雨の匂いがする。
瞼の裏に光を感じる。だんだんと意識が浮上してくる。目を開くと真っ白な部屋にいて、わたしは身を起こした。体が軽い。
腕に繋がれた管の先から液体が一滴ずつ落ちている。点滴、か。病室にいるみたいだ。
腕が短い。手が小さい。夢でも見ているのだろうか。何が起きている───?バタバタと慌ただしく知らない人が部屋に入ってきて、考えを遮断される。
白衣を着た人に「ここがどこかわかる?」「自分の名前を言える?」と矢継ぎ早に英語で質問される。彼らの話す言葉を理解できる。
女性から「エディ」と呼びかけられて、それが自分の名前だと感覚でわかった。
でも、わたしの名前じゃない。
心配するように手が伸びてきて思わず後ずさる。
「もしかして記憶が……」
群衆のうちの一人が呟いたことでその動揺が全体に広がる。わたしは記憶よりもずっと小さい自分の手を握った。
混乱しながらも自分の身に起きたことを察する。わたしは誰かの身体の中にいる。それもエディという少年のようだ。
目の前にいるのは医者とエディの両親だろう。憔悴しきった表情を見ていると、視線が合った。彼らはぎこちない微笑みを浮かべた。
「大丈夫だからね」
───
程なくしてわたしは「記憶喪失」だと診断された。身体的健康に問題はないので両親はわたしを連れて帰った。今まで通りの生活を送ることで少しずつ記憶が戻ることを期待しているようだった。
前の世に関する情報は鮮明だった。「一緒にゴールしようね」と言っていたのに先にゴールした友人の顔、最寄り駅の名前、巷で流行っていた音楽など、割とどうでもよさそうなことは忘れていないのに、ただわたし自身に関することはほとんど思い出すことはできなかった。
唯一、はっきりと覚えているのは本名だけ。
でもそれももう必要ない。
「エディ」
わたしには名前があった。新しい名。『エドワード』の両親が我が子のために一生懸命考えて付けたた最初の贈り物。
わたしの名前はもう二度と誰かに呼ばれることはない。
「貴方様は早く箒に乗りたいと、ご両親によく仰られていました」
屋敷しもべ妖精のリズから体の持ち主の話を聞く。エディが愛されてきたことは、彼らの見せる態度で嫌でも理解できた。
「エドワードの好きな食べ物は何だったの」
「いちごが好きでした」
「甘いもんね」
出されたものは全て平らげていたが、その中にはエドワードが苦手だったものも混ざっていたらしい。あのときの彼らの顔と言ったら。
「貴方様がお野菜を食べられるようになって、お二人は喜ばれていましたよ」
「そうだね」
全然好きじゃないけど。わたしは駄々をこねて困らせるほど子どもじゃない。
「少し前まで靴下を履きたくないと床を転がり回っていらしたのに……」
リズも感動したらしく目をうるうるさせている。
エドワードが見るはずだった景色。
エドワードはどこへ行ってしまったのだろう。魂は消えて、もうこの世にとどまっていないのだろうか。
齢二つでいなくなってしまった、一粒種のエドワード。わたしが彼のためにできることは何なのだろう。
彼の代わりに箒に乗ること?彼がしたかったことを、わたしがなぞっても。でも、エドワードの両親なら喜ぶだろうか。
彼らが喜ぶのは、それがエドワードの成長だからだ。わたしは自分の考えをすぐに打ち消した。
母親がくしを杖で浮かして、わたしの髪を整える。しつこい寝癖は父親が呪文を唱えてひょいと直してしまった。
わたしはその作業を見つめながら「それはいつになったらできるようになるの?」と尋ねた。
「魔法が使えるようになってからよ」
彼らは詳しいやり方を教える代わりに「まだまだ甘えておくれよ」とわたしを抱きしめた。
───
リズから両親には内緒で新聞を渡してもらった。日刊予言者新聞。
動く写真を横目に、見覚えのある名前に目を留めた。
「英雄ハリーポッター……」
新聞の記事には例のあの人が滅んだことが長々書かれていた。写真と重要な部分を子ども用のハサミで切り取る。
わたしはこの世界がどこなのかを理解してすぐにノートに前世の記憶を日本語で記録することにした。これからどうなるのかを覚えておかなければ、エドワードは死んでしまうかもしれない。
短い指先で必死にペンを支える。昔のように書けないことに苛立ちが募った。もう片方の手で支えようとするとペン先が滑ってしまう。
その拍子にインクの瓶を倒して、ノートが真っ黒に染まっていく。感情が大きく揺さぶられ、ようやく自分が息を止めていたことに気づく。
インクで汚れてしまった自分の手と、ガタガタで読めやしない文字を見て、わたしはため息をつく。
