愛?誓えない。わたしは彼らを愛しているはずだ。でも、彼らを庇ってリリーのように愛の加護を与えられるかなんて。想像したくもないがきっと、わたしにはできはしない。
神様、どうか彼らをお救いください。あなたは何だってできるはずだ。
───
見送りに来た父さんの足元を見る。
「エディ」
わたしが視線を彷徨わせて顔を見れないでいると、そっと抱きしめられた。目を閉じて腕を回し、父さんの鼓動に耳を澄ませる。
生きている。わたしはゆっくりと目を合わせた。父さんは微笑んでいた。
「行ってきます」
父さん。わたしはもう一度小さな声で呟いた。
───
三年生になって、皆声変わりを済ませてしまった。高音のソプラノはもう歌えないだろう。フレッドとジョージもセドリックも急激に背が伸びて、とうとうわたしが一番低くなってしまった。
席に座り、柔らかいクッションに手をついて外の景色を見る。美しい木々や平原がどんどん過ぎていく。
ふとガラスに反射する自分の顔が酷く醜く思えてわたしは乱暴に窓を開けた。
「ハリー・ポッターが今年入学するって噂本当かな」
ジョージがぽつりと呟き、三人がハリーの話で盛り上がり始めた。そうか、もうそんな時期か。
わたしはザラリとかさついた目元を指でなぞり、皆の顔を盗み見た。
その時が刻一刻と近付いている。わたしは顔を合わせる度に嫌な気分になった。
でも、エイモスさんに会ったときが一番辛かったかもしれない。自慢気に我が子を褒めて人のいい笑顔を浮かべる良き父親。照れくさそうな子ども。わたしはあなたの息子を見殺しにします。
そんなことして許されるとでも?
でも。でも、
──彼らは運命の通りに死ぬべきなのでは?
コンパートメントの扉が開かれる音がした。
渦巻いていた思考を振り払って扉へと目を向ける。「ヒキガエルを見ませんでしたか?」と責任感の強そうな子が現れた。
「ネビルって子がいないって探していて……彼、おっちょこちょいみたいなんです」
ハーマイオニーがあの顔をした。ダックスフントみたい。リドルを思い出して──母さんの顔までよぎって、わたしは目を強く瞑って俯いた。首にかけていたネックレスのプレートを握る。
セドリックが代わりに見ていないと答えて、フレッドとジョージが手伝うのを口実に他の生徒にいたずらをしようとしているみたいだ。
扉が閉まる音がして、握りしめていた手を少し緩めてため息をつく。誰もいなくなったと思っていたのにそっと温かい手が重ねられた。
「エディ」
セドリックが優しく囁く。
わたしは静かに目を開いた。
思っていたよりも視界が明るくて何度か瞬きをする。
「君の力になりたい」
セドリックはいつだって優しい。初めて会ったときから、ずっと。一度だってわたしを本当の意味で困らせたことなんてない。
わたしは一言「ありがとう」と掠れた声で呟いた。
───
帽子が触れるか触れないかというところでドラコがスリザリンに選ばれた。机に向かってくるドラコに軽く手を振る。彼は控えめに手を上げた。よかった。まだ返してくれる。
組み分けが進んでいく。
ハーマイオニー、スーザン、ネビル、ロン。小さな子どもたちが次々と寮の席へ着いていった。
「ポッター、ハリー!」
マクゴナガル先生が名前を呼んだことで「あの」英雄がどの寮を選ぶのか皆が固唾を飲んで見守っていた。グリフィンドールだ。それ以外あり得ない。だって、そういう運命だから。
「グリフィンドール!」
帽子が宣言するのを聞いて肩の力を抜く。「ポッターを獲ったぞ!」歓声が聞こえる。食事中も、談話室に着いても皆、皆、ハリー・ポッターの話で持ちきりだった。皆ハリー・ポッターのことを知っていて、ハリーのことは何も知らない。
わたしは頭まで布団を被った。わたしは幾分か静かになった暗闇で彼の人生のことを考え続けていた。
───
朝食の席に着き、セドリックがいつものようにわたしのお皿に食事を取り分ける。わたしはそれを無言で食べた。食欲がない。なのに、凄まじい飢餓を感じる。喉の渇きを誤魔化すためにジュースを飲み干す。
「ハリー・ポッターがグリフィンドールに入ったね」
セドリックが話題を振ってくる。ハリー。我らが英雄。ヴォルデモート卿を倒した子ども。十一歳の男の子。わたしは彼をよく知っていて、でも知らないことのほうがきっと多い。
「セドリックはハリーにハッフルパフに来てほしかった?」
わたしはパンを口に放り込んだ。ジュースで無理やり流し込む。彼がもしもスリザリンに来ていたとしたらどうなったんだろう、と思うことがある。トム・リドルのようになっていた?でも、そういう未来は見えない。
ハリーはただの少年だ。
でも、物語の主人公を担うのはハリーでなければならないような気もした。
「うーん……そうだね……」
セドリックは曖昧に返事をしてスープにパンを浸した。わたしと目が合うと、彼は微笑んだ。
