優しい子どもたち。大切なもの。かけがえのないもの。
自分の命より?それは違うかもしれない。
彼らは、彼らの救済こそがわたしの生きがいで、生きる目的で、生きていい理由。
───
父と別れの挨拶をして列車に乗り込む。
少し歩いた先に、既に列車に乗っていたフレッドとジョージがブンブン手を振って、コンパートメントを取ってくれていた。いや、イタズラ好きな双子のいるところに誰も入ろうとしていないだけかもしれない。
間もなくセドリックもやって来て満室になった。
双子もセドリックも休暇中に少し背が伸びたらしい。一年生のときはギリギリわたしが一番高かったのにもう抜かされそうだな。
「エディ」
父が見送りに席の近くまで来てくれた。
窓を開けて「行ってきます!」と叫ぶ。
手を振っていた彼の姿が、汽車が進むにつれてどんどん小さくなっていく。
わたしはそれが見えなくなるまでずっと見つめていた。
───
寝ている間に駅に着いていて慌てて着替えて外へ出る。「なんで起こしてくれなかったのー!」「エディが全然起きなかったんだよ」「耳元で爆竹使ったんだぜ?」
四人ではしゃぎながら一年前と何も変わらぬ光景を懐かしく思う。自分たちより小さい一年生たちがハグリッドに誘導されて小舟に乗っていく。
あっという間に学校に着いて、組分けでスリザリンを選んだ子を拍手で歓迎する。
わたしは食事を口に運びながら教員の席を見た。クィレル先生はいなかった。
新学期の始まりだ。
週末。わたしが扉をノックし「こんにちは」と言うと、ハグリッドが「誰だ?」と言いながら扉を開いた。
自分の目線でノックをした人を探してから視線を下に向け、ようやくわたしの姿を確認する。
「来たか!」と顔を綻ばせた。かわいい。
ハグリッドは約束通りロックケーキを作ってわたしを待ってくれていたようだ。
机くらい大きい椅子に座り、ハグリッドのおもてなしを受ける。これまた大きなテーブルの上に、それよりかは多少小さいが尋常じゃないスケールのティーカップが出てきた。全てがデカい。
来客用の小さいやつがほしいな。今度贈ろうかな。
「そういや名前を聞いちょらんかった」
「エドワード・ヴィクトリアです。エディって呼んでください」
握手を求めるとハグリッドは躊躇いながらも壊れ物を扱うかのようにそっと手を添えた。
用意された紅茶に手を付ける。もう片方の手で支えつつカップの取っ手に指を通さないように掴み、香りを堪能してから優雅に飲み干──そうと努力した。甘すぎる。世界一甘いんじゃないか?
最初の一杯はストレートと習ってきたわたしは予想外の味にみっともなく噎せた。ハグリッドに──本人は「そっと」のつもりなんだろうけど──バンバン背中を叩かれて呻く。
ハグリッドはオロオロしながら「砂糖は苦手じゃったか」とわたしの手のひらサイズの角砂糖が詰まった瓶を見せてくれた。
「なるほど……っ」
「お前さん、貴族か。所作でわかる」
ファングがハグリッドの背に隠れてこちらを見ているのに気づいた。目を合わせないように逸らし、代わりにハグリッドの顔を見る。
「僕の生まれを気になさるのですか」
わたしは恐る恐る近付いてきたファングを怯えさせないよう鼻の近くにそっと握り拳を差し出した。ファングが手を匂いを嗅いでいて、温かい息遣いを感じる。
「うんにゃ、お前さんの生まれというか……俺は訛りがあるし作法も知らねえ。たまに馬鹿にしてくるやつがいる。だが──」
ファングに匂いを覚えてもらい、下から手を差し伸べて顎の下を撫でる。尻尾がブンブン揺れた。ハグリッドは歯を見せて笑った。
「お前さんはいいやつだな」
「なぜです?」
「ファングが懐いちょる。動物に好かれるやつに悪いやつはいねえ」
そんなハンターハンターみたいなこと言うんだ。
ファングの涎でベタベタになった手をハンカチで綺麗にしながら独り心の中で思う。
ハグリッドが「堅苦しいのは合わねえ!敬語はなしだ!」と言った。
どうやら友達認定してくれたみたいだ。
「俺は魔法を使うのを禁じられちょる。昔、色々あってな」
誰にも言うなよ。まあまあな声量でそう言ってハグリッドはコンロに魔法で火をつけた。
まだ会って二回目なのに秘密を明かしちゃうのはちょっと早すぎやしないか。大丈夫かな。
「僕は違う悩みを持ってる。魔法使いなのに、魔法を上手く使えないんだ」
「いいか、他人の言うことなんざ気にするな。お前さんならきっと立派な魔法使いになれる」
「どうしてそう言い切れるの、ハグリッド」
わたしはなんだか不安になって彼を見上げる。
「ファングがお前さんを認めたからだ。冗談言っとるわけじゃないぞ」
ハグリッド流の励ましにわたしは表情を和らげた。
───
皆が集まる前に、セドリックの向かいの席で早めに朝食を摂るのがもはや習慣となっていた。
セドリックの取り分けてくれた野菜を押し付けようとじゃれているとレンタルフクロウから手紙付きで荷物が届けられた。
教材にしては細長い。忘れ物をした?それかプレゼント。でも何も頼んだ覚えはないんだけどな。
「早く開けてみてよ、エディ」
セドリックに言われるがまま包装を解くと、手入れされた箒が出てきた。ダイアゴン横丁に行ったときに展示されていた箒を食い入るように見つめていたのがバレていたらしい。
マイ箒、何気に嬉しいものだ。箒の柄に名前が彫られていて、寮のシンボルでもある蛇のかわいらしいストラップが付いていた。
『愛を込めて』
手紙には父さんと母さんからのメッセージが書かれていた。わたしはそれを大切にしまおうとして──セドリックが「それシルバーアローじゃない!?」と悲鳴に近い声を上げた。
「何?シルバーアロー?」
「この目で見られるのが嘘みたい!」
なんかテンション上がってるな。シルバーアロー自体はゲームで聞いたことあるけど、反応からしてレア物みたいだ。確かにかっこいい……からかな?クィディッチの伝説の選手が乗ってたとか?
