遠くで響く汽笛の音。でもそれを遮るものが何もない今は、耳に届くその音の広がりがはっきりと感じられます。
船が行く運河の続く先にあるはずの海の姿はここからだとほとんど見えませんけれど、視界の中でこの街とその対岸にあるヤグルマの森とを結ぶようにかかるあの橋。今朝バスでその上を通過してきたスカイアローブリッジと並ぶように、青々と輝く水平線が橋の桁下からかすかに覗いていていました。
(ここからだとよく見えますね。橋の形も、海の色も。写真には映りづらいような光まで目だと捉えられるからでしょうか? この前雑誌の紙面で見たものよりもずっとキラキラしてます)
建材に使われている煉瓦の形が見える石造りの支柱に、それに支えられて真っ直ぐ、遥か遠く向こう岸まで伸びる橋の姿はやっぱりとても立派なものです。白と黒をきっちり半分ずつ混ぜたような灰色の道の上。車道となっているその場所では今も多くの車が行き交っていて。更にその上を通る水面と同じ色のフェンスで囲まれた歩道の様子も、橋の全景が視界に収まるこの位置からだとはっきりと見えます。
街の中だけではなく森や間を流れる運河も含めて、周囲の景観を損なわないように設計されているのかも、とはその光景を目にしてふと浮んできた感想で。正反対といっていいくらい対象的な、違った様子を見せる二つの場所を結んでいるはずの橋は、事実、違和感なくどちらの景色とも馴染んでいるように思えました。
(そういえば……)
昔、この街が築かれる前。こうして今多くの建物が立ち並んでいるその場所には、それこそ、運河を挟んだ向こう側に見える森と同じような光景があったのだそうです。けれどそれが人の手で拓かれて、街になり都市になり、イッシュに住む誰もが知る
(ガイドブックには、その場所までは載っていませんでしたけれど……)
きっとこの大きな街のどこかにはそんな場所もあるのでしょうから、探せば見つかるのかもしれません。なんて、そんなふうにふと浮かんできた考えに足を止めて。けれどすぐに耳に届けられた声にはっとなり、意識を目の前の光景へと戻します。
ぴぃ、と。足元から呼びかけるそれは聞き慣れたピッピちゃんのもの。
そちらに視線を向ければ、爪先立ちになるような形で精一杯背伸びをしながら、くいくいとスカートの裾を引っ張る姿が視界に映って。そうしてこの子が
「あ……そうですね、ごめんなさい。ちゃんと今、みんなのご飯を用意しますから」
そう思い直して、足元のピッピちゃんに促されるまますぐにそちらへと向かいます。
ここに足を運んだ理由はもちろん、この子たちと一緒にお昼をいただくためですから。さっきお店で買ったものが両手に下げた紙袋の中には入っていますし、これ以上待たせてしまわないよう、急いでその支度をしないとです。
とは言っても、いつもとは違いそれほど準備することがあるわけでもありません。腰かけたベンチの上に鞄から取り出したプレースマットを広げて、そこに紙袋の中のものをお皿と一緒に一つ一つ乗せていけば、ひとまずはおしまい。さすがにお店で買ったものばかりにはなってしまいますけど、少し遅めのお昼として目の前には今日の献立となる品が並びます。
この時間だと公園を利用するような方も少なく、他にここを使う人がいないからこそできることでした。公共のスペースをこんなふうにわたしたちで独り占めすることを申し訳なく思う気持ちはありましたが、それでも今はそうできることに感謝して、お昼をいただくことにしましょう。
「はい、どうぞ。ピッピちゃんもみんなも、たくさん食べてくださいね。すぐになくなったりしないよう、いっぱい買ってきましたから」
いつもならポケモンフーズが乗っているはずのお皿の上。けれど今日そこに並ぶのは、目にも鮮やかな色とりどりのカップケーキです。ほとんどのポケモンさんたちが主食とする木の実をふんだんに使い、その色素で色づけがされた生地とクリーム。底を可愛らしい包装紙で包まれた一口サイズのケーキの上には甘みを抑えたチョコやグレーズでコーティングされた土台となる部分と同じ色合いの木の実も飾られていて。砂糖細工のような光沢をもったそれは強い光の当たるお日様の下だとまるで宝石みたいに輝いて見えます。
