ダンジョンにドミナントがいるのは間違っているだろうか 作:巡理愛
「――うわぁぁぁぁん! 完全に寝坊したよぉーーっ!!」
朝の廃教会にヘスティアの絶叫が響き渡った。
ドタバタと枕を投げ飛ばし、涙目で髪を振り乱す主神の姿に、既に探索の支度を終えていたベルは目を丸くする。
「か、神様!? どうしたんですか!?」
「忘れてたんだよ! 今日は『じゃが丸くん』のバイトが早出の日だったんだ! 遅刻だよ、完全なる遅刻だよぉ!」
「ええっ!?」頭を抱えてパニックになるヘスティア。
オラリオの貧乏ファミリアにとって、主神のバイト代は貴重な生活費だ。ベルが一緒に狼狽する中、大剣『インヴィクタス』の点検を終えたクライヴが、静かに立ち上がって声をかけた。
「慌てるな、ヘスティア。……今から全力で走れば間に合うか?」
「ううん、ボクの足じゃどうあがいても遅刻確定だよ……。うぅ、店主に大目玉を食らっちゃう……」
ヘスティアがガックリと肩を落とすのを見て、クライヴはふっと表情を和らげた。
「ならば、無理に急いで怪我をするよりはいい。遅刻は確定したのだろう? だったら、俺が新しい眷族として、謝罪のついでにバイト先の店主殿へ挨拶に同行しよう。その方が誠意も伝わるはずだ」
「えっ……ク、クライヴくんが一緒に? うぅ、ボクのためにそこまで……ありがとう、お願いするよぉ!」
こうして、クライヴはヘスティアを連れてバイト先へ向かうことになった。
ヘスティアを小脇に抱えて『フェニックスシフト』の速度で爆走し、神様をグロッキーにさせてしまうような不敬を避ける、彼なりの大人の配慮だった。
「ベル、俺は神の挨拶に付き合ってからバベルに向かう。先に行っていてくれ」
「はい! わかりました、クライヴさん!」
───
クライヴたちと別れ、一人で中央広場から巨大な白亜の塔『バベル』へと向かっていたベルは、ふと、奇妙な感覚に襲われた。
背筋をゾク、と駆け抜けるような、強烈な『視線』。まるで、どこか高い場所から自分の魂そのものを覗き込まれているような、圧倒的な美しさと底知れない圧迫感。
思わず足を止め、バベルの上層を見上げるが、そこに誰の姿もない。
(今のは……何だったんだろう……?)
首を傾げた拍子に、昨日ダンジョンで手に入れた小さな魔石の欠片がポーチに残っていたのか、ベルの腰からぽろりと地面へ落ちて転がった。
慌てて拾おうとしたベルの前に、影が差す。
「――はい、落としましたよ? 冒険者さん」
澄んだ声に呼び止められ、ベルが顔を上げる。そこにいたのは、灰色の髪を揺らし、エプロンドレスを身にまとった一人の少女――シル・フローヴァだった。
彼女の手には、布で丁寧に包まれた大きなお弁当の包みが握られている。
「えっ、あ、ありがとうございます……!」
「ふふ、どういたしまして。ところで冒険者さん、今日のお昼にお弁当は持っていますか? よかったら、うちの酒場の料理長ミアお母さんが作った特製のお弁当、持っていってください!」
「ええっ!? そんな、悪いですよ!」
「いいんです。美味しいご飯を食べて、いっぱい頑張ってほしいですから」
人見知りのベルは、突然の親しげなアプローチに顔を真っ赤にしてドギマギしてしまう。
シルは戸惑うベルの手へ、半ば強引にお弁当を握らせると、
「ダンジョン探索、頑張ってくださいね」と優しく微笑んで去っていった。
(※ちなみに、シル自身が作ったサンドイッチなどの手料理は神々すら卒倒するレベルの殺人的な激マズ料理なのだが、料理長のミアが作ったこのお弁当は、後にダンジョンで食べたベルが感動するほど絶品だった)
───
昼過ぎ、バベルの前。
約束通り、クライヴはベルと合流を果たした。
「待たせたな、ベル」
「あ、クライヴさん! 神様の方は大丈夫でしたか?」
