カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

15 / 59
15話 執事の算段

 

 

    買い出しの帰りはいつも遠回りをする。同じ道は二度と使わない。人通りの多い時間を選び、防犯カメラの位置を頭に叩き込んでその死角を歩く。この辺り一帯の地理は三週間で完全に頭の中だ。

 

 コインロッカーの前で立ち止まって鍵を差し込み、中身を確かめる。封筒が一つ。中身は大人二人が三か月は暮らせるだけの額だ。同じ封筒は全部で四つ、どれも管理は私一人だ。

 

 本来ならば全額を坊ちゃんがお持ちになるのが筋だ。あの金は坊ちゃんが自ら本家の金庫から持ち出されたものなのだから。

 

 だが――それでは困る。

 

 私が突然いなくなったとき、金の在処が一つしかなければそれが尽きた時点で終わりだ。だからこのロッカーの他の三つは、それぞれ違う形で残した。一つは坊ちゃんのお手元で、荷物の底に縫い込んである。一つは私が何日も戻らなかった場合に、ある人物から坊ちゃんへ渡るよう手配済みだ。最後の一つの置き場所だけがまだ決まらない。

 

 ロッカーを閉めて鍵をポケットに戻す。この作業だけは決して坊ちゃんに見られるわけにはいかない。見られれば私の意図に気づかれてしまう。

 

 資材置き場ではパン四つを十人で分けている。それでもこの封筒には手をつけない。今夜の連合の空腹より、坊ちゃんがお一人で逃げ延びるための金が先だ。

 

 偽の身分証の手配先もすでに二つ押さえた。一つは大阪、もう一つは名古屋。どちらもこちらの事情には深く踏み込んでこない業者だ。相場も確認済みだ。坊ちゃんお一人分であれば今の手持ちで十分に足りるはずだ。

 

 家にお戻りになる道と、戻られずに生きる道。坊ちゃんがどちらを選ばれても立ち往生なさらぬよう、両方を整えておく。選ぶのは坊ちゃんだ、私ではない。

 

 ただし手配の依頼はまだ出していない。出せば記録が残る。今動くのは早すぎる。ただいつでも引き金を引けるように段取りだけは整えておく。誰に、どの順番でいくら払うか。私がいなくなっても、手順どおりに進めれば坊ちゃんお一人で完結するよう、すべてを逆算済みだ。

 

 連絡先はすべて暗記済みで紙には書かない。書けば持ち物を検められた瞬間にすべてが瓦解する。この頭の中にしかない情報を、いつどうやって坊ちゃんにお渡しするか。それが一番の難題だ。早く渡せば私の算段を悟られかねない。遅ければ渡す機会そのものを永遠に失う。

 

 資材置き場に戻る途中、電器店の前で足が止まる。ショーウィンドウのテレビはニュースを流しているが、もう神野の映像は出てこない。三週間も経てば、世間の関心は次の刺激へと移っていく。

 

 それでも私はあの日起きたことを毎日考えている。あの中継車のカメラは確かにこちらを向いていた。坊ちゃんは気づいておられなかった。あの極限状態のなかで気づけというのが無理な話だ。

 

 だが私は見た。あれから何度も、頭の中でレンズの角度を引き直している。距離も。街灯は、残っていた。残っていたはずだ。

 

 ――映っている。

 

 画質は粗かっただろう。顔の判別は難しいかもしれない。だが私は坊ちゃんの隣に立っていた。一族の者が、あの映像を見て坊ちゃん自身に気づかなかったとしても――私を見落とすはずがない。

 

 九年だ。

 

 本家の屋敷で坊ちゃんの半歩後ろに立っていた男の立ち姿を、あの家の人間が見間違えるわけがない。私がいる、だから隣にいるのは坊ちゃんだ。その一点ですべてが確定する。問題はいつ向こうが気づくかだ。

 

