ブルブルと、リンリンと。側で何かが鳴る音、揺れる音。
「……ん、ぅ」
意識を向けるとそれは本当にすぐ側、わたしのすぐ耳元から聞こえてきているみたいでした。そうして、そのことに気づくのと一緒に、何か柔らかいものの上、そこに丸まって沈む自分の身体があることを自覚します。
「ん……、今、起きます、から……」
『現在、7時。このホテルで予定されているモーニングの時間まではまだあと45分、余裕たっぷり。今日もお早いお目覚めに感謝ロト』
わたしがそう口にすると、響いていた音は一度ピタリと止まって。それと代わるように聞こえてきたのはロトムの声。もう結構長い付き合いになるその子の性格を感じるモーニングコールは当然、昨日と変わらず枕元から。少し無機質で、いつもはやっぱりどこか機械的な印象を受ける声は、けれど今日はいつもとは違って珍しく
「まだ結構時間あるんですね……。ふぁ……んぅ、じゃあ──」
瞳を開くと、すぐ目の前には悪戯っぽくカーブを描く特徴的な口もとの形。操作していない時の待機画面に映るある意味見慣れたロトムのその表情を見てわたしもくすりと笑って。軽く伸びをしてから、ベッドの上で身体を起こします。
「あら……? えっと、ピッピちゃん。もしかして、起こしてしまいましたか?」
続くようにその小さな身体を身じろぎさせた後、それ以上に小さなまんまるお目々をパチパチと瞬かせてゆっくりと開いていったのは昨日も変わらず同じ布団に包まって眠った
「おはようございます。今日はどこへ行きましょうか? まずは……ふふっ──朝ごはんから、がいいですよね?」
ぴっ。答える声ははっきりとしたもの。どうやら寝起きはいいみたいです。寝付きがとてもいい子だというのはもちろん知っていましたけれど。月の満ち欠けや星の見える位置、夜明けまでの時間といった空の変化。種族的に、身体に備わった機能としてなんとなくそれを把握できてしまうのがピッピやピクシーといったポケモンですから、大陸をまたぐような長い距離を飛ぶその間は地磁気で自分の居場所や時間を測るアオガラスやオオスバメたちのように、種族として人間よりも体内時計がずっと正確だったりするのかも、とは今日また改めて知ることになった
◇
「ピークを避けるだけでもこんなに違うんですね……」
そうして、普段の旅の食事とは
「この街を歩くのも、今日で二日目。けれどまだ二日目、とも言えますし。うぅん……」
行ってみたいところ、気になるところなら今日も色々とあるのですけれど。それを見て回るのは午後からにして、なるべく早め早めに余裕をもって、短い時間で観光できるような場所を中心に午前は予定を立てていくのがいいかもしれません。というのも、それは──
「確か……個展の開催が今日から、なんですよね」
鞄から取り出したパンフレットは、昨日お昼に立ち寄った書店でもらったものです。
そこに記されている開場時間は10時から。特に何か準備が必要ということもなく、入場するためのチケットもその場で買うことができるそうですが、始まってすぐはやっぱりとても混み合っていそうな気がしますから。そうなると先に他の場所で、たとえば少し早めにお昼を済ませてからちょうど正午に、大抵の人が昼食を取るような時間に向かうことにするのがいいでしょうか。と、そんなふうに自然と考えられていたのは、少しはこの街で過ごすことに慣れた証拠、なのかもしれませんけど。
(もう折り返し。もうきっとそうなってしまうはずですけど。だからこそ、悔いのないように見て回らないとです)
きっと明日か、明後日には次の街を目指してここを発つことにはなるのでしょうけど、けれどそれまではこんな日が続きます。いつも通りの時間にいつもしているはずのことをできないのは、なんだか少し気疲れするような感覚があって。……この街に住まいを持って日々を過ごしている方々も、もしかするとこういった思いは抱いているのでしょうか。長く過ごしていればその不便を一々意識しないくらい慣れたりするのかもしれませんが、そう思うと目の前に見える道行く人たちのその姿がなんだかとてもたくましく感じられるような気がしました。
◇
「……ん、と?」
ふと、足を止めて辺りにある景色を眺めてみます。なるべく誰にもぶつからないようにと人が少ない、道の混雑が薄い方薄い方へと進んできて、そうして辿りついていた場所。大通りを満たしていた靴音や雑踏も今は遠く。そこをひしめき合っていた人の流れもいつの間にか途切れていて、気がつくとわたしの前にあったのはこの時間帯でも不思議なくらい人気のないどこかの通りの光景でした。
通ってきた道の左右、立ち並ぶビルはこれまで見てきた景色と同じように。けれど他と比べて道幅が狭く、そのせいで少し日当たりが悪くなっているから、でしょうか。ビルの壁面に描かれた落書きや地面に落ちているゴミが捨てられることもなくそのままにされていたり、手入れが行き届いていないように見えるのも理由かもしれませんけど。同じ街の中にある場所のはずなのに、ここは今まで目にしてきたようなところとは違い、どこか埃っぽく暗い、路地裏のような印象を受けます。
「ええと……もしかして」
なんとはなしに呟いた言葉。あえて口にはしませんでしたけれど、
……ううん、そうじゃないですよね。土地勘のないまだ少しも慣れていない場所。それに進む方向が、前が見えないほどの人混み。どう取り繕ったって未だに地図を読むことさえ苦手なままのわたしですから、こんなふうに訪れたばかりの街で道を見失って迷ってしまうのはきっと、仕方のないことだったはずで。
「と、とりあえず来た道を戻ってみましょう。それがいいですよね。きっと、たぶん……?」
続くように口にしたそんな言葉に、自分でもわかるくらいどこか焦るような響きがあったのは、たぶん今は側に
(って、違います! そうじゃなくて、たまには自分で頑張らないと、ですよね……!)