わたしはこの日、この体で何かを成し遂げることを諦めた。
そのまま横たわって天井を見つめてみる。リズが掃除をしている間に夕飯ができたらしい。
わたしは「エディ!」と優しく呼ぶ声に応えた。
───
この体は不便だ。
少量ですぐ満腹になるのに、次の食事までにはお腹が空きすぎる。「あとでお腹空くかもよ?」と言われてもそのときは確かに満腹なんだ。
トイトレなど何たる屈辱。おまるなんて使いたくないのに、今の体では大人のように座ることすらままならない。
それからとても疲れやすかった。走り回る同年代の子を追いかけるとすぐに息が上がる。病弱だからじゃない。わたしがこの体の体力をよく理解しているからそうなるんだ。
他の子たちが疲れですぐにぐっすり眠るのに、わたしは昼寝を含めても彼らより睡眠時間が短かった。
両親はわたしが大人びていることを自慢気に親戚に話していた。難しい本を読もうとするし、文字も書けると誇らしげだ。
───
両親に広場に連れられて、広場で本を開く。分厚すぎて置かないといけない。家の中と違って、土の匂いがするし風が気持ちいい。いい気分だ。
本に影が落ちて両親だろうかと見上げる。知らない子どもがボールを拾いに来たついでに、わたしを遊びに誘うことにしたみたいだ。その子はグレーの瞳を細めた。
「何読んでるの?」
「大いなる遺産だよ」
「何それ?」
「うーん……なんか難しい本」
内容を話しても面白いかわからないのでぼかして答える。その子は「ふーん」と言ってからボールを横に置いて本を覗き込んだ。
「かじやって何?」
「金属を使って物を生み出すんだ」
ナイフとか。と例をあげるとその子は頷いた。「ボールは誰が作ってるの?」と聞かれて返答に困る。
「ボール職人……?」
「そうなんだ!」
そんなわけがないのに彼は納得行った様子だった。内容よりも考えて答えてもらったことのほうが嬉しかったのかな。
気になって「ボールで遊ばないの?」と尋ねたら急に「そうだ!」と立ち上がった。
「一緒に遊ぼ!」
曇りのない笑顔で遊びに誘われる。眩い陽の光にわたしは目を細めた。わたしは本を閉じて彼についていった。
───
わたしは五歳になった。
「おれハリーがいい」
「ビリーは例のあの人な」
「えーやだよ」
子どもたちの間ではごっこ遊びが流行ってるみたいだ。当時のハリーなんか赤ちゃんなんだから、ハリー役は泣いてるだけになるんじゃないのか……という野暮なことは黙っておく。
「じゃあデスイーターでいいよ」
「変わんないじゃん!」
「闇祓いレッドがいいの!」とビリーがぐずりだした。ガキ大将のジョンがハリーとレッド役を譲らないらしい。二人演じるのか。ヴォルデモート役は誰でも嫌だと思う。
沈みゆく太陽を通り過ぎた───というより───太陽が私達を追い越したのだ───
読んでいた詩集を風がめくった。外で読むときの弊害だな。わたしはおとなしく本を閉じた。
「あ!エディ!エディは闇祓いでいいよ!」
「なんでええええ!!」
わたしがデスイーター役をすればいいと思ったのに、ジョンは闇祓い役をわたしに勧めてきた。ビリーがさらに喚いてめちゃくちゃだ。割り込むんじゃなかったな。
「僕が悪いやつやるよ」
わたしが声を上げる前に、誰かが悪役を引き受けようとした。グレーの瞳が瞬いて、ゆっくりわたしから離れていく。
「いいの?」
ビリーが嗚咽をこらえて尋ねる。その子が「うん」と手を差し伸べて、ビリーはその手を取った。デスイーターらしくない行動力だ。
ジョンが「じゃあ決まりね!」と言ってさっそく木の枝で魔法を撃つふりをし始めた。
───
同い年くらいの子どもが遠くからじっと見つめてきて、目が合いそうになると逸らした。どうやら、こないだ悪役を買って出た子のようだ。
飼ってた猫みたいな動きだ。こういうときは遊んでほしいんだとわかったが、この子はどうか。近寄っている間もわたしのことを意識してもじもじしているのがわかる。
「ふふ、遊びたいの?」
「……」
その子は答える代わりに目を伏せて、足で地面をいじいじし始めた。思っていたのと違う反応をされてしまった。
「名前、なんていうの……」
「エディだよ」
その子が「エディ……」と呟く。見覚えのある顔だと思ったら、ボール遊びのあの子かな。
「好きなもの何……?」
「いちご」
「……そうなんだ」
あの時と違って恥ずかしがりやになったらしい。俯きがちで笑わなくなってしまって、ちょっと寂しい。
困らせたくなくて挨拶してから去ろうとしたとき、「エディ」と呼ばれる。振り返っても彼は何も言わなかった。わたしの裾をちょっと引っ張って、多分まだここにいてほしいことを精一杯伝えてくる。