「ああ。遅刻したお詫びに少しだけ店を手伝ってきたが、店主殿も理解のある方で助かった。……ただ、ヘスティアは遅刻の穴埋めで、今夜はかなり遅くまで残業になるそうだ。だから『今夜の夕飯は2人で外で食べておくれ』と伝言を預かっている」
「そうだったんですね……。じゃあ、今日の探索はいつもより少し短めになりそうですね」
「そうだな。無理をせず、確実にいこう」
いつもより少し短くなってしまったものの、2人は息の合った連携でダンジョン上層を探索し、夕方には無事に地上へと帰還した。
バベルの広場に出たところで、ベルが思い出したようにお腹を鳴らしながらクライヴを見上げる。
「クライヴさん、お腹空きましたね。……実は今朝、シルさんっていうお姉さんから、お店のお弁当をいただいたんです。それがすっごく美味しかったので、お礼を兼ねて、その『豊穣の女主人』っていう酒場に行ってみませんか?」
「豊穣の女主人か。お前がそう言うなら、そこにしよう」
大柄なクライヴの後ろを、ベルが嬉しそうに歩いていく。2人が夕闇の迫るオラリオの街を進み、やがて活気あふれる『豊穣の女主人』の重厚な木枠の扉を開けた時――物語の歯車が、静かに、しかし激しく回り始めるのだった。
───
「ここが……『豊穣の女主人』ですか」
「ああ、かなり活気のある店だな」
夕闇に包まれたオラリオの街に、ひときわ眩い光と美味そうな匂いを振りまく大きな木造店舗。
クライヴとベルがその前に辿り着いた時、店の扉が開き、今朝の少女――シルが顔を出した。
「あ、冒険者さん! 本当に来てくれたんですね!」
シルはパッと花が咲くような笑顔で駆け寄ってきた。だが、ベルのすぐ隣に立つ大柄な男――灰色のマントを纏い、背中に長大な大剣『インヴィクタス』を背負ったクライヴの姿が視界に入った瞬間。
「っ……」
シルの動きが、ピタリと止まった。ほんの一瞬。
常人には気づけないほど不自然な『間』が、彼女の周囲に流れる。その翡翠色の瞳の奥に宿る『美の女神』としての眼識が、クライヴの魂の奥にある歪で強固な『ロゴスとしての残滓』の輝きを、鋭く捉えていた。
(何……この、魂……?)
冷や汗を流しそうなほどの畏怖を覚えながらも、シルは瞬時に一級の営業スマイルを張り直した。
「そう言えば冒険者さんのお名前伺ってなかったですね!」
「ベル・クラネルと言います!」
ベルはシルの営業スマイルに見惚れながら、元気よく答えた。
「ふふ、そちらは……ベルさんのお連れ様、ですか?」
「あ、はい! 僕と同じファミリアの、クライヴさんです」
「クライヴ、さん……。ようこそおいでくださいました。さあ、中へどうぞ!」
愛想よく店内に促すシル。だが、クライヴの鋭敏な知覚もまた、彼女の『不自然な間』を見逃さなかった。
(……今、この女、俺を『視た』な。ただの観察ではない。俺の根源を覗き込もうとするような、異質な気配――)
クライヴは、ヘスティアから聞いた『下界に降りて、市井に溶け込んで生きる神々』の話を思い出していた。
この少女も、人に変装した神の類か、あるいは神の強力な眷族か。
得体の知れない訝しさを覚えながらも、隣で「クライヴさん、行きましょう!」と純粋に目を輝かせるベルに促され、クライヴは小さく頷いて扉をくぐった。
───
店内に一歩足を踏み入れれば、そこは熱気と怒号、そして美味そうなスパイスと麦酒の匂いが渦巻く別世界だった。
シルに案内されて席に着いた途端、ズシン、と床を揺らすような足音と共に、一人の規格外の巨躯を持つ女性が立ち塞がった。
「シル! ぼさっと突っ立ってないで、早く注文取ってきな! ……あん? 見ない顔だね。そっちのデカブツは新顔かい?」
腰に手を当て、豪快に笑うドワーフの巨躯の女性。この店の主であり、元フレイヤ・ファミリアの団長でもあるミア・グランドだ。
その鋭い眼光は、レベル1の数値を遥かに超越したクライヴの肉体の「完成度」を一瞬で見抜いていたが、ミアはそれを深く追求せず、メニュー表をバンと机に置いた。