幸い、ロトムに頼ることはできます。ここも同じ街の中には違いありませんし、それに覚えている限り、さっきまでわたしがいたはずの大通りからそう離れてもいないはずです。だから道を一つ二つ横に逸れれば、きっとすぐに見覚えのある場所へ出られる……のだとは思いますけれど。
(えっと、右折路があるのはもう少し手前みたいですから……じゃあきっと、こっちの道を、ビルに沿って真っ直ぐ進んでいけば──)
ロトムの画面に表示させたマップに従って、ここまで進んできた道を引き返してしばらく。ほんの少しずつ、意識して見ていたわけではなかったものの、けれどかすかに覚えのあるものへと周りの景色が変わっていきます。でも、そうして進む先にばかり注意を向けていたのがいけなかったのでしょうか。
何かに気を取られて歩いている時、もし急に、たとえば身の危険を感じるような出来事があったとしても、すぐには反応できなくなってしまうのが普通です。だからこの時のわたしも、ゴミ箱の後ろ、影になっている場所から突然飛び出してきたそれに──その人の存在に気づくことができなくて。
「──どりゃあ! わっ!!」
「ぇ──きゃああああああ!?」
ポケモンのものではありません。わたしよりも一回り以上大きな、大人の人のものだとわかるシルエット。視界の中、すぐ目の前に現れたそれはまるでわたしの行く先で
驚いて叫びを上げたのは当然わたしで。その勢いのまま、よろけて尻餅までついてしまったのもそうでした。
「お、おぉ……? 参ったな、そこまで驚かせるつもりはなかったんだが……」
けれど、その後。ふと耳に届いた言葉。それを零したのは他でもない目の前のその男の人のようです。
逸らされる視線に、頭を掻く仕草。その表情もまたバツが悪いというか、どこか申し訳無さそうなもの。地面に手をついたまま恐る恐る、ゆっくりと顔を上げてみれば、視界に映るのは今まさにわたしの前に飛び出してきた方が見せるそんな様子で。
つい先ほど、驚かせるようなことをしてきたのはその方です。だから余計にそれは不思議というか、不自然に思えることでしたけれど。身に着けているスーツに目元を覆うサングラス。ビジネスマンの方というには少し黒が多すぎるような気がする服装もあって、その反応をどう受け取ればいいのか悩んでしまいます。
「あー……悪かったな。ビビらせるような真似しといてなんだけどよ、こんな場所に一人で来るもんじゃないぜ、お嬢ちゃん」
まあ、来ようと思って来たわけでもないんだろうが。零すようにそう言って、こちらへ向き直る素振りを見せるその方。目元はサングラスで隠れていますからわたしからは見えません、それでも顔ごとこちらに向けるような形でだったので視線の動きはなんとなくわかります。覗く眉根は寄せられて困ったようなもの。けれどどちらかというと、それはやっぱり心配する感じの、浮かべているのはそんな表情なのでしょうか。
「この街一番のメインストリートはあっちだ。どこへ行くつもりだったのかは知らないが、観光ならなるべく海沿いの道を通るようにしな。あの辺りならご丁寧に
そうして、続く言葉もまた同じような感想を抱いてしまうものでした。ここから大通りまでの道のりと、観光の際のちょっとした注意。もしかして、こういった説明に慣れているのでしょうか。短く、けれど丁寧にそれを伝えるその姿はただ困っている様子を見かねて声をかけてくださった親切な街の方、といったふうで。まるでさっきの、大声を上げながら物陰から飛び出してきたあの行動だけが嘘だったかのようです。
……どうしてあんな場所に隠れていたのか、あえて驚かすような形で声をかけてきたのかはわかりませんけれど、今わたしが目にしている態度と言動から、別に悪い人というわけではないのかも、なんて。段々とそんなふうに思い始めてきたところで。
「ん、おい? お嬢ちゃん、それ──っと」
路地に瞬く、少し眩しいくらいの閃光。日陰になっているところも多くあるこの場所だと目立つ赤い光が収まって、その後には、それまでここにいなかったはずのポケモンさんの姿がありました。それはそう、ちょうど、まだ地面にへたりこんだままだったわたしの胸元くらいの大きさの。見慣れた
ぴぃっ! 声は激しく主張するように。背中をこちらに向けてわたしと目の前のその人との間に立つピッピちゃんは小さく短い腕を精一杯、大きく振り上げて。まるで威嚇するような仕草です。