 あの一族には解析班がある。世界中の報道を洗う情報工作の専門部署だ。裏の頂点と表の頂点が同時に墜ちたのだから、日本の報道は一秒残らず見ているはずだ。当然の業務として。

 

 早ければ一週間。遅くとも一月。

 

 そして三週間が経った。

 

 ――もう見つかっている。

 

 ショーウィンドウから視線を外す。坊ちゃんにはまだ申し上げていない。申し上げたところで、打てる手などない。今の連合には、移動の自由すら無い。無駄な不安を増やすだけだ。秒読みは、私一人でいい。

 

 資材置き場の手前まで来ても、中からは何の音もしない。全員が眠りに就いている時間だ。

 

 コンテナの陰に腰を下ろし上着の内ポケットから便箋を一枚取り出す。買い出しのついでに一冊だけ購入したものだ。ペンを取って宛名を書く。

 

 執事長の名。

 

 そこでぴたりと手が止まった。

 

 ――私は何を書くつもりだ。

 

 詫びを書くのか?私が坊ちゃんを連れて出たせいで、あの方は間違いなく議場に呼び出されたはずだ。あの家で外様がどう扱われるかは嫌というほど知っている。呼ばれれば……立たされる。座ることは許されず、問われれば膝をつく。命じられれば額を石の床に擦りつける。七十に近いあの体で。

 

 そしてあの方は必ずこう仰るだろう。

 

「――処分は協会の手で。クラウディオの首をもって」

 

 協会を守るには、そう言うしかない。私は自分を育ててくれた人に、私の処刑を言い出させた。その詫びをこの紙に書くというのか。

 

 書いてどうなる。この手紙が本国に届けば筆跡が残る。日本の消印が残る。私が生きていて、自分の意思で動いていることが証明されてしまう。

 

 そして何より。私が自分の意思で坊ちゃんを連れ出したのではなく、坊ちゃんが自ら出られたのだという可能性を、あの方に考えさせてしまう。あの方は聡い。詫びの一行から、全部を読み取ってしまう。

 

 坊ちゃんが攫われた被害者でなければ、家には戻れない。便箋を見下ろす。宛名だけが書かれた、白い紙。

 

 ライターを取り出して、その端に火をつける。炎が紙を舐めて、執事長の名が黒く縮んでいく。灰になって崩れるまで、目を離さなかった。

 

 風が灰を持っていく。目がそれを追った。追う理由はないのに、コンテナの角を曲がって見えなくなるまで追った。

 

 

 

 

 私が拾われたのは六歳のときだった。どこの街だったかは覚えていない。名前すらその頃は持っていなかった。路地の奥で、腐りかけた生ゴミを漁っていた私の前に、黒い服の老人が立っていた。

 

 あの方は何も言わずにただ手を差し出した。食い物をくれたわけでも、優しい言葉をかけてくれたわけでもない。ただ手を差し出して、私がその手を取るかどうかを見ていた。取らなければそのまま見捨てて去っていただろう。

 

 私はその手を取った。

 

 取ったときの自分の手が、まだ子どもの大きさだったことを、なぜか今になって思い出す。

 

 それから十四年の間……私は協会で飼育された。読み書き、礼儀、語学、料理、護身術、毒物の知識、薬の扱い、傷の縫い方。人の顔色の読み方。そして――主人の後ろに立つときの、正確な距離の保ち方。

 

 教え込まれたのは、たった一つの言葉だった。

 

 ――拾って頂いた恩に報いよ。

 

 あの方はそれ以外のことは何も教えなかった。誰に仕えろとも家に忠義を尽くせとも仰らなかった。ただ、「恩に報いよ」とだけ。私はその言葉に従ってきたつもりだ。今も、従っているつもりでいる。

 

 だが――協会の者たちは、そうは思わないだろう。

 

 あの家に仕える執事は三十人を下らない。全員が私と同じ場所から拾われてきて、全員の居場所が、協会の信用の上に乗っている。その信用を私が一人で叩き壊した。

 

