ以外はできないようだ。
「お準備ができました。どうぞお召し上がりください」
しばらく待った後に老婆が持ってきたのは食事であった。
丁寧に七輪で焼かれた黄金の皮の鮭、せり、なずなといったどこに生えてたの?と聞きたいほどの量の野菜のおひたし、茶碗に添えられたホカホカの米、血のように染まった赤だしの味噌汁。
美味しそうな和食だ、早くも私の食べ物ランキングが更新されそうである。
「えっと、お金とかは持っていないのだけど」
「ほほほ、構いませんよ。醒めないうちにどうぞ」
「最高。いただきます」
ここ最近、私美味しいご飯食べてばっかだな……
「まあいっか!」
まずは鮭を箸でほぐせば温かい湯気が浮き上がった。端を掴み、口に入れれば少々塩っ気の強い味が鮭の身の柔らかさとよく合っている。
そこで同時にお米を食べる。うん、美味しい。添え物の米も噛んだ時にできる甘みが広がっていく。唾液のアミラーゼがデンプンを分解して、甘みが舌の上に乗っかる。口直しにはよく漬けられたおひたしを。
自然と箸先が動いていく。食べる食べる食べる。米を食べ、鮭を皮ごと食べて、食べて食べて食べる。最後に残されたアツアツの味噌汁を飲む。口の中に残された残飯がその鉄分と塩分を混ぜた味噌の汁によって流されて行った。
人肉の串焼きが4位に降格してしまいました。残念。
身体の芯があったまるような感覚だ。現実でも美味しいご飯を食べれて、夢でも美味しいご飯を食べる。なんていい1日なんだろうか。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです!」
「それはそれはお粗末さまでした。では……逝ってらっしゃいませ」
「うん、知ってた」
そんな美味しい話なんてないのだから。
目の前の空の食器が消える。
老婆が消える。
家屋が消える。
門が消える。
世界が消える。
————りぃん
鈴の音だけが残る。
————りぃん
鈴の音が残る。
————りぃん。りぃん。りぃん
桃色の花がひっくり返る。曇天は曇天へ、蝶の羽は眼球を開く。
桜の花びらは毒色に、木々は枯れ、豊かな大地は骸骨に変わる。
————りぃん。りぃん。りぃん。りぃん。りぃん。りぃん。りぃん
鈴の音は淡々と、鈴の音は淡々と。
私の背中から徐々にそれは近づいてくる。
「これは困ったな」
それは足音だ。
「あー……私に何か用かいいいいいいいいいいいいいいいい」
振り向いた。
それが視界に入る。そして理解する。人間の脳みそでそれを理解してはいけないと。日本語では形容できない姿は脳みそを直接揺らす。
「いいいいいいいいいいいい」
私の口はエラーを吐き出し、同じ言葉を繰り返し続ける。いま私の身に起きているのはサイバー攻撃のようなものだ。
脳みそが爆発して壊れた。仕方ない、ちょっとグロテスクだがこの状態じゃ失礼だろう。頭蓋に指を突っ込み、捻る。そして小脳を摘む。
「い。ふぅ、いや失礼。恥ずかしいところを見せたね」
————りぃん
「ねねねねねねねねねねねね」
困った、脳みそを壊しても無駄らしい。
コミュニケーションも通じないタイプと見た。そういうのもいるのか。いやいたな、最初地球に来たとき。つい話が通じるタイプばか仲良くなってきてたから失念してた。
————りぃん
————りぃん
————りぃん
埒が明かない。
そろそろ飽きてきたし、もういいか。
「夢の中だし、ちょっと体を伸ばすか」
最近、窮屈していたところだし。
私は肉の皮をつまみ、抑制していた内を開放させた。
「おはよう」
カーテンの隙間から太陽の光が覗き込む。いい日差しだ、小鳥の囀りが心地の良い目覚まし時計になっている。
「いい朝だ」
布団から飛び出し、バルコニーを飛び出す。青い空の下を雲が泳ぐ。冷蔵庫から取った牛乳を飲む。小型のテレビのニュースを見る。服を着替える。歯を磨く。
停まっていた心臓を動かして、私は玄関を飛び出し外へ散歩に出かけた。