「ま、ウチに来たからには客だ! 腹が減ってるんだろ? 好きなもんを頼みな!」
「では、お勧めのご飯と……ベル、お前は何がいい?」
「えっと、じゃあ僕はパスタと、お肉の煮込みを……!」
注文を終えてしばらくすると、シルが両手いっぱいに大皿を抱えて戻ってきた。
テーブルに並べられたのは、オラリオ名物の肉厚な魔獣(比喩?)のロースト、香草をふんだんに使った特製スープ、そして山盛りのパスタだ。
どれも今朝ベルが感動したお弁当以上に、凶暴なほど食欲をそそる匂いを放っている。
「美味しそう……! いただきます!」
ベルがフォークを手に取り、パスタを勢いよく口に運ぶ。
「――っ、美味しい! お肉がすっごく柔らかくて、ソースのコクが最高です!」
頬を落としそうになりながら、幸せそうに咀嚼するベル。クライヴもまた、ナイフで切り分けたロースト肉を口へと運んだ。
「……美味いな。肉の旨味が完璧に閉じ込められている。ヴァリスゼアの王宮で出される宮廷料理にも劣らない、いや、それ以上に力が湧いてくる味だ」
過酷な旅の道中、いつも質素な食事や隠れ家のスープで胃を満たしてきたクライヴにとって、この『豊穣の女主人』の荒々しくも温かい料理の数々は、五臓六腑に染み渡る美味さだった。
二人はダンジョンでの疲れを完全に忘れ、下界の豊かさに心から舌鼓を打っていた。だが、そんな至福の時間は、酒の回った『一匹の狼』がロキ・ファミリアの席から声を張り上げたことで、無惨にも破られることになる――。
───
迷宮都市オラリオの胃袋を満たす酒場『豊穣の女主人』は、今夜も冒険者たちの熱気と怒号で満ち溢れていた。
ヘスティア・ファミリアの2人――クライヴとベルも、その片隅の席で、昼間の探索の疲れを癒やすように料理を囲んでいた。
だが、その平穏は、遠征から帰還したばかりの『ロキ・ファミリア』の一団が店へ流れ込んできたことで一変する。
酒の回った
彼は高圧的な態度で酒を煽り、やがて先日の5階層での出来事を引き合いに出し、大声で嘲笑し始めた。
「あァ!? ミノタウロスごときにビビって泣き喚いてやがったトマト野郎がいたってなァ! 弱ぇ奴はダンジョンに潜るんじゃねぇよ、死に損ないが!」
ロキ・ファミリアの席からはティオネとティオナのヒュリテ姉妹がすぐに呆れた声を上げた。
「ちょっとベート、お酒が入ってるからって下品な大声出さないでよ。みっともないわね」
「そーだよベート! 一生懸命がんばってる駆け出しを笑うなんて、格好悪いぞー!」
姉妹の茶化すような制止にも耳を貸さず、ベートはゲラゲラと下卑た笑いを続け、その凶刃のような言葉をさらに重ねていく。
「事実だろゥが! いいか、あのトマト野郎が、俺たちの『剣姫』アイズ・ヴァレンシュタインの隣に並ぶなんて、100年経ってもあり得ねぇんだよ! あいつに釣り合うのは同じ第一級冒険者か、あるいは俺みたいな強ェ『番(つがい)』だけだ! 泣いて逃げ出すような雑魚は、一生泥水でもすすってやがれ!」
「っ……」
名指しこそされていない。だが、それが自分であることはベル自身が一番よく分かっていた。
みるみるうちに顔を青ざめさせ、悔しさと恥ずかしさ、そして何よりアイズとの埋められない『差』を突きつけられ、俯いて激しく身体を震わせるベル。
そのロキ・ファミリアの席の片隅で、当のアイズ・ヴァレンシュタインは、グラスを見つめたまま深く心を痛めていた。彼女は人見知りで口下手なため、すぐに言葉を返せず、ただ俯くことしかできない。
(違う……。ベートさん、違うの……)
アイズの脳裏には、先日の5階層の光景が鮮明に焼き付いていた。
ロキ・ファミリア内では、ベートを含め誰もが『アイズが上層のミノタウロスを片付けた』と思い込んでいる。
だが、実際は違う。アイズが現場に駆けつけた時、すでに3体のミノタウロスは、酒場の端の席に座る灰色のマントの男――クライヴによって、塵へと変えられた直後だったのだ。