「生産中止された伝説の箒だよ!」
他の箒──唯一わかったのはニンバスくらいだ───の話を持ち出して比較し始めた。何を言ってるのかよくわからないが楽しそうで何よりだ。
「一緒に飛ぼうね」
わたしがそう言ったことでセドリックはピタリと話をするのをやめて、わたしの顔を見つめた。それから視線を彷徨わせながら、控えめに「うん」とだけ言った。
───
双子を探して中庭を歩いていると「聞いたぞエディ!」と後ろから抱きつかれた。
二人の体重を支えるにはわたしは華奢すぎる。わたしはすぐに腕から抜け出して向き直った。
「箒貰ったんだってな!競争しようぜ!」
ニカッという効果音がつきそうなほど楽しそうに笑っている。ほんとに箒に乗るのが好きなんだな。
「それよりもっと楽しいことしようよ」
ぱちくり。フレッドとジョージは同時に目を瞬かせる。わたしが双子にヒソヒソ声で「禁じられた森へ行こう」と言えば、目を丸くして顔を見合わせる。
「エドワード坊っちゃんとは思えねえ考えだぜ」
「エディ、マジで言ってんのか?」
「黙って付いてきたまえ」
ローブを大きくはためかせて歩き出す。
わたしがふざけてスネイプのモノマネをしていても、禁じられた森に行くのは大マジだと気付き双子は肩を組んでスキップをしていた。
禁じられた森へ向かう途中、ジョージが「でもハグリッドがいるだろ?」と当然の疑問を呈してきた。
フレッドが「何か策はあるんでしょうかスネイプ教授?」と懇願するフリをしてきたので、わたしは「フン。これを飲むのだ、ウィーズリー」と懐から仰々しく魔法薬を取り出した。
「何これ?」
スネイプの真似をするのを忘れて「透明薬!」とニコニコして答える。双子は透明薬とわたしの顔を交互に見た。
「エディ、お前思ってたよりも'ワル'だな?」
「ふふふ」
───
はぐれると困るので三人で手を繋いで一人ずつ透明薬を飲んでいく。フレッドの足元から透けていくのを見てワクワクするのを抑えきれなかった。
準備万端。
手をぎゅっと握り、ファングが来る前にハグリッドの家の隣を駆け抜ける。禁じられた森は入口付近はそれほど不気味ではない。
昼間に来たので散歩コースみたいにも見える。拍子抜けしたのか「つまんねーの!」と言う声が隣から聞こえた。
「奥に行こう!」
少しずつ歩いてみる。透明薬、いい案だと思ったけど、効果が切れるまで手を繋ぎっぱなしなの大変かもな。
「ハグリッドの目を欺くためだけに透明薬ってなるとコスパわりぃな」
「改善しなきゃだね」
歩いているうちに少し暑くなってじんわり手に汗をかいている。
秋風が気持ちいい。額の汗を拭いたいけど両手が塞がっていてできない。
物音がした方へ顔を向けて、ふと自分の隣で赤髪が揺れていることに気付く。
「フレッド!頭だけ見えてるよ!」
最初に薬を飲んだフレッドの透明化がちょっとずつ解けていく。生首が動いているのが面白くて笑ってしまった。
だんだんと全員の姿を確認できるようになって、わたしたちは手を離して思う存分冒険することにした。
「ねえ、ユニコーン見に行こうよ」
「どうやって見つけんだ?」
「任せて」
「来たことあるのか?」
「ちょっとね」
はぐらかしつつ、前世の記憶を辿りにずんずん進む。
フレッドとジョージはわたしの後ろで何か言い合ってるようだった。
多分、次来るとき透明薬以外で何かいい案がないか模索してるな。
「1日で行けるかなあ」
「どこまで行くんだ?」
「ノースフォード湿原の入り口近く」
あの時からあまり道は変わっていなくて助かった。
橋を渡って、蜘蛛の巣を破り、トロールの巣を横道を通ってやり過ごす。
密猟者も狩り尽くされたのか見かけない。
「ほんとにこっちなのか?」
「東の方に巣があるはずなんだ」
心配そうに呟く2人を先導する。やがてキョロキョロしていたフレッドが「あっ!」と声を上げた。
「パフスケインだ!」
「かわいいよね」
「あの舌イタズラに活かせねえかな」
やっぱりそういうの好きなんだ。
パフスケインの巣を後に少し勾配した道を進む。
フレッドとジョージがパフスケインの舌からインスピレーションを受けたイタズラグッズの発案を教えてくれた。
「名付けて鼻くそ吸引器!」
それは普通に便利グッズになりそうだな。
