地面に吐き出されると同時に、体を縛っていた緑が消える。枝も根も幹も、もうどこにも絡みついていない。あの木は本人の体の一部だったのだと、遅れて気づいた。
トガとスピナーに張っていた枠を、外す。
アスファルトに手をついて顔を上げると、市街地が広がっている。ビルが並んで、車が停まったまま放り出されて、道路には誰かが落としていった荷物が散らばっていて、あちこちで火の手が上がっている。人の姿はほとんどない。もう避難したあとなのだろう。
そして、その道路の上に。
「――ぁぁ……!!」
脳無が立っている。一体ではない。二十、三十、あるいはもっと。剥き出しの脳に歪んだ体躯の、それぞれ形の違う怪物たちが、道路を端から端まで埋めている。
「ひぃ……なんだこりゃ……」
スピナーが後ずさる。
「聞いてねえぞ……こんな数」
素早く周囲を確かめる。トガ、トゥワイス、マグネ、コンプレス、荼毘、スピナー。死柄木。黒霧。それから、クラウディオ。
「坊ちゃん……お怪我は」
「ない……お前は」
「問題ございません」
クラウディオは服の埃を払っている。こんな状況でも、この男の身なりだけは崩れない。
『やあ』
男が、空中に立っている。
黒いスーツを着ていて、顔がない。正確に言えば、顔があるべき場所に管と機械が何本も突き刺さっていて、目も鼻も口も見えないのに、声だけはちゃんと届いてくる。
『よく生きていたね……弔』
「……先生」
死柄木の声が震える。
自分の体が固くなっていく。何十回も聞いた声。柔らかくて丁寧で、いつもどこかに余裕がある。その声の持ち主がただそこに立っているだけで、道路の空気がゆっくりと形を変えていく。三十体の脳無が一斉に動きを止めて、命令されたわけでもないのに、そこにあるものすべてがこの男の下に収まっていく。
――これが……
自分の中で常に働き続けている一つのルールを、初めてはっきりと意識する。
俺の個性を上に。個性オール・フォー・ワンを下に。
前に、この男と初めて直接言葉を交わしたときに、真っ先に敷いたものだ。あの判断は、やはり正しかった。
『さて……迎えに来たよ。ここは少々騒がしい』
「先生……俺は」
『何も言わなくていいんだよ、弔……よくやった……何度でも失敗しなさい……その為に僕が居るんだ』
死柄木の肩から、すっと力が抜けていく。
それを横目で見る。三日以内に潰れると言ったときも、ステインに刃を向けられたときも、この男はあんな顔をしなかった。あんなふうに、何かを丸ごと預けきった顔は。
『……ところで』
顔のない男の頭が、わずかに動いてこちらを向く。
『アルテミス君……君が日本に来た時以来だね』
背筋が凍る。目はない。それなのに、見られているのがわかる。
「……ご無沙汰している」
『元気そうで何より。弔が随分と世話になっているようだね』
「……働くと言ったからな」
『そう……そうだったね』
男が一歩近づいて、距離が七メートルを切る。
『君に……一つ提案がある。じきに……この場所にオールマイトが来る。私は……そのために、ここまで来た』
周囲の脳無が一斉に同じ方向を向く。
『君の個性は......対象の名前を知っていることが条件だったね。ところで、あの男の名前はこの星で一番有名だ』
答えない。
『七メートル。君ならできるね? あの男を下位に置けばそれで終わる。平和の象徴が……何も壊せず、何も守れなくなる』
指先が冷たくなっている。この男は正しい。できる。技術的には何の問題もなくて、枠も空いている。
『どうかな』
口を開く。
「断る……」
周囲の空気が止まった気がする。マグネが煙草を落として、スピナーが息を呑むのが、視界の端に映る。
『理由を聞いても?』
「……三つある」
震えそうになる声を、無理やり平らにする。
「一つ……俺は匿われるために働いている。全国放送の前で個性を使えば、匿われる意味がなくなる」
『ふむ』
「二つ……俺の契約はあなたと結んだものだ。連合で働くと……あなたの目的のためのものではない」