(あのミノタウロスを倒したのは、私じゃない。あの、ベルっていう子の隣にいる黒き剣士……。私は、何もしていないのに。……それに私、あの時、あの子を凄く怖がらせちゃった。本当は……謝りたかったのに……)
アイズが拙い感情を抱え、モノローグの海に沈んでいたその時。
彼らのすぐ近くに座っていた二軍メンバーのラウル、アナキティ、そしてレフィーヤたちが、ひそひそと小さな噂話を囁き始めた。
「ねぇ、ラウル。でもギルドの噂だと、昨日のミノタウロスって本当にアイズが倒したのかな?」
「え? アキ、どういうことっすか?」
「ほら、5階層の近くにいた別の冒険者が、遠くから『凄まじい炎と、長大な大剣を持った灰色マントの大男』が、怪物を一瞬で蹂躙するのを見たって噂が流れてるのよ……」
「嘘です!? そんなの、絶対アイズさんの方が強いです、アイズさんの手柄に決まってます!」
そんな二軍たちの囁きを遮るように、椅子がガタ、と重苦しい音を立てた。ベルの隣に座っていた大柄な男――クライヴが、静かに席を立った。
彼の目は酷く冷たく据わっていた。
───
クライヴは静かに席を立つと、酒場の中心へ歩み出た。
大柄な身体から放たれる圧倒的な威圧感に、店内の喧騒が水を打ったように静まり返る。
クライヴのその眼光は、真っ直ぐにロキ・ファミリアの席へと向けられた。
「……そこの狼の言う通り、先日は5階層にミノタウロスが現れるという異常事態が起きた。だが、ギルドに確認したところ、それは貴公らロキ・ファミリアの遠征帰還中における『討ち漏らし』が原因だったそうだな」
淡々と、しかし確実に周囲へ通る声。クライヴは、ロキ・ファミリアの『三首領』――フィン、リヴェリア、ガレスへと静かに視線を向け、問いかけた。
「我がファミリアの団長であり、家族であるベルが、貴公らの不手際による被害を受け、その上ここで不当に罵倒された。……以上が事の顛末だ。売られた喧嘩だ、買うのは吝かではないが……いかがしようか、ロキ・ファミリアの
「あァ!? 誰に向かって口叩いてやがるレベル1の雑魚がぁ!!」
図星を突かれ、さらに挑発されたベートが激昂して立ち上がる。
「ベート、やめろ!」とフィンが鋭い声で制止するが、頭に血が上り、酒の回ったベートはその制止すら振り切った。
「ぶっ殺してやる!!」
───
本来のベートであれば、獣人としての並外れた野生の勘で、目の前の男が『計り知れない脅威』であることを察知できたはずだった。
実際、本能の奥底ではアラートが鳴り響いていた。しかし、激しい感情とアルコール、そして『たかが弱小派閥のレベル1』という油断が、彼の判断を致命的に狂わせていた。
ベートが勢いに任せ、得意の蹴り技ではなく、大振りの拳をクライヴの顔面へと突き出す。
だが、クライヴはベートの動きを『見ることもなく』、僅かな身のこなしだけでその拳を紙一重でかわした。
手の内(魔法や召喚獣の力)を敵対するかもしれない派閥に見せるつもりはない。
ただ純粋な、戦士としての身体能力と技術。
「なにっ――!?」
空を切った拳にベートが驚愕した瞬間には、既に勝負はついていた。
クライヴの大きな手が、いつの間にか、ベートの振りかぶった腕の手首を『静かに、かつ万力のような力』で掴み、完全に固定していたのだ。
「が、あ……っ!? 離せっ!」
どれだけ力を込めても、ビクともしない。なおも抵抗しようとして暴れるベートだったが、今度こそ顔色を変えて割り込んできたリヴェリアとガレスの2人に組み伏せられ、そのまま「この馬鹿者が!」と激しいシバきと吊し上げを食らう羽目になった。
――実のところ、2人の介入があと一瞬でも遅ければ、クライヴはベートの関節を折り、意識を刈り取るつもりだった。
冷や汗を流しながら、団長であるフィン・ディムナがクライヴの前に進み出、深く頭を下げた。
