扉の前で黒い霧が揺れて、人の形にまとまった。
「お待ちしておりました……どうぞ中へ」
この路地には似合わないくらい丁寧な声だ。
先に入ったのは子どものほうで、背丈は大人の胸にも届かない。フード付きの黒いコートが、傘からはみ出した肩のあたりだけ雨を吸って重そうだ。後ろの長身の男は傘を畳んで水滴一つ床に落とさない。
店の中はバーの形をしている。カウンターに酒が少ししか並んでいない棚と、壁に掛けられたモニターしかない。看板もない
カウンターの端で、青年が携帯ゲーム機を叩いている。灰色がかった髪で、首筋には何度も掻いた赤い跡があり、顔に誰かの手を張りつけたまま目を上げない。
「……で……それが先生の言ってたやつだよな?」
『そうだよ、弔』
答えたのはモニターだ。映像は映っていないのに、声だけがやけに柔らかい。
『紹介しよう。アルテミス・エル・トローノ君。メキシコのとある家の子でね。そちらはクラウディオ君だ、彼に仕えている』
ゲーム機を叩く指が、一度だけ止まった。
子どもがさらりとフードを外す。
整った顔立ちだ。濡れた黒髪を指で後ろに払って、棚から天井の隅、カウンターの裏の扉へと店の中を見回して、最後にゲーム機を叩いている青年で目を止める。
『彼はね、自分を売り込みに来たんだ。「働くから匿え」とね。面白いだろう?』
「面白くねえよ」
青年……死柄木弔は、ようやくゲーム機を置く。
「知ってるよそいつ……先生から聞いたぞ、でかい麻薬組織の跡取りで、金も部下も女もいて、全部持ってたのに放り出して逃げてきたんだろ」
椅子ごとくるりと回って、子どもを見下ろす。
「つまりアホなガキだ」
黒霧が何か言いかけて、やめる。子どもは表情を変えない。
「情報が雑だな」
「あ?」
「女なんかいない。あったのは、どの家の血を本家に入れるかって席の取り合いだ。それと部下は俺のではない……家のだ。俺のものは、ここに着いた時点でこいつと、ポケットの中身だけだ」
顎で後ろの男を示す。クラウディオは何も言わずに軽く頭を下げた。
「それで、それを放り出したのがアホかどうかは、お前が決めることではない」
誰も喋らない。死柄木の指が首筋を一度、二度と掻く。
「……黒霧」
「はい」
「俺……ガキのお守りするために連合作ったんじゃねえんだけど」
「お守りは要らない」
子どもが言う。
「働くって言ったんだからな、働く」
「何ができんだよ。十歳ぐらいか?」
「十三」
「……変わんねえよ」
死柄木が立ち上がって、ゆっくりとカウンターを回り込んでくる。五歩。四歩。黒霧が小さく名前を呼んでも止まらない。子どもの前で立ち止まって、五本の指を少し開いた右手を持ち上げた。
「俺の個性聞いてるか?」
「触ったものを崩す。五本の指が全部触れたら……だろう?」
「正解だよ……じゃあさ」
指がコートの襟に伸びた瞬間、クラウディオの袖口から細い光が走った。
糸だ。死柄木の手首の手前で、ぴんと張られて止まる。あと数センチ動けば皮膚を裂く位置。
「――いい、下げろ」
子どもは振り返りもせずに言う。
クラウディオが糸を引いて、光が消える。死柄木の目が細くなって、それから今度こそ襟を掴んだ。
五本の指で。
何も起きない。
コートの生地は崩れない。ひび一つ入らないまま、雨を吸った布が死柄木の指の間で冷たく垂れているだけだ。
「……は?」
もう一度、力を込めて指を食い込ませる。握り直しても、布はただの布のままだった。
「俺の服を上に。崩壊を下に置いた」
襟を掴まれたまま子どもが言う。
「上にあるものは、下にあるものに壊されない。そのコートは今、お前の崩壊より上だ」
『崩壊という名前は、僕が教えたんだよ』
モニターの声が楽しそうに言う。
『彼の個性はね、名前を知らないと効かないそうだから。いい挨拶になっただろう?弔』
死柄木は手を放す。何も崩れていない自分の掌を見る。それから、子どもを見る。
その手が横に流れた。子どもの隣のスツールの背に、五本の指が置かれる。
スツールが、音もなく粉になった。
「その椅子は、上に置いてねえよな」
黒霧の靄が強張る。子どもの返事が遅れた。
「……置いていない」
「だよな」
死柄木は指についた粉を払って、口の端を吊り上げる。
「……気持ち悪ぃ」
「よく言われる」
「……その上とか下とかって、いくつでも付けられるのか?」
「言うわけないだろう、虫が良すぎるんじゃないか?」
襟を直しながら、小さく息を吐く。
「今のは外す。無駄だ」
「……無駄?」
「数は言わない。ただ、無限じゃない」
もう死柄木への興味はないらしい。目はとっくに店の奥だ。
