路地裏の奥深く。
ひっそりと暖簾を掲げるその店は、昼間だというのに薄暗く、泥と安酒の匂いが染みついていた。
お世辞にも清潔とは言えない店内。
料理といえば、市場で余った傷ものの野菜炒めと硬い肉くず。
酒も、水で薄めたように酸っぱい最安値のエールだ。
客層も、その日の日銭を稼ぐのが精一杯といった風体の泥臭い男たちばかり。
だが――現在のザジにとって、この居心地の悪さこそが、唯一まともに息を吸える場所だった。
「悪いねぇ。久しぶりの再会だってのに、こんな薄暗い店で乾杯させることになっちゃって」
ザジが申し訳なさそうに頭を下げ、木目の荒い使い古しのジョッキを持ち上げる。
「いえ、気にしないでください。俺、こういう店は嫌いじゃないです」
サウザーもジョッキを持ち上げた。
カツン。
軽い音が響く。二人は同時に酒を口に含んだ。
「……」
やはり、お世辞にも美味いとは言えない。
熟成のコクも風味もなく、ただ手っ取り早く酔うためだけに作られた雑な味。
だが、その舌を刺す苦味とともに、サウザーの胸には三年前の記憶が鮮明に蘇っていた。
自分の才能のなさを嘆き。
誰にも見向きもされない泥臭い依頼をこなし。
それでも毎日、必死に生きていた一人の男。
目の前にいるザジは、今もあの頃と何も変わっていない。
少なくとも、サウザーの目にはそう映った。
「……君もさ、どこかで変な噂を聞いた口かい?」
ザジはエールを飲み干すと、両肘をテーブルについて深々と溜息をついた。
その顔には、世間の過熱した騒ぎとは正反対の、深刻な疲労と困惑が刻まれている。
「はい。ギルド本部でも大騒ぎになってました。『目覚めた天才』だとか」
「どういうわけか、最近急に俺が強くなったなんて話になっていてね……」
ザジは頭を抱えた。
「稼ぎも急に良くなったもんだからさ。柄にもなく、ここより高くて美味い酒と料理を出す店に行ってみたんだよ」
「どうでした?」
「……駄目だった。三分で店を出た」
ザジは即答した。
「何が駄目だったんです?」
「周りの奴らの『視線』だよ」
心底うんざりした顔で、ザジは顔を顰める。
「『あの噂の……』だの、『伝説の秘術の継承者……』だの。俺が席に着いた瞬間、見知らぬ連中がヘラヘラ笑いながら群がってきてさ」
「……」
「手下にしてくれだの、強くなる秘訣を教えろだの、うちの大型クランの幹部に迎えたいだの……気味が悪くて、まともに酒の味すら分からなかった。俺にはやっぱり、こういう不味い店の方が性に合ってるよ」
「不味くて悪かったな」
カウンターの奥でフライパンを振っていた店主の親父が、ギロリとこちらを睨みつける。
「……あ、いや! 言葉の綾です、親父さん!」
ザジは慌てて胸の前で両手を合わせた。
親父は鼻を鳴らし、再び料理へと視線を戻した。
サウザーは思わず苦笑した。
三年前と何ひとつ変わっていない。
いや……世間から持ち上げられている分、むしろ三年前より肩身の狭い思いをしているのかもしれない。
「……本当に、何があったんですか?」
サウザーは姿勢を正し、改めて尋ねた。
「ザジさん」
世間では「目覚めた天才」だとか「封印されていた凄腕」だとか、勝手な尾ひれがついている。
ある日突然、未知の力に目覚めて別人のように強くなる天才が、この世界には確かに存在する。
だが――サウザーの知るザジという男は、そんな都合のいい奇跡とは対極にいる人間だった。
三年間、器用貧乏の限界に悩み、仲間と別れて路頭に迷っていた自分が出会ったおじさん冒険者。
三十年近く、薬草を摘み、ゴブリンを倒し、「弱い自分はどう生き残ればいいのか」を泥にまみれて問い続けていた男。
そんなザジが、ある日突然「奇跡の覚醒」を果たしたなどとは、サウザーにはどうしても思えなかった。
ザジはジョッキのフチを指でなぞりながら、静かに首を横に振った。
「きっかけなんて、自分でもよく分からないんだ」
「……」
「世間じゃ覚醒だ何だと大騒ぎしているけどね……」
ザジは少し遠くを見るような、静かな目をした。
「俺自身にしてみれば……今まで三十年間、泥水をすすりながらやってきたことが――ある日突然、ガチャリと音を立てて歯車が噛み合っただけに過ぎないんだよ」