普段はもちろん、バトルをする時でさえあまり見たことがないような様子ですけれど、もしかしてさっきの、わたしが悲鳴みたいな声を上げていたことを心配して、それで出てきてくれたのでしょうか。
「ピッピちゃん? ぁ……ええっと、その、大丈夫ですから。だから、落ち着いてください?」
そんなふうに叫んでしまったのは驚きから。けれど今は特に何か身に迫る危険があるというわけではないことはわかっています。ひとまず、危険がないことを伝えるためピッピちゃんのふかふかな身体を後ろからそっと抱きしめて。
そうしてあげると、落ち着いてはくれたのでしょうか。だけどその代わりにぴぃ?と、身体ごと捻って見返してくるその目はどこか不思議そうにこちらを見ています。たぶんきっと、わたしもこの子と同じような気持ちでしたから、その視線に苦笑をして返して。
と、そこでまた周りの状況にちょっとした変化が生まれます。それは今度は光ではなく音をきっかけに。
くう、と小さく鳴ったその音の出どころを探して、そちらに視線を向ければそれはわたしの腕の中。その丸みのある身体のお腹のあたりに手を当てて、さっきの勇ましい様子から一転して切なげな表情を浮かべる──ピッピちゃんのお腹の音、みたいです。
「なんだ? そいつ……お嬢ちゃんのポケモン、腹空かせてるのか?」
「えぇと……はい。そうみたいです」
浮かべている表情が一転したのはこちらも。どこか笑いをこらえるような様子でそう言ってくるのは、目の前に立つその男性で。
「じゃあこの後入る店を探してる途中に……ってことか。困ったもんだ。なら、そうだなぁ」
腕に付けていた時計に目をやって、呟いたその内容はどちらかと言うと独り言、ひとりごちるようなものでした。
一瞬だけこちらからもチラリと覗くことができたそれ、捲くられた袖の中にあった時計の、その長針は文字盤の12を示す数字とちょうど重なったくらい。アナログかデジタルか表し方の違いはあっても、さっきロトムの画面に表示されていた時間とほとんど変わりはないみたいです。
「お、ちょうどか……。お嬢ちゃん、運──というか、タイミングがよかったみたいだぜ、あんた」
それはどういう、と。そんなふうに、質問のために口にしようとしていた言葉は途中で止められて、打ち切ることになります。目の前に突きつけられたスマホロトムの画面。そこに映っているのは先ほどわたしが歩きながら眺めていたのと同じこの辺りの地図のようですが、そのロトムはわたしのものではありません。この人が懐から取り出したもの、でしょうか。
「お詫びってわけじゃねぇけどよ。ここ、向こうにあるこのカフェに行ってみるといいぜ。こんな路地に店を構えてるわりに……なんて言っちゃ悪いか。まあ、なんだ。そこはポケウッドの有名人もたまに足を運ぶような──いわゆる知る人ぞ知る名店、ってやつでな」
そう言って見せてくる画面の中。真っ先に目につくのは地図にあるマーカーの一つで。タップしたことで少し大きく、強調して表示されているそのアイコンが示すのはそう遠くない位置……というより、ここからでも見える場所にあるお店のようです。きっとあそこがこの人の言うカフェなのでしょうけれど。画面の下半分に映る写真、地図アプリに投稿されたそれと同じ景色がちょうど視界の中、路地の向こう側にも確認することができましたから。
笑みを深めると、頷きを一つ。サングラスで目元が覆われていてもわかるその表情の変化は、意図していた通りにそれが伝わったことをわたしの様子から察したからでしょうか。こちらに見せていたスマホロトムをしまう際に聞こえてきたふっと笑うような声といい、最初に見た目から抱いていた印象とは違って今はもう目の前に立つ黒ずくめのこの方が、ただ普通に世話を焼いてくれているだけのように思えます。
けれどそこでふと、小さく笑う、そんな口元が描く短く緩やかなカーブ。それが別の形になっていることに気が付きました。こうしてわたしが呼び止められた理由、この人にとっての用事は、まだもう一つ残っていたみたいで。
「っと、忘れるところだった。お嬢ちゃん、ちょっと待った。カフェに向かう前に、これを──」