───
ハグリッドの家の前に立って、家の中から笑い声がするのが聞こえて手を止める。きっとハリーたちだ。
わたしはその場を離れた。とぼとぼと独りで廊下を歩く。今日はもう、寝ていようかな。
寮に戻ろうとしていたのに、後ろから声をかけられて俯く。セドリックだ。ここにいたのは偶然だろうけど、今は会いたくなかった。
周りに人が少ないのがまだ救いだった。酷い顔をしているに違いない。駆け寄ってきたセドリックの表情でわかる。
抱きしめられて体温に包まれ、耐え切れずに肩に頭を押し付けてしゃくりあげる。セドリックはその間わたしの背や頭を撫でてくれていた。
「泣かないで、エディ」
セドリックがわたしの頬を手で包んで軽く持ち上げ、髪の上から額に口付ける。セドリックは誰にでも優しい。わたしが一番信頼している人かもしれない。
彼と接していると赦されてもいい気がして、どうしても甘えてしまう。
彼は優しく髪を撫でて、それから涙を拭うように唇を寄せた。嗚咽混じりにセドリックの名前を呼んで縋りつく。セドリックは少し躊躇いがちに目を伏せた。長い睫毛越しにグレーの瞳が揺れているのがぼんやりと見える。
彼は自分の唇を喰み、何かを堪らえようと試みているようだった。
もう一度頬に手を添えられて、濡れた瞳でセドリックの口元が震えているのを見た。
そっと柔らかい唇が口端に押し付けられた。名残惜しそうに離れていく息遣いと、胸の波打ち。
セドリックは止めていた息を深く吐いた。
もう大丈夫だという意味を込めて、遠ざけるように肩に手を置いたけれど、セドリックは「ごめんね」と言うだけだった。
困惑して彼を見上げる。またこの目だ。
「エディ、君が泣いてると僕も悲しい」
瞬きをすると彼の指にゆっくりと涙が零れ落ちる。セドリックは少し紅潮した顔で深呼吸し、「でも」と言葉を続ける。
「でも、すごくかわいい」
泣いている君にそんなこと思っちゃいけないってわかってるのに、でも、どうすればいいのかわからない。
僅かに掠れた声で彼は呟く。
それからわたしたちは暫く無言で見つめ合っていた。
───
闇の魔術に対する防衛術。
新学期が始まったとき、皆で食事を囲んだのにどうしても教員の席を見ることができずにいた。
彼が休暇から帰ってきたのは知っている。
地面を見ながら重い足取りで教室へ向かう。生徒たちの足音と笑い声が隣を過ぎていく。扉の前に立っている誰かの靴が見えて、にんにくの匂いが鼻をついた。
「クィレル先生……」
「や、やぁ……」
視線を彷徨わせて吃っている。引き攣った笑みを浮かべた彼の、紫色のターバン。
───
ハロウィンのことはよく覚えている。
一言で言うならトロール騒ぎ。
ハッフルパフの生徒とすれ違う。彼らはわたしの顔を一瞬見て、すぐにハロウィンの食事の話に戻った。
手すりに手を沿わせる。階段を降りた先に樽が見えてきた。
寮に用があるんじゃなくて、その隣。
大広間で夕食を碌に摂れないのなら、厨房で済ませればいい。
「エドワード様!」
屋敷しもべ妖精がわたしに深々とお辞儀をする。
「お食事に何か問題がありましたか?」
お腹が空いていたから早めに来ただけだと伝えると、彼らの表情は一転しておもてなしをしようと張り切り始めた。
次々に温かい食事が山盛り用意される。どうやら生徒が直接厨房に来たことで腕によりをかけているらしい。わたしは彼らの厚意に感謝した。
美味しい食事を終えたところで外から足音とスプラウト先生の声が聞こえてきた。
わたしは外の音がしなくなったのを確認して急いでスリザリンの寮へ戻った。
───
わたしは夜ふかしをして朝方眠っていた。瞼の裏に日差しを感じる。半分意識があるまま寝返りをうった瞬間、気分が悪くなって身を起こす。
三半規管が駄目になったときのような吐き気を催しながら、水を飲もうと寝間着で彷徨う。頭がぼんやりしてくらくらする。熱中症だろうか。
わたしはその感覚を刺激しないようゆっくりと医務室へと向かった。
どうしてこんなことが起きるんだろう。マダム・ポンフリーに渡された魔法薬を飲むと車酔いみたいな感覚が弱くなった。
でも気分は悪いままだ。吐くほどじゃないけど眠れるかと言われれば微妙。
わたしは夜中、うんうん唸りながら寝そべっていた。頭を左側に傾けるとぐらぐらして気持ち悪くなる。わたしはその感覚が怖くて右耳を下にして眠ることにした。
───
「エドワード・アレクサンダー・ヴィクトリア」
ようやく眠りかけていたのに飛び起きる。フルネームで呼ばれるのは叱られるときだけだって決まってる。
心当たりがないままわたしを呼んだ人の姿を探すと屋敷しもべ妖精がいた。
マジでビビらせないでほしい。
「はじめまして、夜分遅くに失礼します。ドビーと申します」
プルプル震えながらドビーが深々とお辞儀をする。ドビーとは初対面だ。何の用だろう?
