とあるAクラスの男
どうして自分はこんな学校に来てしまったのだろう、と枯木幽玄は嘆息した。人工島は海に囲まれているせいで潮風は当たりまくるから寮の物干し竿はサビまくるし、夏に成れば湿気でものすごく蒸し暑いだろう。三年間は外に出ることも出来ない。外部との接触はほぼ禁止。自由もへったくれも無い。
おまけに、このクラスシステムだ。入学から1か月というドイツ鉄道も真っ青な遅さで真嶋担任から告げられたこのシステムは、高育の恩恵をあずかれるのはAクラスで卒業した者のみという、入学してきた枯木の希望と将来に満ち溢れた気分を、底の底まで叩き落した。
今はいい。Aクラスだから。だが1つ上の学年のAクラスは、一年次にはBクラスだったらしいから、逆転も起こりうるのだ。だからクラスが団結しなければならない、そんな状況になってもAクラスは纏まりに欠けていた。
クラスシステムを告げられた直後から始まった派閥闘争は、最初こそ葛城が優勢だったものの、すぐに坂柳が追いつき膠着状態となった。現状はまだどの派閥にするか決めあぐねているクラスメイトを、両者が、もとい両者の狗が勧誘を続けている。その為かクラスの空気は殺伐としていた。なんとなく居心地が悪いのだ。梅雨も明けそうなのにクラスルームは、いつまでも分厚い曇天が天井を覆っている気がする。これが悩みの1つ。
悩みの種はもう1つある。それは、
「聞いていますか枯木幽玄」
「聞いてる聞いてる。聞いてるから少し黙ってくれないか……」
「先月、アリの観察キットを買ったんです。透明なケースに土を入れて、そこへアリを何匹か放して観察するという、実に教育的な商品ですね。ところが三日ほど経った頃、アリたちが妙な模様の巣を作り始めたのです。最初は偶然だと思いました。アリだって生き物ですから、毎回きれいな巣を作るとは限りません。しかし、よく観察してみると、その模様には明らかに規則性があるのですよ。直線があり、円があり、さらにその中心には、どう見ても意味ありげな空白まで存在しているのです。これはもう、単なる巣穴とは考えにくいでしょう」
「だからなんだよ。蟻なんだから巣ぐらい作るだろ。あとその観察キットって俺のポイントで買ったんだよな? いい加減返せよ」
「これだから枯木幽玄は。いいですか、これは宇宙人からのメッセージなんですよ。恐らくこのアリたちは、我々には聞こえない電波を受信しているのです。つまり巣の模様は、アリたちが宇宙人から受信した情報を物理的に再現したものなのです。そう考えれば、あの不自然な形にも説明がつきます。まあ、宇宙人がなぜアリを通信端末に選んだのかという問題は残りますが……そこについては、まだ研究が必要ですね」
黙っていれば可愛い。喋らなければもっと可愛い。
青紫がかった髪を左右に束ね、肩で揺らす。さっきから表情は一切変わっておらず、かといって感情が無いこともないらしく情熱的な口調で蟻がどうのとまくし立てている彼女は森下藍である。なんの因果か隣の席となった森下は、今日も今日とて枯木を喋り相手と遊び相手として、無意味で無価値で無作為な言葉の嵐を浴びせていた。
クラス替えが無いのは納得したが、流石に席替えぐらいはあるよな、無いと困る。主に俺と俺の胃が、と枯木はこめかみに指を押し当てる。
入学当初は良かった。よっしゃあ隣が美少女だなんて俺はなんて幸運に恵まれているんだとイエスと仏陀とアブラハムに感謝したものだ。
しかし翌朝、
『おはようございます、枯木幽玄。早速ですが可憐で可愛い美少女である私を助ける機会をあげましょう。私に5万ポイントを渡してください』
『……は? 昨日10万ポイント入ったよな。あれはどうしたんだ?』
『どうって……使い果たしたに決まっているじゃないですか』
『…………』
入学二日目で理解した。
ハズレくじを引いたと。
神はなんて残酷なんだと。
というか一日で10万も溶かすなよ。何を買ったんだ。
それ以来、森下はやけに枯木に話しかけるようになった。枯木としては毎日のように変な話に付き合わされているわけで、勘弁して欲しい事この上ない。とはいえ枯木自身もそこまで友達がいるわけでも無い。顔が整っていて頭が変な女の話を聞くくらいなら、まあいいかと思う程度には人付き合いに飢えていた。
