神野から三週間が経って、その間に寝床は五回変わった。
廃ビルに潰れた工場、閉鎖された銭湯、高架下、そして今いる山沿いの資材置き場。
どこも同じだった。屋根があるかどうかで選んでいる。それ以外の条件を出せる状況ではなかった。
黒霧はまだ本調子ではない。
神野で意識を刈られ、その上でワープを開かされた。それが体に何をしたのかは本人にもわからないらしい。輪郭は戻ったが靄が薄く、長距離のワープは一日一回が限界で人数が多いほど時間がかかる。
「……申し訳ございません」
「気にすんな」
死柄木はそう言うだけだ。責める相手がいなかった。
金はほとんどなかった。
正確には連合の金がなかった。
これまでの資金は全部あの男から出ている。拠点の家賃も、義爛への支払いも、食い物も。誰も気にしてなどはいなかった。
その蛇口が六日で完全に止まったのだ、無理もない。
「おい……今日の飯」
荼毘が火のそばから訊いた。
「パンが四つ」
マグネが袋を逆さにした。
「あと…缶詰が二つ。以上」
「10人いるんだけど!?」
トゥワイスが袋の中を覗き込んだ。
「知ってる...少ないわね」
トゥワイスが缶を開けながら言った。
「いやー俺はいいや! 腹減った! いいって言ってんだろ!」
「食え」
アルテミスは、自分の分のパンをトゥワイスの方へ押しやった。
「俺は小さい……お前より必要カロリーが少ない」
「坊主……」
「計算だ」
そう言って立ち上がると、背中でトガの声がした。
「ねえねえアルテミスくん…それ本当に計算?」
「……計算だ」
目の前にパンが一つ置かれた。
顔を上げるとマグネはもう缶詰を開けていた。
「……マグネ」
「食べな」
「これはお前の――」
「食べな」
「…………」
パンを取った。
クラウディオは残った材料で毎日何かを作っていた。
缶詰と拾ってきた野菜の切れ端と、どこかで貰ってきた米。それを日によって違う形で出してくる。
「……これ、昨日と同じ材料だよな」
「はい」
「…なんで味が違うんだよ」
「焦がし方を変えております」
スピナーが皿を見つめて黙った。
誰も褒めなかった。褒めるほどの余裕がなかった。
それでも全員が皿を空にしていた。
トガが丸一日戻ってこなかった日があった。
夕方になって帰ってきた本人は、上機嫌だった。
「ただいまー!」
「……どこへ行っていた」
「連絡は入れたよぉ?有益な遊びをしてきましたって」
「それは報告ではなく事後承諾だ」
アルテミスの声はいつもより硬かった。
「どこへ行っていた」
「仮免試験」
「は?」
少年は自分の耳を疑った。
「……公安が主催している、あの試験か…?」
「そう! 三日前から他の学校の子になりすましてね。ちゃんと最後までバレなかったよ」
トガは頬を押さえて身を捩った。
「出久くんって言うんだ……かわいかったぁ……合宿の時傷だらけで…必死な顔してて……ああいう子が大好き」
アルテミスは目を閉じた。
落ち着けと自分に言い聞かせた。
「お前の顔は割れている。警察もヒーローもお前を探している。その状況で…ヒーローの卵と試験官が数百人いる会場に、三日間潜り込んだのか」
「うん」
「なぜ」
「会いたかったから」
答えになっていなかった。
本人は答えたつもりでいる。それが一番厄介だった。
「……一つでも狂えば、そこで終わっていた」
「でも終わらなかったよ?」
「……結果の話をしているんじゃない」
「じゃあ何の話?」
「……………」
「おい」
荼毘が煙草に火をつけながら言った。
「そいつに理屈は通んねえよ。無事に帰ってきたんだから、それでいいだろ」
「……次はないぞ」
「あるよ!たぶん」
トガはけろりと言った。
アルテミスは溜息をついて、それ以上は何も言わなかった。
五か月前に出した結論は、間違っていなかった
この女は損得の外側にいる。こちらの物差しが一本も届かない。
その夜だった。
死柄木が立ち上がった。
誰も何も言っていなかった。火の周りで、それぞれが黙って座っていただけだった。
「……決めた」
全員が顔を上げた。
死柄木は、火の向こうに立っていた。
「俺は…この社会を壊す」
誰も笑わなかった。
「先生が捕まって、オールマイトが引退して、それで何が変わった? 何も変わってねえよ。次のNo.1が決まってからニュースが切り替わってみんな元通りだ」
指が首筋にかかる
けれど掻かなかった。
「あの日あいつが指差した意味が……ようやくわかった」
黙って聞いていた。
「あいつは次の誰かに引き継ぐつもりだったんだ。自分が消えても、同じものが続くように。だから『次は君だ』って言った」
火がぱちりと鳴った。
「――そんなもん…続かせてたまるかよ」
その声には熱がなく、怒鳴ってもいなかった。
だからこそはっきりわかった。
この男は今本気で言っている。
「ヒーローってのは社会が回るための部品だ。あいつらがいるから、みんな安心して何も見ないで済む。はみ出した奴は……ヒーローが片付けてくれる。誰も自分で考えなくていい」
死柄木は火の周りを見回した。
「ここにいる奴ら…全員それで弾かれたんだろ」