「ご主人様が本を探しておられるのです」
キーキー甲高い声でドビーが喚く。
ルシウスさんがドビーをけしかけて顔見知りに少しでもいいから情報がないか聞いてまわっているんだろう。
話を聞いているうちにトム・リドルの日記のことだと合点したわたしは顔を顰める。
ドビーが怯えた表情を浮かべたので、わたしは自分を恥じ、怖がらせないように気分を落ち着けようと努めた。
「ノクターン横丁に落ちてたのを拾ったよ、けど少し前に売った」
「売った!?……のでございますか……!?」
訳あり本としてまだ古本屋に残っているかもしれないことを伝えるとドビーは可哀想なほどガタガタ震えて姿くらましをした。
───
「最近何か強いストレスを感じるようなことがありませんでしたか?」
数日経ってもなかなか治らないのでマダム・ポンフリーが難しい顔をして尋ねる。
「授業に出席するのがしんどいとか…お友達と喧嘩したとか……」
「うーん……」
クィレル先生がストレスになってるのかな。ここニ週間の出来事を振り返ってもあったことといえばトロールが侵入してきたことくらいだろうか。
わたしは頭をひねった。
フレッドとジョージが贈った見舞いの品には触れないようにしながら、セドリックのくれた授業のメモと参考書を手にした。
しばらくして足音が聞こえてきた。
わたしのベッドの前で止まるとカーテンが開けられて、マダム・ポンフリーが「あなたのお父様とダンブルドア先生がお見えになってます」と言った。
なんで?最近びっくりさせられることが多いな。
マダム・ポンフリーが去っていき、わたしは代わりに現れたダンブルドアと父さんに目を向けた。
青くてキラキラした目に見つめられて、なんだか何もしてないのに悪いことした気分だ。仮病じゃないんだけどな。
「エドワード。勉強熱心なのはいいことじゃが、休めるときに休むものじゃ。楽な姿勢になって。わしとお父上に君のことについて聞かせてくれるかの」
わたしのことについて?面白いことなんて何もないのに。
椅子に腰を掛けた二人にわたしはフレッドとジョージ、セドリックのことなんかを話した。双子はいたずら好きで手を焼くけど何かと憎めないしセドリックは優しい。
学校の授業についていけるか不安。
こんなこと聞いてどうするんだろう。
ダンブルドアはわたしの話に相槌を打っていたが、静かに「ご家族は元気かね」と言った。
心臓が跳ねる。わたしは泣かないようにするのに必死で何も言えなかった。
少し間が空いて、父さんが「妻がニヶ月程前に亡くなりました」と呟いた。わたしはダンブルドアが憐れんでこの話を切り上げることを願った。
「エドワード。時には辛いこともあろう」
やめて。どうして失う辛さを知っているのにあなたまで母さんの話をしようとするんだ。視界がぼやけてきた。
気分が悪いので帰ってくださいと言いたいのに喉が閉まって上手く言葉が出てこない。
鼻が詰まり涙がどんどん溢れる。温かい涙が頬を伝って布団にシミを作っていく。嗚咽で喋ることができなかったが、わたしの心中はダンブルドアへの不満と怒りでいっぱいだった。
どうして母さんの話をするんだ。それとこの病気に何が関係あるんだ。母さんのことを思い出しただけで苦しいのに、どうしてあなたはわたしを追い詰めるんだ。
ダンブルドアがハンカチを渡してくれた。
わたしはそれを使う気にもなれず強く握りしめたままだった。
「君は我慢せず泣いて、受け入れて、乗り越えなければならん。泣くのは恥ずかしいことではない。涙は気持ちを消化させる一種の魔法じゃよ」
彼は立ち上がり、わたしの父さんの方を見て「君もな」と言って去っていった。
「エディ」
父さんに呼ばれても何を言われても納得行かなかった。母さんはどこかで生きてる。死んでなんかいない。
黙ったまま俯いていたとき、父さんの啜り泣く声が聞こえて息を呑む。
「母さんが死んで悲しかったな……受け入れたくないよな……」
父さんは震える声でそう言って、泣きやまないわたしを抱擁した。背中に手を回しぎゅっと掴む。
何度瞬きをしても、涙は無情に零れ落ちる。
父さんと一緒に母さんを想い、息ができないくらい涙を流した。
───
夢を見ていた。母さんが死んでから夢に出てくるのはずっと、ずっと痩せ細ってしまった弱々しい姿だった。病を患ったのは健康だったときに比べてもほんの少しの期間なのに。
でも、今日は久しぶりに元気だった頃の母さんの夢を見ることができた。目が覚めたとき、涙が頬を濡らしていた。
窓の外の、沈んでいく夕日を見ていた。
わたしは前よりも母さんのことを思い出せるようになっていた。寂しいけれど、会いたいけれど、それは叶わない。それでもわたしは生きていくんだ。
───
緑色のマフラーを手に取る。他の生徒たちを見て、やっぱりしないことにした。
「エディはどっちが勝つと思う?」
「ハリー」
「即答だね」
「自分の寮応援してやれよ」
だって知ってるんだもん!
セドリックからポップコーンを受け取り、グリフィンドールに紛れて席に座る。秋風が吹いてわたしは肩を震わせた。
「ちょっと冷えるね」
「……手温めようか?」
「…………」
セドリックがわたしに手を差し伸べる。セドリックって時々何考えてるかわかんないな。
わたしは迷いつつもおずおずと彼の手を取った。
確かに暖かい。離れないようにぎゅっと握られる。
「エディ、僕──」
嵐のような喝采の中、セドリックが小さな声で何かを呟いたのが聞こえて、手元から彼の顔に視線を移す。
わたしが顔を見る前に彼がそっぽを向いてしまったので、わたしには彼の耳が赤くなっていることしかわからなかった。
「いよいよ始まる!」
フレッドとジョージの歓声でわたしはコートに集まる選手に目を向けた。
───
ホグワーツからホグズミードまでの道をのんびり歩く。禁じられた森の隣を通り、クサカゲロウや飛び跳ね毒キノコを回収しつつ、木々の間を抜けて緩い坂道を登っていく。
わたしはドキドキしながらセドリックに「バタービール楽しみだね」と言った。
思う存分髪型をお試しできると知り、セドリックのイメチェンを見たくなったわたしはホグズミードに来てまず美容院に突撃した。
セドリックをやや強引に席に座らせてマダムと話し込む。
わたしたちが話している間、セドリックはクロスをかけられ、彼の周りでは魔法のハサミとブラシが宙を舞っていた。
眉毛を少し整え、ヘアワックスでバッチリキメる。大幅なスタイルチェンジではなく、もともとの素材を引き立てる仕上がりだ。
マダムからも褒めちぎられるくらいの風貌になってセドリックは照れくさそうに後ろ髪を触った。
その後もここに来た目的を忘れてわたしは服屋でセドリックの着せ替えをしていた。マネキンが最先端のファッションを身に纏い、時折動いてポーズを取っている。
服屋の店長が紅茶を嗜みながら話してくれた。どうやらほしいアイテムやオーダーがあれば服を仕入れたり、仕立ててくれるらしい。
わたしは勝手に踊る洋服たちを次々と捕まえてはセドリックの体の前に当てて確かめる。
試着したい物はわざわざ手で持たなくても魔法で宙に浮いてくれる。なんて便利なんだ。店長も「お似合いですよ!」とおだてている。
ありったけの服と一緒にセドリックを試着室に追いやる。
「えっ全部着るの?」
「これも、あとこれも!」
ついでにポインテッドトゥシューズとレザーバッグも持たせてカーテンが閉じる。
「お客さん、とってもお洒落ですね!」
セドリックが着替えている間、椅子にかけて店長と談笑する。服選びのセンスを褒めてくれた。
今の時代ではああいう組み合わせはあんまりないらしい。
フフン。当然だ。わたしは胸を張ってダックスフント顔をした。だって今風……ここでいうなら未来風のファッションを知っているんだから!