その場に留まることくらいどうってことない。わたしは彼の隣に座り込んだ。
子どもって何を話せばいいんだろう。空に浮かぶ雲を眺めてみる。あいにく面白そうな形のものはない。
彼の名前を聞いていなかったことを思い出して「君の名前は?」と尋ねた。彼が控えめに「セドリック」と答えたのでわたしは放心しながら「……いい名前だね」と返すことしかできなかった。
確信を得たくてセドリックと名乗った少年の顔をよく見ようとすると、逆に彼は顔を埋めてしまった。
「ご……ごめん、困らせる気はなくて……」
セドリックは無言で顔を横に振った。けど、顔は見せてくれなくなってしまった。年頃の子どもって何考えてるのかわかんない。原作の彼は何が好きだったっけ。わたしが「クィディッチ」と言うとセドリックはピクリと反応した。
「……エディもクィディッチ好きなの?」
馬鹿正直にあんまり知らないと言ったら「そっか」で終わってしまう気がして頭をフル回転させる。
「コガワ……トヨハシ・テングならちょっと知ってる」
「日本の……?よく知ってるね」
おもむろに顔を上げたセドリックが少し弾んだ声で言う。わたしが彼の顔をもう一度見ると、今度ははにかんでくれた。
クィディッチの話題はお気に召したらしい
ひとまず嫌われていなさそうなことに安心する。
また恥ずかしがらないように、わたしは視線を外した。「まだ箒にすら乗ったことないや」とぼやくとセドリックは「楽しいよ」とさっきよりも聞き取りやすい声で返してくれた。
「ちょっとまってて」
セドリックが急ぎ足でどこかへ向かっていった。帰ってきたときには手に箒を持っていて、飛ぶところを見せてくれるのかな、なんて期待してみる。
かと思いきや、セドリックは箒をわたしに預けてきた。
「え!僕乗れないよ!」
心配症の両親の顔を思い浮かべながらやんわり断る。代わりに「セドリックが乗るとこ見せてほしい」とお願いすると、彼は今度こそ自分で浮くところを披露してくれた。
「すごいね!」
わたしは迷わず拍手をした。箒に乗っているときは冷静そうに見えたけど、緊張してるのか視線があっちこっち走っている。
「一緒に……」と言ってからわたしの表情を見て、「乗りたかった」とぽそぽそ呟く。箒をぐりぐり地面に押し付けていて、拗ねているようにも思えた。でも何度も目が合って、それが間違った認識なのかもしれないと思ってみる。
「また今度ね」
約束はできないけど、わたしも乗りたいのは確かだ。次に会うときには許可が降りるかもしれないと期待して、セドリックに笑いかけた。
───
わたしは七歳になった。一躍時の人となっていた英雄ハリーの話も、数年も経てばさすがに以前ほど頻繁には聞かなくなった。わたしは特にやることもなく、自宅の庭でごろごろしながら芝生の柔らかさを堪能していた。良い家だ。広すぎて迷子になりそうなくらい。噴水の音に耳を澄ませる。
わたしは目を瞑り、この肉体の持ち主である『エドワード』に思いを巡らせていた。
優しい風が頬を撫でる。このままだと本格的に眠りに落ちそうだ。
わたしは、彼に恥じないよう勉学に励み、立ち振る舞いや所作にも気を遣った。もし『エドワード』が帰ってきたとき、決して不名誉なことがないように。『エドワード』の両親は、人が変わったように大人びてしまった──実際に人も変わって中身も大人だが──『エドワード』のことを受け入れてくれた。
彼らのためにも、言うならばこの体を借りて生きている限り恥をかくわけにはいけない。わたしは前の名前を捨てて『エドワード』として生きることを誓った。
「エディ!」
母親に呼ばれ、わたしはすぐさま身を起こして振り返った。この名前にも慣れたものだ。
懇親会のお誘いがあり、7歳になったわたしを連れて参加するから夜までに支度をしてほしいとのことらしい。
母親から聞いたことをかなり噛み砕いて言うなら、わたしたちのような子どもは退屈しがちな、大人たちが集まって騒ぐだけのパーティーが行われているようだ。
話を聞く限り規模のデカい交流会みたいなものに思える。
魔法界全体と言っていいのかは分からないが、例のあの人が滅んだと聞いてからわたしの周囲の人たちはかなり活発になっている。わたしは初めて参加するパーティーに浮足立った。
───
「あれ?セドリック?」
周りの子に溶け込んでいた彼の表情が一層明るくなる。
セドリックに手を振られて、周りの目を気にしながら振り返す。人混みをかき分けてセドリックが姿を現した。残された女の子たちが彼のことをちらりと見ていた。
