「お願いです……神様……」
わたしは誰にも知られないように母国語で呟いた。
神なんていないってこと、最初から分かりきってるでしょ。
神様がいるのならわたしはこんなところにいない。『エドワード』が死んでわたしが生きている意味とは。生きがいがほしい。生きていてもいい理由がほしい。
───
両親は幼いわたしを家に置いて出かけるのをあまり良しとしないようで、両親の外出にはよく連れ出されていた。
今日もまた買い物をする両親を待つ間、わざとはぐれたふりをして──普通に迷子になることもあるけど──小さな冒険をすることにした。
子どもの視点から見る街はとても巨大で迷路のように感じる。カゴの中のフクロウの目を覗き込み、配られていた新聞を読んでみたり、走り回っているうちにわたしは暗い抜け道を見つけた。
雲が静かに流れていく。辺りは不自然なほど静かで、心臓がどくどくと脈打つ音を耳の奥で感じる。この先は危険だとわかっていながらも胸の高鳴りは消えない。呼び寄せられるようにしてわたしはその道を選んだ。
顔を隠すように歩く通行人とすれ違い、どんどん前へ進んでいく。この先に何かある。何かがわたしを待っている。そんな気がして歩みを早める。
水たまりを踏んで、ジメジメとした壁を手でなぞる。わたしはとうとう、暗がりにポツンと落ちているそれを見つけた。
まるで向こうから手に入れろと言わんばかりに現れた、トム・リドルの日記を拾ったのだ。
───
さっそく家に持ち帰り、日記帳を開く。真っさらな頁は魔法がかけてあるとは思えないほどに普通の代物に見える。
今日あったことを適当に少し書くと文字が霧のように消えて、代わりに現れたそれがトム・リドルと名乗った。
どんなにくだらないことを書いても返事をしてくれる。ChatGPTみたいなやつだな。ジニーがハマるわけだ。
世間話もそこそこに、彼は最近のニュース、特に闇の魔法使いについてそれとなく探ってきた。
「ヴォルデモート卿好きなの?」
直球で聞くと「好きっていうか……」とゴニョゴニョ誤魔化し出した。まぁ……ちょっと興味があるだけで。別にめちゃくちゃ好きってわけじゃないよ。僕の時代でも有名だったから気になっただけ。
向こうが逆張りオタクの言い訳みたいなことをし始めてわたしは静かに本を閉じた。
───
後日それとなくヴォルデモート卿について尋ねられ、「死んだよー」と書いた途端に「何!?」「嘘だ!」「信じないぞ!」と普段なら聞けないような罵倒の走り書きが浮かんできた。
「新聞あるよ。でも君は見れないか」
「今そっちに行く」
行けるんだ。
不意に本がガタガタと大きな音を立てて揺れ、物凄い形相をしたハンサムが飛び出してきた。実に「トム・リドル」らしい表情だ──わたしは他人事のような感想を抱いた。
まだ実体を持っていないためかモヤがかかっていて、輪郭はぼんやりとしており、向こう側が見える程度に体が透けていた。
彼はわたしの姿を目で捉え、一度慎ましやかな態度を取る努力をしたものの、わたしの手に新聞があるのを見るなりぶん取ろうとした。
横暴すぎるだろ。
彼の手は新聞をすり抜けて空を掴んだ。本性を隠そうともせず、わなわな震えて獰猛に「それを見せろ」と吼えた。
「英雄ハリー・ポッター……!?」
彼は血走った目で一通り確認すると新聞から目を離さず「今は1981年なのか?」とわたしに尋ねた。
「大きなニュースがあったら残してるだけ。今は……あ〜?198……7だったかな」
「変な趣味だな。トロールの退治屋は別に大きなニュースではないだろう」
「大事なことなの」
彼は自分から話題を振っておきながら、わたしの返事には興味がなさそうで「ハリー・ポッター」とブツブツ呟いて考え込んでいた。
「まぁいい」
リドルは新聞の切り抜きを見終えてわたしに向き直る。おもむろに怪訝そうな表情をした。何だ急に……。