試着室の中から「うーん……?」と困ったような声が聞こえてきて、しばらくしてカーテンが開き、一生懸命ベルトを閉めようとしているセドリックが出てきた。
「あ!……どう、かな……?」
セドリックが頬を搔きながらおずおずと尋ねた。わたしの目に狂いはなかった。
黒いタートルネックかっこいい。グレーのハイウエストのパンツでスタイルがよりよく見えて、先の尖った靴は洗練された印象を与える。
最後にセドリックにジャケットを羽織らせた。
「かっこいい!」
ジャケットを正しながらはにかむセドリックを見て店長と一緒にキャッキャッとはしゃぐ。
成長期だからすぐ小さくなってしまうかもしれないけれど、すごく似合っている。
ラルフローレン着てほしすぎる。プレゼントにいいかもしれないな。
白いケーブルニットのセーターを手に取るセドリックにリムレスの伊達メガネをかけさせてみる。うーん、いい!
「エディ、僕……」
彼が少し言い淀んだので「それ着たいの?」と聞くと「君に似合うと思って……」と言われた。
なんとまあ。初々しくてかわいいな。
「いいね。お揃いにする?」
「……うん……」
買い物を終え、少し嬉しそうにしているセドリックの腕を引っ張って三本の箒に入った。
───
「何読んでるの」
運ばれてきたバタービールをちびちび飲みながらセドリックに尋ねる。ちょっと甘くて喉越しがよく飲みやすい。
朝食のときからセドリックはある本を真剣に読み込んでいるようで気になる。呪文?魔法薬?なんだろうな。クィディッチ今昔?
わたしは興味本位でセドリックの返事を聞く前に表紙を持ち上げて見た。
これであなたもモテモテ!モテ男がやってるテクニック集……!?
「え…………セドリックってモテたいの?」
セドリックは心なしかモジモジしながら無言で頷いた。十四歳、自分の心の変化を感じつつ周囲に興味を持ち出す時期。
そういう年頃ってやつなんだろうか。子どもの成長は早いな。
ちょっとお借りして文を読み上げる。
「へー身だしなみ……香水付けるといいんだって!じゃあ買いにいこうよ」
───
白を基調とした明るいお店の中は香水や化粧品が鬼ほど置いてある。
普通じゃ手の届かないくらい高いところまでズラリと商品が並んでいて、バルブアトマイザーを持ったモデルが写ったポスターと目が合ってウインクをされる。
わたしは魔法薬のように大量に並べられた小瓶うちの一つを手に取った。
近くに置いてある紙に吹きかけて少し扇ぎ、香りを試す。思っていたよりも癖が強い。高級ホテルのトイレみたいな匂いがする。
わたしは手にしたそれを棚に戻し、セドリックに香水のついた紙を渡した。
香水の説明文を見つつ良さそうなものを探す。豚の顔の形をしたピンクの香水が置いてある。お肉の匂いがするのかな……。
「あ!これ綺麗!」
わたしは爽やかなシトラスの香りがする物を手にした。ほんのりいい匂いがする。柑橘系ってどうしてこんなにも心惹かれるんだろう。
瓶の見た目もひと目見て気に入った。ガラスの小瓶が動きにあわせてクリスタルのように鮮やかに輝く。一日だけ香りを楽しむために手首に吹きかけた。
隣にいたセドリックが少し屈もうとしたのでわたしは自分の手首を差し出した。
彼は伏し目がちにその香りを嗅ぎ、わたしの顔を一瞥して「いい匂いだね……」とおもむろに表情を和らげた。
「これってエディの好きな香り?」
「うん!好きだよ」
いい匂いだよね。わたしが答えると、彼は微笑んだまま「……じゃあそれにしようかな」と呟く。
じゃあ?じゃあってなんだ。君の好きな人はチョウ・チャンだろう。わたしは香水の瓶を握りしめ「……あはは、好きな人に聞かないと意味ないよ」と誤魔化した。
「……うん……そうだよね……」
そうだ。セドリックの好きな人はチョウ・チャンだ。世界は運命の通りに動くはずなんだから。わたしは彼の寂しそうな声色を気のせいだと思った。
セドリックに一度背を向けて香水を見つめる。でも、これを選んだのは彼の意思だ。
「ネックレスくれたからお返し!」
───
帰り道、わたしはセドリックに香水の付け方を教えていた。何事も実践するのが一番いい。わたしはセドリックの手首を軽く掴んで香水を付ける。触れた瞬間にピクリとセドリックが動いた。
「手首に吹きかけて、首にもつけるんだ。首には直接吹きかけるんじゃなくて、こうやって──」
喋りながらセドリックの手首を持ち上げて首元へ誘導する。わたしの身長に合わせて彼が身を寄せた。香水の匂いが強くなる。
「……手首に付けたのを少し叩くようにして付ける。あとはウエストとか……空中に吹きかけてその中を通り抜けるとか聞いたことある」
素直に頷きながらセドリックが手首につけた香水を嗅いでいてニコニコしてしまう。
「気に入った?」
セドリックはわたしに視線を向けてから、何かを確かめるように首肯した。
「うん……とっても……好きだな、この香り……」
セドリックが手首を見て傾慕するように目を細めていて、わたしは目を伏せた。
───
クリスマス休暇に入り、今年は学校に残ることにした。フレッドとジョージ、セドリックも学校にいることにしたらしい。
