雑木林を抜ける風が、かすかに落ち葉を揺らしていた。
「まあ、まずは軽く足慣らしといこうか」
ザジは腰のベルトに差した使い古しの手斧に手を置き、いつもの冴えない調子でぽつりと呟いた。
目の前に立ち塞がるのは、十数匹のゴブリンの群れ。
普通なら、中級冒険者の小隊が慎重に連携を組み、間合いを詰めながら対処する規模だ。
だが、二人の間に緊張感はなかった。
サウザーは研ぎ澄まされた思考で敵の筋肉の動きを読み、初級魔法と投げナイフを繋いで無駄なく仕留めていく。
その隣で――ザジは、まるで散歩でもしているかのようだった。
「ギャッ!」
一匹のゴブリンが、殺気を剥き出しにして木製棍棒を振り下ろす。
ザジは避けようとすらしない。
ただ――ほんのわずか、ミリ単位で半身を引いた。
頭上を掠める棍棒。そのすれ違いざま、ザジの右手が無造作に一閃する。
「……」
ゴブリンが力なく倒れ伏した。
力んだ様子もない。大きく振りかぶってもいない。
ただ「そこに死角となる急所があるから」と言わんばかりに、最小の力と最も効率的な角度で手斧が振るわれていた。
(……なんだよ、それ)
サウザーの背筋に冷や汗が伝う。
その直後――「ギャアアアッ!」と林の奥から咆哮が響いた。
現れたのは、巨大な鉄塊の大剣を構えたゴブリンリーダーだ。
地面を揺らして激突してくる巨躯。
頭上から振り下ろされる直撃必殺の一撃。
だが、ザジはただ、静かに一歩前へ踏み出していた。
――カツン。
乾いた小さな音が響く。
ザジの手斧の背が、振り下ろされる大剣の根元へほんのわずかに接触した。
ただそれだけ。
だが――それだけで、大剣の軌道が数センチだけ歪む。
ドガァンッ!と地面を砕いた大剣の真横を、ザジは滑るように通り抜けた。
「……よいしょ」
手斧が、軽やかに閃く。
ガラ空きになった首筋の関節へ、寸分の狂いもなく刃が吸い込まれていった。
ドサッ……。
首を分かたれた巨体が崩れ落ちる。
「…………」
サウザーは息を忘れて佇んでいた。
魔力を込めた大技ではない。特別なスキルでもない。
ただ「そこへ刃を置けば倒せる」という世界の法則に従ったかのような完璧な一撃。
それはもはや、技術を超えた【神技】だった。
「ザジさん……」
「ん?」
「今の……何ですか……?」
「んー? いつも通りだよ?」
ザジは不思議そうに首を傾げた。
(この人は……本当に自分が何をやっているのか分かっていないのか……!?)
サウザーは額の汗を拭った。
◇
討伐を終え、林を抜けた先の広大な草原。
ザジが足を止め、サウザーへ振り向いた。
「……サウザー君。少し、手合わせしてみるかい?」
サウザーの胸が高鳴った。
三年間、愚直に思考を研ぎ澄ませてきた。
敵を観察し、行動を読み、初級の手札を完璧に繋ぎ合わせる戦術。
今の自分が、この「絶対の師」にどこまで通用するのか確かめたかった。
「……お願いします!」
サウザーは即座に片手剣を構えた。
視線、肩の揺れ、腰のタメ、足元の重心、呼吸の周期。
脳内で超高速のデータ処理が始まる。
だが――ザジの立ち姿を目にした瞬間、サウザーは戦慄した。
攻撃にも防御にも一瞬で転じられる絶妙な立ち位置。
両手は無造作に見えて、あらゆる軌道へ対応できるニュートラルな位置。
そして何より――目線は虚空を泳ぎ、呼吸には一切の殺気も力みもない。
(……読めない!? 情報がないんじゃない……考えすらしていないのか!?)
「――ッ!」
サウザーは踏み込んだ。
思考の限りを尽くした最適解の初手。肩口を狙う鋭い突きの牽制。
だが――届かない。
サウザーが思考で「最適解」を導き出すよりも速く。
まるで「最初からそこに立つことが決まっていた」かのように、ザジの身体が滑らかに死角へ移動していた。
「くっ……!」
剣を切り返す。右、左、上段、下段。
速度を変え、間合いを眩まし、フェイントを混ぜ込む。
だが、刃はことごとく空を切る。
(なんなんだよ、これ……!?)
