街の文具店で、俺は一冊の革表紙のノートとインク筆を購入した。
昨日、ザジさんの家で見せてもらった無数の日記。
自分の失敗、成功、天候、その日の思考――それらを克明に記録し、反省を繰り返すことこそが、あの人の強さの土台だった。
(やるべきことのリスト。思いついた連携。今日の反省……全部書き留めよう)
形から入ると言われればそれまでだ。だが、ノートを懐に収めた時、どこか背筋が伸びるような感覚があった。
その日の依頼は、ザジさんとのゴブリン討伐。
カイル達と別れて以来の誰かとの共同クエストだ。
ただし、共同と言ってもそのやる事は違う。
今回は討伐数は特に決めていない。
そして――お互いにあえて「連携」を取らないこと。
もちろん、本当の危機になれば助け合う。だが、俺が学びたいのはソロでの立ち回りであり、ザジさん自身も誰かと足並みを揃える戦闘には慣れていない。
「サウザー君、無理は禁物だよ?」
「はい。今回は……初級魔法を中心に試してみます」
例えば、五匹程度のゴブリンなら、中級の『火壁(フレイムウォール)』を放てば一気に焼き払える。だが、それでは意味がない。俺が身につけるべきは、強力な一撃に頼る戦い方ではなく、小さな手札を繋ぎ合わせて相手を「詰ませる」コンボ戦術なのだから。
「シュッ――『微風(ウインド)』!」
小さな風の刃が、迫るゴブリンの目元をかすめる。
殺傷力はほぼない。だが、ゴブリンは視界を奪われて思わず足を止めた。
その隙に、低く踏み込む。
「『脚部強化(ブースト)』!」
一瞬だけ脚の筋力を底上げし、間合いを詰めて膝裏を斬りつける。
崩れ落ちるゴブリン。とどめを刺す前に、背後から迫る二匹目の気配を察知し、地に手を突いた。
「『土突(ストーンスパイク)』!」
足元から突き出た拳大の岩が、二匹目の顎を撃ち抜く。体勢が浮いたところへ、片手剣の突きを叩き込む。
(いける……! 一つ一つは初級の小さな技でも、隙なく繋げば反撃の余地を与えずに倒せる!)
手応えを感じつつ、泥臭く技を繋ぎ合わせていく。
ふと、少し離れた場所にいるザジさんへ視線を向けた。
あちらは手斧を振るい、一匹、二匹と実に淡々と、確実にゴブリンを処理している。
その時だった。
「――あ、やばい」
思わず声が漏れた。
ザジさんの周囲に、一瞬で緊迫した空気が満ちる。
前にゴブリンリーダー1匹と、巨体を持つホブゴブリン1匹。さらに背後から、ナイフを構えたゴブリン3匹。
完全な包囲網。逃げ場のない死角だ。
(助けに行かないと――!)
俺が地を蹴ろうとした瞬間、ザジさんと視線が交差した。
ザジさんはひらひらと片手を振る。
――『大丈夫、入ってくるな』という静かな合図。
ザジさんは正面のゴブリンリーダーを眼中に収めながら、腰のアイテムバッグへ手を伸ばした。
迷いなく取り出されたのは、小さなガラス瓶――赤色の初級ポーション。
(いま回復を……? まだ傷は負ってないのに!?)
驚く俺の目の前で、ザジさんはポーションの栓を歯で引き抜き、中身を口に含んだ。
呑み込まない。ただ、口の中に溜めたのだ。
直後。5匹の魔物が一斉に飛びかかった。
ザジさんは最小限の動きでリーダーの斬撃をかわしつつ、反転。手斧を横薙ぎに振るい、ホブゴブリンの首を浅く切り裂く。同時に、腰の後ろから2本目の手斧を抜きざまに背後へ投擲。ゴブリン1匹の額へ深々と突き刺さった。
だが――包囲網の密度が勝った。
左右から残りの2匹のゴブリンがナイフを持って迫る!
防げない。かわせない。完全な死角からの必殺のタイミング。
(食らうっ――!)
そう思った瞬間。
敵の刃が皮肉な音を立ててザジさんの脇腹と肩に突き刺さる前に、ザジさんの喉が『ゴクン』と大きく動いた。
被弾のまさにコンマ数秒前。
口に含んでいたポーションを、あらかじめ飲み干していたのだ。
「え……!?」
俺の口から素っ頓狂な声が出た。
ゴブリンのナイフがザジさんの肉を裂く。
血が噴き出す。
普通なら、痛みに顔を歪め、体勢を崩す場面だ。
だが、飲み込まれた回復薬の効能が被弾とほぼ同時に全身へ巡り、ダメージの衝撃と痛みを強引に殺し込んだ。
体勢が――全くブレない。
「――フッ!」
構えを維持したまま、ザジさんは両手で2対の手斧を閃かせた。
クロスを描いた刃が、交差するように2匹の首を同時に刎ね飛ばす。
瞬く間に、残るは怒り狂ったゴブリンリーダー1匹。
部下を一瞬で失い、血走った目で襲いかかってくるリーダーに対し、ザジさんは静かに踏み込んだ。
一手。敵の長剣を刃の根元で受け流す。
二手。体勢の崩れた膝を蹴り折る。
三手。立ち上がろうとする喉元へ手斧の柄を叩き込む。
四手。崩れ去る頭部を、冷酷なまでに正確に切り落とした。
静寂が戻る。
「お〜〜、イテテ。危なかった〜」
ザジさんは首をすくめ、脇腹の破れた革鎧をさすりながらへラッと笑った。
だが、俺は開いた口が塞がらなかった。
(今のは……なんだ……!?)
回復アイテムや回復魔法は、傷を負った『後』に使うもの。それが常識だ。
だが、この人は違った。
状況的に避けられない攻撃を受けると判断した瞬間、被弾する『前』に回復薬を口に含み、ダメージによるノックバックや激痛を相殺したのだ。
回復薬でゴブリンリーダーやホブゴブリンの攻撃を無傷で受けられるわけじゃない。
ただ、ゴブリン程度の攻撃なら、傷を負っても動きを止めないことはできる。
いや囲まれた時、ゴブリンの攻撃を受けるつもりだった?
その映像が見えていた?
あの状況で最も危険なのは攻撃力の高いゴブリンリーダーの前で体勢を崩すことだ。
それだけは何としても防ぎ切った。
それだけじゃない。
あの乱戦の真っ只中で、ザジさんはアイテムバッグの中に一切目線を落とさず、一瞬でポーションを取り出していた。
(……そうだ。ザジさんの家は、あばら家なのに完璧に整理整頓されていた)
きっと、あのアイテムバッグの中も同じなのだ。
何がどこにあり、どう手を伸ばせばコンマ1秒でもタイムラグ無しに取り出せるか。すべてが完璧に配置され、管理されている。
几帳面なのでは無く、生き方の知恵を模索しただけなのかもしれない。
咄嗟の判断で使えるように、道具を整理整頓する。
回復は食らった後ではなく、食らう直前に合わせる。
「おーい、どうした? サウザー君?」
手斧の血を拭いながら、ザジさんが不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
「……いえ! なんでもありません!」
俺は胸のポケットにある、買ったばかりのノートを上から強く握りしめた。
整理整頓。
日記(メモ)を取ること。
相手の先を読むこと。
初級技の連鎖。
被弾すら計算に入れる泥臭い戦術。
(……考えるべきことは、まだまだ山ほどある!)
最強の冒険者へ至る道は、果てしなく遠い。
だが、今の俺には、一歩踏み出すための課題が山のように見えていた。
その日の帰り道、俺の足取りは、ソロになってから一番軽かった。