「あっづ……」
今朝は一段と眠い。吉田健太は朝が弱いのではない。昨晩から蒸し暑くて寝つきが悪かっただけなのだ。毛布の海を足で蹴っ飛ばすと波が揺れた。100年ぶりに目覚めたミイラのような動きでベッドから這い出る。えーとエアコンのリモコンは。片付けが苦手なのか、ベッドの下には物が散らかっている。買ってから一度も開いていない単語帳、友人からネタバレを食らったが意地を張って購入した少年漫画、借りっぱなしで返却を催促されている図書室所属の小説と、ゴミなのかゴミじゃないのかが判別付かないプリント類の山。
それらをかき分けてなんとかリモコンを見つける。ピッと音が鳴り、涼しい空気が部屋いっぱいに広がった。あくびを一つ。実家から持ってきたままの置時計が朝の六時半を少し過ぎた事を伝えてくれる。壁に掛けたまま、ずっと放置していたカレンダーを何の気なしにめくる。
今日から七月である。どうりで暑いわけだ。
〇
寮から出るとすでに蝉が鳴いていた。校内に冷房が完備されているので、校舎に入ってしまえば快適である。むしろ寒いくらいで、女子はもっと温度を上げてくれと学校側に要望を出すほどだ。ただ、それでも寮から出て、熱を帯びたアスファルトを撫でた風に吹きつけられると、うんざりしてしまう。他の生徒も同じ考えなのか、六月も終わりに近づくと登校時間を早めるようになっていた。
この頃、吉田には気になっている生徒がいた。まだろくに話したことが無いし、趣味も休日の過ごし方も、もちろん誕生日だって知らない。ただ同じクラスにいる。何度か目が合ったことだってある。授業中、教科書に目を落とす度に長い髪を耳に掛ける仕草を、つい横目でちらりと見てしまう。別に顔がものすごく好みというわけではない。もちろん可愛いとは思う。すっごく可愛い。しかしそれだけなら同じクラスには、他にも可愛い女子はいる。それなのに彼女だけが気になる。どうしてだろう。吉田本人もよく分からなかった。
彼女は、どこからどう見ても、何かを隠しているような女の子だった。こちらから話しかけなければ自分から口を開くことは少なく、何を考えているのかもよく分からない。なのに不思議と近寄りがたい感じはしなくて、むしろ春先の陽だまりみたいな、ぼんやりとした安心感をまとっている。いつも少し眠たそうな目をして、誰かと話すときは、常に微笑んでいる。その笑顔は、もしかしたら自分だけに向けてくれたのではないかと、男子なら十人中十人が勘違いするだろう。
そんな彼女の名前を、白石飛鳥といった。
彼女の前では、吉田はカッコよくあろうとしてしまう。特段、人に自慢するような特技は無い。勉強がそこそこ出来るぐらいだが、Aクラスならそれは当たり前であって、なんならクラスのトップ層には食い込めない。運動も普通だし、葛城や坂柳のような人を惹きつけるカリスマ性だってない。喧嘩が強いわけでも、そもそも喧嘩が出来るような度胸だってない。もし「吉田くんは何ができるんですか?」と聞かれたら、三秒ぐらい思案して「普通に生きること」と答えるしかない。
それでも白石に頼られたら、吉田はエイリアンやゴジラとだって戦うだろう。
教室の前に着く。この時間ならいるはずだ。落ち着け。大丈夫だ。別に告白するわけじゃない。ただ一言挨拶するだけだ。鏡の前で鼻毛が出てないかもチェックしてきたし、社会の窓だってちゃんと閉まっている。一息。深呼吸。なんだか喉が渇いた気がする。簡単なことだ。口から「お」と「は」と「よ」と「う」が言えたらそれだけでミッションコンプリートなんだから。
今日こそは。
吉田は扉に手をかけて、ゆっくりと開けた。生徒は半数以上が登校していて、それぞれがHRまでの時間を思い思いに過ごしている。ざわざわと若干騒がしい。目がクラスルームを泳ぐ。
目標までは20数歩。
前の方の席では町田と鳥羽と橋本がいかにも男子高校生らしい下世話な会話をしている。
あと10数歩。