誰も答えなかった。
スピナーが少しだけ顔を上げた。
「あの男はヒーローが腐ってるから殺すって言ってた。偽物を間引いて、本物だけ残せって」
ステインのことだと少年は気づいた。
「……違うだろ」
死柄木は首を振った。
「偽物を殺したって本物が残るだけだ。本物が残ったら、また同じ社会が回る。同じように誰かが弾かれる」
その声が初めて少し強くなった。
「だから…全部だ。偽物も本物も仕組みごと壊す」
火が揺れた。
「それが俺の欲しいものだ」
沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、アルテミスだった。
「……無理だ」
全員がこちらを向いた。
「聞け」
少年は立ち上がった。
「今この場にいるのは十人。うち一人は消耗していて、長距離の移動は一日一回。拠点はない。資金はない。情報網もない。武器も車も通信手段もまともなものは何一つない」
指を一本ずつ折る。
「対してこの国のヒーローは登録済みだけで数万人。警察組織があり、公安があり、法があり、世論がある。仕組みを壊すというならその全部が敵だ」
「……知ってるに決まってんだろ」
「知っていて言うのか」
「ああ」
死柄木はこちらを見ていた。
「じゃあお前…どうすれば届く?」
口を閉じた。
――質問の形が違う。
無理だと言われて、なぜ無理かを聞き返すのが普通だ。この男は、無理を前提にしたうえで、道を聞いてきた。
「……人が要る。金が要る。拠点が要る。情報が要る」
気づけば答えていた。
「一つずつだ。十人で国は壊せない。だが十人で百人は集められる。百人集まれば、金の作り方が増える。金ができれば拠点が持てる。拠点が持てれば情報が集まる」
「じゃあ…それやるわ」
「……簡単に言うな」
「簡単じゃねえのは、お前が今言っただろ」
死柄木は火のそばに座り直した。
「順番があるなら順番にやるだけだ」
――こいつは。
四か月前この男は「気に入らないから壊す」としか言えなかった。ステインに刃を向けられて、何も答えられなかった。
今は壊したい理由を最後まで喋った。
まだ計画はない。人も金も何もない。
それでもあの日と同じ男だとは思えなかった。
火が小さくなった頃、黒霧が死柄木のそばに膝をついた。
「死柄木弔……先生から言伝を預かっております」
死柄木の指が止まった。
「あなたがご自分の欲しいものを口にされた時に、伝えるようにと」
「……なんだ」
「力を貸す者が一人おります。先生に長く仕えてきた者です。居場所は、私しか存じません。まず私が参って話を通してまいります」
「今のお前は……長い距離を一日一回しか飛べない」
少年は口を挟んだ。
「行きに一回。話が拗れれば帰りは翌日になる。その間、お前は一人だ」
「……承知しております」
「……それでも行くのか」
「これは、私の務めですので」
靄の中の目が少しだけ細くなった。笑ったのかもしれい。
それ以上言わなかった。務めという言葉をこの場で一番よく知っている男が、自分の隣にいたからだ。
「……行ってこいよ、黒霧」
死柄木が言った。
「戻ってこいよ」
黒霧は一瞬だけ動きを止めて、深く頭を下げた。
「……かしこまりました」
靄が広がって、閉じた。
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深夜。
寝床の脇に置いた鞄を見ていた。
神野の日から一度も開けていない。中身は最初から変わっていない。着替えと、証明書と、封筒が一つ。
いつでも発てるようにまとめたままにしてある。
三週間ずっとそうしていた。
「坊ちゃん」
クラウディオが隣に座った。
「なんだ」
「……いえ」
この男は三週間一度も聞かなかった。
行くのか。残るのか。どうするのか。
一度も聞かないまま毎日飯を作って、毎日寝床を整えて、毎日その鞄を発てる形のまま置いておいた。
「クラウディオ」
「はい」
「……死柄木は…無理を言っている」
「国を壊すなどと。数字が合わない。人も金も何もない。計画も、順番も俺が全部言った」
「……坊ちゃんの言う通りかと」
「……それでもやると言った」
膝を抱えた。
「あの日、俺は『何がしたい』と聞かれて答えられなかった」
「……」
「あいつは答えた」
火の音だけが聞こえて鞄に目をやった。
出ていく理由はいくらでもある。
契約は終わった。追手が来る。金は減る。ここにいれば巻き込まれる。
どれも正しい。
なのに三週間鞄は動いていない。
「……クラウディオ」
「はい」
「その鞄」
目を逸らしたまま言った。
「解いていい」
クラウディオは答えなかった。
しばらくして立ち上がる気配がした。
「かしこまりました」
それだけだった。
理由も聞かれなかったし確認もされなかった。
毛布を被って寝返りを打つ、背中の方で鞄の留め金が外れる音がした、三週間ぶりの音だった。
――まだ決めたわけじゃない。
自分に言い聞かせた。
情報が足りないだけだ。手配に時間がかかるだけだ。今出ていけば追手に目立つだけだ。
理由はいくらでも作れた。
作れたが一つも使わなかった。