100年修行したら幼女世界調律師になってました ~最強だけど世界を気ままに旅します~ 作:Fiomia
山道の向こうは異世界でした
山の空気は、街で吸うそれとはまるで違う。
深く息を吸い込むと、湿った土と木々の香りが肺いっぱいに広がり、自然と肩の力が抜けていく。
「やっぱり来てよかったな」
誰に聞かせるでもなく呟き、背負っていたリュックの肩紐を少し持ち上げた。
俺――氷室陸斗、30歳。
平日は営業職として都内を走り回り、休日はこうして山へ来るのが唯一と言っていい趣味だった。
学生時代から登山というほど本格的ではないが、日帰りのトレッキングは続けている。仕事柄、人と話す時間は嫌というほどあるので、休日くらいは誰にも気を遣わず、一人で歩ける場所が心地いい。
今日選んだコースも、標高こそ高くないが景色の良い山道だった。
舗装路はとっくに終わり、足元には踏み固められた土と木の根が続いている。
木漏れ日が揺れ、風が枝葉を鳴らす。
鳥のさえずり以外に人工的な音はほとんど聞こえず、スマートフォンも数十分前から圏外になっていた。
もっとも、このために来たようなものだ。
仕事用の通知が届かないだけで、気分は驚くほど軽くなる。
少し開けた場所まで歩いてくると、水筒を取り出して一口飲んだ。
まだ昼前だというのに気温はそれなりに高い。それでも木陰へ入れば十分涼しく、汗もすぐに引いていく。
「あと1時間くらいで展望台か」
地図アプリを事前に確認していたので、おおよその距離は頭に入っている。
焦る必要はない。
いつも通りのペースで歩けば、昼食も展望台で食べられるだろう。
リュックを背負い直し、再び山道を歩き始めた。
そしてしばらく進んだ頃。
「あれ?」
思わず足が止まる。
視線の先、木々の間に妙な景色が見えた。
山道の続きがあるはずの場所だけ、空気が陽炎のように揺らいでいる。
夏場のアスファルトから立ち上る熱気にも似ているが、それとは少し違う。
揺らぎの向こう側に見える景色そのものが、今歩いている山とは噛み合っていなかった。
「……草原?」
目を細める。
木々に囲まれた山中であるはずなのに、その先には見渡す限り緑の草原が広がっていた。
しかも、ずっと遠くまで。
地平線近くまで続く草原なんて、この山のどこにもあるはずがない。
「蜃気楼……いや、山で?」
海や砂漠なら聞いたことはある。
だが、こんな山奥で見るものだっただろうか。
見間違いかと思い、立ち位置を少し変えてみる。
それでも景色は消えない。
右へ一歩。
左へ一歩。
角度を変えても、揺らめく空間の向こうには相変わらず草原が広がっている。
俺は顎へ手を当て、小さく考え込んだ。
営業をしていると、「気になることは確認する」という癖がつく。
思い込みで判断すると、大抵ろくなことにならない。
だからまずは原因を探す。
近くに何か反射するものがあるのかもしれない。
レンズ効果のような現象かもしれない。
そう考えながら慎重に近付くが、周囲には岩と木しか見当たらない。
「……何なんだ、これ」
怖いというより、不思議だった。
ゲームなら隠しエリアへ続くゲートと言われても納得してしまいそうな光景である。
もちろん現実にそんなものがあるわけはない。
ない、はずなのだが。
好奇心がじわじわと勝っていく。
ここまで来て引き返したら、帰宅してから「あれは何だったんだろう」と何日も気になり続ける気がした。
「少し近くで見るだけだ」
自分へ言い訳するように呟き、一歩踏み出す。
何も起こらない。
さらにもう一歩。
揺らぐ空気はすぐ目の前まで迫っていた。
手を伸ばせば届きそうな距離だ。
恐る恐る指先を近付ける。
触れた感触はない。
だが、空気へ指を差し込んだ瞬間、水面へ手を入れたような波紋が広がった。
「えっ……?」
反射的に手を引こうとした、その時。
景色が大きく歪む。
視界がぐるりと回転し、身体の感覚が上下左右すべて失われた。
「うっ……!」
猛烈な吐き気が込み上げる。
車酔いなど比べものにならない。
高速で回る遊園地の乗り物へ何十分も閉じ込められたような感覚が、頭の奥をかき回してくる。
足元が消えた。
身体が浮く。
いや、落ちているのか。
それすら判断できない。
「まず……っ!」
胃の中身が逆流しそうになる。
目を閉じても意味がない。
暗闇の中ですら世界が回り続け、平衡感覚は完全に壊れていた。