そう口にしながら探るのは背広の方ではなくズボンについたポケット。ちょうど今ロトムをしまっていたのとは別の場所です。けれど、どうしてでしょう。すぐにその表情は一転して渋いものに。まるでそれは……ええと、それは例えるなら、ですけど。まるで落とし物か忘れ物か、確かに入れてあったはずのものが、そこになかったことに気づいた時のような。
「……はぁ、参ったな。調子に乗って配りすぎちまった。ジム開けでまた道に迷うおのぼりさん方が増える前に、また買い集めて来なきゃな」
舌を打つ音は、そんなぼやくような言葉の後に聞こえてきました。一瞬それが何の音なのかわからなくて戸惑うわたしをおいて、ずずいと一歩踏み出して距離を詰めてくるその方。近づく大柄な身体と心なしか険が増した気がする表情に、自然と身体が強張ります。けれど、よく見れば。サングラスの向こうにあるその目が向いているのは、進む先にいるわたしではないようで。
「──おら散った散った! 見世物じゃねぇぞぉ、おうおうおう!?」
怒鳴るような声。そちらはすれ違い様に聞こえてきたものです。ずかずかと踏み出す勢いのままわたしの横を通り過ぎていったその人、今の今まで言葉を交わしていた相手が上げたそれはきっと、わたし以外の誰かに向けられていたはずで。
……もしかしなくても、わたしの後ろにどなたかがいるのでしょうか。
気になって振り向いてみれば、ここから少し距離を置いた場所、予想した通り、そこにさきほどまでは見られなかった人の姿がありました。しかも一人でなく、数人連れ立って。きっとおそらくは仲間内で合わせた、近い色のルーズな服装。そして唇や鼻の周りなど顔の目立つところには、穴を開けるような必要のあるアクセサリーをいくつも身に着けた……その、
いつの間にかそんな、この路地のように人の通りがない場所で出逢えば危機を覚えるような方たちが側に寄ってきていたことに対する驚きは、もちろんありましたけれど。でもそれ以上に突然の大声と、どこかオーバーな、脅かすような
「ええと……」
そうしてわたしが呆然としている間に、視界の先で並ぶ人影はそこにもう一人を加えてどんどん路地の奥へと。まるで示し合わせていたみたいに何事もなく、この場にいた方たちが一人残らずそそくさと立ち去っていく光景はどこか冗談めいていて、それこそ寸劇《コント》か何かに見えるくらい。
けれど最初の、そのきっかけとなった黒づくめの方の行動は、まるで路地の奥にいる方たちを引き離すような……ううん、確かにそれは遠ざけるような形のものでもあったはずです。きっと、おそらくは。気の所為というわけでないのなら、それはたぶん、わたしのいる方から、ということになるのでしょうけれど。
「一体、なんだったんでしょう……?」
ぴぃ。と、きっと控えめに同意を示しているはずのその声は足元から。呆然としていたのはわたしだけじゃなくて、この子もです。
まだ少しも見慣れない、大きな大きな街の中。ふと迷い込んだ場所での出会いは突然に、あまりにも突然すぎて理解が追いつく間もなく、そんな形で終わります。そうして後に残されたのは変わらず静かな少し汚れた路地の光景と、何事もなくそこに立つわたしとピッピちゃん。
この場所の薄暗さと同じように。その印象と、最初の出来事から恐ろしく感じた方は、けれどやっぱり、悪い人というわけではなかったみたいで。
なんというか……その、ええと。すごく怪しい方ではあるようでしたけれど。
◇
ドアべルが奏でる音色は涼やかに。チリンチリンと、それは誰かが、新たにここを訪れたことを告げるものです。
訪れたのはわたし、そうして足を踏み入れたその場所は、ついさっき紹介されたばかりの、件のお店でした。
「──わぁ……」
ビルの一階。テナントとなっているワンフロアを貸し切って存在していたそこはどうやらカフェのようです。この場所を紹介された経緯が経緯だったので、少し躊躇いながらもその扉を開けてみれば、視界に飛び込んできたのは床に敷かれた厚みのある絨毯が目立つシックな内装。アンティーク調の家具に、深い色合いの木目から使い込まれていることがわかるカウンター。光を取り入れる窓のない部屋の間取りや、テーブルの上に置かれた照明のぼんやりとした明るさもあって、大人びた感じのお洒落さのあるお店の雰囲気はカフェというよりはお酒を嗜むバーのようでもありますけれど。カウンターの向こうにはコーヒーを抽出するための器具や豆が保存された容器に混じって透き通った色のボトルがいくつか顔を覗かせていることから、きっと夜はそちらも提供しているのでしょうか。
