午前授業終了の鐘が鳴る。社会担当茶柱女史が書いた角ばった文字を、日直の森重が黒板消しで一掃していくのを横目に、高育はいつまで黒板で授業を行うのだろうかと枯木は考えていた。一応は国立なのだから予算はあるだろうに、いや国立だからこそ予算が厳しいのだろうか、そんな思考を打ち切るように肩を叩かれる。
「食堂に行きましょう。今日はハンバーグ定食の日ですよ。早く行かなきゃ席が埋まってしまいます」
「……学食っていつから日替わりメニューになったんだ?」
「知りませんよそんなの。とにかく今日はハンバーグ定食が食べたいんです。ほら立った立った、早く行きますよ。」
そう言うと森下は枯木の袖を引っ張り食堂へと足を運んだ。
〇
「うわー相変わらず混んでますね。私は席を取っておくので枯木幽玄は食事を取ってきてください」
「メニューは?ハンバーグ定食でいいんだよな」
「勝手に私の食事を決めないでください。いつから私がハンバーグ定食がいいと言いましたか?」
「お前数分前の会話すら覚えてないのか」
「メニューならなんでもいいですよ。では」
森下は席を確保するために人混みに紛れていく。枯木は食券機の前に立つと自分のポイントを確認する。残りは3万ポイント。今日は6月30日、明日になればまた10万近いポイントが入る。ならば少し高いのを頼んでも良いだろう。森下の? アイツは山菜定食で十分だ。なんでもいいと言ったのを後悔させてやろう。
〇
「ほらよ」
トレーを2つ手にして席に座り、森下の前に山菜定食を置いた。明らかに不服そうな顔をする森下を見て枯木は内心微笑んだ。ざまあみやがれ。これで森下の言動も少しはおとなしくなればいいんだが。枯木は自分のトレーを机に置く。ちなみにメニューはスペシャル定食である。何がスペシャルなのかは分からない。エビフライやらハンバーグやらがいくつも乗っているからスペシャルなのか、それとも1800ポイントという一食にしてはやたらと高いからスペシャルなのかは知らないが、理由はともかくスペシャルなのだ。この森下の不満げな顔が見れたというだけでも今日はスペシャルな日だろう。間違いな、
一瞬の早業だった。
プロボクサーもかくやというスピードで森下は自分のトレーと枯木のトレーをすり替え、そのまま犬のようにエビフライにかぶりついた。
「───あーっ! 返せ!!」
「残念でしたね。これはもう私の物です」
「俺のだよ!」
「私の前にあるのだから私の物なんです。ああ枯木幽玄はなんて優しいんでしょう。こんなに高いのを奢ってくれるだなんて。藍ちゃんポイントを5点あげましょう。これで累計55点になりました。100点まで貯めたらなにか良い事あるかもしれませんよ」
森下はごくんと喉を動かしてエビフライを飲み込んだ。そしてハンバーグに箸を伸ばす。
「ちょ、お前、全部食う気じゃないだろうな」
「何を言ってるんですか? 食事は食べるためにあるんです。これだから命に感謝しない人は駄目ですねぇ」
一度痛い目を見なきゃダメなようだ。枯木は拳を握りしめる。殴るほどではないが、殴る理由としては十分だ。食の恨みは恐ろしいのだ。
「まあまあ、これでも食って機嫌直せよ」
上から声が降ってきた。と同時に枯木のトレーにコロッケが置かれる。
顔を上げると橋本が立っていた。
「隣、いいか?」
「……いいぞ」
「教室に帰ってください、橋本正義」
森下の言葉を無視し、橋本は椅子を引いて枯木の隣に座った。
〇
Aクラスには異様な人間が二人いる。一人は鬼頭隼。紺色の髪、185はあろうかという身長。鷲のような高い鼻をしており、目つきが異様に鋭い。笑った顔など想像も出来ない。もし鬼頭が笑う事があれば、翌日には空から槍が降るだろう。