三年間磨き抜いてきたサウザーの「思考のスピード」が、まったく追いつかない。
サウザーが答えを「考えている」間に、ザジの肉体はすでに「正しい答え」を完璧に実行し終えているのだ。
冷たい手斧の背が、サウザーの喉元にそっと添えられた。
「……参りました」
サウザーは乾いた笑いを漏らし、剣を収めた。
「手も足も出ません……。俺の読みのさらに先をいかれてました」
「いやいや」
ザジは困ったように頭を掻いた。
「サウザー君、めちゃくちゃ強くなってるよ。ただ……俺の身体が、ちょっと変になっちゃっただけでさ」
「変……?」
ザジはしばらく沈黙し、静かに口を開いた。
「……【神域】ってスキルが、いつの間にか発動したんだ」
「神域……」
「多分、同じ動作を三十年やり過ぎたせいだな」
ザジは自分の使い込まれた手のひらを見つめる。
「考える前に、身体が勝手に答えを出してしまうんだよ。『危ない』と思う前に回避が完了してる。『ここを叩けば倒せる』と思う前に、もう斧がそこに届いている」
「……」
「思考と運動のタイムラグが完全にゼロになった。これが……【神域】だ」
サウザーは息を飲んだ。
三十年間。同じ問いを繰り返し、同じ失敗を数千、数万回と重ねてきた。
その果てに、「考える」というプロセスすら不要な領域へ肉体が到達したのだ。
「……でもね、サウザー君。【神域】だけならまだ良かったんだ。俺が三十年泥をすすってきた努力の結実として、受け入れられた」
ザジの表情が、陰りを帯びる。
「問題は……もう一つのスキルが、これと最悪の形で噛み合っちゃったことなんだ」
「もう一つ……?」
ザジは腰から手斧を一本抜き、地面へ置いた。
「……誰にも言わないでくれよ?」
ザジが手斧の柄に手をかざすと、淡い光を放つ小さな魔法陣が浮かび上がった。
「【瞬転陣(ゲート)】。事前に刻んだマーキング同士の間で、物体や自分自身を瞬間移動させる術だ」
「……瞬間移動!?」
「普通ならさ、投げた武器を手元に戻したり、数メートルの間合いを詰めるのに使う程度の便利なスキルなんだよ。……だが」
ザジの目から、笑みが完全に消えた。
「俺の【神域】と繋がったことで……連続使用のインターバル(隙)が完全に消失した」
「……え?」
「見せた方が早いか。サウザー君、あそこの大木を見ててくれ。今から薪にするから」
「え? あ、はい――」
「行くよ? 3、2、1――はい、お終い」
「――は??」
サウザーが瞬きをした瞬間。
目の前にあったはずの大木が消え去り、そこには美しく切り揃えられた【薪の山】が積み上がっていた。
「な……なに……何が起きたんだ……!?」
残像すら見えなかった。
観察眼を極限まで引き上げていたサウザーの目ですら、空間の揺らぎすら知覚できなかった。
「【瞬転陣】による連続移動。普通なら脳の処理速度が追いつかず、途中でコンマ数秒のタイムラグが生まれる」
ザジは静かに己の手を見つめる。
「だが……俺の脳と身体は【神域】で加速し切っている。だから、転移と転移の間の隙がゼロになった」
「……無制限の……連続転移……」
「そう。理屈の上では……無限に加速できる」
サウザーの背筋を、氷のような戦慄が駆け抜けた。
相手の時間を止めるのが【時間停止】なら。
ザジのやっていることは、自分の速度を極限まで高め、結果として【世界を停止させる】ことと同義だ。
「な?……反則だろ」
ザジが自嘲気味に笑った。
「三十年間、不器用なりに泥にまみれてコツコツやってきた。だからこそ、俺は自分の泥臭い力にプライドを持っていたんだ」
「ザジさん……」
「なのに……最後の手に入ったのが、こんな……何でもありのズルみたいな力だ。これを使えば、俺は誰にも負けない。誰も追いつけない。苦労も工夫も、思考すら必要なくなる」
ザジは俯き、拳を強く握りしめた。
「……怖いんだよ、サウザー君」
「……何がですか?」
「この『圧倒的な楽』に慣れてしまうことが」
ザジの声が、微かに震えていた。
「一度この力に頼ったら、二度と泥臭く考える自分には戻れなくなる。三十年間培ってきた俺の足跡が、全部偽物になっちまう気がするんだ。……俺は、それが耐えられない」
静かな草原に、乾いた風が吹き抜ける。
「だから……潮時なんだよ」
ザジは手斧を腰へ戻し、諦めたように空を見上げた。
「俺……冒険者を辞めるよ」
「…………」
サウザーは言葉を失っていた。
最強の力を手に入れた。
世界の誰よりも強く、無敵の領域へ達した。
しかしその代償として――この男は、己が三十年間愛し続けた「泥臭い自分の生き様」を失おうとしている。
「……納得できません」
サウザーの口から、低く、けれど固い声が漏れた。
ザジが驚いたように振り返る。
「サウザー君……?」
「俺は……絶対に納得しません!」
サウザーは一歩、力強く地面を踏みしめて前に出た。
「ザジさんは三十年間、周りに笑われても、才能がないと蔑まれても、絶対に諦めなかった! 自分という人間から逃げなかった!」
「……」
「『弱い自分はどう戦えばいいのか』って、毎日毎日、血の滲むような思考を積み重ねてきた! その三十年間の執念に、世界とスキルが後から追いついただけじゃないですか!」
サウザーの瞳に、熱い感情が宿る。
「そんな人が……たかが便利な力を手に入れたくらいで、自分を見失って傲慢になるなんて……俺は絶対に信じません!」
「サウザー君……」
「もし【瞬転陣】を使う時が来たとしても……それは楽をするためじゃない。誰かを絶対に助けたいと願った時だ! その力をどう使うか決めるのは、スキルじゃない……ザジさん自身です!」
サウザーは胸を張り、真っ直ぐに師の目を見つめた。
「だって……俺に『泥臭く足掻く強さ』を教えてくれた俺の師匠は、そんな弱い人じゃないから!!」
風が止まった。
長い沈黙のあと。
ザジは困り果てたように、ポリポリと鼻の頭を掻いた。
「……まったく」
参ったな、と呟くようにザジの口元が綻ぶ。
「……君には、本当に敵わないな」
肩からふっと力が抜け、ザジは温かい溜息を漏らした。
「ありがとう、サウザー君」
ふたりを包む風の中に、ほのかな草原の匂いが混じる。
だが――ザジの葛藤がすべて消え去ったわけではない。
【神域】と【瞬転陣】。世界を容易く崩壊させうる超絶な力を抱えた男が、これからどんな道を選ぶのか。
その答えは、まだ風の中に漂っていた。