二日目の夕方だった。
次の拠点の目処はついていた。倉庫街の空き物件で、出入口が三つあり、隣接する建物の地下とつながっている。契約は明日には通る。あと一日。あと一日でこの店を捨てられる。
その最後の夜に、死柄木は爆豪を椅子ごと店の中央に引きずり出した。
「話をしようぜ」
縛られたままの金髪は、黙って死柄木を睨んでいた。
連合の連中が思い思いの場所から見ていた。トガはカウンターに腰かけ、トゥワイスは壁にもたれ、荼毘は一番遠い席で煙草をくわえている。マグネとコンプレスとスピナーは少し離れた場所に立っていた。少年は割れたカウンターの端にいた。
「お前…俺たちと同じだろ」
死柄木は椅子の前にしゃがみ込んだ。
「体育祭…見たぜ。あれは勝つためなら何してもいい奴の顔だ。周りに合わせて…ヒーローの型に押し込められて…それでも溢れてた」
「……」
「こっちに来いよ。こっち側なら抑えなくていい」
店の中が静かになった。
それを分析しながら聞いていた。勧誘としては悪くない。相手の抑圧されている部分を指摘し解放を提示する。ただ一つ足りない。
――こいつは報酬を提示していない。
安全も、金も、地位も、何一つ差し出していない。「こっちに来い」と言っているだけだ。家なら絶対にありえない交渉だった。
「……寝言は寝て死ね……!」
爆豪が吐き捨てた。
「あ?」
「勝つためなら何でもする。そりゃそうだ。だが…それとテメェらの側に立つことは…何の関係もねえ!」
椅子の脚が軋んだ。
「俺は決めてんだよ。高額納税者ランキングでオールマイトを超えるってな!」
死柄木の指が首筋にかかった。一度。二度。三度。
それを見ていた。
――断れるのか。
この状況で、縛られて、囲まれて、逃げ場がなくて、それでも断るのか。
自分は断らなかった。AFOの前に立って条件を並べて、働くから匿えと言った。それが最善の手だった。今でもそう思っている。
それでも。断るという選択肢が、自分の頭の中には最初からなかったことに、初めて気づいた。
「……つまんねえな」
死柄木が立ち上がった、そのときだった。
扉が叩かれた。三回、軽く。
「ピザーラ神野店でーす」
店の中が凍りついた。
一秒で理解した。
――誰も注文していない。
この店は看板を出していない。配達を頼めば住所が記録に残るから、食い物は必ず誰かが歩いて買ってくる。それは自分が決めた規則だ。
「――伏せろ!」
叫んだのと、壁が消し飛んだのはほぼ同時だった。
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轟音。粉塵。
割れたカウンターが吹き飛び、天井が落ち、視界が白くなる。その白い中に影が立っていた。でかい。笑っている。
「……私が来た…!!」
オールマイト。
体が動かなかった。映像でなら何百回も見た。日本の平和の象徴。世界で最も有名なヒーロー。実物はまったく別の生き物だった。
この男がいるからAFOは表に出られない。この男がいるから日本の裏社会は細々とやるしかない。この男がいるからカルテルは日本に販路を持てない。
その理由が、五メートル先に立っていた。
「……マジかよ」
スピナーが後ずさった。
「…なんで場所が」
「二日……待てなかったな」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
――甘い見積もりだと言ったはずだ。
「クラウディオ!」
「はい」
返事は、すでに行動の後だった。糸が走って体を後方へ引き倒す。直後、その位置を風が通った。崩れた天井の梁が床に突き刺さっていた。
「逃げ道は!」
「黒霧!」
死柄木が叫ぶ。店の奥から黒い靄が広がり始めた。
「死柄木弔…こちらへ――」
靄が揺れた。誰も何も見ていなかった。視界の端で、糸のように細い何かが空中を走った。黒霧の輪郭が砕けるように崩れた。
「――が」
人の形が解けて床に落ちる。靄が消えた。
「黒霧さん!?」
トガが叫んだ。
細い影が跳ねた方向を見た。紙のように薄く伸びた人影が、宙で元の形に戻っていく。
エッジショット。ヒーロービルボードチャート上位の男。名前は知っている。個性も知っている。
――指定できない。
歯を噛んだ。
名前は知っていた。だが見えなかった。どこから来るか、どこにいるか、認識できないものには上も下も決められない。七メートルの中にいても、見えなければ意味がない。ヒエラルキーはそういう個性だ。
そして今、逃げ道が消えた。
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扉が開いた。制圧部隊が雪崩れ込んでくる。盾、警棒、拘束具。
「制圧!」
「動くな!」
店の中は、逃げ場のない箱になった。