そしてもう一人。病人のように青白い肌、瘦せこけた頬、鬼頭にも負けず劣らずの長身で、肩口まで伸びた烏羽色の髪を1つ結びにしている。特筆すべきはその目である。梟を思わせる、あの大きなぎょろぎょろとした目を前にするだけで、こちらの裏の心まで読まれている感覚に襲われるのだ。その男の名を、枯木幽玄という。
枯木くんをこちらに引き込めば、クラスは私の物です。
橋本のビショップをポーンで弾き落としながら坂柳はそう言っていた。
橋本は盤面に目を落とす。自分の駒はまだ揃っている。キングもルークも、ナイトだってまだ残っている。数だけで見ればそこまで不利というわけではない。ただ、動かせる駒が少なかった。ビショップを動かせばルークの道が塞がる。ルークを逃がせばクイーンの利きが通る。ナイトを前に出そうとすれば、今度はキングの逃げ道が1つ消える。
鬼頭くんは鷹です。獲物を見つけたら迷わず急降下で飛び掛かるでしょう。彼はそういう人です。
一手指すたびに、選択肢が減っていく。
枯木くんは梟です。夜の中でこそ動ける鳥です。自分から獲物を追い回すことをせず、暗闇の中でじっと待ち、相手が姿を見せたら音もなく飛び立ち食らい尽くす。きっと二人は良いコンビになりますよ。
坂柳の駒は、まだ盤上のあちこちに散らばっている。どれも必要以上に動かされてはいない。それなのに、橋本の駒だけが少しずつ追い立てられ、端へ端へと押し込まれていた。
それじゃあ、勧誘の方はよろしくお願いしますね。橋本くんにしか頼れないんですよ。なにせ真澄さんが一切を引き受けてくれない物ですから。少し脅してみたのですが、なにか譲れない物でもあるのか首を縦に振らなくて。全く困ったものです。
橋本は指先を盤へと伸ばし、触れる寸前で指を止めた。どの手を選んでも損をする。キングの前にはポーン、右にはビショップ、背後にはルーク。逃げ場が無い。
一度目を閉じ、それからナイトを動かす。
次の瞬間、坂柳のクイーンが盤の中央を横切った。──最初から、逃げる場所まで決められていたのだ。
坂柳有栖はチェスが好きだ。なぜチェスが好きなのか、橋本は1つの考えを持っていた。
将棋で最も自由な駒といったら勿論、王と玉である。縦横斜めの、どちらにも動ける。
チェスは違う。キングも縦横斜めに動ける、しかしそれは一マスだけだ。チェスにおいて最も自由な駒は、縦にも横にも斜めにも、しかも何マスでも動けるクイーンである。
坂柳は、一マスだけしか動けない愚鈍な王よりも、自由に動けるクイーンの方が好きなのだろう。
チェックメイトです。
気が付けば、橋本の駒は半分以上が消えていた。
坂柳のクイーンには、傷一つ付いていなかった。
〇
「やあ、お二人さん。今日も仲がいいな」
コイツの目は腐り落ちたのだろうか。
「どこをどう見たら俺と森下が仲良しに見えるんだ?」
「いや、いつも一緒にいるだろ。一年の間じゃ、もう付き合ってるんじゃないかって噂だぜ。もちろんAクラス以外での話だけどな」
「勘弁してくれ。森下が勝手に付いてくるだけだ」
「ひどいですね枯木幽玄。私はクラスに馴染めていない貴方に、毎日勤勉に話しかけることで枯木幽玄の無害さをアピールしているというのに。親の心子知らずとはこの事ですか。悲しいです」
「お前は黙って食ってろ!」
森下は返事の代わりにハンバーグを一口食べた。はぁ、とため息を付き、枯木も山菜を口に運ぶ。不味い。苦い。貧困の味がする。
橋本はそんな二人の様子を眺める。
クラスに馴染めていないのは森下も同じだろと橋本は内心思ったが、口には出さなかった。ただでさえ険悪な空気を更に険悪にするわけにはいかないからだ。
コロッケを箸で割りながら、枯木の顔を覗き込んだ。