公の場でこうやって会うのは初めてだ。わたしは恭しくお辞儀をして改めて自己紹介をする。顔を上げたとき、セドリックがぽかんとしていて、わたしはなんだか自分が恥ずかしくなった。
「こういう場所だとそれらしい振る舞いを求められるんだ」と少しだけ、微笑みを作るのをやめてみる。
「エディの名字初めて知ったよ!」
セドリックは前よりもハキハキして喋るようになっていた。背の高さからも時の流れを感じる。堅苦しいのは終わりだ。わたしは顔に貼り付けていた笑みを剥がして、歯を見せて笑った。
「お高くとまっちゃって!」
わたしとセドリックが握手をする前に、別の手が伸びてきてわたしの手を取った。目の前に燃えるような赤髪が躍り出る。思わぬ横槍が入ってわたしは目を瞬かせた。真っ赤な頭髪の、双子。
「そうだぜ兄弟、気楽に行こう」
わたしが呆気に取られている間に、差し出していなかった左腕を勝手に持ち上げられる。おかげでわたしは彼の隣にいた双子の兄だか弟だかと腕を交差して握手させられるはめになった。動けない、というかかなり恥ずかしい。何だこの状況は。
社交場のために上質で少し古風なジャケットを着ているが、2人してネクタイをしていないので見分けるのは難しく、どちらがフレッドかジョージなのかは分からない。
怒らないことに気を良くしたのか片方の手が解放され、踊るように回転させられる。わたしがノリノリでターンをしてはしゃぐと、周りの子どもたちも手を叩いて騒いだ。
交流会は子どもにはつまんなすぎる!再び花火が上がった。目を離すと爆破させる癖でもあるのだろうか。
フレッド!ジョージ!──花火の音に紛れて微かに女性の怒声が聞こえる。双子の片割れにぐいっと手を引かれてわたしは走り出した。彼らが自己紹介するまで、わたしの手を引く方をフレッド(仮)としておこう。
思わぬ出来事にひとりでに口角が上がり、胸が高鳴っているのを感じる。隣で引き攣った顔のセドリックが同じように連行されているのが見えて笑いが止まらない。
混乱する群衆を掻き分け、どんどん前へ進んでいく。わたしの手を引く少年の赤い髪の毛が靡いている。
「どこに行くの!?」
セドリックの困惑した大声が響く。
「テーブル!」
周りの騒音にかき消されないよう双子も無邪気に声を張った。勘違いでなければ声が弾んでいるように聞こえる。
わたしはテーブルという言葉を聞いてパーティー会場の中央に目を向けた。向こうには食事が並べられた巨大なテーブルがあったはずだ。子どもが隠れられるほど大きいから、おそらくあれのことを言っているのだろう。
「見えたぞ!」
先を走っていたジョージ(仮)が辿り着き、長いテーブルクロスを捲って手招きしている。わたしは姿勢を低くしてその下に隠れた。1人、また1人と続き、最後に布端を持ち上げていたジョージ(仮)が滑り込む。
卓布が完全に閉じられてパーティー会場の明るさが消え去った。まるで秘密基地にでもいるみたいだ。さすがに息が上がって少し苦しい。胸に手を当てるとバクバクと心臓が鼓動しているのが分かる。こんなに走ったの久々だ。
「平気?」
セドリックが息を切らしながらも聞いてきたので、わたしは「楽しいかも!」と笑顔で答えた。互いに顔を見合わせくすくす笑う。わたしたちが息を整えているのに対し、あろうことか事の発端である双子は外の喧騒を他所にハイタッチをしていた。
テーブルクロスを捲り、隙間から外の様子を伺った。
「花火仕掛けたの君たちでしょ」
「お気に召したかい」
「俺達なりの歓迎だ」
「退屈してたんだ。ちょうどいいよ」
あまりにも大量に打ち上げられたせいで煙が充満し始めてきた。周囲の大人、特にモリーと思われる人はカンカンに怒って双子を追いかけ回している。
「すごい人たちだったね」
「ちょっと楽しかった」
「エディ!」
心配そうな顔をした母親がこちらへ向かってきているのが見えて手を振って応える。母親はわたしの近くに来るなり真っ先に怪我の有無を尋ねた。やっぱりこの人は優しい人だ。
「大丈夫だよ、母さん」
ほっとしたようにわたしを抱きしめたあと、はたとわたしの隣にいるセドリックに目線が移る。わたしは子どもらしく胸を張って自慢の友人を紹介することにした。
「僕の友達!」
「セドリック・ディゴリーです」
「あら!あらあらあら!」
セドリックが丁寧に挨拶をして、わたしの母親は握手に応えながら口元に手を当てて嬉しそうに顔をほころばせていた。
ハーメルン初投稿です
後書きとか書けるんだーすごー
楽しんでもらえたら嬉しいです