「すまない、我が団員の不躾な非礼を、ロキ・ファミリアの団長として謝罪させてほしい」
クライヴは、未だにショックで俯いているベルの肩をそっと抱き寄せながら、フィンを見つめた。
「謝罪は受け取ろう。だが、その謝罪は後日、しかるべきタイミングで『本人(ベル)』に直接頼む」
静かな、しかし確かな重みのある大人の余韻を酒場に残し、クライヴはベルを連れて、豊穣の女主人を後にした。
(酔いの冷めたベートは、後日ふて寝をしながらも、クライヴという存在を本能レベルで最大限に警戒し始めることになる)
二人が去った酒場の厨房の陰で、その一部始終をじっと見つめていた少女がいた。
店員の、シル・フローヴァ。――その正体は、美の女神フレイヤ。
「……何、あの魂……」
『眼』を持つ彼女は、下界の誰よりも「魂の輝き」を見通すことができる。その彼女の瞳に映ったクライヴの魂は、これまで出会ったどの冒険者とも、神々とも違う、恐るべき『異形』だった。
創造神であり、同時に世界を滅ぼす邪神でもある存在――アルテマ。クライヴの魂は、その神の形をかたどったかのように酷く歪で、混沌とした色に染まっていた。
全体を覆うのは、
だが、それほど不気味であるはずなのに、その奥から放たれる光は、奇妙なほど暖かく、とても強固という決定的な矛盾を孕んでいた。
さらに異様なのは、その形だ。クライヴの魂は、端が欠けた『歪な丸』の形をしていた。
そしてその欠けた部分をピッタリと埋めるようにして、それぞれ異なる色を持つ、小さな「9つの光」が、彼の周りを静かに漂っている。
(あの9つの光がすべてあの場所に収まった時……あの魂は、ヒビだらけの、完璧な『真円』になる……?)
鳥肌が立つような畏怖がシル(フレイヤ)を襲う。
ヘスティアはただの眷族だと思っているようだが、これは下界のバランスを崩壊させかねない、世界の外側からの刺客、あるいは邪神の再来ではないか。
「オッタル……」
彼女の呟きは闇に消えた。この日を境に、フレイヤ・ファミリアの最高戦力であるオッタルをはじめとする幹部たちの護衛と監視の目が、密かにクライヴへと向けられることになる。
廃教会に戻った後、ベルは原作のように取り乱して飛び出すことはなかった。
だが、その瞳は深く沈み、己の弱さへの悔しさが全身から滲み出ていた。夜中、静まり返った廃教会。
意を消沈させたまま、ベルは誰にも気づかれないよう、こっそりと一人で武器を手に取り、夜のダンジョンへと向かった。昼間のベートの罵倒――それは恥辱でありながら、少年が「本当に強くなりたい」と願うための、最も強固な根源、原動力へと変わっていた。
己の悔しさをぶつけるため、ただひたすらに剣を振るいに行くのだ。もちろん、クライヴがそれに気づかないはずはなかった。
知覚能力のカンストしている彼は、ベルの足音を察知し、気配を完全に消してその後ろを追っていた。
薄暗いダンジョンの陰から、必死に怪物へ挑み、泥臭く抗うベルの背中を見つめる。クライヴの脳裏に、様々な過去の記憶が去来していた。
(……あいつと同じだ)
かつて、自分の無力さゆえに、フェニックスゲートで目の前でジョシュアを失った、あの日。それだけではない。ザンブレク皇国の
あの頃の自分も、ただ己の弱さを呪い、届かない何かに向かって、泥水をすするようにもがいていた。
普通なら、危なっかしい少年をすぐに助け出してやるのが大人の優しさかもしれない。
だが、クライヴは手を出さなかった。
少年の目に宿る『飢え』が、本物であると知っているからだ。
人は自分の弱さに絶望し、それでもなお抗おうとした時にしか、本当の殻を破ることはできない。
(抗え、ベル。お前がその弱さを呪い、それでも前を向くというのなら……俺はどこまでも、その背中を守り続けてやる)
暗闇の中、大剣の柄を握りしめ、クライヴは少年の戦いを、静かに、しかし誰よりも熱い眼差しで見守り続けるのだった。