荼毘が炎を放ち、スピナーが刀を抜き、トゥワイスが分身を作り始める。マグネが磁石を振り回し、コンプレスが誰かをビー玉に変える。混戦だった。
少年は床に伏せたまま計算していた。
枠は今三つ。うち一つは常にAFOに使っている。残りは二つ。
――何に使う。
オールマイトを下位に置けば、この場は詰む。名前は知っている。今、視界に入っている。七メートル以内。できる。
できてしまう。
だがそれをやれば。この店には警察の記録が残る。制圧部隊が何十人もいる。ヒーローが四人いる。全員の前で「平和の象徴が何もできなくなる」ところを見せれば、それは日本中に伝わり、そして海を越える。
――俺の顔と、俺の個性が、一致して記録される。
その瞬間、この国は逃げ場ではなくなる。
「坊ちゃん!」
クラウディオが背後から支えた。
「お指図を」
二秒で決めた。
「トガと……スピナーだ」
「……よろしいので」
「いい」
床の上から二つの名前を口にした。トガヒミコを上位に。スピナーを上位に。落ちてくる瓦礫を、それぞれ下位に。
二人の頭上に崩れた梁が落ちた。だが二人には傷一つ付かなかった。
自分の分は残っていなかった。
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「そこの男!」
名前を呼ばれなかったのは当然だった。この男の素性を知る者は、この国にいない。
その直後、巨大な樹木の影が店の残骸を押し広げた。枝が伸び、根が床を割り、緑が室内を埋めていく。シンリンカムイ。
「投降しろ!もう逃げ道はない」
クラウディオは答えなかった。袖口から無数の糸が走った。伸びてくる枝を、切る。切る。切る。斬り飛ばした断面から、また新しい枝が生える。
少年はそれを見上げていた。
この男は殺せる。殺せばこの場を切り開ける。糸は人体を裂く。ヒーローだろうと同じだ。
――だが、殺した瞬間に終わる。
プロヒーローを殺した男の主人。その肩書きがついた瞬間、自分は日本のどこにも隠れられなくなる。クラウディオは一度もそこを越えなかった。枝を切り、いなして時間を稼ぐ。ただそれだけを続けた。
そして量に押し込まれた。
「――失礼」
枝が男の腕を絡め取った。胴を、脚を、首を。糸が届かなくなる。
「坊ちゃん!!」
その声が途中で途切れた。
自分の体も緑に包まれていた。足元から生えた根が脚を締め、枝が腕を後ろへ回し、胴を幹に押しつける。
「――子ども!?」
枝の動きが一瞬だけ緩んだ。
「おい!こっちにもう一人いる! 子どもだ!まだ小さい!」
叫びには明らかな動揺が混じっていた。締めつけていた根が、慌てて力を抜く。骨を折らないように。肺を潰さないように。男は膝を折って、こちらの顔の高さまで下りてきた。
「もう大丈夫だ。……怖かったろう」
答えなかった。
怖くなかったわけではない。あの男が壁を破って現れたとき、体は動かなかった。逃げ道が消えたとき、指先は冷たくなった。ただ、この人が言っている「怖かったろう」の中身とは、たぶん違う。訂正する言葉が見つからなかった。仮に見つかったとしても、信じてはもらえない。
「動くな、すぐに外に出す」
動かなかった。動けなかった、が正しい。
枠は二つとも埋まっていた。トガとスピナーに使った分だ。残っているのは、AFOに向けた一枠だけ。それを外せば自分を助けられる。外した瞬間、この場にいる自分は、ただの「奪える個性を持った子ども」になる。再設定には、またAFOの傍に行かなければならない。
「……クラウディオ」
「はい」
「動くな」
「……はい」
二人とも、緑に縛られたまま動かなかった。
爆発が起きたのは、その数秒後だった。
黒い泥から黒い塊が雪崩れ込んできた。脳無だった。一体ではない。二体、三体、四体。ヒーローたちの目が、一斉にそちらへ向く。
「――こっちだ!」
オールマイトが跳んだ。制圧部隊が崩れ、シンリンカムイの意識が逸れる。
そして、床と空間に影が広がった。黒霧の靄ではなかった。もっと粘つく、泥のような深い穴のようなもの。それは店の床一面に広がり、連合の面々を下から飲み込み始めた。
『弔』
どこからか柔らかい声が聞こえた。
『少し…場所を変えようか』
トガが沈み、トゥワイスが沈み、荼毘が沈む。死柄木が爆豪ごと引きずり込まれていく。枝に縛られたまま、その泥に飲まれた。クラウディオも同じだった。
視界が黒く塗り潰される直前、崩れた店の中を見た。
三日で塞いだ拠点。名義を移し、配線を通し、逃走経路を作り、隠し扉に枠を一つ割いた場所。全部瓦礫になっていた。
――計算どおりだ。
三日以内に潰れると言ってその通りになった。当たったところで何の意味もないが。
泥が頭の上まで来て、視界は黒く染まった。