耳まで隠れる帽子に、マフラーと手袋を装う。
首にゴーグルをかけ、セドリックとお揃いのセーターの上に分厚いアウターを着ればもこもこになる。
鞄にありったけの食料を詰めて背負い、その格好のまま朝食を食べに行くとフレッドとジョージに笑われた。
君たちは元気だな。フレッドとジョージは案の定雪でいたずらしに行くと言う。
「エディは?そんな格好してどこ行くんだよ」
「旅」
「俺、お前のそういうとこ好きだぜ」
ホグワーツの外まで行って目的もなく箒で飛ぶことを伝えるとセドリックが参加する意思を見せてきた。
ひとり旅のつもりだったけど、思い出を共有するのは、しかもセドリックとなるならきっと楽しい。わたしは快諾した。
───
セドリックと一緒にハッフルパフの寮の近くまで行き、談話室で待っているとヒソヒソとセドリックの噂話が聞こえてきた。
どうやらファンクラブがあるらしい。今日もカッコイイって言われてる!十四歳にしてもう?皆目敏いな。
「お待たせ」
厚着したセドリックが登場して周囲の人に注目されているのがわかる。こんなことなら外にいればよかったかな。
中庭まで歩き、いよいよ箒に乗ろうとするところでわたしはセドリックの上着を捲った。
「……」
「え!?どうしたの?」
お揃いのセーターを着ている。やっぱりセドリックはかわいい。わたしはそっと服を元に戻してから「なんでもなーい」と言った。
───
禁じられた森を抜けて、民家を横目に箒で空を飛ぶ。空を飛ぶのは姿くらましに比べたらずっと時間を浪費する手段なんだろうけど、それ以上に爽快で楽しい。
村の人と取引したり、綺麗な田舎道を目的もなく歩いたり、海に想いを馳せたり。時間はあっという間に過ぎていく。海面に夕陽の光が反射していて光の道ができている。
「綺麗だね」
「忘れたくないなぁ」
「また見に来ようよ」
少なくとも一緒にいてもいいと思ってくれているのが嬉しくて唇が弧を描く。
「ただの夕焼けじゃないね」
二人で見たんだから、それはきっと永遠に価値あるものだ。
───
セドリックがさっきからなんだか忙しない。ここ一年で節くれだった手を動かしたり。口元を緩めたり。
夕日が沈んでいくにつれて影が濃くなる。
唇を引き締めていたセドリックが控えめに尋ねてきた。
「……エディ、好きな人って誰なの?」
「えぇ?何の話?」
突拍子のない質問にわたしは少し面食らう。
そんなに聞きづらいことだろうか。
セドリックが「前に、エディに好きな人がいるって噂を聞いて……」と言葉を濁したのを聞いて思い出した。
去年の幸運の薬の騒動のことを言っているようだ。なんで今更?
視線を彷徨わせるセドリックに、わたしは苦笑して「いないいない!噂は何かの間違いだよ」と伝えた。
「そっか……」
なんだか背中が小さく見える。
セドリックの返事を最後にぼんやりネックレスを手で弄んでいると、突然小雨が降り出してきた。
慌てて近くの洞窟に逃げ込んで焚き火を起こす。
小さな洞窟で雨宿りをする中、漂う雨の匂い。この匂いを嗅ぐとどうしても、この世界で初めて目を覚ましたときの記憶が呼び起こされる。
心配そうにわたしを囲む見知らぬ人たち。わたしとエディ。あの日、全てが失われた。
膝を抱えて座り込んだ。火は温かいのに、雨のせいでどうしても身体が冷える。
わたしは思わず「セドリック」と名前を呼んでしまった。セドリックはいつものように「どうしたの?」と答えてくれた。
「聞いてくれる?」
きちんと話せるかどうかわからない。でも、セドリックなら受け入れてくれる気がして言葉を続けてしまう。
「実はね、『エドワード・ヴィクトリア』は幼少期に死にかけて……それから前のことは何も覚えていないんだ」
一度目を瞑って深呼吸をした。雨の音がザアザアと耳を打つ。わたしはその時、母さんの姿を思い出した。
「……目が覚めてからは、まるで別人のように振る舞い出したって、言われてたけど……っ」
思わず目元を抑える。セドリックは相槌を打ちながらわたしの独白を静かに聞いてくれていた。
今まで独りで抱えてきたものが押し寄せて胸をいっぱいにした。
「──本当は、死んでいたんだ。心臓が止まってた。生き返ったんじゃない」
わたしは顔を覆っていた手で髪を乱雑にかき上げる。放り出した手を白くなるほどきつく握った。
言ってしまった。初めて胸中を明かしてしまった。
「僕は……。……今のわたしは、エドワードの人生を乗っ取ってしまったも同然だ」
堰を切ったように口から言葉が溢れていく。
火が燃えて揺れ動いている。焚火がパチリと鳴った。わたしは瞬きを忘れてそれを見ていた。
「今の君もエドワードだよ」
「違うよ……わたしは違う……」
わたしは頭を大きく振った。暗い思考の渦から逃げ出せない。苦しくてぎゅっと目を瞑ると涙が溢れた。
すべて忘れ去ってしまいたい。耐えられない。苦痛を受けている間、わたしは同時に許された気がしていた。
これは罰だ。
赦されなくていい。石を投げられたっていい。
「こんなふうに生まれたくなかった……」