わたしは耳鼻科にあるアレを思い出していた。
───
進むにつれて霧が濃くなっていく。日はまだ出ているはずなのになんだか肌寒い。
突然大きな物音と動物の鳴き声がして空を見上げる。上空でヒッポグリフが悠々と飛んでいて双子が歓声を上げた。
「本で見るよりカッケェ!」
わたしたちは手の届かない場所で勇ましく生きる魔法動物の姿に圧倒された。
ムーンカーフの巣を確認して二人に静かにするよう目配せする。夜が明ける。太陽が昇り始めて、木の周りで遊んでいたムーンカーフたちが姿を消した。
「確かこの近くなんだ……」
ムーンカーフの住居のうち、1つの近くにユニコーンが生息していたはず。ゲームでもよく迷子になったなぁ。
足音を立てないようそっと忍び足になる。
眩い太陽の光が背中を照らした。少し進んだ先で何かが動いたのが見えて慌てて木の影に隠れる。
そっと身を屈めて覗き込むと、それが真ん中で眠っているのが見えた。
巣と思わしき場所には虹がかかっていて、その下でユニコーンが一匹、穏やかに寝息を立てていた。
「見つけた……!」
双子も珍しく黙ってユニコーンを見ていた。
呼吸のたびに腹が動き、艷やかな毛並みが煌めいている。
時折耳がパタパタと動いて周囲の音を聞き漏らさないようにしているようだった。
木々の間から静かな朝日が差し込み、優しく照らされた白い毛が神聖なオーラを放つ。
突然何の前触れもなくユニコーンは起き上がり、あっという間にわたしたちの前から立ち去った。
───
夕暮れを無言で歩く。
帰る途中、彼らは意図的にわたしを見ようとはしなかったし、わたしも彼らに気を遣ってあまり見ないようにしていた。
わたしたちは前だけを見て歩いていた。
夕日が照らしている。
わたしはこの日のことを、目の前に広がる美しい夕焼けごと覚えていなければならないという使命感に駆られていた。
「なぁ」
ようやくジョージが口を開いたので二して彼の顔を見る。
「今度はセドリックも誘おうぜ」
美しい思い出を共有する。
セドリックは禁じられた森に行くのを反対するかもしれないけれど、わたしもジョージと同じように彼にもユニコーンを見せたかった。
フレッドが微笑んで頷く。
「そうしよ──」
「お前さんたち!そこで何しちょる!!」
わたしたちは帰りの対策を何もしていなかったので、余韻に浸る間もなくハグリッドにこっぴどく叱られてしまった。
───
クリスマス休暇に入り、わたしは去年と同じように家へ帰ることにした。キングスクロス駅で待っていたのは父さんだけだった。
家に一人分の隙間が空いた気分になる。
リドルはあれから母さんについては触れなかった。
持ち帰った教科書を読んで予習する。
部屋でペラリと紙をめくる音だけがする。
曇っていた窓を袖でゴシゴシ拭いて、窓辺で肘をつき、木から飛び立つ小鳥を見て思い付く。
「アニメーガス習得したいな」
「お前にはまだ早い」
アニメーガスの習得がめんどくさいことを知っているリドルがすかさず却下する。
わたしの布団の上で寝転がって魔術書に夢中になっているリドルにわたしはわざとらしくため息をついた。
「リドルでもだめか」
「誰もできないとは言ってないだろう」
次の瞬間には立ち上がってわたしを睨みつけていた。
やる気になるのが早いよ。
マンドレイクの葉が必要だから採ってこいって。もうそんな教える気満々なの?助かるけど。
───
一ヶ月も葉っぱを口の中に含ませるなんて信じられない話だ。飲み込んだりしちゃだめって大変すぎるよ。
お店で買ったマンドレイクの葉を見つめて恐る恐る匂いを嗅いでみる。無臭だ。
口の中に入れた途端、苦い葉っぱに体が反応して唾液が滲み出る。オエーッ。不味い。吐き出しては意味がないので我慢していると、なぜかリドルまでマンドレイクの葉を口に入れていた。
「なんで一緒に?」
「暇だからだ」
不快そうに眉を顰めて「不味いな」とぼやいている。
母さんの顔が一瞬思い浮かんで頭を振る。
大丈夫、きっと元気になってすぐに帰ってくる。
扉がノックされる音が聞こえて、慌てて本を閉じてリドルを帰す。父さんが「母さんが帰ってくるよ」と言った。
一時的な退院が認められたらしい。
そうと決まれば迎えに行かなければ。
───
「ヴィクトリア様ですね」