サウザーはハッと息を飲んだ。
奇跡などではない。
三十年という気の遠くなるような時間をかけて積み上げてきた「問い」と「実践」。
それがついに極限に達し、一つの形として結実した。ただそれだけなのだ。
「なのに……」
ザジは眉間に深い皺を寄せる。
「周りの奴らは、俺の泥臭い三十年なんて知りもしない」
「……」
「キラキラした目で、『天才』なんて呼んでくるんだ」
「……気持ち悪い、ですか?」
「うん、超気持ち悪い」
ザジは即答し、溜まりかねたようにエールを一気に煽った。
「だいたい『目覚めた天才』って何だよ! 俺は三十年間一度も寝てねぇよ! 天才なわけねぇだろ!」
酔いが回ってきたのか、珍しい大声だ。
「や、やっぱり死ぬほど嫌がってたんですね……!」
想像通りのリアクションに、サウザーは思わず吹き出しそうになるのを必死で耐えた。
「昔から俺は俺だ。才能なんてなかったし、今だって自分が特別な人間だなんて思っちゃいない」
ザジは空になったジョッキを凝視する。
「なのに……急に周囲の目だけが変わった」
そして、ぽつりと呟いた。
「……強くなるって、こういう虚しいことなのかね」
サウザーは答えることができなかった。
自分が「最強」を求めて旅を続けてきたからこそ、なおさら胸に刺さった。
もし自分が誰もが認める強さを手に入れたら、誇らしいはずだと思っていた。
だが、目の前の男はその強さを手に入れた結果――世界から自分の「本当の歩み」を否定され、居場所を失いかけている。
「……そう言えば、あれだよ」
ザジが唐突に思い出したように話題を変えた。
「以前ね、高ランクモンスターに襲われてピンチだった若い女の子の冒険者を助けたことがあるんだ」
「え!?」
サウザーは思わず身を乗り出した。
「ピンチの女の子を救った!?」
それは、物語に出てくる冒険譚のような展開ではないか。
危機に陥った美少女を颯爽と救う謎の凄腕冒険者。そこから始まる甘い展開――。
ところが。
「速攻で逃げた」
「えぇ!?」
ザジは至って真顔だった。
「いや、その子が俺のことを命の恩人だって感激してくれてね。かなり熱心に言い寄ってきてくれたんだけど……俺には無理だった」
「な、なんでですか!? 絶好の機会じゃないですか!」
「嬉しい気持ちはあったよ? 俺だって男だしさ」
「だったら!」
「でもねぇ……」
ザジは困ったように頭を掻きむしった。
「三十年も『冴えないおっさん』として生きてきたんだぞ? 突然そんな若い子にちやほやされたって『どうせ噂に惑わされてるだけだ』『正気に戻ったら俺みたいな中年、絶対捨てられる』って、惨めな考えばかり浮かんで……勘弁してくれって逃げ出すのが関の山だったよ」
「…………」
切なすぎる。
思わず絶句してしまうのは、自分がまだ若いからだろうか。
ザジの三十年間。それは称賛されるべき偉業だ。
だが同時に、この男の自己評価を「一生分」歪めてしまうほど、残酷な歳月でもあったのだ。
「……で、その女の子とはどうなったんです?」
「今もギルドで待ち伏せされてるから、俺が裏口から全力逃走してる」
「そっ……すか」
サウザーは溜息をつき、苦笑するしかなかった。
「まあ、そんなわけで」
ザジは手元のジョッキを見つめた。
「今日、君がこうして訪ねてきてくれて……本当に救われたよ」
「ザジさん……」
「数日の付き合いだったけどね」
ザジは、今日一番の柔らかい笑みを浮かべた。
「俺の『本当の姿』を知ってくれてるのは、世界で君くらいなもんだからさ」
その笑顔には、一切の飾りがなかった。
過大評価も、過小評価もしない。
三十年間、愚直に泥をすすってきた自分を知っている。そんなサウザーとの再会を、心から喜んでくれている。
「俺も……またお会いできて本当に良かったです」
サウザーが胸を張って答える。
しばしの間。
薄暗い酒場に、穏やかで温かい静寂が流れた。
だが――。
ザジの笑みが、ふっと消えた。
「……実はね、サウザー君」
「はい?」
ザジはしばらく固く口を閉ざしていた。
そして、鉛のように重い声で呟いた。
「俺……冒険者を辞めようか悩んでるんだ」