「──はい、ではお一人でのご来場ですね」
頷いて答えるわたしが伸ばす手には、小さな半紙。カウンター越しにそれを受け取る方はほほ笑んで、その少し後に聞こえる音がひとつふたつ。紙面を走るペンの音。そして、そう。小箱の中から何かを探るような音も。ふと浮かんでいたそんな想像は、はたして正しかったのでしょうか。さておきその後には判子が押されたチケットと一緒に、特徴的な形のそれが返ってきます。細く長い帯状の紙片はまるでリボンのようにも見えますけれど……端の方にはこのアトリエのロゴと今日の日付が刷られていたので、違うはずです。
「こちらが入館証となりますので、アトリエを見て回る際はどうか忘れずお持ちください。見ての通り身体のどこかに巻いておけるような作りのものとなっておりますので、一度出て再度入場される場合にも見える位置にこれをおいていただければと。ああ、それと……あら?」
耳にする言葉にわたしは納得して。けれど受付の方はやっぱりというか、違ったみたい。その説明は、最後まで行われることなく途中で止められてしまいます。代わりに続くその声は疑問を含んで、そして視線も、たった今何かに気づいたように。向き合う中で傾きを増して。向かうのは、わたしの足元にです。
さっきの路地裏での出来事を心配してくれているのか、ボールに入りたがらない
「あ……ごめんなさい。その、やっぱりボールに戻した方がよかったでしょうか?」
「いえ、構いませんよ。可愛らしい同伴者さんですね」
返答。一拍置いて、それはくすりと。柔らかい声を伴いながら返ってきます。まるで歓迎しているような反応は──はい、そうですね。思っていたようなそれとは少し違いましたから、今度はわたしが不思議に思う番。
「置いてある展示物は全て、やんちゃな子たちが多少悪戯をしても大丈夫なようにしてありますから。なので通路を塞ぐような大きさの子でない限り、連れて歩くのも問題ありませんよ」
それに、と。受付の方は続けます。大人しい子みたいですね。それはその方がピッピちゃんを見て、口にした感想。けれど確かに、わたしもそう思います。元気はいっぱいでもお行儀はいい子です。こういう場所で騒いだりする姿は見たことがありませんし。もしかするとそれは母さまのピクシーと一緒にいることが多かったからかも、なんて。一瞬脳裏に浮かんでいたそんな懐かしい記憶に、今はそっと蓋をして。改めてわたしが意識を向けるのは、まだ少しだけ続きを残しているらしいその説明と。そして、そうです。
そっと伸ばされた手が入口を示す、その場所に、です。
「お客様によっては
昨日改めてホテルで開いた画集。そこにあったものとは違うのでしょうか? 額に飾られ、続く
「ともかく、ようこそアトリエヒウンへ。どうぞパートナーのポケモンたちとご一緒に、アーティ様の世界を。多様な色彩と優美な線が語る虫の世界を、心ゆくまでお楽しみくださいませ」
◇
一歩、一歩、また一歩。足を前に進めるたび、靴裏から返ってくるのは柔らかな布地の感触。厚い絨毯の、通路に沿って敷かれたこの布地が音を吸ってしまうからでしょうか。まばらに人の姿が見えるアトリエの中は、けれど不思議なほど静かな光景が続いています。
光景。そうです、視界に映るこの景色だって同じように静かなものでした。虹色。印象的で、もしかするとほんの少し
今この白い、ひっそりと続く通路を飾るものと言ったら、せいぜいが靴底に触れるカーペットのその色と、タイル張りになった床が描く白と黒。そのモザイクの色くらい。アトリエそのものはどこまでも落ち着いた内装になっているようでした。だから賑やかさ、それを作る虫たちはきっと、今はどこかに隠れているのかも。
「『石が見る夢』……描かれているのはイシズマイさん、みたいですけど」
そして、もしその子たちがいるとすれば……きっとこの中。絵の世界に、でしょうか。
そんな思いから向けた視線の先。この個展で最初に目にした絵は、ぐんにょりと。
納得と共に呟いて、静かに声に出してみます。唇の動きでなぞるそれは額の下、プレートに刻まれていた文字の、音の並び。『石が見る夢』。この絵のタイトル。耳から頭へ。響く声が名前を届けたその後には、同じように意識にのぼる言葉がもう二つ。不思議と不条理。それは絵の感想としてどうなのでしょうと自分でも少し思ってしまいますが、事実そう見えるのだから仕方ありません。技法としてはカリカチュアのように。でも、まるでだまし絵を描く時のような、錯覚を誘うやり方まで使われているみたいなので、一つ、これと言葉で説明するのは難しいのですけど。視覚を騙すその絵に負けないようじっくりそれを眺めていると、改めてまた感想が浮かんできました。なかなか不思議な体験です。面白い、楽しい。絵の感想よりも、そんな気持ちの方が印象として、強く胸に残るくらい。
