買い出しの帰りはいつも遠回りをする。
同じ道は二度と使わない。人通りの多い時間を選び、防犯カメラの位置を頭に叩き込んでその死角を歩く。
三週間でこの辺り一帯の地理は完全に支配した。
私はコインロッカーの前で足を止めた。
鍵を差し込み中身を確かめる。封筒が一つ。中身は大人二人が三か月は暮らせるだけの額。
同じものがあと三か所にある。
一つは坊ちゃんのお手元に。残りは私が一人で管理している。
本来ならば全額を坊ちゃんがお持ちになるのが筋だ。あの金は、坊ちゃんが自ら本家の金庫から持ち出されたものなのだから。
だが――それでは困る。
私が突然いなくなったとき、坊ちゃんの手元にしか金がなければ、それが尽きた時点で終わりを迎える。
だから三か所に分けた。
それぞれ別の方法で残してある。
一つは坊ちゃんの荷物の底に縫い込んだ。一つは、私が何日も戻らなかった場合に、ある人物から坊ちゃんへ渡るよう手配してある。
最後の一つはまだ考えている。
ロッカーを閉め鍵をポケットに戻す。
この作業だけは決して坊ちゃんに見られるわけにはいかない。
見られれば私の意図に気づかれてしまう。
偽の身分証の手配先もすでに二つ押さえた。
一つは大阪、もう一つは名古屋。どちらもこちらの事情には深く踏み込んでこない業者だ。相場も確認した。坊ちゃんお一人分であれば、今の手持ちで十分に足りる。
ただし手配の依頼はまだ出していない。
出せば記録が残る。今動くのは早すぎる。
ただいつでも引き金を引けるように段取りだけは整えてある。
誰に、どの順番でいくら払うか。私がいなくなっても、手順どおりに進めれば坊ちゃんお一人で完結するよう、すべてを逆算してある。
連絡先はすべて暗記した。
紙には書かない。書けば、持ち物を検められた瞬間にすべてが瓦解する。
この頭の中にしかない情報を、いつどうやって坊ちゃんにお渡しするか。
それが一番の難題だった。
早く渡せば私の算段を悟られる。遅ければ渡す機会そのものを永遠に失う。
――潮時を見誤ってはならない。
資材置き場に戻る途中、電器店の前で足が止まった。
ショーウィンドウのテレビが、ニュースを流している。
もう神野の映像は流れない。三週間も経てば、世間の関心は次の刺激へと移っていく。
それでも私はあの日起きたことを毎日考えている。
あの中継車のカメラは確かにこちらを向いていた。
坊ちゃんは気づいておられなかった。あの極限状態のなかで気づけというのが無理な話だ。
だが私は見た。
レンズの角度。距離。わずかに残っていた街灯の明かり。
――映っている。
画質は粗かっただろう。顔の判別は難しいかもしれない。
だが私は坊ちゃんの隣に立っていた。
一族の者が、あの映像を見て坊ちゃん自身に気づかなかったとしても――私を見落とすはずがない。
九年だ。
九年間本家の屋敷で坊ちゃんの半歩後ろに立っていた男の立ち姿を、あの家の人間が見間違えるわけがない。
私がいる、だから隣にいるのは坊ちゃんだ。その一点ですべてが確定する問題はいつ向こうが気づくかだ。
あの一族には解析班がある。世界中の報道を洗う情報工作の専門部署だ。裏の頂点と表の頂点が同時に墜ちたのだから、日本の報道は一秒残らず見ているはずだ。当然の業務として。
早ければ一週間。
遅くとも一月。
そして三週間が経った。
――もう見つかっている。
私はショーウィンドウから視線を外した。
坊ちゃんにはまだ申し上げていない。
申し上げたところで、打てる手などないのだ。今の連合には、移動の自由すら無い。無駄な不安を増やすだけだ。
だから……私一人が心のなかで秒読みを続ける。
資材置き場の手前で、私は立ち止まった。
中からは何の音もしない。全員が眠りに就いている時間だ。
コンテナの陰に腰を下ろし上着の内ポケットから便箋を一枚取り出した。買い出しのついでに一冊だけ購入したものだ。
ペンを取り、宛名を書いた。
執事長の名。
そこでぴたりと手が止まった。
――私は何を書くつもりだ。
詫びを書くのか?