父さんが看護師と話している。手続きを済ませている間、わたしは悪い想像をしそうになって慌てて繋いでいた父さんの手を強く握りしめた。
「エディ」
クリスマスのために帰ってきてくれたこと、箒をプレゼントしてくれたことに心からの感謝を伝える。
母さんはそれを聞きながらわたしを抱きしめて優しく頭を撫でてくれた。
───
「メリークリスマス!」
父さんと母さんに笑顔で伝え、リビングに飾られていたクリスマスツリーの下にプレゼントが置いてあることに気付く。
開けてみて、と言われて箱から出てきたのは昔の──この世界からすれば最新なんだろうが── 持ち運ぶのにはあまり向いていないかもしれない重くて大きなカメラだった。
「忘れないように」
わたしはその言葉を聞いて躊躇いがちに頷いた。
わたしはカメラを構え、父さんと母さん、それからリズにもクリスマスツリーを囲むように立ってもらい、早速その瞬間を切り取った。
───
クリスマス休暇を終えてホグワーツに戻ってきた。
魔法を使わない授業は好きだ。
変身術と呪文学以外のこと!
今は薬草学のスプラウト先生のもとでちょっとした手伝いをしている。もちろんタダじゃない。お駄賃に噛み噛み白菜の種を貰うんだ!これさえあれば怖いものなし!
ふかふかの土に種を植えてそっと土をかぶせる。
お礼が貰えるからっていつもより丁寧にしてるわけじゃないよ。普段からこんな感じなんだから。
なんだか引け目を感じて心の中で言い訳する。
「魔法植物は与えた分だけ返してくれます」
筋肉ならぬ植物は裏切らないってことだろうか。
水をやり過ぎたら枯れるんじゃないのかな。
ひねくれた考えを浮かべて先生の顔を見る。
「今植えた満月草はいつ頃収穫できますか?余っていれば魔法薬に使用したいです」
「あなたが薬草学に興味を持ってくれて嬉しいです!他の教科と比べてほんのすこーし軽く見られがちだけど奥が深いのよ」
知識としてはあるけど植物のことをあまり知らない。実際に育ててみるのも成長の過程を感じられて楽しいんだろうな、と思う。
必要の部屋で育てたいな。
スプラウト先生が嬉しそうにしてくれて、なんだかこっちまで笑顔になった。
───
春用セーターを着る生徒が増えてきた。
今後何かあったとしても被害を最小限に抑えるために幸運の薬を作りたいと考える。
謎のプリンスの本があるはずだから足りないのは材料だけだ。さっそく親に材料がほしいと手紙を書く。
「何のためって書かなきゃダメだよな……」
一度ペンを止めて考える。試合に勝つような不正のために薬を作るわけではないが、正直に書くことも憚られた。
しばらく頭を抱えて、いい考えが閃き、急いで書き綴った。実は僕には───
「好きな人がいる!?」
後ろから素っ頓狂な大声が聞こえて振り返ると、そこにはビリーがいた。
彼の視線の先にはわたしが持つ手紙がある。何を考えているのか見当がつき、わたしは慌てて弁明しようとした。
「あ!いやこれは……」
「好きな人いるの!?」
「違くて」
談話室にいた生徒たちが集まってわたしを見ている。だんだん騒がしくなってきた。
「違う!違うよ!」
「そんなに慌てるなんて逆に怪しいな」
ニヤニヤ揶揄うように小突いてきた。だ、ダル〜!ダルいノリすぎる。
他人の恋愛話が楽しいのはわかるけど、今は勘弁してくれ。
「誰なんだよ?」
体温が上昇しているのを感じた。否定すればするほど本当に好きな人がいるやつの反応になってしまう。
「そういうんじゃないって!」
──実は僕には好きな人がいます。その人と関わるきっかけを作りたいのです。そのために幸運の薬を作りたいと思っています……
エドワードより愛を込めて
返事には「そういうのは薬に頼るべきではありませんよ」と書かれていた。
真っ当な親すぎる。
結局これで得られた成果といえば「エドワードには好きな人がいる」という噂が広まったことだけだった。
───
わたし約束通りセドリックと湖畔でピクニックをすることにした。その前に食事の準備だ。
ハッフルパフの寮のすぐ近くにある果物の絵の前に立ち、セドリックに「くすぐりの呪文唱えて」と言った。
するとセドリックは怪訝そうな顔をして、あろうことかわたしに向かって魔法をかけた。全身がむず痒い感覚に襲われ思わず体を擦る。お腹をくすぐられてる!