「えっと、次の絵は──道に沿うなら、こっち。これでしょうか? あら……?」
そうしてまた、耳に届く声。ぴぃ?と、そんなふうに首を傾げたのはわたし……ではありません。今度のそれはもっとずっと下から、足元から響くものでした。視線を声がした方へと向けてみれば──
「こんな仕掛けまであるんですね……。でも、さっきのものと比べても、この絵はずっと優しいタッチで描かれているみたいですし。仕掛け絵本のようなものだと思えば……確かに、面白いかも」
画廊。ギャラリー。語源になった言葉の通り細く長く続く通路を飾るのは絵画に彫刻に、そして。その並びも含めて作品で、魅せ方。きっとそういうものなのだと、今また一つ理解します。わたしとピッピちゃん。この場所を一緒に、並んで歩く中で得られた発見。もし一人でここに並ぶ作品たちを眺めていたら、もしかすると違った見方をしていたのでしょうか。なんて、そんなもしもを想像するのも楽しいかもしれません。巡る思考はそうしてまた少しずつ、輪になった画廊を巡るこの足並みと同じように。わたしたちを先へと誘って。
「彫刻に、これは肖像画。人を描いたものもあるんですね……。あ……でも、額がしましま模様。うーん……スピアーさんの色でしょうか。警戒色……? 危険な方には見えませんけど……」
次へ。先へ向かうたび、現れる作品。また足を進めれば、さらに次。絵に限らない表現、
一歩。そうして向かう先には、また新しい景色がありました。色と線とが作る別の世界。この一つ前は銅板画だったはずですけど、こちらは普通に絵画なようです。タイトルは『月光翼』。興味があるのでしょうか。足元からは小さく、その子の鳴き声が聞こえました。なので今度は──いいえ。今度も、ですね。ピッピちゃんを抱き上げて、一緒にこの絵を観賞してみることに。この子がまだピィちゃんだった頃と比べると抱えるような形にはなってしまいますが……えいと力を入れればまだどうにか、そうすることは叶いました。
「こっちは──今度は普通に絵画……で、いいんですよね。ピッピちゃんも気になりますか?」
ぴっ、と声を上げてのお返事。さっきよりも元気よくそれは返ってきましたから、やっぱり何か、この絵からは強く感じるものがあったのでしょうか。月光を浴びて舞うバタフリーを飾る
「きれいで、幻想的なのに写実的で、すごくリアリティのある絵……やっぱりこういう作品って、実際に目にしたものを描いていたりするんでしょうか」
「うーん、そのつもりで描こうとはしたんだけどね。行ってみてびっくり。意外と暗いんだ、カントーの森ってさ」
実際その時見つけたのはモルフォンだったし、月も隠れちゃってたしでどうしようかなーと迷ったよね。聞こえる言葉。すぐ傍、傍らから聞こえる声でした。いつの間にか生まれていた誰かの気配にびくりとわたしの肩は跳ねて。けどまあ、迷った結果がこれかな、と。けれど続く言葉は否応なしに、それが誰に向けられていたものなのかを教えてくれました。
「あ、えっと……」
言葉。説明。それを口にする誰かは、先ほどの。わたしの呟きに答えていたのだとわかります。返答を意図していなかった言葉にそれがあったことに驚いて、何より、そうしてそちらを振り返って、その方の顔を視界に収めた途端、さらに胸の中。その思いが増していくわたしがいました。
「──」
しぃ、と。口元に指をあてる仕草。視界に映る光景を前に、言いかけた言葉、驚きも疑問も、けれどひとまず飲み込んで。いち、に。ほんの少し、それから、きっと瞬きを二度挟むくらいの時間が経ってからです。静かに小さく、頷きで返すそれがわたしの、その方へのお返事。どうして、なぜ。今頭に浮かんでいたような疑問の答えをすぐに用意するのは、もしかすると難しいのかもしれませんけど。その仕草が伝える意図。それだけはちゃんと、一番始めに受け取ることができていましたから。
「……この絵、虫ポケモンを描かれているんですよね? 野生の子たち、ですか?」
「野生──は、半分くらいかな。もう半分はジムで育ててる子と、僕の手持ち。別に取材に行かなくても普段一緒にいるだけでさ、あるんだよね。毎日、いろいろ」
聞きたい?と、尋ねてくるその方、アーティさん。他ならぬ作者の方のご登場。その提案だって同じように突然で、きっと驚くようなものでした。けれど今度は驚きはしても、迷いません。だって返す答えはもう決まっていました。こくりと。だからわたしは、また頷いて
「はい。よかったら、ぜひ。ここにある絵のお話、聞いてみたいです」