「わぁ……素敵ですね。有名なお店だという話でしたけど、見た目までこんなに──」
そう言って傍にいるその子《手持ちのポケモンさん》たちに目を向ければ、そこにあったのはそんなケーキの上に乗るフィリング以上にキラキラと瞳を輝かせる姿。紙袋の中から出てきた見慣れないご馳走を前に、みんな声を上げることも忘れて見入っているようです。
どうにか喜んでくれたみたい──目の前のその光景にほっと胸を撫で下ろして、ふと、さっきこれを買ったお店のことを思い出します。事前に読んだガイドブックにも載っていて気になっていた場所の一つ、なのですが。同じページにあった地図とそのお店の名前をメモに取ってきておいてよかったです。好み、というよりは種族として"そう"だということもあるのでしょうけど、わたしの手持ちには甘いものが好きな子が多いですから。
華やかに飾られた小さく可愛らしいカップケーキ。写真で見るよりずっと、お菓子らしい見た目をしたそれはとてもおいしそうで。それがポケモンさんたち用のものだとわかっていても、思わず手を伸ばしてしまいたくなるような魅力がありました。
(わたしのは……えっと、こっちですね)
とはいっても、もちろん本当にそんなことをするわけにはいきません。これはこの子たちの分。けれど今は腰かけたベンチの脇に置いてある紙袋はまだもう一つありました。そちらに手を入れて取り出した包みを開けば、出来立ての料理の温かさを感じさせる湯気と一緒に、ふわりと食欲をくすぐる香ばしい香りが広がります。
それはオリーブとハーブ。そしてほのかな潮の、海を感じるもの。焼き上げる過程でたっぷりと香りがつけられたパンはしっかり火が通ったフォッコの毛並みのようなきつね色で。
「お店の外までこの香りが漂ってきていたので、ついこれにしてしまいましたけど──」
ところどころが
「でも、結構ボリュームがありますね……? 切り分けても厚みがあるせいで、パンからはみ出ちゃってます」
具材らしい具材はそれだけ。あとは細かく刻まれたハーブや野菜の色が染み出したエキスの中に覗いているくらいでしょうか。
ブロスターの爪を使った料理自体は昔、何かの機会に食べたことがあったはずです。確かそう、兄さまと。まだおかしくなる前のかあさまに連れられて行ったレストランで。とはいっても、焼き上がったばかりのそれをサンドイッチとしていただくのはさすがに初めての経験ですから、こうして改めて手の中に収まっている包みに視線を向けると、パンの間に挟まれた肉厚の身がこれでもかと主張する存在感に驚いて。けれどいつまでもこうして買ってきた品を眺めてばかりいるわけにはいきません。冷めない内にいただいてしまおうと、意を決して目の前で湯気を立てるそれに顔を近づけて。
「──はむっ」
ナイフもフォークも今は手元になく、記憶にあるコース料理の中で出てきたものとは違ってこれはお皿に乗ってもいませんから、少しお行儀が悪いと思いながらも、両手で持ったそれに直接歯を立てます。
するとじゅわっと、口の中を一気に満たしていくのはやっぱりブロスターの、その身が蓄えた旨味たっぷりのエキスです。それはまるで新鮮な果物を口にした時みたいに勢いよく溢れて。ほのかに感じる酸味から、ソースに少し柑橘が使われているのもわかりますが、けれどそんなフィリングや他の食材の香り以上に感じるのはぷりぷりとしたその身を噛み切る食感と、調味料のものとは違う優しい塩気。そうしてそれがブロスターの爪という食材が持つ本来の味、なのだと思います。
(量があってもこれなら全然、途中で飽きることもなくちゃんと最後までおいしく食べられそうです。むしろ今日は朝食を抜いてきてしまいましたし、もう少し大きいサイズのものを頼んでみてもよかったかも……)
普段口にするようなお肉とは違って、これは海で採れるものだからでしょうか。脂はのっているものの、その風味自体はあっさりとしていてどちらかというと淡泊なものです。けれどしっかりと香りがつけられていることと口の中に食感を残さないハーブと香味野菜のフィリングが持っている旨味を邪魔せずに引き立てて、より舌を刺激するようなものとして伝えてきます。