一方、枯木本人は知らないが、他のクラスメイトからすれば、森下藍と仲良くしているという一点だけで、枯木も同類に分類されていた。あの変な女と、いつも一緒にいる男。まともな人間だとは思われない。不幸なことに、人間というのは、一度つけた分類をなかなか外してくれないものだ。六月の半ばを過ぎた今、枯木に話しかけてくるのは森下と、同じ部活の神室ぐらいである。
強いて他の名前を上げるのだとすれば派閥闘争への参加を促してくる橋本と戸塚だろうか。もっとも目的が友好的な関係を築きたいのならともかく、クラスの内ゲバに決着を付けたいが為であるのが見え見えなので、正直な所、枯木は二人のイメージがあまり良いものでは無かった。
特に橋本だ。金髪にピアスにテニス部所属? 絶対にテニスをやらないテニス部だろう。テニス部にテニスラケットがあるわけね~じゃんとか言いながら、部室で同級生を食ってる姿が容易に想像出来る。勿論そんな場面を実際に見た事は一度も無いが、金髪にピアスにテニス部になんか馴れ馴れしいというだけで枯木は橋本をそういう人間だと判断していた。
と、そこまで考えた所で横から声が入った。
「枯木」
森下が宇宙人と蟻の関連性について第三仮説を語り始めた所で、つかつかと靴音を立てながらこちらに向かってくる。紫紺の髪の一部をサイドテールにして、この世の半分を憎んでいるかのような目つきで神室真澄はおはようと挨拶をして、一瞬だけ森下を睨みつけた。
「森下さん、その話、今じゃなきゃ駄目?」
「駄目です。これは人類の未来と存続に関わる重大な――」
「じゃあ未来の事は未来の人類に任せればいいでしょ。枯木、朝から悪いんだけど、昨日のノート見せて。数学だけでいいから」
「昨日休んだっけ?」
「休んだ。風邪」
神室はそう言って、枯木の机の横まで歩いてくる。森下と違って用件だけを済ませるタイプだ。枯木としてはありがたかった。人間、やはり適度な距離というものを設けるべきなのだ。森下も少しは見習ってほしい。
枯木は机からノートを取り出して、そのまま神室に差し出した。
「はいよ」
「ありがと」
神室は礼を言ってページをめくり、すぐさま顔を曇らせた。
そこに書かれていたのは文字というより記号に近かった。ノーコンのピッチャーが投げるようなのたくる点と線、荒れ狂う船をそのまま写し取ったかのような図形、文字と文字の間には妙な空白だらけで、その横にはやたらと上手い担任教師真嶋智也二十九歳独身男性の似顔絵が描いてある。ペラペラとめくってみると全てのページが似たような様子である。コイツ授業中に何をやっているんだと神室は呆れにも似た感情を覚えた。
「読めないんだけど」
「安心しろ、俺も読めない」
神室はノートを閉じた。
「ごめん、これ返す」
すると、それを見ていた森下が口を開く。
「枯木幽玄はいつもこんな感じですよ。まともにノートを取っている所なんて見た事ありません。そうだ。枯木幽玄になんて借りずに私が貸しましょうか?」
「―――」
森下は自分の鞄に手を伸ばす。ちなみに森下は言動こそ終わっているがテストの点数は高い。少なくとも神室よりは高い。
その手が鞄の中身を探り始めたところで、
「あ」
神室が何かを思い出したように言った。
「そうだ、山村さん、見せてもらえる?」
少し離れた席にいる山村が驚くように声を上げた。心なしか怯えているようにも見える。
「えっ……わたし……ですか……?」
「昨日の数学、ノート取ってあるでしょ」
「あっ……はい。いいですよ」
「ありがと」
神室はそう言うと、森下の方を見る事すらなく山村の机へと向かおうとする。
「あれ?」
鞄の中からようやく見つけたのだろうノートを取り出しかけていた森下が、小さく首を傾げた。
「私のでもいいんですよ?」
「うん。でも山村さんの方が読みやすそうだから」
それだけ言って。神室は山村の方へと歩みを進めた。森下はさして気にした様子も無く、鞄から手を抜き、不思議そうな顔をする。
「残念でしたね。せっかく私のノートを見せてあげようと思ったんですが」
「別に頼まれたわけじゃないだろ」
「それもそうですね。ところでさっきの話の続きなのですが」
「まだ続くのか……?」
「もちろんです。あれは歴史上稀に見る、」
と言いかけたとこで予鈴が鳴った。ついさっきまで談笑していた周りの生徒たちも、蜘蛛の子を散らすように自分の席へと戻っていく。森下もぴたりと口を閉じた。
午前の授業が始まる。少なくとも、しばらくの間は静かになるはずだった。