原作を知った転生者として生まれてきたことを、ずっと呪っていた。
言ってしまえば何かが変わってしまいそうで恐ろしかったのに、辛くて、怖くて、言わずにはいられなかった。涙が溢れ出て止まらなかった。
焚き火の光が弱々しく揺れている。
「エディは……」
セドリックの声を聞いて、わたしは静かに次の言葉を待った。洞窟にしゃくり声だけがこだましていた。
「……エディは僕に愛されるために生まれてきたんだよ」
これから君が悩んだとき、そのことを思い出して。セドリックはわたしの目を見ながらはっきりと言い切った。予想もしていなかった返答に、ぱちぱちと瞬きをして涙が流れていく。
わたしはぐすぐす鼻をすすりながら「ふは、なにそれ」と困ったように笑った。
セドリックは微笑み「ほんとのことだよ」と声を潜めて身を寄せた。
「僕のエディ」
セドリックが喉を震わせる。頭上から囁き声が降ってきて、身体越しに彼の声の響きを拾った。
思わずドキリとする。その言い方はずるくないか。
彼はわたしの手を優しく包み込み、慰めるように頬にキスをした。
『でも、すごくかわいい』──かつてセドリックに言われたことを思い出し、どうするべきかわからないまま身を委ねた。セドリックに見えないように、もにょもにょ口を動かしてしまう。
頭を預けた先に仄かな体温と息遣いを感じた。
あ、シトラスの香りがする。セドリックの匂いだ。なんだか安心するな。
ふわりと感じる香りに包まれてふっと肩の力が抜けていく。
目を閉じて頬をすり寄せるとセドリックが肩を抱き寄せてきて、わたしは彼にもたれかかった。
「ん……セドリックは優しいね……」
頭を一定の速度で撫でてくれていた手が一瞬止まり、すぐに再び動き出した。今度はより優しく、宥めるように。
鼓動に耳を澄ませているうちに、焚き火の炎が優しいものに思えてきてほっと息をつく。
「……髪、伸びたね」
わたしの髪を掬ってセドリックが呟いた。目を細めた彼は様子を窺うようにわたしを見て、それからそっとその髪に口付けて───彼はすぐに俯いてしまった。
「変なの。変なセドリック」
「そうだね……ずっと変だよ」
彼はそれだけ言うと前を向いて静かになってしまった。気に障っただろうかと思って顔を覗き込む。
優しい双眼が弱々しくこちらを向いた。
「君が笑ってくれるのならずっと変なままでいいや」
───
冬季休暇が終わってすぐハグリッドから「見せたいものがある」と呼び出された。わたしはその前に自分の日記を見て、ハグリッドが呼びつけた全てを察した。
好奇心の勝ったわたしは扉をノックした。ガタンという大きな音と何かが転がり落ちる音が聞こえる。
しばらくして扉が僅かに開き、明らかに何かを隠し持ってますと言わんばかりにコソコソしているハグリッドが現れた。
「エディ。お前さんなら俺の秘密を守るって約束できるよな?」
ドアの隙間から声を潜めて尋ねられる。
「うん」
「よし!絶対誰にも言うなよ……」
ハグリッドはわたしの二つ返事を聞いてバッと勢い良く扉を開けて中に通した。見せるまでが早すぎる。
ハグリッドはミトンで手を包み、そわそわしながらそれを優しく取り出した。
「わー」
「そう!ドラゴンの卵だ!」
まだ何も言ってないのに自分から答えちゃってる。ドラゴンなんておっかないものよく飼おうと思うよな。
カッコイイけどそれ以上に怖い存在だ。わたしはまだプロテゴ覚えてないし。
ノーバートって名前はもう決めたんだろうか。卵に触らないよう注意しつつ少し手を翳してみる。とてもじゃないが触れられない温度だ。
やっぱり人に扱える代物とは思えない。でも同時にロマンも感じる。
わたしはファングの背中を撫でた。
「どんな子が生まれるんだろうね」
「そりゃあ目に入れても痛くないような子だろう」
ハグリッドは赤ちゃんをあやすかのように両手で抱えて卵を揺らしている。卵に向かって子守唄を歌いだした。シュールだ。
タイミングが違えばハリーたちとここで会っていたかもしれないな。
いや、あれは夜中の話だったっけ……ドラコに見つかってノーバートを手放すことになって……ハリーたちとドラコで禁じられた森に行く罰則を受けて……ユニコーンが……ああ、まあ大イベントだろうな。
実際にハリーたちと会ってもどういう態度取ればいいかわからないし、スリザリン嫌ってそうだし……でもやっぱりちょっと会ってみたい気もする。
ハグリッドとドラゴンの卵を見ながらそう思った。
「お前さん、ドラゴンの卵を見ても落ち着いてるな!俺が持ってて変だとは思わんか?」
「ハグリッド。規則は破るためにあるんだよ」
───
五月。一年を通して言うと、闇の魔術に対する防衛術は楽しくはないものだった。
実技より知識中心の授業に生徒たちのやる気はなく、しかも教室はにんにく臭い。一人の生徒がクィレル先生に向かって丸めた紙を投げつける。
短時間。ホグワーツで過ごしたほんの少しの、一日にも満たない日常会話をしただけなのに。
もしも彼が最初から非情で冷酷で目も当てられないような人物だったら。わたしは彼が死ぬとしても何とも思わなかったのだろうか。