『なるほど』
「三つ」
顔のない男を見上げる。
「この状況で個性を使えば、俺は一枠を消費する。あなたは、その瞬間に俺の枠が一つ埋まったことを知る……」
沈黙が落ちる。それ以上は言わない。言わなくても、この男には伝わっている。
――あなたに向けている枠を外す気はない。
しばらくして、声が聞こえる。
『ふふっ』
笑い声。
『いいね……君は本当に賢い』
男はそれ以上近づかず、強制も命令もしない。ただ笑っただけだ。反抗期の子どもを窘めるように。
『そうだね、契約は契約だ……私は君を匿う。君は弔のために働く。それでいい』
顔のない頭が、少しだけ傾く。
『覚えておきなさい……君を匿うと約束したのは……この私だよ』
この男は今、自分を脅していない。脅す必要がないからだ。奪えない、強制もできない。それでもこの男は、何ひとつ困っていない。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
空から降ってきたのは、その直後だった。
鋼のワイヤーが、ビルの間を走る。
「は?」
コンプレスが間の抜けた声を出す。
風を切って現れたのは、五人の子ども。変装なのか、妙な髪型に妙な服装をしているのに、動きは素人のそれではない。先頭の緑髪が、宙で体を捻る。
「かっちゃん!!」
手のひらから爆風を噴いて、爆豪が飛び上がる。それを、赤髪が空中で受け止める。
「な!?」
目を見開く。
何だ、今の。
攻撃ではない。制圧でもない。一人を救うためだけに飛んできて、そのたった一つの動作のために、五人の子どもが自分の体を丸ごと宙に投げ出している。落ちていく赤髪の腕の中に、金髪が収まっている。
「テメェら……何やってんだよ!!」
爆豪が怒鳴っている。助けに来た相手を、怒鳴っている。
「お前ら……ヒーロー志望だろうが! ヴィランのど真ん中に飛び込んでどうすんだ、馬鹿かよ!!」
「うるさい!僕たちだって、」
声は風にかき消されて、子どもたちはビルの間に落ちていく。
『――ふむ』
顔のない男の手が上がって、空気が歪む。
気づいたときには、地面を蹴っていた。
枠は空いている。でも名前を知らない。あの子どもたちの名前を、一人も知らない。爆豪勝己の名前だけは死柄木から聞いて知っているのに、その爆豪はもう赤髪の腕の中で、七メートルのずっと外にいて
届かない。
空気が破裂して、ビルの壁が抉れる。子どもたちの姿は粉塵に呑まれて、見えなくなる。
「……」
その場に立ち尽くす。助けようとしたのかどうか、自分でもわからない。ただ、体が先に動いていた。名前も知らない、一度も口をきいたことのない連中のために、自分の枠を使おうとした。
なぜだ。
「坊ちゃん」
いつの間にか、クラウディオが隣に立っている。
「戻りましょう」
「……ああ」
粉塵の向こうで、子どもたちの声がする。生きている。誰かが受け止めたらしい。
そして、地面が揺れた。
遠くから風が来て、ビルとビルの間を抜けて、道路の端に一つの影が立つ。脳無たちが、一斉に振り向く。
「――すべてを返してもらうぞ! オール・フォー・ワン!!」
巨躯に筋肉。オールマイト。
道路の空気が、もう一度変わる。さっきは顔のない男がそこにあるすべてを従えていた。今度は逆で、この男がただ立っただけで、その場にいる全員が顔を上げさせられている。
『やあ……久しぶりだね、オールマイト』
顔のない男の声は、少しも変わらない。オールマイトは、笑っていない。
『弔、下がっていなさい。ここからは私の時間だ』
黒霧のワープが連合の足元に広がっていく。トガが沈んで、トゥワイスが沈んでいく。自分も沈みながら、その二人を見ている。
顔のない男と、笑わない象徴。この国の空気そのものが、この二人のどちらかに従っていて、自分はそのどちらでもない場所にいる。
霧が視界を塗り潰す直前、道路の端に横倒しになった中継車が見えた。
見えてはいた。そのレンズがこちらを向いていることの意味には、気づかなかった。