「お前、変だな」
「失礼すぎない?」
身だしなみには気を払ってるのに。わたしが自分の顔をペタペタ触っていると、彼は端正な顔を歪めて「違う!」と怒鳴った。
「何が起きてる?お前は何を考えてるんだ?」
リドルが苦虫を噛み潰したような顔をして「心が読みにくい」と呟く。傍から見ても分かるほど彼は明らかに苛立っていた。
「いや、閉心術じゃないな……存在が薄い?何なんだお前?」
次に聴いた声色は怒りよりも困惑に近かった。鬱陶しそうに髪をかき上げたので彼の眉目秀麗な顔がより顕になった。
わたしの顔をじっと見つめる。至近距離のハンサムは心臓に悪い。わたしは思わず仰け反った。
「なんだこの言語……」
わたしが大抵日本語で考え込むからか、心の中を覗いても彼らには分からないようだ。記憶は映像で流れるし、感情も直接汲み取れるだろうが、もしこの先誰かに頭の中を見られたとしても、その時のわたしの思考を完全に理解することは難しいと予見できたのはありがたいことだった。
リドルは納得行かないのか難しい顔をしたままだったが、顕現の限界だったのかおとなしく本の中へと戻っていった。
───
リビングに散らかっている本を一つ拾って部屋で読んでみる。名前を聞いたことがある本だから自分でも読めるかと思ったが……。
「高慢と偏見、ねえ……」
「なんだそれは」
時間を持て余しているリドルが顔を覗かせた。最も愛からかけ離れていて、愛を知るべき男が。
「恋愛小説だよ」
「なぜそれを選んだ?」
「一番上にあったから」
もっと探すべきだったかな。有名なのはわかるが、あらすじも薄っすらとしか知らない。「そんなものを読むなら勉強するべきだ」と小言を言われて無視する。
「何がそんなに面白い」
「よくわかんない。無愛想な人が自分だけに一途だからじゃない?」
「作品への解釈が雑だな」
リドルが身を乗り出してきたので、本が見えるように手を動かす。ページをめくる音だけが部屋に響く。しばらくして「なんだこの嫌な男は」と言い出した。読んでんじゃん。
「高慢とやらはこいつのことだろ」
「じゃあ偏見が出てくるまで待とうよ」
物語が山場を越えて、終盤になるまでリドルは「こんなに姉妹が必要か?」以外は黙ったままだった。本を閉じて余韻に浸る。
「気に入った」
恋愛小説なのに。わたしは目を閉じたまま頷いた。
───
「今度は何を読んでいる」
「Bliss」
「恋愛小説か?」
「うーん、違うかな?」
リドルが何も言わずに隣に腰掛けた。と言っても霊体だから実際に椅子に座ってるわけじゃないんだろうけど。
「なんか幸せそうに見えるね」
「主観的に見ればな」
「嫌な言い方」
客観的に見ても、普通の幸福の条件は満たしているような気もする。読み進めて、幸福が重なっていくのがわかる。
わたしは終盤になって頭を掻いた。
「言っただろう」
「気持ち悪い終わり方」
「愛など虚構だ」
「これ自体フィクションだからね」
リドルはまだ考えているのか、立ち上がって庭先の木を見ていた。わたしの気分とは裏腹に青々としている。
「あれは梨じゃないよ」
「わかっている」
───
それからリドルは時たま姿を現すと、何をするわけでもなく部屋でのんびりと寛ぐことがあった。過ごす時間が長くなればなるほど彼の力も増すんだろうな。
彼は早かれ遅かれ完全な肉体を手に入れるために、わたしの秘密を聞き出そうとするだろう。
今日もまた本からゆっくりと霊体のまま起き上がり、魔法書を読みあさるわたしの元にやってきた。
「勉強熱心なことだ」
「もっと強くなりたいから」
その答えが気に入ったのか──彼の思う強さではないだろうに──リドルは何かとわたしの世話を焼くようになった。
「リドルってすごいね」
「当然だ」