入口にある小さな看板に記されていたのは、"憩いの調べ"というこのお店の名前。さっき教えてもらわなければ──それにロトムの地図に情報が載っていなければ、こんな場所にカフェがあるだなんて思いもしなかったはずです。だからいわゆる隠れ家的なお店なのだということは想像がつきましたけれど。
ぴぃっ。そう声を上げて、わたしと一緒に入店したピッピちゃんが迷うことなく向かっていったのはテーブルではなくカウンターの前の席でした。何事も物怖じすることなく挑戦できてしまえるのがピッピちゃんのいいところ。なので初めて訪れたお店の雰囲気に気後れする……そんな気持ちは一旦置いて、わたしもピッピちゃんに倣ってそちらへ向かうことにします。
「いらっしゃい。……珍しい。観光客の方ですよね」
座席の前まで来ると、お決まりの挨拶と一緒に投げかけられる言葉がありました。そう言ってきたのはカウンターを挟んだ向こうに立つ店員さんらしい女性の方。そしてすっと、わたしが何か反応を返す間もなく差し出されたその冊子は、どうやらこのお店のメニューが書かれたもののようです。
ひとまずそれを受け取ってから頷きます。会釈とお礼の、二つの意味で。
「……それだけ有名になってきたってことじゃないかな、この店も。常連のあの子が雑誌で絶賛してたくらいだ。彼女同様、世に知られるべき時が来たってことなんだろうさ」
「そうだといいけど、どうかしらね。……それで? そう言うあなたはどうなの?」
「そうあってほしくない、かな。自分のよく知る誰か、馴染みのあるどこかが変わってしまうのは、嬉しい以上に悲しいものだよ」
「……わかってて話を逸らすんだから。一応聞くけど、そう思う理由は、人が増えるとそれを自由に弾けなくなるから、ってことでいい?」
「まさか。いつだって、誰がいたって僕はここで弾くさ。こんなふうに。少しずつ変わっていく景色の中だろうと、昨日と今日、変わらない曲を。そのせいか、僕がスターになる明日はますます遠のくばかりだけどね」
耳に届くのはそんなやり取り。席についたわたしの代わって投げかけられたその言葉に答えを返したのは、同じカウンターの、少し距離を置いた場所に座る男性です。このお店の常連さんなのでしょうか。もしくはそれ以上のお知り合いなのかもしれませんけれど。ギターを抱えてそれを膝の上に乗せているその方と店員さんは、とてもフランクな様子で言葉を交わしているようでした。
ぴっ。すぐ傍ではそのまま世間話と思われる会話が続いています。それをよそに、その小さな手を上げて存在を主張するのはピッピちゃん。何を伝えようとしているのかを察して膝の上に乗せてあげると、柔らかい身体の感触とずっしりした重みが足の上には生まれて、けれどちょうどピッピちゃんの目線の位置もテーブルより上に。これで一緒にメニューを見ることができそうです。
(カフェだから、でしょうか。ローストコーヒーにブレンドティー。ドリンク系のメニューがやっぱり多いんですね。でも、その他にも軽食が意外と充実しているみたいですし……)
革で綴じられたそれをめくって、視界に飛び込んできた文字の並びに早速意識を向けます。軽食と飲み物。カフェらしいお料理に生産地ごとに違うコーヒーや紅茶の名前、そうしてそれぞれの短い説明が並ぶその中にはアローラの様々なお店で見慣れたミックスオレの文字も。細く滑らかな字体のフォントばかりが目立つメニューの中に写真はそう多くはないみたいですけれど、ページの端に載せられたそこに映るお料理や飲み物はどれもとてもおいしそうに見えました。
……とはいっても、ホテルでの朝食からほとんど間を置かないでの食事になりますから、あまり量があるものは食べ切れるか不安です。それにここはカフェですし、まずは飲み物からオーダーするべきでしょうか。ああでもやっぱりこのサンドイッチなんてピッピちゃんが気に入りそうなものですし、あえて軽食を色々と頼んでみるのもいいかも──なんて、わたしが注文を悩んでいる間にまたベルが鳴って。チリンチリンと、耳に届くその音でまた新しく誰かがこのお店を訪れたことに気がつきます。
「いらっしゃい」
