街の文具店で、俺は革表紙の一冊のノートとインク筆を買った。
ザジさんの家で見せてもらった無数の日記。失敗、成功、天候、敵の癖、その日の思考――それらを克明に記録し、反省を繰り返すことこそが、あの人の強さの土台だった。
(やるべきことのリスト。思いついた連携。今日の反省……全部書き留めよう)
形から入ると言われればそれまでだ。だが、ノートを懐に収めた時、背筋がすっと伸びるような感覚があった。
◇
その日の依頼は、ザジさんとのゴブリン討伐。
カイルたちと別れて以来、初めての共同クエストだ。
ただし「共同」と言っても、お互いにあえてあわせるような連携は取らない。俺が学びたいのはソロでの立ち回りであり、ザジさん自身も誰かと足並みを揃える戦闘には慣れていないからだ。
「サウザー君、無理は禁物だよ?」
「はい。今回は……初級技を中心にコンボを試してみます」
例えば、五匹のゴブリンなら中級魔法『火壁(フレイムウォール)』で一気に焼き払える。だが、それでは意味がない。強力な一撃に頼るのではなく、小さな手札を途切れることなく繋ぎ合わせ、相手を「詰ませる」戦術を構築するのだ。
「シュッ――『微風(ウインド)』!」
小さな風の刃を放つ。殺傷力はないが、迫るゴブリンの目元をかすめ、視界と意識を強引に奪う。
相手が思わず足を止めたその0.5秒の隙。低く踏み込む。
「『脚部強化(ブースト)』!」
一瞬だけ脚力を底上げし、間合いを詰めて膝裏を浅く断ち切る。
崩れ落ちるゴブリン。トドメを刺す前に、背後から迫る二匹目の気配を察知し、地に左手を突いた。
「『土突(ストーンスパイク)』!」
足元から突き出た拳大の岩が、二匹目の顎を跳ね上げる。
宙に浮いた無防備な喉元へ、片手剣の突きを深く叩き込む。
(いける……! 一つ一つは浅い初級技でも、隙なく繋げば反撃の余地を与えずにハメ殺せる!)
手応えを感じつつ、泥臭く技の鎖を繋いでいく。
ふと、少し離れた場所にいるザジさんへ視線を向けた。
あちらは手斧を振るい、一匹、二匹と実に淡々と、作業のようにゴブリンを処理している。
その時だった。
(――あ、やばい)
背筋に冷や汗が走る。
ザジさんの周囲に、一瞬で死の気配が満ちた。
前方からゴブリンリーダー一匹と、巨体を持つホブゴブリン一匹。さらに死角となる背後から、ナイフを構えた三匹のゴブリン。
完全な包囲網。逃げ場のない死角だ。
「ザジさん――ッ!」
俺が地を蹴ろうとした瞬間、ザジさんと視線が交錯した。
ザジさんはひらひらと片手を振る。
――『入ってくるな』という、静かで絶対的な拒絶。
ザジさんは正面のリーダーを視界に収めたまま、腰のアイテムバッグへ無造作に右手を滑らせた。
一切の目線移動がない。完璧な手探りで取り出されたのは、小さな赤い瓶――初級ポーション。
(いま回復薬を……!? まだ傷は負ってないのに!?)
驚く俺の目の前で、ザジさんはポーションの栓を歯で引き抜き、中身を口に含んだ。
ゴクンと呑み込まない。口の中に溜めたのだ。
直後――五匹の魔物が一斉に躍りかかった。
ザジさんは最小限の運足でリーダーの長剣をかわし、手斧でホブゴブリンの首を浅く切る。同時に二本目の手斧を背後へ投擲し、ゴブリン一匹の額を叩き割る。
だが――包囲網の密度が勝った。
左右から残る二匹のゴブリンが、死角からナイフを突き立てる!
回避不能。完全な被弾のタイミング。
(食らう――っ!)
そう確信した瞬間。
刃が肉を裂くコンマ一秒前、ザジさんの喉仏が『ゴクン』と強く動いた。
被弾の直前、口に溜めていたポーションを飲み干したのだ!
「ガっ……!?」
ナイフがザジさんの脇腹と肩を深く引き裂く。血が噴き出す。
普通なら痛みに顔を歪め、体勢を崩して次の追撃で殺される場面だ。
だが――あらかじめ胃に流し込まれた回復薬の効能が、被弾と『同時』に全身へ急速巡回。凄まじい激痛と衝撃を、強引に殺し込んだ!
体勢が――ミリ単位すらブレない。
「――フッ!」
死角からの痛みを無効化した瞬間、ザジさんの両手の手斧が閃いた。
クロスを描いた刃が、交差するように二匹の首を同時に刎ね飛ばす。
残るは怒り狂ったゴブリンリーダー一匹。
部下を一瞬で失い、襲いかかるリーダーに対し、ザジさんは静かに踏み込んだ。
一手。長剣を刃の根元で受け流す。
二手。体勢の崩れた膝を容赦なく蹴り折る。
三手。立ち上がろうとする喉元へ手斧の柄頭を叩き込む。
四手。崩れ去る頭部を、冷酷なまでに正確に切断した。
静寂が戻る。
「お〜、痛たた。危なかった~」
ザジさんは首をすくめ、血の滲む革鎧をさすりながらヘラッと笑った。
俺は開いた口が塞がらなかった。
(今のは……なんだ……!?)
回復薬は傷を負った『後』に使うもの。それが世界の常識だ。
だが、この人は違った。
避けられない攻撃を受けると判断した瞬間、被弾する『直前』に回復薬を服用し、激痛によるノックバックと体勢崩れを相殺したのだ。
ゴブリンの攻撃なら、傷を負っても動きを止めさえしなければ殺せる。
その冷酷なまでの計算と、自分の肉体を駒として扱う泥臭さ。
それだけじゃない。
あの乱戦の真っ只中で、ザジさんはアイテムバッグの中に一度も目線を落とさず、一瞬で目的のポーションを引き抜いていた。
(……そうだ。あの人の家は、あばら家なのに完璧に整理整頓されていた……!)
あのバッグの中も同じなのだ。
何がどこにあり、どう手を伸ばせば手探り0.1秒で取り出せるか。すべてが完璧に配置され、管理されている。
几帳面なのではない。
あれはすべて――生き残るための『戦術』だったのだ。
「おーい、どうした? サウザー君?」
血を拭いながら、ザジさんが不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
「……あの! 今の事前ポーション服用って、どこまで効果があるんですか!?」
「ん~? タイミングを間違えれば普通に痛いし、痛みがちょっと和らぐ程度だよ? 真似しちゃダメだよ、体に悪いから」
「……っ!」
全然甘くない。だが、だからこそ本物だった。
俺は胸のポケットにある、買ったばかりのノートを服の上から強く握りしめた。
道具の整理整頓。
日々の反省ノート。
相手の先を読む戦術。
初級・中級技の連続攻撃(コンボ)。
被弾すら計算に入れる泥臭い生存術。
(……考えるべきことは、山ほどある!)
「最強の冒険者」への道は、果てしなく遠い。
だが今の俺には、絶絶望ではなく、越えるべき具体的な課題が山のように見えていた。
その日の帰り道、夕暮れの街道を歩く俺の足取りは、ソロになってから一番軽かった。