授業後、荷物をまとめて教室を出ようとしたときクィレル先生に呼び止められた。
今までの、ハリーが入学してからの出来事を振り返る。ハロウィンのトロール。ハグリッドのノーバート。
全ては彼の死がすぐそこにあることを意味していた。彼は何を言うわけでもなく、震える手で文字を綴ってわたしに何かを伝えようとしているようだった。
先生の顔が苦しそうに歪んだ。
「先生?」
書き終えて、彼はわたしに見えるよう紙を持ち上げた。
心臓が変な音を立てる。
死にたくない
わたしはその日、何も手につかなかった。何度も何度もクィレル先生の顔が頭をよぎる。
体調不良だと言って授業を欠席し、自室にこもってネックレスを握りしめる。この運命を変えることはできない。彼は死ぬ。
わたしにできる最善のこと。償い。罪滅ぼしがしたい。この苦しみから解放されたい。
祈るように目を閉じる。
───
翌日、わたしは深呼吸をしてからクィレル先生の部屋の扉をノックした。程なくして顔を見せた先生にできるだけ朗らかに「お久しぶりです」と声をかける。
クィレル先生はわたしを見てぎこちなく笑みを返した。先生が部屋の扉を開いたのでおとなしく入室する。椅子にかけて待っていると、彼は紅茶を注いでくれた。
震えでカタカタと食器のぶつかる音がする。机に置かれて漸く波紋が消えた。
「先生」
わたしの呼びかけに僅かに反応する。わたしは紅茶から漂う湯気から目を離すことができないまま彼に話しかけた。
「望んでいたものは手に入りましたか」
彼は黙って俯きがちに首を横に振った。わたしはそれに「そうですか」と力なく答える。
紫色のターバンが視界に写って、わたしは自分の手を握りしめた。
「先生が……たとえあなたがいなくなってしまったとしても……」
わたしは一度言葉を区切って彼の目をはっきりと見た。
「クィレル先生。何があろうと、わたしはあなたのことを覚えています」
わたしたちは紅茶に手を付けなかった。
窓から差し込んだ光でクィレル先生の手が真白に光る。わたしの目に映る彼の手は震えていなかった。
静かな部屋の中で彼がただ一言「ありがとう」とだけ呟くのが聞こえた。
───
由緒ある家系なのに魔法が上手く使えない。
中身がわたしだからだろう。おかげで実技は散々だった。
今までよりもずっと、酷い出来だ。少なくとも同じ学年の生徒にはわたしが不出来であることが知られてしまった。
周りの教師にも、話しかけてくれる優しい生徒たちにも、ヘラヘラ笑ってごまかした。
魔法界って、魔法って、もっと気楽で楽しいものかと思っていた。
生徒たちが大広間で騒いでいるであろう時間、わたしはホグワーツの湖畔で過ごしていた。日はずっと前に沈んでいて、辺りはとても暗かった。月の光だけが頼りだった。
ここにあるのは穏やかな風と、それが起こす少しの波の音だけ。きっとクィレル先生は死んで、ハリーたちが得点をもらって、グリフィンドールが優勝して、ハッピーエンドを迎えている。
それでいい。これでよかったんだ。そう思おうと努力しても涙は勝手に流れる。わたしはこれ以上失いたくない。お願い、神様。誰も奪わないで。
七月に入る少し前、わたしは校長に呼び出された。心当たりは最近行われたテストしかない。実技の点数が悪すぎたから?補習ならまだいい。まさか退学?嫌な想像が膨らむ。
魔法が下手すぎて退学するのは『エドワード』のためにも、ヴィクトリア家の名誉のためにも避けたい。どうなるかは分からない。保証なんてない。わたしは物語の主人公じゃないから。緊張しながら扉をノックする。
「よく来てくれたの」
───
「これも運んどくれ」
重苦しい話をするのかと思いきや、来て早々特に説明もなく外に連れ出され、農作物の収穫の手伝いをさせられていた。
畑仕事なんて魔法で済ませばいいのに。わたしは息を切らしながら杖を取り出したが、碌な結果にならないに決まっていると思い直し、おとなしくポケットにしまった。
「ハァ…………ハァ……!」
「なんじゃまだ始めて十分も経っておらんぞ」
重労働すぎる!わたしはまともに返事もできずに息をついた。普段運動することのない身体から汗が溢れる。
額から流れるそれがくすぐったくて慌てて拭った。ガキにこんなことやらせるな。
息を整えて前を向くと飄々と校長が通り過ぎたのが見えた。アイツ……!重い足を必死に動かし、歯を食いしばってずんずん歩を進める。
「ほれ、手が止まっとる」
「先生……!僕……勉強しに学校行って……ッ……ハァ……!勘弁してください……!」
畑仕事の手伝いをするために学校通ってるわけじゃない。マジで。追加の野菜を乗せられてわたしはひぃこら言いながら頭の片隅で魔法のことを考えていた。
その間も校長は歩を緩めることはなく、むしろ立ち去ろうとしていた。
「日が暮れる頃には帰るわい」
わたしが「どこへ行くんです?!」と聞く前にダンブルドアは姿くらましでどこかへ行ってしまった。一人でやれと言うのか。
───
「冷たい!!!!」
なんでこんなことせなあかんねん。意味がわからん。もうこの世界で使うことのない、かつての故郷の方言を心の中で呟く。わざわざ生徒に手伝わせることか?これ。