訪れた方。響く足音の重さから、入店したその人はどうやら男性の方のようです。けれど店員さんの方は、そう声はかけてもちらりと一瞥をしただけで特に何かをするつもりはないみたいで。ふとその様子が気になって後ろを振り返ってみれば、入口に近いテーブル席にさっそく腰を落ちつけてメニューに目を通しているビジネスマン風の装いの男性の姿が。お互いどこか慣れた感じというか、それぞれの行動を特に気にしたふうのない様子から、察するにその方も常連さんなのでしょうか。
「観光客、ですよね。今更ですけれど」
違っていたら申し訳ない、とでも言うように。さっきと同様に口を開いてそう尋ねるのはカウンターの向こう、わたしの前に立つ店員さんでした。その視線が向けられているのはこちら。つまり、きっと、今のその質問はまたわたしに対してのものだったはずで。
「はい、観光で来ているんです」
「そうですか。どちらから?」
「ええと──」
わたしは少し悩んで、けれど結局、あまり間を置かずすぐにアローラから、と口にします。
つい二日前、一昨日まで滞在していた地方のこと。ハナダシティのマンション。まだ財団の名義で借りたままの、けれど今はもうそこに寝たきりになっている誰かなんていない部屋のこと。どこから来たのかと、そう聞かれて思い浮かぶ場所は色々とありました。
だけどやっぱり故郷、という意味なら。答えに悩む必要なんてなかったかもしれません。
「ずいぶん遠くからいらしたんですね。なら、驚いたでしょう。人の多さに。この街を初めて訪れた方は大抵そこを気になさるようですから」
「そうですね……ええ。やっぱり、少しだけ」
そうして会話を続けていると、いつの間にかお店の中にわたしたちが話す声とはまた違う音が生まれていることにふと気がつきます。音、というよりは音楽でしょうか。耳に届くのは確かなリズムと心地よい音の並びをもって奏でられる旋律でした。
ポロン、ポロンと。けれどそのメロディを響かせるのはお店の壁際に置かれた古めかしいジュークボックスではないようです。響いてきているのはもっと、すぐ近くから。
「エスプレッソとフラットホワイト、どっちもダブルで。あとポケマメをこいつに。在庫、戻ったんだろう?」
「いつものね。窓際の席は見ての通り空いてるから、落ち着いたら持ってくわ。……今日は新聞、置いてかないでよね?」
注文を告げる声。後ろから聞こえてきたので、今のはテーブル席に着いた方のものでしょうか。それを受けて短く答えを返すのは、口にしたその言葉の通りオーダーの内容がわかっていたみたいに手早く調理の準備を始める店員さんです。まだ人も少なく静かだったお店の中は、けれどいつの間にか何かを、そこを訪れた誰かをきっかけに、少しずつ色々な音が生まれて。楽器が奏でる音色に混じってこの空間を満たしていくそれはまるで即興で付けられた伴奏のように。
「ピッピちゃん、わたしたちはどうしましょうか? ……あ、これにするんですか? それなら──」
調理が進む音。包丁を振ってトントンと。刻んで形を整えた食材が乗るフライパンの上では油が跳ねて。焼く音が途切れたその後には、並べた食器が立てるカチャカチャという音。
区切りがついたと、カウンターの向こうに伺える様子からそう思えたところで、わたしも続くように注文を口にします。頼んだ料理は偶然ですけれど、ちょうど今目の前で出来上がったそれと同じものでした。
「焼き加減は? あと、フィリング以外も注文があれば、たぶんある程度仕上がりの調整はできるけど」
「えっと、それじゃあサンドイッチは、このメニューの写真の通りに。あ、でも……この子にはマスタード抜きのものをお願いします。ピリピリした刺激があるものはちょっと、苦手みたいなので」
「ええ、了解。ピクルスは──ああ、切らしちゃってるのね。ごめんなさい、少し待ってて」
カン、カン。甲高いギターの音は、更にトーンを高く、テンポを上げて。
注文を終えて後はそれを待つだけの時間。先にテーブル席の方へ出来上がった料理を届けに行く店員さんを横目に。どこかぼんやりとした気分のまま、わたしの意識はいつしかその曲調を変えていた曲の方へと自然と向いていきます。見れば、ピッピちゃんも気になるようで、腕の中で身体を捩って視線を真横、それを演奏する方の方へと。
弦に触れるその指先が奏でるのはきっとずっと、先ほどから変わらず同じ曲なのだとは思いますけれど。部屋の中を満たす旋律はより軽い、跳ねるような響きのあるものに。懐かしさと、心地よさと。確かに何か弾き方に変化があったのだとわかる演奏を耳にして、ふと覚えたのはそんな感覚です。