長年本の中にいて褒められることが少なかったからだろうか、彼は自分の実力を認められて誇らしそうにしていた。
───
ある朝、体調の優れない母に代わって郵便物の確認をしていると老いたフクロウが家へ手紙を届けにやってきた。
翼を広げ空を自由に飛んでいる、というよりかはフラフラ彷徨っているように見える。エロールだ!映画で見たやつだ。わたしはその子にスコーンを渡して手紙を開いてみた。
おそらく拝借されたパーティー用の封筒から、クラッカーの中身が飛び散った。手紙が歌い出し───すごく余白が多い───「今日のお昼に箒持って集合な!」と読み上げて途端に静かになる。
中身を確認すると本人たちが書いたであろう文字でそのまま記されていた。……え?これだけ?裏を見たら箒とフレッドとジョージらしき落書きだけが残っていた。何これ。
近所の公園だから行けなくはないけどさ。フレッドとジョージだけなのかな。てかこんなのでちゃんと来るのだろうか。
───
お昼ご飯を食べてから公園に向かうとフレッドとジョージ、それからセドリックもいた。
わたしだけ箒を持ってヘルメットとプロテクターをしていた。なんせ箒なもんで。
「本当に飛ぶの?」
「公園なら落下と衝突防止術があるから平気さ」
そう言ってからジョージはわたしのつま先から頭まで見回した。
「エディ、さては箒乗ったことないな?」
「見ての通り」
「セドリックは?」
「箒大好き!」
一緒に飛べるのが嬉しいのかぴょんぴょんしている。微笑ましい。フレッドが持っていた鞄に手を突っ込んでスニッチらしきものを取り出した。金色じゃないのが気になるけど。わたしの視線に気づいて「家庭用スニッチ」と軽く説明してくれた。掴むとおとなしくなった。
「クィディッチやるの?人数足りなくない?」
「いーや!こいつらを捕まえるだけさ。ブラッジャーなんか許してくれるわけないからな」
「こいつら?」
セドリックが聞いた瞬間に双子はニヤリと笑う。さっきの鞄の口を大きく開くと大量の家庭用スニッチが飛び出した。
呆気に取られてスニッチたちを見つめる。何匹いるんだ?50?もっと?賢者の石の飛び回る鍵みたいだ。
周りの子どもたちが大騒ぎして「箒持ってこないと!」とはしゃいでいる。
「ルールは簡単。スニッチたくさん捕まえたやつが勝ち!よーいドン!」
そのまま双子が箒で勢い良く飛んでった。
「早い者勝ちー!」と叫ぶ背中が遠ざかっていく。セドリックと顔を見合わせて笑い、スニッチの捕獲に挑んだ。
───
「セドリックが一番強かったよ」
結局他の子ども達も加わって、スニッチを一番集めたのはセドリックだった。
回収はどうするのかと思ったが、双子が鞄を開くとスニッチたちがそこに吸い込まれていくんだから、魔法ってのは便利だ。
わたしは思い出に浸りながらリドルに話していた。ずっと静かなので気になって目を向けると、前よりもリドルの姿がしっかり見えることに気づいた。
血の気が引いて口を閉ざす。急に黙ったわたしにリドルが「報告したいことがある」と言った。
「見ろ」
リドルが机の上にあった本を自分の手で持ち上げた。物に触れられるようになっている。本はすぐに彼の手を通り抜けてしまったが、彼は得意げな顔をしたまま動かなかった。
色んなことが頭を巡った。公園で遊んだこと、セドリック、わたしの記憶の底。両親。エドワード。
それから、リドルと本を一緒に読んだこと。
危険だという考えと彼への友情で揺らぐ。
わたしは思わずあのときのリドルと同じように窓の外を見た。ちょうど秋を過ぎて枯れてきた頃だった。
「あれは実を成さない」
「うん」
リドルもまた、梨の木のことを覚えていた。それを聞いてわたしはなぜだか以前より落ち着いていられた。
「おめでとう、リドル」
わたしがそう言うと、彼は当然だと言わんばかりにダックスフント顔をした。