嬉しい機会。手がけた方ご本人からその作品の説明をしていただける機会なんて、きっとそうあることではありませんから。芸術、それを観賞すること。どんなものとしてそれが自分の目に映って、どんな感想を抱いたのかというその過程はもちろん、大事なもの……なのだと思います。さっきまでわたしなりに築いてきたそんな諸々の答え合わせをするのは、だから、絵画の楽しみ方としてはやっぱり違うのかもしれませんけど。それでもこの時、自分が巡らせていた想像よりずっと、この方の。この素敵な作品たちが、どういった形で描かれたのかという、その過程。それがきっと、気になったのです。
そうして、聞かせてくださった作品にまつわる様々な話。もちろん最初は、目の前にあるこの絵のお話から始まります。続く説明は彫刻についてで、その後にはまた別の。
『たまーに連れて来るんだよね、
育てればまあ強いし、見た目も可愛らしいしで人気なのかもね。その部分だけは
「あー、そうだ」
それは、ふと思い出したように。一言。続くお話は、そんなふうに始まります。更に、いいえ、突然に。けれど、そう。話題が変わった、という感じともその口ぶりは違っていて。どちらかというとそれは、たぶん、話題が終わったからこその切り出し方。
「ね、君さ。虫ポケモンは好き?」
質問。聞かれたのは、わたしのこと。やっぱりそれは突然で。つい先ほど、最初に声をかけられた時と同じように、もしかすると少しだけ、今この瞬間のわたしもびっくりしてたのかも。それでも今度は、特に迷うことなく。わたしの答えはすぐに出てきます。
「はい、わたしも……大好きです。その子たちのこと」
手持ちにもいますし、ずっと一緒に旅だってしています。だから当然、答えは大好き。胸にあるのはその気持ちです。虫ポケモンだから──という理由ではありませんけど。それでも大切で、大好きな。今はボールにいるその子だってピッピちゃんと並ぶわたしの旅の仲間で、パートナー。そう思っていますから。
「そっか。じゃあ、もし手持ちにいるならさ。その子のこと、大事にしてあげてほしいかなって」
それじゃあね、と。また一言。最後に、けれどきっと、それが一番伝えたかったことなのかも。作品を語る時のそれと比べると意外なほど短い言葉を残してアーティさんは一人、わたしたちが進む道から外れるようにこの場を去って行きました。
ゆっくり遠ざかるその姿を見送って、そして。静けさを取り戻したはずの場所にもう一度、変化が生まれたのもその時です。耳ではなく身体を伝わる小さな揺れ。それを感じたのはポケットの中。音を立てて、カチリ。何かが開く気配もありました。その後、瞬いた光は赤く、一瞬だけわたしたちの視界を染めて。目の前に現れる色と形。黄色と白と、三つ並んだ輪っか模様。わたしは側に現れたその子に首を傾げて、それから一言、問いかけます。
「……その、どうしたんですか?」
震えるように小さく鳴いて。その子のお返事、返ってきた答え、それを耳にして。ふと、気が付きました。その声はわたしへ。けれど、その視線は真っ直ぐ、わたしから離れたどこか遠くへと向けられています。たぶん、背にした方に存在する何かへ、です。そちらにあるのはさっき通り過ぎた、わたしとピッピちゃんが見て触れてきた光景。ちょうど今アーティさんが去っていった方に並ぶ作品たち。どうやらそれが気になるみたいで。
目の前にはまだ道が続いていますが、これから向かう先にある景色は……それこそ、今日これから、みんなで一緒に見て触れていくわけですから。だからわたしたちを待つ、道の先に並ぶ新しい世界には一旦お別れ。それは後のお楽しみにすることにして。そうしてその子に誘われるように向かった先で。わたしも改めて、その絵を眺めてみます。
「ああ──やっぱり。気になったのはこの絵、なんですね」
『紡錘形のハニカム』。プレートに刻まれた文字の並び。それが、この絵のタイトルみたいです。細長い繭のような、その子たちの巣の形を模した枠。もしかすると、どこかの公園で見かけるような形をした遊具の中。並ぶハニカムから顔を出すミツハニーと、影になった場所で寝転がって戯れるアブリーたち。
「ふふっ。それじゃあ、一緒に見て回りましょうか。アブリボンちゃんも」
もう一度、改めて。けれど今度はわたしから、その子へのお誘い。それを言葉にして伝えます。ぴぃっ、と。ピッピちゃんも一緒にここを見て回る仲間が増えたことに嬉しそうな声を上げて。答えるアブリボンちゃんもそうしてまた、同じくらい嬉しそうに。もし、この光景にタイトルをつけるなら──それはどんなものになるのでしょうか。その時ふと、わたしの頭に浮かんだことです。うぅん……やっぱり『旅の仲間』、とか?