でも、たぶん。わたしがそう感じるのも当然でした。木製のボディと揺れる弦。その奏者の方の腕の中で、ついさきほどまでギターとして音を奏でていたはずのそれは、けれど今はわたしにとってギターよりもっと馴染みのある、別の楽器の音色を響かせていて。
(昔習ったヴァイオリンでも、ピアノでもなくって。触ったことも弾いたことも、まだ一度もないような楽器ですけど──)
けれど知っています。ウクレレの音。それをギターで出しているのでしょうか。忙しなく動かされる指先はほとんど距離を置かず、両手ともにボディの真ん中に空いた穴の側に。ネックとボディの、ほとんど継ぎ目と言っていい場所です。相当押さえづらいはずですけれど、弦を弾くピックはそれでもリズミカルに上へ下へ。その動きの中で二本だけ、上側のより低い音を出す弦に一切触れていないように見えるのは、きっとウクレレが四弦の楽器だからあえてそういった弾き方をしているのでしょう。でもそうして少し足りなくなってしまう音の厚みはギターの、その木製のボディ自体を打楽器のように使うことで補っているみたいでした。カツコツと不規則に鳴るこの音。演奏が休符を挟むようなパートに入る度に一瞬だけ弦の側を離れたこぶしがギターの側面を叩いて、こちらもまたアローラではよく知られた楽器、
まるで魔法のように。たった一つの楽器を使って奏でられる懐かしい音色の数々。そうしてそんな音の並びから生まれた旋律は、けれど確かに、きっと多くの人が想像するようなアローラのものでした。南国の温かな日が差す海辺で、潮騒と一緒に聞こえてくる。耳にすれば自然と、そんな景色を思い描くような。
「はい、お客様。こちらご注文の品となります」
だけどたぶん、このお店で雇われてここで演奏をしている、というわけではないのでしょう。わたしと同じように、お客さんとして訪れただけの方。ただの予想。でも、きっとそうなのだと思います。もしかしたら本当に音楽をお仕事にしている方ではあるのかもしれませんけれど。まるで弾き語りをするような雰囲気で奏でられている曲だと言うのに。それはわたしも、ピッピちゃんも。こうしてつい聴き入ってしまうほどで。
けれど、だからその演奏の途中。かけられたその声にわたしが気づくことができたのは、カウンターの上、すぐ目の前にコトリと音を立ててミルク色の液体が満たすグラスが置かれてからでした。
「ミックスオレは少し薄味に感じてしまうかもしれませんね。さすがに
吸い寄せられるように自然と、真横へと向けてしまっていた視線。それを元に戻せば、そちらにはまさに今そのグラスを差し出した店員さんの姿が。続けて口にされる説明が何についてのものなのかはすぐ思い当たりました。せり出した台の向こうにはもうすでに出来たての料理が乗るプレートまで用意されていて、さっきわたしが注文したものの用意はとっくに終わっていたのだと理解します。
思い返してみれば、さきほど確かに声をかけられていたはずですし。いくら演奏に聴き入ってしまっていたとはいえ、それに気づかないほど、というのはいくらなんでも失礼がすぎます。だから慌ててわたしは一言謝罪を口にしようとしますが、けど、すぐにその動きを制されてしまいました。店員さんの声に……ではなく、ポロロンと響く軽快なギターの音色に。苦笑というより微笑、そんなふうに見えたその表情が、いったいどんな感情から生まれたものだったのか。わたしにはわかりません。また口を開こうとするわたしに構わずその店員さんは、早々に別の作業へと移ってしまいましたから。
「えっと……ピッピちゃん。冷めないうちにいただきましょうか?」
だから謝罪は小さく頭を下げる程度に留めて、代わりに用意した別の言葉を傍らのピッピちゃんに向けるわたしでした。本当はやっぱり、一言でも謝った方がよかったのでしょうけど。結局何も言えなかったのは、たぶん。言葉の失せたこの時間。静かで穏やかなこの空気。そんな、ここに満ちる何かを乱すことを恥ずかしく思ったからなのかもしれません。……あとはやっぱり、先ほどの。視線と、表情。店員さんのそれが、わたしに向けられているわけではなかったから、とか。