次の瞬間、全身へ強い衝撃が走る。
俺は何か柔らかい地面へ投げ出され、そのまま意識を失いかけた。
意識が浮かび上がる。
吐き気はまだ残っていたが、さっきまでの激しい回転は収まっていた。
「……っ」
目を開けると、最初に飛び込んできたのは木々の隙間から差し込む光だった。
どうやら柔らかい草の上へ倒れていたらしい。
ゆっくりと身体を起こし、額を押さえる。
「最悪だ……」
感覚としては乗り物酔いだが、ここまでひどい乗り物酔いは人生で経験したことがない。
胃の中がまだ落ち着かず、立ち上がる気にもなれなかった。
数分ほど深呼吸を繰り返し、ようやく周囲を見る余裕が生まれる。
「……森? さっきの草原でもなくて?」
山の中なのは間違いない。
だが、さっきまで歩いていた場所とは明らかに雰囲気が違っていた。
生えている木が違う。
葉の色も濃く、幹も妙に太い。
見覚えのある植物がほとんど見当たらず、どれも図鑑で見たこともないような形をしている。
「いや、そんな馬鹿な」
ここは日本だ。
国内で植生が多少変わることはあっても、別世界みたいになるわけがない。
俺は立ち上がり、来たはずの方向を振り返る。
揺らぐ空間は、もうどこにもなかった。
「……消えた?」
戻ろうにも戻れない。
携帯を取り出そうとポケットへ手を入れる。
ある。
少し安心して画面を付けた。
圏外。それ自体は山では珍しくない。
だが、画面右上の時計まで止まっていた。
何度電源ボタンを押しても変わらない。
「壊れたのか……?」
落とした覚えはない。
それなのに電波だけでなく時計まで止まるというのは妙だった。
機械の故障だけで説明するには、さっきから起きていることが異常すぎる。
ひとまず人を探そう。
山道へ戻れば誰かいるかもしれない。
そう考えて歩き出した、その時。
ガサッ。
茂みが揺れる。
鹿か猪か。
そう思って視線を向ける。
次の瞬間、全身が凍り付いた。
現れたのは狼……いや、狼というには大きすぎる。
肩までの高さだけでも大型犬を優に超えている。
全身を覆う灰色の毛並み。
鋭い黄色の瞳。
そして口元から覗く、異様に長い牙。
「おいおい……」
思わず後ずさる。
こんな動物、日本にはいない。
動物園にもいない。
そもそも野生で遭遇したらニュースになる大きさだ。
獣は低く唸りながら、一歩ずつ距離を詰めてくる。
完全に獲物を見る目だった。
「落ち着け……」
熊と遭遇した時は背中を見せるな、と聞いたことがある。
狼はどうだった。
目を逸らすな?
いや、走るなだったか。
頭の中で知識を探すが、焦りのせいで何一つ思い出せない。
じり、と足を引く。
その動きに反応したように、獣の耳がぴくりと動いた。
まずい。
本能で理解した。
逃げる準備をしていると判断された。
「待っ――」
言葉を発するより早く、巨大な狼が地面を蹴った。
土が爆ぜる。
速い。
速すぎる。
人間が反応できる速度ではない。
目の前いっぱいに開かれた口。
牙が迫る。
避けられない。
――死ぬ。
その考えだけが脳裏をよぎった瞬間。
「止まりなさい」
静かな女性の声が森へ響いた。
次の瞬間、狼の身体が空中で静止する。
飛び掛かった姿勢のまま、まるで時間そのものが止まったかのように動かない。
「……え?」
理解が追い付かない。
狼だけではない。
舞い上がった土も、千切れた草も、空中で止まっている。
現実離れした光景に呆然としていると、木々の間から一人の女性が歩いてきた。
長い金色の髪。
深い青のローブ。
均整の取れた立ち姿は、山の中だというのに不思議なほど場に溶け込んでいる。
その美しさに目を奪われる一方で、彼女が放つ静かな存在感から目を離せなかった。
女性は宙へ固定された狼を一瞥すると、小さく指を鳴らす。
乾いた音が響いた。
直後、狼の姿は音もなく光の粒となって崩れ、そのまま風へ溶けるように消え去った。
血も残らない。
死体すら残らない。
まるで最初から存在しなかったかのようだった。
俺は言葉を失ったまま、その女性を見上げる。
彼女はこちらへ歩み寄ると、俺の顔をじっと見つめた。
青い瞳が、何かを確かめるように細められる。
そして穏やかに微笑んだ。
「安心して。もう危険はない」
その一言を聞いた途端、張り詰めていた緊張が一気にほどけていく。
だが、それ以上に頭の中を埋め尽くしていた疑問が口をついて出た。
「……あなた、一体何者なんですか」