 あの家が「やはり外様は信用できぬ」と結論を下すのに、何年もかからないだろう。協会が解体されれば……次に拾われるはずだった子どもは、拾われないまま路地で死ぬ。私が拾われた、あの路地の奥で。

 

 私は膝の上で泥に汚れた手を組んだ。

 

 それでも――坊ちゃんを止めるべきだったとは、今でも思っていない。

 

 あの夜私が気づいたとき、坊ちゃんはたった一人で発とうとしておられた。十三歳の子どもが、簡素な地図と現金だけを持って、本気で国境を越えるつもりでおられた。止めれば坊ちゃんは戻られただろう。あの屋敷に戻って、また席の取り合いの真ん中に立たされて――そして次に何かが起きたときには、もう自分で歩く力すら残っていなかったはずだ。

 

 私は坊ちゃんが四歳のときからお側にいる。あの方がどういう順番で、どこから壊れかけていったかを、全部すぐ後ろで見てきた。

 

 だから。

 

 三十人と……坊ちゃんお一人を天秤にかけて、私は迷わず坊ちゃんを取った。

 

 ――それは……本当に恩に報いたことになるのだろうか。

 

 わからない。あの方に会えれば聞いてみたいが、もう二度と会うことは叶わない。

 

 

 

 

 資材置き場に戻ると坊ちゃんはまだ眠っておられる。毛布の下から、規則正しい小さな呼吸が聞こえる。

 

 その枕元に鞄が置いてある。中身がすべて引き出され口が開いたままの鞄だ。三週間留め金をかけたままだったそれを、昨日「解いていい」と仰った。その開いた鞄からしばらく目が離せない。

 

 ――お困りになるのはこれからだ。

 

 私の計画は変わっていない。

 

「執事が若を連れ去った」という組織の筋書きが生きている限り、坊ちゃんは純粋な被害者だ。被害者であれば、お戻りになったときに罰されることはない。私が死ねばその筋書きは完璧に完結する。裏切り者は始末され、若は無事に救出された。それで家の面子も立つ。

 

 そして……前例は残る。跡継ぎが家を出たという事実だけは消えない。

 

 あの家にも話の通じる者がいないわけではない。エルナン殿なら……おそらく私の意図に気づかれる。あの方は若を責めない。重責をかけすぎたと仰るはずだ。あの方なら、同じことが二度と起きないように規定を作る。後見を置き、内定に条件をつけ、席の取り合いに歯止めをかける。

 

 ――そうなれば。

 

 坊ちゃんが次にお戻りになったときには……あのお屋敷は、少しはましな場所になっているはずだ。私はそう計算した。

 

 だが……。

 

 開いたままの鞄にもう一度目をやる。あの日坊ちゃんは私に「解いていい」と仰った。理由は教えてくださらなかった。

 

 ――坊ちゃんには、本当にお戻りになる気が……あるのだろうか。

 

 この問いが浮かんだのは、今夜が最初ではない。私の毒見もなしに、マグネ様が作った料理を口にされたあの日から、ずっとだ。

 

 私が死んでも、坊ちゃんがお戻りにならなければ、何も残らない。金も身分も経路も、全部坊ちゃんお一人で回せるように整えた。整えた。……整えた、のだが。

 

 あの鞄だ。口が開いたままの。

 

 あれを見るたび、指の先が冷たくなる。

 

 目を閉じても答えは出ない。たぶん、坊ちゃんご自身にもまだ。

 

 あの家の解析が終わり、刺客が送り込まれてくるまでに。やはり金だ。金が先だ。ロッカーの四つ目の置き場所。それから身分証……いや、金だ。四つ目を、どこに。

 

 毛布の下から、小さな寝息が聞こえる。私に残された時間は、あとどれほどあるだろうか。寝息を一つずつ数えるように、明日の段取りを頭の中で並べ直す。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。