ぴぃっ。と、そしてわたしの言葉に改めてそう返してくれるのは、もう待ちきれないとでも言いたげな様子のピッピちゃん。仕方ないと気持ちを切り替えて、だからわたしもまた目の前に置かれたこのお料理に向き直ることにします。食べやすそう。それが始めに抱いた感想。昨日とは違って手元にはナイフもありますし。やっぱりこちらの方がしっくりくるように思えてしまうのは、やっぱり習慣かもしれません。
切り分けて、フォークを刺した一口大のそれを口元へ。けれど運ぼうとするその最中に、パンの隙間からこぼれてとろりとお皿の上に小さな泉を作るチーズが見えたので、しばらくの間手を止めて。瞬きを一回、二回。大体そのくらいの時間。それが途切れてから、今度こそ。
「はぅ……」
噛んで。口に入れて、そうしてみて、サクサクと。音と一緒に感じるそれはしっかり焼かれたパンの生地、その硬さ。次いで舌が受け止めるのはまだ鉄板の熱が残る具材の柔らかな風味と食感。ハニーマスタードが作る甘みもその中にありました。塩気は最後に、ただ次への余韻を残す程度。ホテルで朝ごはんをちゃんと食べてきたはずなのに、シンプルなサンドイッチはどうしてでしょう。食事をしよう、と。見た目以上にこれは、頬張る誰かをその気にさせてきます。
隙間から落ちて、溢れるほどに見えるチーズの量は多くても、味は意外なほどあっさりめ。そしてほのかに鼻につく酸味のあるこの香りは、サワークリームでしょうか。ソースの中に感じるヨーグルトに似た風味と、音。そう、音です。パンに挟まれた野菜もまた気がつけばシャキシャキと、そんな音色を奏でて。途端に始まるそれは合奏のように。レモンやトマトのすっきりとしたその後味も含めて、どれか一つが前に出すぎることなく全部がきれいに重なり合う──なんだか、とても不思議な味。おいしくて、印象に残る味。だからはっきり思い出に残ってくれるはずです。きっと昨日わたしが口にした、ブロスターの身がたっぷり詰まったサンドイッチと同じくらい。
……思い出。そしてふと、思い立って。わたしは一度、食器をお皿の脇に置いてから、今度はミックスオレの方へ手を伸ばしてみます。透き通ったグラスの中を満たす液体は淡い蜜柑色。濁ってはいませんし、口に含めば鼻を抜けていくこの香りもどこかすっきりとした果実特有のものでした。わたしが好きなミルクの柔らかな味だってちゃんとそこにはあって、けれど。どちらにしても、このミックスオレは懐かしい記憶の中にあるそれと。アローラで親しんだものとは違う味で、違う香りがするものだったのだと思います。
「……ん、──ふふっ、そうですね。ピッピちゃんも、そう思ったんですね」
ぴぃっ。その声はお腹から。いえ、わたしの膝の上から響く声です。きっと美味しかったのでしょう。お皿にあるものよりは一回り小さなサンドイッチ。喜んで頬張るピッピちゃんがそこにいました。そんな様子。横目にしながら、そして思考はそこそこに。わたしも気がつくとまた食器を手に、目の前の食事に集中していて。
聞き慣れた、けれどやっぱり遠い異国の旋律に混じってコポコポと。演奏はまだ続いています。代わる代わる、その時々で合奏のお相手を変えながら。今度のそれはコーヒーサイフォン。いつの間にか、またどなたかが注文をされたのでしょうか。砕いた豆の香りはふわりふわり、カウンターのその向こうから湯気と共に運ばれてきていました。
湯気が続く先を辿ってふと、止まる視線。──自然と、そうなってしまいました。それがたまたま目について。奥にある瓶の一つ。ラベルに書かれた名前は当然コーヒーの、その豆の銘柄のもの。
その農園はアーカラにあるそうですが……わたしが唯一、ちゃんと味を知る豆の名前です。博士のところにお世話になっていた時に。初めて淹れてもらって、口にして。
(飲み物の注文は、こっちにしてみてもよかったかもしれませんね。兄様みたいに、まだミルクも何も入れず口にしたりはできなくても)
そんな雰囲気。きっとここには、そんな何かがあったのかも。この懐かしい音色に誘われる誰かが少しだけ背伸びをして。嫌いではなくても、普段好んで飲むことのないそれを、あえて口にしたくなるような。
だから。わたしもたぶん、そう思いました。懐かしさを今日ここに、新しい"憩い"の中に運ぶメロディが満たすお店の中で。昔はわたしと同じように、ミルクとお砂糖をたっぷり入れないと真っ黒なそれを飲むことができなかった──そんな兄様のことを、思い出したりもしながら。