わたしは堪らず笑い転げた。ヒィヒィ息をしながら必死で「違っ……ふふっ……僕じゃなくて……っそこの梨ッ……!」と指示する。
セドリックが慌てて梨をくすぐると梨が飛び跳ねて厨房への扉が開く。
「早く呪文解いてっ……!」
セドリックにしがみついて笑いを堪える。解除した瞬間に息を大きく吸って咳き込んだ。セドリックに背中を撫でられながら入室する。
タイルを踏み、明るい厨房を見渡す。大広間の食事の用意をしている最中なのかいい匂いが漂っている。屋敷しもべ妖精のうちの一人が話しかけてくる。
「いかがいたしましたか?」
「こんにちは、ピクニックするからサンドイッチがほしいんだ!お願い!」
一人が指を鳴らし、パンが現れる。ハムとチーズが飛び込んできて、最後にフラフラ漂っていたレタスが収まった。
サンドイッチどころか頼んでないものまで用意してくれた。シチュー好きだから嬉しいな。
セドリックは初めて見る屋敷しもべ妖精たちの大量の調理に目を輝かせていた。
「すごいね」
「食後のクッキーもご用意いたしました」
いたれりつくせりだ。わたしたちは感謝を述べて厨房をあとにした。
───
春の穏やかな気候に心を癒やされる。
テーブルクロスを広げて厨房の屋敷しもべ妖精から貰ったサンドイッチを頬張り、寝そべってゆっくりと流れる雲を眺めた。
涼やかな水の音と小鳥が囀る声が聞こえる。
雲の形がソフトクリームだと騒ぐ。
ひんやりして美味しいよ。夏に食べると最高。
わたしが説明するのをセドリックは静かに見守っていた。
「デートだね」
セドリックの一言にわたしは豪快に笑って小突く。
そういう冗談も言えるようになったんだ。
自然と手を繋いで目を閉じる。セドリックの手は大きくて優しくて暖かい。
昼間の穏やかな気候に眠気が誘われる。
いつの間にかうたた寝をしていたみたいだ。
セドリックのかけてくれた毛布から起き上がり周囲を見渡した。
少し歩いてみようかな。
わたしはセドリックを叩き起こして連れ出すことにした。
───
一面に広がる花畑に心躍らせる。
久しぶりに綺麗な景色を見て感動した気がする。
カメラが──スマホがほしい。ポケットを弄る手を止めた。そんなものないんだったな、そういえば。
SNSにあげてたな、なんて……
懐かしい記憶を慌てて頭の隅へと追いやった。愛する世界。友人。家族。もうお別れしたんだから。
思考を頭の隅に追いやり、鞄からカメラを取り出した。ピントを合わせてシャッターを切る。心を動かされた経験も、この花畑自体も、どうにか形にして忘れないようにしたい。
「セドリック、そこに立ってもらえる?」
雄大な花畑にセドリックが佇んでいるだけなのになんだか絵になる。イケメンはいいよな。
わたしが「かわいい!」と微笑むとセドリックも心なしか嬉しそうにした。家に帰ったらこの絵でも描こうか。
再びカメラを構えて撮ろうとしたとき、気遣わしげにこちらを見る彼とレンズ越しに目が合った。
「エディのことも撮ろうか?」
わたしはカメラを覗くのをやめた。
首から提げたそれは重くのしかかり、支える手に力がこもる。
花が風に弄ばれて揺れている。
沈み行く夕陽は残酷なほどに美しい。
微かな風の音が聞こえるほど、辺りは静かだった。
わたしの忘れたくないものに、わたしは入らない。
引き結んでいた唇を緩め、答えを口にする前に俯いてゆっくりと頭を振る。
わたしは笑顔を作ろうとして口元が引き攣っていないことを祈った。
「いや、大丈夫。ありがとう」
わたしは眩い陽に双眸を細め、両の手で冷たいカメラを握り直した。
セドリックに背を向けて、なるべく柔らかな声になるように口を開く。
「日が暮れてきた。もう帰ろう」
───
実力を確認するためのテストで案の定変身術と呪文学が引っかかっていた。特に変身術が酷い。
憂鬱な気分で扉を開く。
補習組に備品を爆発させたせいで強制自習を課せられている赤毛の双子がいて少し気が楽になった。
「私語は慎むように」
マクゴナガル先生が双子が何か言う前に注意を促した。
基礎中の基礎、マッチ棒を針に変化させる指導が行われた。
授業と違って人数が少ないので先生によく見てもらえるのが補習のいいところだ。
一番いいのはそもそも補習に呼ばれないことだけど。
わたしは集中してマッチ棒に向かって杖を向けて針に変わるところを想像する。
銀色で、先は尖っている。
先端に触れればチクリと小さな痛みが走る。
杖を振ると、ぐにゃりとした柔らかい針もどきができた。見た目が似ていてもこれじゃ意味がない。
「進歩しましたね」
自分を褒めましょう、とマクゴナガル先生が声をかけてきた。
出来が悪くても真面目な生徒には優しい。
最初はマッチ棒から全く変わらなかったからこれはマシなほうなんだ。
わたしはため息をついた。