おいしいと、そう思いました。簡単なようで自分で作ろうとするときっとすごく大変な、手間も暇もかかった味。丁寧に作られてよりおいしくするための工夫が凝らされたそれは、お店のサンドイッチならではのものです。
「んっ──こっちもおいしいですね。栄養いっぱいって感じの味です」
お野菜を全くとらないのもどうかと思ったので、付け合わせとして同じお店で注文したサラダ。潰してライムの果汁を混ぜたアボカドをメインにしたそれはガガモレともワカモレとも呼ばれるそうですが、こちらも脂がしっかりとのっていて、けれどヘルシーな口当り。ピリリとした使われている香辛料の後を引くような辛さもあり、また違った味わいが楽しめます。
(景色もよくて、いつも通りみんな一緒にご飯を食べることができて。やっぱりお昼をこういう形にして正解でした。……それに、なんだか──)
日の当たる場所、遠く海から届けられる涼やかな風が肌を撫でていく中、こうして外でみんなと取る昼食はピクニックのようで、けれどやっぱり、旅の間もう何度となく経験してきたそれとは違う感覚。きっとここが街の中で、普段あまり口にすることのないものを味わっているから、でしょうか。今日ヒウンを観光をする間、ふとした時に感じていたこのどこかふわふわとする気持ちは非日常感、なんて言うのがしっくりくるかもしれません。
「……ピッピちゃん? どうかしたんですか?」
くいくいと、服の裾を引っ張られる感触にそちらを向けば、そこにはさっきと同じように顔を上げてわたしの方を見るピッピちゃんの姿がありました。その手には空になったお皿が。見れば、他の子達それぞれのものも似たような感じで。ここで食事を始めてからまだきっと、ほんの数分。普段はもっと少食な子たちでさえいつもと変わらないくらいの量じゃすぐに食べきってしまうみたいで、そうまで喜んでもらえたことについ、よかったと微笑んでしまいますが。ポケモンフーズとして栄養が考えられているとはいっても、一応はお菓子です。食べ過ぎにならないよう袋の中に明日の分を残しながら、おかわりをお皿に乗せてあげて。
「ふふっ、おいしかったですね。ピッピちゃんは、このマゴの実のケーキがすっかりお気に入りみたいですし」
ぴぃっ!と、ピッピちゃんからは満足そうなお返事。その後に続いて、他のみんなからも同じように。お腹の方はまだまだ満足とはいかないみたいですけれど、それでもこの分ならきっとケーキの数が足りなくなるということもないでしょうし、みんなの顔に浮かんだ表情とその様子を見れば、ちゃんとこの時間を楽しんでくれていることがわかります。
そしてそれは、わたしにとっても同じでした。
今日初めて訪れることになった街の中で、けれどいつもと変わらない様子のみんなとこうして一緒にお昼を味わえていることをとても嬉しく思いながら、まだまだ巡りきれていないこの街のことを、今日これからの予定を頭に浮かべて。わたしも目の前にある食べ慣れないこのサンドイッチを、急いで食べきってしまうことにしたんです。
◇
「『──でしたけれど、それでもやっぱり楽しいと思えること、反対に、もっと学ばないと、気をつけないとと思えるようなことも沢山あった一日、今日このごろです』……と」
カリカリと、部屋に響くそれは握ったペンが立てる音。そのペン先が綴るのは、今日見たことに聞いたこと、経験したこと。旅に出た時から毎日ずっと習慣として続けている書き物。もう数冊目になる新品のこのノートに記すのも、この間ページを使い切ってしまったものと同じ内容──いわゆる
「うん……ひとまず日記として書けるようなことはこれでよさそうです。あとは、えぇと……」
ひと通り思いつく限りの内容が書き終わり、けれど中途半端に、さっき文書の途中で次のページに移ってしまったからでしょうか。手元に見えるノートの中には何も書かれていないまっさらな余白の部分がまだまだたくさん残っていて、どうしようかと考えます。
いつもならこういう時は、その日出会ったポケモンや訪れた場所のことを。実際に見て触れて経験してきたそれを知識としても覚えておけるようにと、スマホロトムや本で調べてから、自分なりにその内容をまとめて書いてみたりもするのですけれど。
(ガイドブックに乗っているような内容は来る前に調べて、すっかり覚えてしまいましたし……。何を書きましょう……?)
