雨の匂いが路地の奥まで染みついていた。
錆びたトタンとヘドロの吹き溜まり。社会の底が抜けたようなその場所に、仕立てのいいスーツを着た少年と、彼に傘を差しかける男が立っている。
看板も出ていない扉の前で黒い靄が揺れる。靄はしばらく二人の客を値踏みするように漂ってから、人の形に似た輪郭を作った。
「お待ちしておりました...どうぞ中へ」
丁寧な声だった。この路地には似合わないくらいに。
先に足を踏み入れたのは少年のほうだった。フードの付いた黒いコートは雨を吸って重そうで、背丈は大人の胸にも届かない。その後ろから長身の男が傘を畳んで続いた。男は水滴一つ床に落とさないように傘を持ち替え、扉を閉める前に一度だけ路地を振り返った。
店の中はバーの形をしているだけの箱だった。カウンター、酒が少ししか並んでいない棚に壁に掛けられたモニター。明かりは暗く換気が悪い。
カウンターの端で青年が携帯ゲーム機を叩いていた。
灰色がかった髪。首筋には何度も掻いたような赤い跡。
顔には誰かの手が張りついている。
青年は画面から目を上げなかった。
「……で。それが先生の言ってたやつだよな?」
『そうだよ、弔』
答えたのはモニターだった。映像は映っていない。声だけが、やけに柔らかく部屋に落ちてくる。
『紹介しよう。アルテミス・エル・トローノ君。メキシコのとある家の子でね。そちらはクラウディオ君だ、彼に仕えている』
少年がフードを外した。
整った顔立ちの子どもだった。濡れた黒髪を指で後ろに払い
店の中をぐるりと見回す。棚天井の隅、カウンターの裏扉。最後にゲーム機を叩いている青年。
『彼はね、自分を売り込みに来たんだ。「働くから匿え」とね
面白いだろう?』
「面白くねえよ」
青年――死柄木弔はようやくゲーム機を置いた。
「知ってるよそいつ。先生から聞いたぞ、でかい麻薬組織の跡取りで、金も部下も女もいて、全部持ってたのに放り出して逃げてきたんだろ」
死柄木は椅子ごとくるりと回り少年を見下ろした。
「つまりアホなガキだ」
黒霧の靄が困ったように揺れた。
少年は表情を変えなかった。
「情報が雑だな」
「あ?」
「女なんかいない。あったのはどの家の血を本家に入れるかって席の取り合いだ。それと部下は俺ではない、家のだ。金も家のだ。俺のものはここに着いた時点でこいつと、ポケットの中身だけだ」
少年は顎で後ろの男を示した。クラウディオは何も言わず
軽く頭を下げた。
「それで、それを放り出したのがアホかどうかは、お前が決めることではない」
沈黙が落ちた。
死柄木の指が首筋を掻いた。一度、二度。
「……黒霧」
「はい」
「俺……ガキのお守りするために連合作ったんじゃねえんだけど」
「お守りは要らない」少年が言った。「働くって言った。働く」
「何ができんだよ。十歳ぐらいか?」
「十三」
「……変わんねえよ」
死柄木が立ち上がった。
ゆっくりとした足取りでカウンターを回り込む。五歩。四歩。黒霧が小さく名前を呼んだが、死柄木は止まらなかった。
少年の前で立ち止まり、右手を持ち上げる。五本の指を
少し開いて。
「俺の個性聞いてるか?」
「触ったものを崩す。五本の指が全部触れたら...だろう?」
「正解だよ……じゃあさ」
指が少年のコートの襟に伸びる。
その瞬間、クラウディオの袖口から細い光が走った。
糸だった。蜘蛛の糸よりも細く雨粒よりも速い。それが死柄木の手首の手前で、ぴんと張られて止まる。あと数センチ動けば、皮膚を裂く位置で。
「――いい。下げろ」
少年が言った。振り返りもせずに。
クラウディオは一拍だけ間を置き糸を引いた。光が消える。
死柄木の目が少しだけ細くなった。それからにやりと笑って、今度こそ少年の襟を掴んだ。
五本の指で。
何も起きなかった。
コートの生地は崩れなかった。ひびも入らなかった。雨を吸った布の冷たさだけが死柄木の掌に伝わっていた。
「……は?」
死柄木はもう一度握り直した。力を込めて指を食い込ませて。
布は、ただの布のままだった。
「俺の服を上に。崩壊を下に置いた」
少年は襟を掴まれたまま言った。
「上にあるものは下にあるものに壊されない。動かされもしない。お前がいくら崩そうとしても、そのコートはお前より上だ」
『僕が教えたんだよ』
モニターの声が、楽しそうに言った。
『彼の個性は名前を知っていないと効かないそうだから。いい挨拶になっただろう? 弔』
死柄木は手を放した。
自分の掌を見る。何も崩れていないいつもの手。それから少年を見る。
「……気持ち悪ぃ」
「よく言われる」
「……その上とか下とかって、いくつでも付けられるのか?」
「言うわけないだろう、甘えすぎじゃないか?」
少年は襟を直しながら小さく息を吐いた。
「今のは外す。無駄だ」
「……無駄?」
「枠がある。無限じゃない」
それだけ言って少年はもう死柄木から興味をなくしたように
