カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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1話 アホなガキ

 

 雨の匂いが路地の奥まで染みついていた。

 

錆びたトタンとヘドロの吹き溜まり。社会の底が抜けたようなその場所に、仕立てのいいスーツを着た少年と、彼に傘を差しかける男が立っている。

 

 看板も出ていない扉の前で黒い靄が揺れる。靄はしばらく二人の客を値踏みするように漂ってから、人の形に似た輪郭を作った。

 

「お待ちしておりました...どうぞ中へ」

 

 丁寧な声だった。この路地には似合わないくらいに。

 

 先に足を踏み入れたのは少年のほうだった。フードの付いた黒いコートは雨を吸って重そうで、背丈は大人の胸にも届かない。その後ろから長身の男が傘を畳んで続いた。男は水滴一つ床に落とさないように傘を持ち替え、扉を閉める前に一度だけ路地を振り返った。

 

 店の中はバーの形をしているだけの箱だった。カウンター、酒が少ししか並んでいない棚に壁に掛けられたモニター。明かりは暗く換気が悪い。

 

 カウンターの端で青年が携帯ゲーム機を叩いていた。

 

 灰色がかった髪。首筋には何度も掻いたような赤い跡。

 顔には誰かの手が張りついている。

 

 青年は画面から目を上げなかった。

 

「……で。それが先生の言ってたやつだよな?」

 

『そうだよ、弔』

 

 答えたのはモニターだった。映像は映っていない。声だけが、やけに柔らかく部屋に落ちてくる。

 

『紹介しよう。アルテミス・エル・トローノ君。メキシコのとある家の子でね。そちらはクラウディオ君だ、彼に仕えている』

 

 少年がフードを外した。

 

 整った顔立ちの子どもだった。濡れた黒髪を指で後ろに払い

 店の中をぐるりと見回す。棚天井の隅、カウンターの裏扉。最後にゲーム機を叩いている青年。

 

『彼はね、自分を売り込みに来たんだ。「働くから匿え」とね

 面白いだろう?』

 

「面白くねえよ」

 

 青年――死柄木弔はようやくゲーム機を置いた。

 

「知ってるよそいつ。先生から聞いたぞ、でかい麻薬組織の跡取りで、金も部下も女もいて、全部持ってたのに放り出して逃げてきたんだろ」

 

 死柄木は椅子ごとくるりと回り少年を見下ろした。

 

「つまりアホなガキだ」

 

 黒霧の靄が困ったように揺れた。

 

 少年は表情を変えなかった。

 

「情報が雑だな」

 

「あ?」

 

「女なんかいない。あったのはどの家の血を本家に入れるかって席の取り合いだ。それと部下は俺ではない、家のだ。金も家のだ。俺のものはここに着いた時点でこいつと、ポケットの中身だけだ」

 

 少年は顎で後ろの男を示した。クラウディオは何も言わず

 軽く頭を下げた。

 

「それで、それを放り出したのがアホかどうかは、お前が決めることではない」

 

 沈黙が落ちた。

 

 死柄木の指が首筋を掻いた。一度、二度。

 

「……黒霧」

 

「はい」

 

「俺……ガキのお守りするために連合作ったんじゃねえんだけど」

 

「お守りは要らない」少年が言った。「働くって言った。働く」

 

「何ができんだよ。十歳ぐらいか?」

 

「十三」

 

「……変わんねえよ」

 

 死柄木が立ち上がった。

 

 ゆっくりとした足取りでカウンターを回り込む。五歩。四歩。黒霧が小さく名前を呼んだが、死柄木は止まらなかった。

 

 少年の前で立ち止まり、右手を持ち上げる。五本の指を

 少し開いて。

 

「俺の個性聞いてるか?」

 

「触ったものを崩す。五本の指が全部触れたら...だろう?」

 

「正解だよ……じゃあさ」

 

 指が少年のコートの襟に伸びる。

 

 その瞬間、クラウディオの袖口から細い光が走った。

 

 糸だった。蜘蛛の糸よりも細く雨粒よりも速い。それが死柄木の手首の手前で、ぴんと張られて止まる。あと数センチ動けば、皮膚を裂く位置で。

 

「――いい。下げろ」

 

 少年が言った。振り返りもせずに。

 

 クラウディオは一拍だけ間を置き糸を引いた。光が消える。

 

 死柄木の目が少しだけ細くなった。それからにやりと笑って、今度こそ少年の襟を掴んだ。

 

 五本の指で。

 

 何も起きなかった。

 

 コートの生地は崩れなかった。ひびも入らなかった。雨を吸った布の冷たさだけが死柄木の掌に伝わっていた。

 

「……は?」

 

 死柄木はもう一度握り直した。力を込めて指を食い込ませて。

 

 布は、ただの布のままだった。

 

「俺の服を上に。崩壊を下に置いた」

 

 少年は襟を掴まれたまま言った。

 

「上にあるものは下にあるものに壊されない。動かされもしない。お前がいくら崩そうとしても、そのコートはお前より上だ」

 

『僕が教えたんだよ』

 

 モニターの声が、楽しそうに言った。

 

『彼の個性は名前を知っていないと効かないそうだから。いい挨拶になっただろう? 弔』

 

 死柄木は手を放した。

 

 自分の掌を見る。何も崩れていないいつもの手。それから少年を見る。

 

「……気持ち悪ぃ」

 

「よく言われる」

 

「……その上とか下とかって、いくつでも付けられるのか?」

 

「言うわけないだろう、甘えすぎじゃないか?」

 

 少年は襟を直しながら小さく息を吐いた。

 

「今のは外す。無駄だ」

 

「……無駄?」

 