私が坊ちゃんを連れて出たせいで、あの方は間違いなく議場に呼び出されたはずだ。
あの家で外様がどう扱われるかは嫌というほど知っている。
呼ばれれば、立たされる。座ることは許されず、問われれば膝をつく。命じられれば額を石の床に擦りつける。
七十に近いあの体で。
そしてあの方は必ずこう仰るだろう。
「――処分は協会の手で。クラウディオの首をもって」
あの方はそうするしかない。
それが協会を守る唯一の道だからだ。
私は自分を育ててくれた人に、その自分の処刑を言い出させた。
その詫びをこの紙に書くというのか。
書いてどうなる。
この手紙が本国に届けば筆跡が残る。日本の消印が残る。私が生きていて、自分の意思で動いていることが証明されてしまう。
そして何より。
私が自分の意思で坊ちゃんを連れ出したのではなく、坊ちゃんが自ら出られたのだという可能性を、あの方に考えさせてしまう。
あの方は聡すぎる。
だから私の詫びの文面から、隠された真実を読み取ってしまうだろう。
そうなればすべてが崩れる。
――坊ちゃんは攫われた被害者でなければならない。
そうでなければあのお方は家に戻れない。私は便箋を見下ろした。
宛名だけが書かれた、冷たい白い紙。
ライターを取り出しその端に火をつけた。
オレンジ色の炎が紙を舐め懐かしい名前が黒く縮んでいく。灰になって崩れ落ちるまで私はそれを見つめていた。
私が拾われたのは六歳のときだった。
どこの街だったかは覚えていない。名前すらその頃は持っていなかった。
路地の奥で、腐りかけた生ゴミを漁っていた私の前に、黒い服の老人が立っていた。
あの方は何も言わずにただ手を差し出した。
食い物をくれたわけでも、優しい言葉をかけてくれたわけでもない。ただ手を差し出し私がその手を取るかどうかを冷徹に試していた。
取らなければそのまま見捨てて去っていただろう。
私はその手を取った。
それから十四年の間……私は協会で飼育された。
読み書き、礼儀、語学、料理、護身術、毒物の知識、薬の扱い、傷の縫い方。人の顔色の読み方。
そして――主人の半歩後ろに立つときの、正確な距離の保ち方。
教え込まれたのは、たった一つの言葉だった。
――拾って頂いた恩に報いよ。
あの方はそれ以外のことは何も教えなかった。
誰に仕えろとも家に忠義を尽くせとも仰らなかった。ただ、「恩に報いよ」とだけ。
私はその言葉に従ってきたつもりだ。
今も、従っているつもりでいる。
だが――協会の者たちは、そうは思わないだろう。
あの家に仕える執事は三十人を超える。
全員が、私と同じようにひどい場所から拾われてきた者たちだ。
彼らの居場所は、「外様であっても家の中枢に置いて安全である」という、協会の信用の上に成り立っている。
その保証を私がたった一人で叩き壊した。
歴代最高の跡継ぎを連れ出し金庫に手をつけた。
協会の育てた最高傑作が……だ。
あの家が「やはり外様は信用できぬ」と結論を下すのに、何年もかからないだろう。
協会が解体されれば彼らには行き場がない。外の世界で生きる術を、誰も教わっていないのだから。
そして……次に拾われるはずだった子どもは、拾われないまま路地で死ぬ。
私が拾われたあの冷たい路地の奥で。
私は膝の上で泥に汚れた手を組んだ。
それでも――坊ちゃんを止めるべきだったとは、今でも思っていない。
あの夜私が気づいたとき、坊ちゃんはたった一人で発とうとしておられた。
十三歳の子どもが、簡素な地図と現金だけを持って、本気で国境を越えるつもりでおられたのだ。
止めれば坊ちゃんは戻られただろう。
あの冷え切った屋敷に戻って、また醜い席の取り合いの真ん中に立たされて――そして次に何かが起きたときには、もう自分で歩く力すら残っていなかったはずだ。
私は坊ちゃんが四歳のときからお側にいる。
あの方がどういう順番で、どこから壊れかけていったかを、全部特等席で見届けてきた。
だから。
協会の三十人の命と坊ちゃんお一人の未来を天秤にかけて、私は迷わず坊ちゃんを取った。
――それは……本当に恩に報いたことになるのだろうか。
わからない。
あの方に会えれば聞いてみたいが、もう二度と会うことは叶わない。
資材置き場に戻ると坊ちゃんはまだ眠っておられた。
毛布の下から……規則正しい小さな呼吸が聞こえる。
その枕元に鞄が置いてあった。
中身がすべて引き出され口が開いたままの鞄だ。
三週間留め金をかけたままだったそれを、昨日「解いてよい」と仰った。
私はその開いた鞄を、しばらく見つめていた。
――お困りになるのはこれからだ。
私の計画は変わっていない。
「執事が若を連れ去った」という組織の筋書きが生きている限り、坊ちゃんは純粋な被害者だ。
被害者であれば、お戻りになったときに罰されることはない。
私が死ねばその筋書きは完璧に完結する。
裏切り者は始末され、若は無事に救出された。
それで家の面子も立つ。
そして……前例は残る。
跡継ぎが家を出たという、その重い事実だけは消えない。
あの家にも話の通じる者はいる。
エルナン殿なら……おそらく私の意図に気づかれる。あの方は若を責めない。重責をかけすぎたと仰るはずだ。
数字と合理性で物を考える方だから、二度と同じ悲劇が起きないための規定を作るだろう。
未成年の当主候補には適切な後見を置く。
内定の時期には条件をつける。
席の取り合いに歯止めをかける。
そういう改革が必ず持ち上がる。
――そうなれば。
坊ちゃんが次にお戻りになったときには……あのお屋敷は、少しはましな場所になっているはずだ。
私はそう計算した。
計算したうえで、すべてを捨てて出てきた。
だが……。
私は開いたままの鞄を見た。
あの日坊ちゃんは私に「解いていい」と仰った。
理由は教えてくださらなかった。
――坊ちゃんには、本当にお戻りになる気が……あるのだろうか。
その不吉な問いが浮かんだのは、初めてではなかった。
私の毒見もなしに、あの方が作った料理を口にされたあの日から、ずっとだ。
私の計画は坊ちゃんが家にお戻りになることを大前提にしている。
戻られる場所を少しでも息のしやすい場所に変えておく。
そのために、私は死ぬ。
もし、坊ちゃんがお戻りにならないのだとしたら。
……私の死には何の意味もない。
私は静かに目を閉じた。
考えても今の私に答えは出せない。
きっと、坊ちゃんご自身にもまだ分かってはおられないのだろう。
私に言えることは、たった一つだけだ。
――間に合わせなければ。
あの家の解析が終わり、刺客が送り込まれてくるまでに、やれるだけのことをやっておく。
金の在処。
身分の手配。
連絡の経路。
すべて私がいなくなった後でも坊ちゃんお一人で回せるように。
毛布の下から、愛おしい小さな寝息が聞こえていた。私に残された時間は、あとどれほどあるだろうか。
私はその柔らかな音を耳の奥で聞きながら、明日という破滅への段取りを、静かに数え始めた。