「それでさ、枯木。ちょっと聞きたい事があるんだけど。お前まだどっちにも入って無いだろ?」
「またその話かよ……。何度も言ってるけど、どちらかが特別試験で結果を出してから──」
「そう、その特別試験の事なんだけどよ」
橋本は一段と声のトーンを落とした。
「入学してから3か月だ。その間に特別試験は一度しか行われていない。そろそろ次の試験が七月か、遅くても八月には始まるんじゃないかと思ってな」
「八月って、夏休みだろ?」
「夏休みだろうが冬休みでしょうが特別試験をやらない理由にはなりませんよ。むしろ生徒の気が緩んだタイミングこそ試験を始めるでしょう」
そういう学校ですからね、ここは。と森下が呟いた。
「それで、幽玄たちの考えを聞かせてくれ」
次の特別試験はどんなものになると思う?と目で問う。
「さぁ……試験内容ばっかりは俺たちにも分からんよ。少なくとも4年以上のサイクルで試験内容を回しているだろうし。ただ、クラス内闘争の観点から見れば、まあなんにせよ、先に動いた方が負けるだろうな」
「そりゃまたどうして」
「当たり前の話だが、葛城も坂柳も拮抗状態だ。どちらが頭一つ抜けるか、という状況は終わりつつある」
ここから先は、どちらが足を引っ張れるかだろうな。と枯木は答える。
「……なるほどな」
「先に動けば相手にも動く理由を与える。だったら、相手が動くまで待って、その動きを利用したほうがいい」
「では二人とも動かなかったらどうするんでしょうね」
今まで黙っていた森下が言葉を挟んだ。枯木の買ったスペシャル定食はすでに半分以上が消えていた。コイツの腹にはガキでもいるのだろうか。
「試験をドブに捨てるつもりですかね。そもそも派閥自体作る必要が無いと思いますけど」
お互いがお互いを潰そうとしているのに、どうして同じクラスなんですかね。クラス分けの時点でそれくらい考えられなかったんでしょうか。と言って、森下は水をごくりと飲んだ。
「そりゃ、確かにそうだな……」
「そこまで馬鹿じゃないだろ。Aクラスは優秀だ。坂柳も葛城も、いざ試験が始まったら、右手でナイフを突きつけ合いながら左手で握手ぐらいするだろうよ」
そう言う枯木を見て、森下は呆れた。その無駄に大きい両目で、今までの3か月、何を見てきたのだろうか。
「本当にAクラスは優秀な生徒が集められたクラスなんでしょうか」
「どういう意味だ?」
橋本と枯木は尋ねる。
「最初の特別試験は抜き打ちテストのようなものでした。事前の説明は一切ありませんでしたし。あの特別試験は元々ABCDの順になるように仕組まれていたんですよ。つまりAクラスに有利で、Dクラスに不利な試験だったとしたら? クラスごとになんらかしらの特性、とでも言うべきものがあり、最初の試験はたまたまAクラスに適合していた。次の試験もAクラスが有利に進められると考えるべきではないでしょう」
「──確かにな」
森下の言う事も一理ある。
「それに、本当に優秀な生徒がAクラスに集められるわけが無いじゃないですか。もしそうだとしたら、本来Aクラスにいるわけがない人間がいます」
「森下、お前ついに自分を客観視出来るようになったのか」
「……山村美紀のことですよ。入試には面接もありましたよね。彼女が面接でペラペラ喋られるイメージが湧きません。緊張に当てられて余計なことを口走るのならまだしも」
あーそういやそうだな、と橋本は天井を見上げる。
枯木は山菜定食の最後の一口を飲み込んだ。クソ不味かった。二度と食わない。
Aクラスが学力に秀でているクラスなら、他は何が武器だ? Cクラスは何だ? 暴力か? とすればBクラスは結束だろうか。──じゃあDクラスは?