「黒霧……だったな。ここは出入口はそこの扉だけか」
「……ええ……私のワープを除けば」
「最悪だな。表の路地は一本道で、向かいのビルの三階から入口が丸見えだ。カウンターの裏に隠し棚があるけど、あの位置なら踏み込まれて三十秒で見つかる。モニターの配線は壁の外に出てるから、辿れば電源の場所が割れる」
黒霧の靄が固まった。
「それと……この店の電気代は誰の名義で払っている?」
「……おいガキ」
死柄木が低い声を出す。
「何様だよお前」
「居候」
あっさりした答えだ。
「匿ってもらう代わりに働く。そういう取引だ。住む場所が穴だらけなら、塞ぐのも仕事のうちだろ。お前が頭で……俺はその下。そこは弁えてる。ただし、表には出ない。顔が割れたら、海の向こうまで一日で届く」
首筋を掻いていた死柄木の指が止まる。目が子どもを通り越して、後ろの執事に行った。
「そいつは」
「……何だ」
「その執事は、上に置いてねえんだろ」
クラウディオは動かない。
「次に糸出したら、腕ごと崩す。居候の頭が誰でもな」
「……覚えておく」
子どもがそう答えるまでに、さっきより長く間があった。
「……黒霧、こいつらの部屋は奥の物置でいいだろ」
「死柄木弔……あそこは――」
「いい」
黒霧より先に、子どもが言う。
「屋根があるなら十分だ」
『決まりだね』
モニターの声が満足そうに笑う。
『仲良くしておくれ、弔。彼はきっと君の役に立つよ』
通信が切れた。
舌打ちしてゲーム機を拾い上げた死柄木の手の中で、画面にはゲームオーバーの文字。
物置は本当に物置だった。
壊れた椅子と段ボールと埃。クラウディオは何も言わずに袖をまくる。十分もかからずに床を空けて、段ボールを重ねて寝台のようなものを作り、どこから出したのかわからない毛布を二枚広げていく。
その上に腰を下ろして、濡れたコートを脱ぐ。
「坊ちゃん。髪を」
「自分でやる」
受け取ったタオルで、乱暴に頭を拭く。そのあいだにクラウディオはそれ以上何も言わず、コートの水気を切って、壊れた椅子の背に掛ける。
「……さっきの糸」
タオルの下から言う。
「出すなって言っただろ。ここに来る前に」
「……申し訳ありません。体が先に動きました」
「あいつが本気で崩す気なら、糸ごとお前の腕が持っていかれてた」
「存じております」
「存じてるなら出すな」
「はい」
はいと言いながら、次も同じことをする。この男は昔からそうだ。返事だけは素直なくせに、自分が決めたことは曲げない。
タオルを膝の上に落とす。
「……あいつ、試してきた」
「死柄木様ですか」
「違う。モニターの向こうだ」
クラウディオの手が止まった。
「最初に会ったとき……手が伸びてきただろう、俺のところに」
「……では」
「掴めなかったはずだ。先に付けていたからな。俺を上、個性オール・フォー・ワンを下」
自分の手のひらを見下ろす。
「あいつも気づいたんだろう、奪えないと。だから笑ってたんだろ。奪えないなら使えばいいって顔で」
「一枠は……ずっと塞がりますね」
「安い保険だ」
仰向けに倒れると、段ボールが小さく軋む。天井には、地図みたいな染みが一つ。
「死柄木弔」
「はい」
「わかりやすい奴だな。欲しいものが全部顔に出てる。欲しいのに、何が欲しいのか自分でもわかってない」
「坊ちゃんは、お嫌いですか?」
「嫌いとか好きとかじゃない。使える奴かどうかだ」
クラウディオは何も答えずに、もう一枚の毛布を上から掛けてくる。
しばらくして、ぽつりと言う。
「……あっちは……今ごろ大騒ぎだろうな」
「でしょうね」
「兄上は……ため息ついてるか」
「ついておられるでしょう」
「……あいつは」
そこから先は言わない、誰のことかも。クラウディオも聞かなかった。
雨の音が、薄い壁の向こうで続いている。
瞼が落ちる前に見えたのは、扉の脇に座ったクラウディオの指先から、細い糸が一本垂れているところだった。
翌朝、物置の扉が蹴り開けられた。
「……おい」
寝癖のついた死柄木が、片手にゲーム機、もう片方の手で首を掻きながら戸口に立っている。
「起きろ……アホなガキ」
「……名前は昨日聞いただろう」
毛布の中から返した声は、自分でもわかるほど不機嫌だ。
「長ぇから覚えてねえ」
たぶん嘘だ。昨日、あの男がこっちの名前を口にしたとき、ゲーム機を叩く指が一度だけ止まっていた。
「仕事だ。穴だらけって言ったよなここ」
死柄木はにやりと笑う。
「……塞いでみろよ。できなかったら今度こそ崩してやる」
毛布を跳ねのけて起き上がる。
「言ったな……」
寝起きの顔で、それでも口の端だけを持ち上げて。
「やってやるよ」