オラリオの夜を置き去りにし、ベル・クラネルはひたすらに走っていた。胸の奥で、ベートの傲慢な嘲笑が何度も、何度もリフレインする。(「アイズ・ヴァレンシュタインの隣に並ぶなんて、100年経ってもあり得ねぇんだよ!」)
「……ぁ、ああぁぁぁッ!!」
悔しさを掻き消すように叫び、ベルはダンジョンを深く、深くへと突き進んだ。
ダンジョン『7階層』でのウォーシャドウたちとの激闘。多くの傷を負い、頬にあるいくつもの切り傷からは血が滴る。
それでもベルは戦いたい意思と戦うことの出来る状態に余力を残していた。
今作のベルは、クライヴへの強い憧憬というバフによって、原作の同時期よりも基礎能力が遥かに向上している。
本来ならレベル1の駆け出しが足を踏み入れるべきではない、ダンジョン『9階層』。
薄暗い岩肌の奥から、ガチガチと不気味な顎の音を響かせ、群れを成して這い出てきたのは――強固な外殻を持つ巨大な軍隊蟻、『キラーアント』だった。
「ハァァァッ!」ベルは叫び、ギルドの支給品である一本の短刀をキラーアントの脳天へと突き立てた。
しかし、甲高い金属音と共に、短刀は怪物の強硬な装甲に弾かれ、火花を散らすだけにとどまる。関節の隙間を狙うような、冷静な技術など今のベルにはない。
「嘘……刃が、通らない……っ!?」
ガチィィィン!キラーアントの強烈な体当たりがベルの身体を弾き飛ばす。地面を転がり、ボロボロになりながらも立ち上がろうとするが、すでに周囲は十数匹のキラーアントの群れに完全に包囲されていた。
逃げ道はない。死の恐怖が全身の血を凍らせ、カチカチと迫る顎の音にベルが絶望の瞳を見開いた、その時だった。
「――そこまでだ、ベル」
耳に届いたのは、世界のどこよりも聞き慣れた、酷く静かで圧倒的に頼れる大人の声。ハッとベルが振り返ろうとした刹那、首筋に鋭い衝撃が走り、少年の視界は急速に暗転していった。(昏倒させられる間際、ベルの耳には、詠唱もなしに巻き起こる凄まじい爆炎の音と、怪物の悲鳴だけが遠く響いていた――)
───
小鳥のさえずりが響き、夜が白々と明け始めた早朝の迷宮都市オラリオ。
寂れた廃教会の前で、女神ヘスティアは一晩中、生きた心地のしないまま外で待ち続けていた。
「ベルくん……クライヴくん……」
寒さに身を震わせながら祈るように待つ彼女の視界に、ようやく、朝靄の向くままに歩いてくる二人の影が映り込んだ。
「――ベルくん!!」
ヘスティアは叫び、駆け寄る。クライヴの太い腕に抱えられたベルは、服のあちこちが引き裂かれ、泥と血に塗れてボロボロになっていた。クライヴがその首筋を優しく刺激すると、ベルはうっすらと意識を取り戻し、掠れた声を上げた。
「か、神、様……? クライヴ、さん……?」
「ベルくん! よかった、無事だったんだね……! 一体どこに行っていたんだい、ボクを置いていかないでおくれよ……っ!」
ヘスティアが涙を流してベルの胸に縋り付く。
クライヴは静かにベルを地面に座らせると、少年のすべてを受け止めるように、何も言わずにその黒き背中で夜明けの光を遮って立ち尽くしていた。
ベルは、泥まみれの手でヘスティアの小さな身体をぎゅっと抱きしめ、そして見上げるようにしてクライヴの灰色のマントを強く握りしめた。
昨夜のベートの罵倒、そして自分の不甲斐なさ。悔し涙が、ボロボロの頬を伝って地面へと滴り落ちる。
「神様……クライヴさん……」
震える声。しかし、その紅蓮の瞳の奥には、弱さに絶望してへし折れた敗者のものではなく、何があろうと前に進み続けようとする、この上なく強固な『意志の火』が灯っていた。
「僕……僕、強くなりたいです……!!」
少年の、魂からの切実な絶望と誓いの咆哮。それを受け止めたヘスティアは涙を拭って力強く頷き、クライヴはただ静かに、誇らしげに目を細めて少年の頭に大きな手を置いた。少年の背中で、二つの憧れに燃えるスキル『