「──Aクラスは優秀、そんな考えだといつか足元を掬われますよ。それも最悪なタイミングで」
森下は食事を終えて、口を閉じる。まるで一仕事終えたような表情だった。そんなに話を聞いてくれたのが嬉しいのだろうか。
「ま、」
橋本は笑った。
「次の試験が始まれば何か分かるだろ。このクラス分けの意味もな」
よく笑う奴だ。そういう処世術なのだろうか。現に今も森下の顔を見て爆笑を堪えているようだった。
「なあ森下」
「なんですか枯木幽玄」
「鼻にソース付いてるぞ」
「……」
森下は無言で手拭いを差し出した。
「拭いてください」
「自分でやれ」
〇
放課後、枯木は葛城主催の勉強会を断って、特別棟にある部室に向かった。毎度毎度誘ってくれているのに悪いことだ。今度友人作りもかねて参加してみよう。
枯木は美術部所属である。一年生の新入部員は4人。Aクラスの枯木と神室、Bクラスの白波、Cクラスの金田が新入部員として入っていた。もっとも部としての体は成しておらず、部室に顔を出したとして他のメンバーに逢えるのかは運しだいである。最後に部室で他の部員を見たのは3日前だ。金田が目の下に青あざを作りながら部室に駆け込んできた。龍園氏に殺される。とか叫んでいた気がする。
なお、元々は三年生の水野沙良という先輩がいて、彼女が自称部長兼自認副部長を名乗っていた。
今年は一年生が4人も入ってきてくれて嬉しい。三年生は私だけだし、二年生はいないし、今年誰も入らなかったら廃部の危機だったんだよーと、コロコロとした笑顔で笑っていた彼女は、5月の半ばに忽然と姿を消した。私物は一切残さず、本当に、突然。
それまで、この美術部の中心は彼女だった。なんとなく、水野先輩がいるから部活行くか、ぐらいのノリで一年生の4人も集まっていた。
彼女が退学して、やがて白波が来なくなった。金田も、そして神室も。各々やりたい事が出来たのだろう。ただ枯木は、それでもよく部室に足を運んでいた。誰か来ねぇかな、と毎日考えながら。
思えば、退学の二文字を強く意識するようになったのはあれからだろう。神室なんてうっすら泣いていた。
今頃、他の部員は何をしているのだろうか。神室は坂柳に呼び出されているのだろう。金田は龍園にぶん殴られているのかもしれない。部室に逃げてきたら匿ってやろう。白波はそうだな、多分女子グループとショッピングにでも行ってるのかもしれない。
自分のカンヴァスをラックから取り出そうとすると、神室の描いている水彩画が目に入った。
一つ目の怪物がウサギを食い殺している絵だった。
あの女、顔に似合わず物騒な絵を描くな、と枯木は思った。
〇
今日はこのぐらいにしておくか、と枯木は筆を置いて、筆洗油に浸す。筆に付いた絵の具がぼろぼろと剥がれ落ちていくのをじっくりと眺める。また4人で集まれる日はあるのだろうか。あればいいが。
やがて筆を洗い終え、パレットにラップを巻き、一通り片付けると枯木は美術部を後にした。
夕暮れの廊下は静かだった。窓の外から聞こえてくる運動部の声も随分と遠く聞こえる──はずだった。
やけに大きい声を出している。ここの運動部にそんなやる気のある部活があっただろうか? 一瞬枯木の足が止まる。後方右上の監視カメラは赤の点滅を繰り返す。夕日に雲がかかった。
上だ。
やがて静かになった。
前方から一人の少女が走ってくる。両手にカメラを抱えている。眼鏡を掛け、桃色の髪をした少女だ。こちらには目もくれず、そのまますれ違っていく。
写真部だろうか。写真部?と枯木が考えていると、今度は後ろから足音が聞こえてきた。振り返る間もなく、一人の赤髪の男が枯木の横を追い抜いていく。一瞬だけ、その姿を、「見た」。
口元に少しだけ傷がある。手にも。喧嘩だろうか。この監視カメラだらけの校内で喧嘩とは中々大した度胸のある男だ。是非とも友達になりたい。メアドと電話番号と部屋番号と学年とクラスを教えてくれ!
「へっ、口ほどにもねぇ奴らだぜ」
そんなセリフを残して赤髪の男は去っていく。はて、誰だ。見覚えは、どうだろう。どこかで見たような気もするが、ああ、確か部活紹介の時に遠目で見たんだ。
まあいいか、と枯木は再び歩き始めた。
3日~4日で1話更新していきたいです。