店の奥に目を向けた。
「黒霧...だったな、ここは出入口はそこの扉だけか」
「……ええ……私のワープを除けば」
「最悪だな。表の路地は一本道で、向かいのビルの三階から入口が丸見えだ。カウンターの裏に隠し棚があるけど、あの位置なら踏み込まれて三十秒で見つかる。モニターの配線は壁の外に出てるから辿れば電源の場所が割れる」
黒霧の靄が今度ははっきりと固まった。
「それと……この店の電気代は誰の名義で払っている?」
「……おいガキ」
死柄木が低い声を出した。
「何様だよお前」
「居候」
少年はあっさり答えた。
「匿ってもらう代わりに働く。そういう取引だ。住む場所が穴だらけなら塞ぐのも仕事のうちだろ。お前が頭で..俺はその下。そこは弁えてる」
死柄木は何か言い返そうとして口を開けて閉じた。
弁えていると口では言うくせに、この態度だ。けれど言っていることの中身には、どれにも反論できなかった。
「……黒霧。こいつらの部屋奥の物置でいいだろ」
「死柄木弔..あそこは――」
「いい」少年が先に言った。「屋根があるなら十分だ」
『決まりだね』
モニターの声が、満足そうに笑った。
『仲良くしておくれ、弔。彼はきっと君の役に立つよ』
通信の切れる小さな音がした。
死柄木は舌打ちをしてゲーム機を拾い上げた。画面にはゲームオーバーの文字が浮かんでいた。
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物置は本当に物置だった。
壊れた椅子と段ボールと埃。クラウディオは何も言わずに袖をまくり、十分もかからずに床を空け、段ボールを重ねて寝台のようなものを作り、どこから出したのかわからない毛布を二枚広げた。
少年はその上に腰を下ろし濡れたコートを脱いだ。
「坊ちゃん。髪を」
「自分でやる」
タオルを受け取って乱暴に頭を拭く。クラウディオはそれ以上何も言わず、コートの水気を切って壊れた椅子の背に掛けた。
「……さっきの糸」
タオルの下から、少年が言った。
「出すなって言っただろ。ここに来る前に」
「...申し訳ありません。体が先に動きました」
「あいつが本気で崩す気なら、糸ごとお前の腕が持っていかれてた」
「存じております」
「存じてるなら出すな」
「はい」
はいと言いながら次も同じことをするのだろう、と思った。この男は昔からそうだ。返事だけは素直で自分が決めたことは曲げない。
タオルを膝の上に落とす。
「……あいつ試してきた」
「死柄木様ですか」
「違う。モニターの向こうだ」
クラウディオの手が一瞬だけ止まった。
「挨拶のとき。手が伸びてきただろう、俺のところに」
「……では」
「掴めなかったはずだ。先に付けていたからな、俺の個性を上
個性オール・フォー・ワンを下」
少年は自分の手のひらを見下ろした。
「あいつも気づいたのだろう、奪えないと、だから笑ってたんだろ。奪えないなら使えばいいって顔で」
「一枠は..ずっと塞がりますね」
「安い保険だ」
少年は仰向けに倒れた。段ボールが小さく軋む。
天井には染みが広がっていた。
「死柄木弔」
「はい」
「わかりやすい奴だな。欲しいものが全部顔に出てる。欲しいのに、何が欲しいのか自分でもわかってない」
「坊ちゃんは、お嫌いですか?」
「嫌いとか好きとかじゃない」
少年は目を閉じた。
「使える奴かどうかだ」
クラウディオは何も答えず、もう一枚の毛布を少年の上に掛けた。
しばらくして少年がぽつりと言った。
「……あっちは…今ごろ大騒ぎだろうな」
「でしょうね」
「兄上は...ため息ついてるか」
「ついておられるでしょう」
「……あいつは」
少年はそこで言葉を切った。
誰のことかは言わなかった。クラウディオも聞かなかった。
雨の音だけが薄い壁の向こうで続いていた。
やがて少年の呼吸が静かになると、クラウディオは物置の扉の脇に座り自分の手を膝の上に置いた。
指先から、細い糸が一本だけ垂れて光を吸って消えた。
男はその手をしばらく眺めていた。
何を考えていたのかは誰にもわからない。
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翌朝、物置の扉が蹴り開けられた。
「……おい」
寝癖のついた死柄木が、戸口に立っていた。片手にゲーム機、もう片方の手で首を掻きながら。
「起きろ....アホなガキ」
毛布の中から不機嫌な声が返ってくる。
「……名前は昨日聞いただろう」
「長ぇから覚えてねえ」
嘘だと少年は思った。この男は気に入らないものの名前ほど覚えている。
「仕事だ。穴だらけって言ったよなここ」
死柄木はにやりと笑った。
「……塞いでみろよ。できなかったら今度こそ崩してやる」
少年は毛布を跳ねのけて起き上がった。
「言ったな...」
寝起きの顔でそれでも口の端だけを持ち上げて。
「やってやるよ」