時間が経ってどんどん人が減っていく。
彼らはコツを知らないだけで一度感触を覚えたらすぐにできるようになる。
フレッドとジョージは実力はあるので早めに成功したが、帰らずにわたしが杖を振るのを見ていた。
ついにできていないのがわたしだけになる。
双子と先生に見守られている。
誰も急かそうとはしなかった。
『わたしには何もない』
わたしが母国語で呟くと、声が震えた。
視界が涙でいっぱいになってホロリと頬の曲線に沿って落ちていく。
嗚咽を聞いて三人が固まる。
『こんな簡単なことなのにできないのは、わたしが異物だからだ』
「どうしちまったんだよエディ」
双子が口の中でプチ爆発するタイプのお菓子を手に乗せてくれる。
いらない。とは言えずに受け取ってだらんと腕を垂らす。
一瞬でも好意を無下にしようと思ってしまった自分が憎い。
「あなたは十分努力しました。誇りに思いますよ」
嘘だ。わたしなんかよりハーマイオニーみたいに完璧にできる子のほうがずっといいだろう。
ぐすぐす鼻をすする。みっともない。恥ずかしい。
わたしは今の自分にできる精一杯のこと、ちっとも完璧じゃない針を見つめていた。
───
夏季の長期休みに突入した。
セドリックの顔を思い浮かべながら筆を動かす。
リドルが本から出てきて物珍しそうにわたしを見た。
「誰宛だ?」
「ホグワーツの友達」
「そんなことくらいわかる」
名前知ってどうすんだよ。
めんどくさくて軽く流した。
もしお時間があればホームパーティーに参加してくれませんか。
「セドリック・ディゴリー?ふーん」
宛名を勝手に読まれた。覗き見ないでほしい。
普通に趣味悪い。
わたしは書き終わった手紙を素早く閉じた。
───
今日もまたポストの確認をする。
一番上に見覚えのある字で記された手紙が見えてわたしは頬を緩めた。
暖炉の前でセドリックの到着を待つ。待ち合わせ時間まであと少し。緑の炎がメラメラと立ち上がり、わたしは急いで席を立った。
程なくしてセドリックの姿が見えて破顔する。
彼もまたわたしを視認して微笑んだ。
「セドリック!」
「休み期間にも君に会えて嬉しいよ」
抱きしめられたままその言葉を受け取る。
わたしは彼に「僕も嬉しい」と返した。
───
オードブルの盛り合わせ。カブのスープに、メインディッシュのミディアムレアのステーキ。
リズがお手製のコース料理を順番に運んできてくれる。
セドリックは食事をしながらわたしに目配せをしてきた。
なんだ?何かするのか?
「よければエディの幼い頃のお話を伺いたいです」
うわっ。去年のことまだ怒ってるのかな。
父さんは「そうだな……」と何を話すか考えているようだった。特に変なことはしてないはずだけど緊張する。
「エディは小さい頃は無口でね。君と友達になってからよく笑うようになったんだ」
父さんに言われて初めてそのことに気付いた。
「君には大変感謝しているんだ」
なんだか照れくさい気持ちになって、わたしは顔が赤くなっているのがバレないよう俯いた。
───
父さんが先に席を立ち、それからしばらくの間二人で他愛もない話をしていた。
時計に目をやり十二時を過ぎたことに気が付く。
わたしはセドリックにそろそろ寝ようかと声をかけようとした。
「エディ」
わたしは時折、セドリックの目が瞬く度に星が煌めいているのを見ている気分になる。
彼はプレゼントらしき物を手にしたまま、こちらを見つめていた。
「君に、直接渡したくて」
十三歳の子どもが背伸びしてプレゼントを買っている時点で可愛いのに、また可愛いこと言ってくれる。
「ありがとう!」
促されて開けると、銀のチェーンに繋がれたプレートネックレスが出てきた。
よく見るとプレートには"Avec toi pour toujours-S"と刻まれている。
フランス語だろうか。
「なんて書いてあるの?」
「ずっと一緒って意味だよ」
口元が緩んだのが自分でもわかる。
わたしはニコニコして「ありがとう、大切にするね」と伝えた。
さっそくネックレスをつけてプレートをそっと摘んだ。
───
ずっと一緒。
彼の言葉を反芻しながら何度も何度も光に翳す。
布団にこもると光は消えた。何も見えない。真っ暗闇。
わたしはそれでもネックレスを握り、これから起こる本来あるべき未来を呪った。
───
小さい頃に戻っていて、わたしはパーティー会場にいた。頭が痛くなりそうなほど明るい照明に目が眩む。
あのときの交流会だ。
皆どこに行ったのだろう。
彼らの笑い声が聞こえて、わたしはそれを頼りに走り出した。どれだけ名前を呼んで探しても姿を現さない。
いつの間にか辺りは真っ暗で、たくさんのお墓が並んでいた。
人が倒れている。
肩で息をして、再び走り出す。
何か様子がおかしい。
セドリック?