後ろの方では枯木と森下が今日もどうでもいい謎の会話を繰り広げていた。いやスイカの皮までは食わないだろ。
あと9歩。
鬼頭は席にどっしりと座り、朝から人でも殺しそうな顔をして静かに、なにかの雑誌を読んでいる。
あと5歩。
そのときだった。
白石が顔を上げた。
「おはようございます」
微笑んだ。一撃だ。それだけで吉田の脳は沸騰して体から水分が一気に抜ける。心臓が跳ねた。まさか白石から先に、もしかして、もしかして自分が入ってきたのを見ていて。言葉が出てこない。乾燥したパンを喉に詰まらせた感覚がする。なんとか絞り出して、
「────お、」
おはよう、白石と。続けるはずだった。
どすん。
衝撃が走った。肩を撃ち抜かれた。
「おっはよー飛鳥!」
吉田の体が前に弾かれる。振り返ると西川亮子がいた。朝から妙に元気だ。髪も服もきちんとしてる。
西川は吉田を押し抜けて、そのまま白石の席へ一直線。
西川さんは今日も元気ですね、とすぐさま二人だけの世界に没入していく。そのときになって吉田はようやく気が付いた。さっきの挨拶は自分じゃなくて西川に向けたものだったのだ。
勘違いした。見事に。
耳先が赤くなる。穴があったら入りたいとはこの事だろう。
そのとき、白石と話していた西川の目線が、一瞬だけ吉田を向いて、ふっと笑った。
勘違いしちゃって、ばっかみたい。
お前のことなんて全部お見通しだぞ、とニヤリとした唇に告げられる。
吉田は思った。コイツは「敵」である。
〇
「知ってますか? 枯木幽玄。自主退学するとクラスポイントが相当引かれるらしいですよ」
「朝からどうした?」
鞄を机に掛けて、
「誰かが自主退学でもしたのか?」
席に座りぐにゃりと突っ伏す。机はひんやりとしていて心地がいい。そのまま顔だけを森下に向けた。登校するなり「なぁんだ」と目を丸くしてた彼女の顔は、いつも通りの無表情に戻っている。
「────これですよ」
「むぁ────あ? 言っとくけどな、今日も明日も明後日も、飯なら奢らんぞ。ずーずーしい。ちょっとは節約ってもんを学べよ。ほら、真嶋先生も喚いてただろ。ポイントは生活だけじゃなくって試験でも重要になるって。なんだ8000ポイントって」
「違いますよ」
「なぁにが」
「今日はまだ何にも使ってません。ポイントが振り込まれていないんですよ。自身の端末でも確認してください」
え、と鞭打つように身を起こし、ポケットに入れていた端末を見る。残りのポイントは昨日のままだった。
「俺たちだけ、んなわけないよな……」
呟いて、
枯木は森下の言葉を思い出す。───知ってますか? 枯木幽玄。自主退学するとクラスポイントが、
クラスに入るなり目を丸くしていた森下。
こいつ、真っ先に俺が、
「そうですね。4、5人自主退学していきなりクラスポイントがゼロになった可能性も考えましたが、枯木幽玄が死にそうな顔をしながら登校したのを考えればそれも無さそうです。真っ先に退学しそうな人がまだ在学してるんですから」
沈黙。
「もし退学するなら事前に伝えて下さいね。花瓶と花を用意しますから。ちゃんと机に置いてあげますよ」
ため息。
「──まぁシステムトラブルか何かだろ。残高が少ないならスイカでも食ってろ。もう夏だしな。皮まで食りゃ腹も膨れるぞ」
「皮まで食う人なんていないですよ。種なら食べますけど。私、小学生の頃は種を食べたら腹を突き破ってスイカが自生してくるって話、本気で信じてたんですよ。それで───」
がらり、と。教室の扉が開く。
坂柳が神室を伴って入ってきた。神室は教室をぐるりと見まわして、枯木を見つけるなりぱたぱたと駆けてきて、
「───よかったぁ! 朝からポイントが入ってなくて、自主退学したらクラスポイントがけっこう減るって聞いて、それで、それで私────ってなによアンタその顔」
〇
結局、ポイントは翌日には入ってきた。それも、入学時より若干増えた形で。
ただ、CクラスとDクラスにはまだ入っていないらしい。