「枠がある。無限じゃない」

 

 それだけ言って少年はもう死柄木から興味をなくしたように

 店の奥に目を向けた。

 

「黒霧...だったな、ここは出入口はそこの扉だけか」

 

「……ええ……私のワープを除けば」

 

「最悪だな。表の路地は一本道で、向かいのビルの三階から入口が丸見えだ。カウンターの裏に隠し棚があるけど、あの位置なら踏み込まれて三十秒で見つかる。モニターの配線は壁の外に出てるから辿れば電源の場所が割れる」

 

 黒霧の靄が今度ははっきりと固まった。

 

「それと……この店の電気代は誰の名義で払っている?」

 

「……おいガキ」

 

 死柄木が低い声を出した。

 

「何様だよお前」

 

「居候」

 

 少年はあっさり答えた。

 

「匿ってもらう代わりに働く。そういう取引だ。住む場所が穴だらけなら塞ぐのも仕事のうちだろ。お前が頭で..俺はその下。そこは弁えてる」

 

 死柄木は何か言い返そうとして口を開けて閉じた。

 

 弁えていると口では言うくせに、この態度だ。けれど言っていることの中身には、どれにも反論できなかった。

 

「……黒霧。こいつらの部屋奥の物置でいいだろ」

 

「死柄木弔..あそこは――」

 

「いい」少年が先に言った。「屋根があるなら十分だ」

 

『決まりだね』

 

 モニターの声が、満足そうに笑った。

 

『仲良くしておくれ、弔。彼はきっと君の役に立つよ』

 

 通信の切れる小さな音がした。

 

 死柄木は舌打ちをしてゲーム機を拾い上げた。画面にはゲームオーバーの文字が浮かんでいた。

 

---

 

 物置は本当に物置だった。

 

 壊れた椅子と段ボールと埃。クラウディオは何も言わずに袖をまくり、十分もかからずに床を空け、段ボールを重ねて寝台のようなものを作り、どこから出したのかわからない毛布を二枚広げた。

 

 少年はその上に腰を下ろし濡れたコートを脱いだ。

 

「坊ちゃん。髪を」

 

「自分でやる」

 

 タオルを受け取って乱暴に頭を拭く。クラウディオはそれ以上何も言わず、コートの水気を切って壊れた椅子の背に掛けた。

 

「……さっきの糸」

 

 タオルの下から、少年が言った。

 

「出すなって言っただろ。ここに来る前に」

 

「...申し訳ありません。体が先に動きました」

 

「あいつが本気で崩す気なら、糸ごとお前の腕が持っていかれてた」

 

「存じております」

 

「存じてるなら出すな」

 

「はい」

 

 はいと言いながら次も同じことをするのだろう、と思った。この男は昔からそうだ。返事だけは素直で自分が決めたことは曲げない。

 

 タオルを膝の上に落とす。

 

「……あいつ試してきた」

 

「死柄木様ですか」

 

「違う。モニターの向こうだ」

 

 クラウディオの手が一瞬だけ止まった。

 

「挨拶のとき。手が伸びてきただろう、俺のところに」

 

「……では」

 

「掴めなかったはずだ。先に付けていたからな、俺の個性を上

 個性オール・フォー・ワンを下」

 

 少年は自分の手のひらを見下ろした。

 

「あいつも気づいたのだろう、奪えないと、だから笑ってたんだろ。奪えないなら使えばいいって顔で」

 

「一枠は..ずっと塞がりますね」

 

「安い保険だ」

 

 少年は仰向けに倒れた。段ボールが小さく軋む。

 

 天井には染みが広がっていた。

 

「死柄木弔」

 

「はい」

 

「わかりやすい奴だな。欲しいものが全部顔に出てる。欲しいのに、何が欲しいのか自分でもわかってない」

 

「坊ちゃんは、お嫌いですか?」

 

「嫌いとか好きとかじゃない」

 

 少年は目を閉じた。

 

「使える奴かどうかだ」

 

 クラウディオは何も答えず、もう一枚の毛布を少年の上に掛けた。

 

 しばらくして少年がぽつりと言った。

 

「……あっちは…今ごろ大騒ぎだろうな」

 

「でしょうね」

 

「兄上は...ため息ついてるか」

 

「ついておられるでしょう」

 

「……あいつは」

 

 少年はそこで言葉を切った。

 

 誰のことかは言わなかった。クラウディオも聞かなかった。

 

 雨の音だけが薄い壁の向こうで続いていた。

 

 やがて少年の呼吸が静かになると、クラウディオは物置の扉の脇に座り自分の手を膝の上に置いた。

 

 指先から、細い糸が一本だけ垂れて光を吸って消えた。

 

 男はその手をしばらく眺めていた。

 

 何を考えていたのかは誰にもわからない。

 

---

 

 翌朝、物置の扉が蹴り開けられた。

 

「……おい」

 

 寝癖のついた死柄木が、戸口に立っていた。片手にゲーム機、もう片方の手で首を掻きながら。

 

「起きろ....アホなガキ」

 

 毛布の中から不機嫌な声が返ってくる。

 

「……名前は昨日聞いただろう」

 

「長ぇから覚えてねえ」

 

 嘘だと少年は思った。この男は気に入らないものの名前ほど覚えている。

 

「仕事だ。穴だらけって言ったよなここ」

 

 死柄木はにやりと笑った。

 

「……塞いでみろよ。できなかったら今度こそ崩してやる」

 

 少年は毛布を跳ねのけて起き上がった。

 

 「言ったな...」

 

 寝起きの顔でそれでも口の端だけを持ち上げて。

 

 「やってやるよ」

 

 

 

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