彼の手に触れたとき、はっきりと冷たいと思ったのを、目が覚めてからも忘れられずにいた。
───
わたしは原作について書いた本を開いた。
セドリックの代わりに死ぬのはどうだろうか。
もちろん、本当の意味で死ぬんじゃなくて死を偽装できればいいなと思う。
多分わたしがセドリックに成り代わっても大会に出たら初回のドラゴンに焼き殺されて終わりだ。
とりあえず今からできることをしよう。
髪を伸ばして、死んだあとに切ってしまおうか。わたしはくるくると髪を指でいじった。
もともと短いわけじゃないけど、伸ばしたら女の子みたいな見た目になるかもな。
わたしが死んだら葬式はしなくていい。
わたしのことは忘れて、自由に生きて。
「何を書いている」
リドルか。聞き慣れた声だ。
わたしは筆を持つ手を止めず、背後にいる彼に「遺書」とだけ簡潔に呟いた。
寝る前には歯磨きちゃんとして。風邪引かないように気を付けて。君たちがどうか幸せで健やかでいられますように。
伝えたいことをつらつら述べていたらごちゃごちゃしてきた。後でまたまとめよう。
やりたいことをやるんだ、後悔しないように……。
「お前、死ぬのか?」
「まあ、生きてるからそのうち死ぬよ」
わたしは適当に返事をした。
人生はあっという間だ。最期もきっと呆気ないさ。
───
両親は決して事故のことや意識不明だったことに言及することはなかったが、夜中に泣いていたのをわたしは知っている。
我が子が記憶喪失になって何も思わないはずがない。
『エドワード』らしさが全て奪われて、代わりに現れたわたし。
それでも二人はわたしを受け入れてくれた。
「お世話になってるんだから彼らのためにも良い職業に就いて、親孝行すべきだよね」
「エドワード様」
リズに呼びかけられてわたしは一度手を止めた。
彼女の方を向いて話を聴く体制を見せる。
「御二人は貴方に自分らしく生きてほしいのではないかと、リズは思うのです」
自分らしく?
借り物の器で自分勝手に生きて、わがままなんて言っていいわけないでしょう。今でも十分な暮らしをさせてもらっているのに。
「僕は自分らしく生きてる」
わたしは雨で濡れた夜の窓に反射する『エドワード』を見た。
「エドワード様……」
「大丈夫だよ」
わたしは散らかっていた勉強道具を抱えて、自室に戻るためにドアノブに手をかけた。
扉を開ける前にリズを振り返る。
廊下から漏れた光で彼女の瞳が光っていた。
「応援してくれる?」
布団の上で仰向けになり、そっと写真立てを掲げた。
写真の中で小さい頃のエドワードが無邪気に笑っている。
少し傾けると部屋の光が反射して自分の姿が写った。
彼は……『エドワード・ヴィクトリア』は、わたしが自分なりに彼のために努力してきたことを知って──他人の身体でこんなに頑張ってたんだって────赦してくれるだろうか?
頑張ることを生きる目的にしてまでも……わたしは君が思う以上に、哀れになるほど必死で自分のために生きている。
───
新学期のための荷物をまとめてカーテンを開く。
最近は夕立ちが多かったけれど、今日は外の天気がいい。
雲が流れてきて暖かい日差しが段々と失われていく。
わたしは胸元のネックレスを指でいじった。
リドルが腕を組んでわたしを見ている。
「物事には区切りというものがある。それを自分で決めることができるのであれば、お前もそうするべきだ」
「何の話」
リドルが耳許で囁く。
「自分と向き合え」
わたしの意識はぐるりと回転した。
───
夏に咲いていた花が枯れ始めて秋へと移行するのを感じる。
学校が始まる前に、入院している母さんの元へ見舞いに向かう。夏のカラッとしていて広大な青空や陽射しを見ているのが好きだ。
体験するのは嫌だけど。
夕暮れ時の太陽の光が、昼の終わりを告げている。
木漏れ日の間を駆け抜けてわたしは病室の扉を開いた。
「母さん!」
母さんの表情は見えない。
陽射しが照りつけていて、眩しい。汗が頬を伝う。
半袖から覗く腕は白く。輝いている。
窓の景色を見ていた母さんは、わたしの顔を見るなり破顔した。
「エディ」
それからわたしは母さんと学校での出来事や、リドルのおかげで成績が良いことを話した。
母さんはその間、わたしの顔を見つめていた。
鼻に管を通され腕には点滴が施されている。
話すことがなくなって話題を探そうとするわたしはそれらから目を背けた。
開けていた窓から温い空気が入ってくる。
気持ちが悪い。嫌な暑さだ。
「私、もう長くないわ」
母さんは突然、静かにそう言った。
この前会ったときだって、今の今まで笑っていたのに?
