薬草採取の完了報告をギルドで済ませ、俺はザジさんの家を訪れた。
街の外れに建つボロボロのあばら家。だが、一歩足を踏み入れて俺は目を見張った。
室内は驚くほど整然としていた。棚には道具や薬品、生活雑貨が種類ごとに几帳面に分類され、無駄な物が一つとして置かれていない。あのくたびれた外見からは想像もつかない几帳面さだ。
ふと見ると、部屋の隅に全身を映せる大きな姿鏡が立てかけられていた。
(……お洒落、という雰囲気でもないが)
俺が不思議そうに見つめていると、奥からザジさんが声をかけてきた。
「悪いね、ちょっと待ってておくれ。日課の記録があるから」
そう言って、ザジさんは本棚から分厚い一冊のノートを取り出し、机についた。
「ノート……? 日記ですか?」
「まあ、行動記録みたいなもんさ。今日の依頼、天候、敵の動き、成功したこと、しくじったこと……。冒険者ならみんなやってるだろ?」
「いや……誰もやってませんよ、そんなこと」
驚いて本棚を見遣ると、そこには同じようなノートがズラリと一列を埋め尽くしていた。
「もしかして、これ全部ですか……?」
「そうだねぇ。たまに読み返すと役に立つんだよ。『この時期のゴブリンは毛皮が固い』とか『雨の日の足さばき』とかさ」
息が止まった。
成功と失敗を正確に記録し、分析する。俺はそんな当たり前のことすらやってこなかった。ただ「上級にならなきゃ」「強くなきゃ」と焦り、己の足元すら見ていなかったのだ。
「ちょっと見せていただいても――」
「駄目駄目! 恥ずかしいよ!」
ザジさんは慌ててノートを隠した。
「若い頃のなんて目も当てられないよ。『今日も負けた、悔しい』とか、二十代の頃なんて世界への愚痴と恨みつらみしか書いてないんだから」
「恨みつらみ、ですか……」
「そうそう。……まあ、最初に会った時の君を見てさ、なんか昔の自分に重なって見えたんだよ」
ザジさんは苦笑する。
この人は、ただ無心に三十年を過ごしてきたわけじゃない。
俺と同じように苦しみ、嫉妬し、絶望し、それでも泥を啜って足掻き続けてきたのだ。ただ一撃の威力を追い求めるのではなく、日々の失敗と向き合い、修正を積み重ねてきた結果が――あの領域なのだ。
「よし、おしまい!」
ペンを置いたザジさんが立ち上がる。
「サウザー君、悪いけどちょっと付き合ってくれるかい?」
ザジさんは姿鏡を持ち上げ、庭へと運んでいった。
「何をするんですか?」
「素振りだよ。鏡の前でね。自分の軸がブレてないか確認しながら振るんだ」
納得がいった。お洒落のためなどではない。自分のフォームを客観視するための『訓練道具』だったのだ。
「俺も一緒に素振りをしていいですか?」
「いいけど、この鏡じゃ二人分は映らないよ?」
「大丈夫です。――『鏡面(ミラーウォール)』」
俺は右手を掲げ、魔力を練り上げた。
光、水、土の三属性の魔力を微細に干渉させ、庭の空間に滑らかな光の鏡を作り出す。
「おわ!? 何だいそれ!?」
「敵の視界を遮ったり、日常生活で使ったりする中級魔法です」
「へぇ~! 三つの属性を混ぜて鏡を作るんだ? 君、ひょっとしてすごい魔法使いなのかい?」
「いえ……構造自体は単純ですから。中級止まりです。俺、昔からこういう小器用なことしかできなくて……」
作り出した鏡に映る自分の手を見つめる。
「剣も、攻撃魔法も、回復も、補助も……全部中級で頭打ちです。突き抜けた才能がない。このままだと、いつか誰にも必要とされなくなるのが怖くて……」
「ああ、一つの技を極めた奴が強いって話ねぇ」
ザジさんは手斧を構えながら、あっけらかんと言った。
「知ってますか……?」
「知ってる知ってる。これでも昔は物語の本が好きだったからねぇ。……まあ、一時期は大嫌いになったけどさ」
「俺もです」
と、声が漏れた。
「本の中の勇者を見るたびに、『一極集中した才能』や『選ばれし一撃』を持たない自分が惨めになって……」
「あはは、分かるよ。王道物語の定番だからね。でもさ、あんまり気にしなくていいんじゃないかい? 俺なんて三十年やって覚えたの手斧四本だよ?」
「でも……今のパーティー戦って、一つの分野を極めた天才たちが主役なんです。俺みたいな中衛は、前衛と後衛の間で穴を埋めるだけの便利屋で……」
「穴を補う、か。……でもさ」
ザジさんは鏡に映る自分の姿を見つめながら、静かに手斧を振り下ろした。
――シュッ。
風を切る音すら聞こえない。無駄を極限まで削ぎ落とした素振り。
「それって、一番難しくないかい?」
「え……?」
「前衛の間合いも、後衛の隙も、回復のタイミングも……全部理解してなきゃ『補う』なんてできないでしょ。俺なんて手斧とゴブリンのことしか分からんよ。魔法も剣術も使えない。でも君は……何でもできるんだろ?」
「……ですが、どれも中級です。天才の一撃には届きません」
「ならさ」
ザジさんは手を止め、鏡越しに俺をまっすぐに見つめた。
「中級のカードを十枚持ってるならさ。それをどんな順番で繰り出すか……盤上のゲームみたいに相手の何手も先を読んで、逃げ道を一つずつ潰してみたらどうだい?」
「相手の……先を読む……」
「剣術で受け止められなくても、土魔法で足止めして、風魔法で体勢を崩して、隙間に短剣を滑り込ませる。一つ一つは浅い手でも、途切れない手数の波で倒せばいい。……まあ、素人の俺の感覚だけどね」
ザジさんは照れくさそうに笑い、再び静かな素振りに戻った。
「そういえばさ。俺、今はまた物語の本が好きなんだけどね」
「……そうなんですか?」
「うん。やっぱりカッコいいじゃない、王道の勇者たち! 泥臭い生活してるとさ、逆にそういうのが最高の癒やしになるんだよ」
憧れから、癒やしへ――。
ザジさんのその言葉を聞いた瞬間。
俺の中で、長年こびりついていた『呪い』の正体が、解き解かれていく感覚がした。
(そうか……)
俺は、物語の勇者たちに『負けたくなかった』んだ。
一極集中した天才しか評価されない世界で。
「器用貧乏」と笑われる自分が、極めし者たちに負けないことを証明したかった。
それなのに、いつしか「上級になれない自分」に絶望し、自分で自分にゴミのレッテルを貼っていた。
物語の主人公たちへの憧れは、いつしか「越えるべきライバル心」に変わっていたのだ。
「ザジさん……ありがとうございます」
「ん? 何か言ったかい?」
「いえ! なんでもありません!」
俺は作り出した『鏡面』に向かい、腰の片手剣を抜いた。
一本の強靭な鋼から鍛え上げられた名剣にはなれない。
世界を滅ぼす極大魔法も撃てない。
だが――
欠けた刃、小さな魔法、泥臭い小技。
どれも中途半端な手札だとしても。思考という糸で過不足なく繋ぎ合わせ、絶え間ない手数の波として叩きつけたなら。
「つぎはぎの刃でも……突き立てれば、心臓に届く」
最強の一撃を持たない俺の、俺だけの戦い方。
暗闇の中に、確かに一筋の光が見えた。