しかもなんでこんな寒いところで……。
夏真っ盛りだというのにこの地方は季節に関係なくずっと寒いらしい。冷水で泥が落ちて新鮮な野菜が顔を出す。一度水を入れ替えるために汚水を捨て、蛇口の前に座り込んだ。
綺麗になった桶の水に映る自分の顔とにらめっこする。これがわたしなのか。彼なのか。
儚げな美少年が顔に泥を塗りたくって意気消沈して見える。『エドワード』も生きていたらこんなことしてなかっただろうに。
桶を少し動かすと水面に広がる波紋に合わせて、映っていた顔もゆらゆら揺れた。
溢れた水が足元に届き、冷えた手の指先が悴む。突然呼び出したくせに何の説明もせずにどこかへ行った老人の顔が頭に浮かんできてだんだんムカついてきた。
わたしは顔をこれでもかというくらい顰め、威嚇するように水面の『エドワード』に向かって睨みを利かせてから、落ちなかった泥を丁寧に洗う作業に戻った。
アンダー・ザ・シー……アンダー・ザ・シー!……歌詞はあんまり覚えていないけど好きな曲だった。
こんなことなら歌詞を暗記しておけばよかったな。蟹の彼が言う通り、陸はカスだよ。そういう意味で言ったんじゃないんだろうけどね。
冷たい水に手を突っ込み、ざばさば音を立てて無心で野菜を洗い続ける。
わたしは日が暮れるまで帰ってこないであろうダンブルドアのことを考えた。
校長は何のためにわたしを呼び出したのだろう。畑仕事なんてわたしの手伝いなど必要ないだろうに。
結局、野菜を全て洗い終わる頃には日が暮れかけていた。
「ありがとねえ」
畑の所有者と思われる見知らぬ老婆がにこにことお礼を述べる。感謝されるのは気分がいい。なんだかちょっといい感じ……なんてね。
そういえばここはどこなんだ。
たくさん積まれていたうちの、てっぺんの野菜がぐらりと揺れてわたしは篭を抱え直した。バランスを崩したそれが落ちる前に手が伸びて支えられる。
「ここはスノーズンという村じゃ」
心を読んだかのようにダンブルドアが説明してくれた。
「いつの間に」
「じきに雪が降る。疲れたじゃろう。どうじゃ?少し休もうではないか」
誰のせいだと思ってるんだ。そんなことを言えるはずもなく渋々彼の言葉に従った。
───
家へ入るとダンブルドアは奥の方に引っ込んでしまった。普通の……映画で見たようなちょっと古めかしい家具がおいてあるような家だ。
自分がこんな空間にいるのはやはり不思議で慣れないものだ。
椅子に座って部屋を見回していると、ダンブルドアが紅茶を差し出してくれた。
「ありがとうございます」
いただきます。貴族ではなく素のわたしが口を開く。冷えた身体に温かい紅茶が染み渡る。多分、家で出てくるものと比べたら安いだろうが、それはわたしにとって間違いなく今この世で一番美味しい紅茶だった。
甘い香りがして視線を移すと皿に乗ったクッキーが見えて、これ幸いと貪った。
ザクザクとした食感に、少し甘じょっぱい味が口いっぱいに広がる。
労働によって穴が空くほど減っていた腹にクッキーと紅茶を流し込む。ダンブルドアはクッキーをガツガツ食べる、貴族らしからぬわたしの姿をじっと見守っていた。
「おいしかったです」
「気に入ってもらえて何より」
「……どうして畑仕事を手伝わせたのですか」
彼はわたしに向かって微笑んで「気分転換になったかの」と言った。
「わしはよくここへ来て君のしたように身体を動かすことがある」
ほれ、と言いながらダンブルドアは魔法で綺麗にすることもできるだろうに、畑仕事をした直後らしいそのままの手を見せてくれた。
土で汚れていてガサガサしている。でも、ちゃんと温かい。わたしは何故かその時、鼻の奥がツンとした気がした。
「あなたは、生きているんですね」
ダンブルドアの手を取って感慨深く、口からするりと言葉が出ていく。今いる本の世界と、かつていた現実の世界。
瞳を瞬かせる。
「ちゃんと……意思を持って……生きているんですね…」
「君もじゃよ」
ダンブルドアの温かい手がわたしの手を優しく包み込んだ。外の寒さと室内の暖かさで家の窓ガラスが曇っている。
わたしはようやくダンブルドアの目をはっきりと見た。
外では雪が降り始めていた。
───
『心ここにあらずだと普段使える魔法も、使えなくなってしまう……』
いつか、自分を許して受け入れられる日は来るのだろうか。
あなたはわたしが誰なのか知っているのですか。結局、そんなことは言い出せずにいた。
───
あの後泊まっていけと言われたので従い、今は朝日を見るためにまた寒い中を歩いていた。
柔らかい雪を踏み、ダンブルドアのあとに続く。ギュッ、ザクザクと鳴る音が止まった。
「雪国に住む人にとって、これは聞き慣れた音で日常の一部じゃ。何でもないようなことかもしれん」
辺りはとても静かで、震えた息が白くなる。冷たい風が頬を撫でる。朝が来る。
「その記憶が、生きる糧となる」
つられて歩みを止めた。振り返って微笑んでいる。朝日がわたしたちを照らしている。
儚くも美しい日々を。きっと忘れない。