死を、運命を、受け入れないで。
「いいの」
きっぱりと言ってやけに穏やかな顔で窓の外を見ている。
日が沈む。沈んでいく。辺りが暗くなっていく。
夜に染まっていく。
彼女はこれ以上生きながらえることを望んでいなかった。たとえそれがわたしたちの願いだとしても。
「でも、」と震える声で言い淀んでいると「大げさね」となだめるように優しく言った。
慈しんでいる目と視線が絡む。
「私は他人よりちょっと早いお別れをするだけよ」だから大丈夫だ、なんて笑って言う。
いつも朗らかなのは空元気だと思っていた。
でも違った。
「悲しまないで。死を嘆いてくれるだけで、もう十分なの。私は今とても幸せよ」
わたしは黙って母さんの横顔を見つめていた。
───
開心術で強引に心と記憶とをこじ開けられて、リドルから一歩距離を取る。
頭がガンガンと痛む。
「いい加減母親の死と向き合ったらどうだ」
意図的に、徹底的に避けていたというのになぜその話を掘り返すのだろうか。
久しぶりに生きた心地がする。
わたしは必死に息を吸った。
「嫌だ!」
扉に鍵をかける。
一番奥の、ギリギリ一人が入れるくらいの暗くて狭い部屋に重要な記憶を閉じ込める。
リドルが再び強硬手段に出て、わたしは慌てて原作に関する知識を仕舞い込んだ。
手探りで掻き集めて奥深くに埋める。
なんだか潜水してる気分だ。
わたしがそうこうしている間、リドルは表面上の、わたしが重要でないと判断して見捨てたものを盗み見ていた。
子供の頃の家族旅行中に世話になった老夫婦の映像が頭の中で強制的に流れ出す。
わたしにとって唯一予想外だったのは、心の中には時に、忘れていたものも漂っているということだった。
彼は水面にぷかぷか浮かぶ、わたしですら思い出すことのできない記憶に触れた。
「エディ!」
突然目の前に若かりし頃の両親の顔が現れる。
今よりもずっと視点が低く、ちぎりパンのようにもちもちした自分の腕が見えた。
五感で自分が生きていることを実感する。
その思い出は『エドワード』の心からの感情に溢れていた。
わたしには無いもの。彼から奪ってしまったもの。
開心術って肉体の記憶しか見られないんだね。
こんな形で知りたくなかったな。
洪水のように留めなく暴れる感情に押し返されて、彼も記憶を覗き見るのを諦めた。
再び現実へ戻ったときわたしは声も出せずに咽び泣いていた。
「満足した?人の心をめちゃくちゃにして……」
彼はわたしの秘密を知ることで力を得て、自分の秘密をわたしに教えることでわたしに魂を注ぎ込む。そんなことはさせない。
「泣くのは大切なことだ」
わたしは彼の言葉を聞き流しながら「悲しみを共有する」という言葉を思い出していた。
わたしはこの感情を誰にも明かす気はない。
誰にも渡さない。
わたしは君の目的を知っている。
わたしはリドルの方を見ることなく黙って涙を拭った。
何度瞬きをしてもすぐに視界がぼやけて不快だ。
尚も話を続けようとする彼を無視して本を閉じれば、部屋に束の間の静寂が訪れる。
とてもじゃないがわたしは次に彼が母さんの話をしたとしたら、耐えられる気がしなかった。
彼からしてみればわたしの行動は唐突で意味不明だろうが、二度と会うことはないからもうどうだってよかった。
もう何も。何も、考えたくない。
本をノクターン横丁の泥水の中に投げ捨てようとして、やめた。
深呼吸をする。目を閉じれば暗闇が広がる。
明るい日の届かない場所。皆が寄り付かない寂しい場所。
わたしは心の中で適当に別れを告げて、リドルを訳あり本として古本屋に売り飛ばした。
水たまりを避けてゆっくりと暗がりを歩く。
わたしの心臓は穏やかに脈打っている。悲しみと死を受け入れること。それが正常であることもわかっていた。
そんなことはしたくない。姿を消してしまっただけで、母さんはわたしの知らないところで、元気で生きているかもしれない。
死体を確認していないんだから、死んだとは言い切れない。
そうでしょう?
わたしはあの人の冷たくなった手の感覚を思い出していた。