この街の歴史やランドマーク。場所に関してはもう既に。だいぶ前からここに来るのをかなり楽しみしていたからでしょうか、つい調べるのにも熱が入ってしまって。そうなるとあとは出会ったポケモンのことを書くべきなのでしょうけど。けれどやっぱりというか、今日は一日街の中で過ごしていたということもあり、野生として生きるその姿をほとんど見かけることもなく。それに、ポケモンを連れた他のトレーナーの方とお話をするような機会もありませんでしたから。特にこれという出来事が思い浮かばず、結局またペンを手にしたまま悩むことになってしまいます。
(野生のポケモンさんも、人が連れているポケモンさんも、全く見かけなかったわけじゃありませんけど……。確か、街中で──)
そう言いながらふと、今度は自然と、特に何かを意識することもなく頭の中に浮かんできたのはその、街で見かけたポケモンさんたちのこと。たとえばそう、ストリートにあったお店の外から硝子の向こうにその姿を見かけたチョロネコやエネコ。こんなにも建物が密集している都会だと住居として使える場所もきっと限られてしまうでしょうから、進化をしてもムーランドのように大きな身体を持つわけではなく、お家で育てるのにも適したその子たちはこの街では人気があるみたいで、今日一番その姿を目にしたポケモンだったような気がします。
通りを歩いている時には、道行く人たちの雑踏に紛れてどこか遠いところから響いてくる鳴き声も何度か耳にしました。それはきっと、鳥ポケモンの──この時期はまだスバメが別の地方から渡って来ていたりはしないはずなので、喉を鳴らすような独特な響きのあるそれはイッシュの街中ではよく見られるらしいマメパトのもの。だいぶ前にテレビか何かで聞いたきりですけれど、特徴的な声だったのでしっかり覚えていました。
……そういえば、よく見えませんでしたけど、お昼にテイクアウトできるようなものを探して通りを歩いていた時に目にしたあのシルエット。ビルの間の、細い路地の奥でガサゴソと蠢いていたあの影はもしかしてヤブクロンだったのでしょうか。ちょうど食べ物を扱うお店が多く存在する場所だったので、そこで出たゴミを漁りに来ていたのかもしれません。誰かのポケモンというわけじゃないのなら、あれは一応野生ということになるのでしょうけど。
(思い返してみると、意外とあちこちにポケモンさんが過ごしている様子はあったんですよね。……忘れていたわけでもないのに、どうしてあまり見かけていないなんて、そんなふう思ってしまっていたんでしょう)
今朝バスを降りて最初にこの街に足を踏み入れた時、手持ちのポケモンをボールから出している人は少なくて、そしてそれとは反対に通りを行き来する方の数。普通に歩いてゆくのも難しくなるほどの通行人の多さには驚きました。けれど今こうして思い返してみれば、ちゃんとポケモンの姿も街のあちこちで見かけていたような気がします。それは野生だったりトレーナーがいるポケモンだったり、色々ですけれど。ともかく、決していないわけではなかったということで。
当たり前といえば当たり前の話です。ボールから出していないのだとしても、ポケモン自体は多くの方が連れて普段から生活やお仕事を共にしているはずですし。街の傍には
明日また街へ繰り出す時、注意深く周りを見てみれば今度はもっとたくさん、ここで暮らすポケモンの姿を目にすることができるでしょうか。ジムもある街です。バトル用の施設だってきっと街中には数多く存在していたはずですし、そういった場所を巡ってみるのもいいかも──と、頭の中を巡るのはまだ訪れていない明日のこと。色々と考えていたらページにあった余白は埋まって、いつしかそこには今日経験した出来事について綴る見慣れた自分の字が並んでいます。
(ページもちゃんと埋めることができましたし、ここまでにしておきましょうか。明日に備えて、もうそろそろ休んでおかないと)
最初の頃、なるべくちゃんとした内容にしなくちゃと本から得た知識ばかりをそこに書いていた頃とは違い、最近はほとんど日記のようなものになっているノートを閉じて。そうしてベッドの方へ向かうと、真っ白なシルクに包まれた枕の側にはピンク色の見慣れたその姿。わたしがレポートを書き終わるのを待っていたピッピちゃんはいつの間にかすやすやと小さく寝息を立てていて。どうやら一足先に夢の世界に旅立ってしまっていたようです。
「普段と違う慣れない環境で負担をかけてしまいましたものね……。待たせてしまってごめんなさい、ピッピちゃん。ありがとう」
そんなピッピちゃんの頭をそっと撫でてからわたしもその側へ。ベッドの上で揃って横になれば、場所は違ってもいつも通り。眠りについて明日を迎える準備は万端です。
「……おやすみなさい。明日も、きっといい日になりますよね」
ふわふわで柔らかなマットレスと掛け布団。一日街の中を歩き回って疲れが溜まっていたからでしょうか。感じる心地よさは優しく、そっと手を引くように、その間で横になったわたしを眠りに誘ってくれそうでした。
気づけば自然と瞼も重くなって、暗くなった視界の中でのこと。ぼんやりとそこに浮かんできたのは明日きっとまた目にすることになるはずのこの街の景色で。けれど、それもすぐに暗闇の中に溶けていき……霞んでいく光と一緒に、残っていた意識もまたすぐにどこかへと遠のいていきました。