五日が過ぎても何も進んでいない。寝床はまた変わって今度は山沿いの屋根の半分が落ちた作業小屋だ。雨が降れば片側に全員が寄る。
金は残り少なく、人は増えていない。情報網も武器も車も何一つ手に入っていない。
板の上に地図を広げて線を引く。
――どこにも繋がらない。
あの夜に自分は順番を示した。十人で百人を集めろと。その最初の一歩が踏めない。人を集めるには集めた人間を食わせる金が要る。金を作るには動ける人手が要る。どちらも持っていない集団は、どちらからも始められない。輪の外側に出る取っ掛かりが一つも見つからない。
ペンを置いた。
---
「もう一回……八斎會と話す」
死柄木がそう言ったのは、その日の夜だった。全員の顔が上を向く。
「はぁ?」
最初に声を上げたのはスピナーだ。
「あいつら、マグ姉を殺そうとしたんだぞ」
「……知ってる」
「なのにまた頭下げに行くのかよ!」
「……頭は下げねえ」
「同じことだろ!」
スピナーの声が小屋の中に響く。
「俺は……俺はあんたについてきたんだ。誰かの言いなりになりたくないから、あんたのところに来たんだ。あんなやつの――」
「スピナー」
遮ったのはコンプレスの静かな声だ。
「私も反対だ。だが、理由は君とは違う」
帽子のつばを指で押さえて言葉を継ぐ。
「あの男は交渉相手として最悪だ。こちらを対等と見ていない。話がまとまったとしても、条件は必ず後から書き換えられる。信用を置けない相手と組むのは……組まないよりも悪い」
「……だろうな」
「わかっていて行くのか」
「ああ」
死柄木は膝を抱えたまま答える。
「他に……どこがある」
誰も答えない。
「今の俺たちには力が足りない。黒霧もいない、先生のサポートも満足に受けられない」
首筋を掻く音がした。
「だから……今は泥水でもなんでも吸ってやる。あいつを踏み台にして、俺たちがもっとデカくなるために……あんな奴らの下にずっといるわけねえだろ」
黙って聞く。
――消去法だ。
この男の言っていることは正しい。正しいがそれは選択肢が一つしかないという意味でしかない。交渉においてそれは最悪の状態だ。
「あたしは」
マグネが口を開いて、全員がそちらを向く。
「……あたしが……あの日キレなけりゃ、話はもっとうまく転がってたかもしれない」
ぽつりと漏れた声に、いつもの明るさはない。
「……マグ姉」
スピナーがその背中から目を逸らしかけて、結局逸らせない。
「だから……あたしがあいつらとの協力に反対するのは、筋が通らないわよ。あたしが壊した話を……弔ちゃんがもう一回繋ごうとしてくれてるんだから」
その大柄な体が小さく見えて、死柄木の目が髪の間からマグネに向く。
「お前が怒ったのは責めねえ……けど、俺はあいつがお前に手を伸ばすまで何もできなかった」
「それでまた……あいつのところへ行くの?」
「行く……それしか方法がねえ」
---
口を開こうとして言葉を探す。賛成できる要素が一つもない。あの日の治崎の目ははっきりとこちらを向いていた。もう一度接触すれば、確実に何か仕掛けてくる。
だが代案がない。
――代案のない反対はただの感情だ。
言いかけた言葉を飲み込む。その沈黙を破ったのは意外な声だった。
「……僭越ながら」
クラウディオだ。全員の目がそちらへ向く。この男が連合の話し合いで自分から口を開いたことは一度もない。
「……なんだよ」
「一点だけ……申し上げてもよろしいでしょうか」
死柄木が顎で促す。
「ありがとうございます」
執事が姿勢を正す。
「皆様がご懸念なさっていることは、すべて正当です。相手は信用できません。条件は不利になります。危険もございます」
「じゃあ反対か」
「いえ」
クラウディオは首を振った。
「生活が……立ち行きません」
息を呑む音が、どこかで一つ。
「本日で米が尽きました。明日の朝食は、パンを四つに割ってお分けすることになります。九人で四つです」
誰も何も言えない。
「水は、二キロ離れた公園から運んでおります。洗濯は、三日に一度。入浴は……この十日間で二度です」
淡々とした声だ。
「神野でのマグネ様の脇腹の傷は……まだ塞がっておりません。消毒液が切れました。スピナー様は五日前から咳が出ております。埃のせいです。この屋根では、雨の日に全員が片側に寄って眠ることになりますので休養も取れません」
「……」
「トガ様が外出なさるのは、退屈だからだけではないかと存じます。ここにいてもすることがないからです」
トガの目が少しだけ丸くなる。
「皆様は……志のために集まっておられます。それは存じ上げております」
クラウディオが一度言葉を区切って息をつく。
「ですが……人は志だけでは三か月ももちません」
その横顔から目が離せない。
――こいつ。
毎日飯を作っていた男だ。寝床を整え、傷を縫い、水を運んでいた男だ。この部屋で全員の体の状態を正確に把握しているのは、この男だけだ。
「屋根のある場所、三食の食事、湯と、薬。そういったものが手に入るのであれば」
執事の頭が深く下がる。
「私は賛成いたします」
沈黙のあと、最初に折れたのはスピナーだった。
「……卑怯だろ……それ」
語尾が掠れて揺れている。
「そういう言い方されたらよ……反対できねえじゃねえか。俺だって……みんなに飢え死にしてほしいわけじゃねえんだよ……!」
「申し訳ございません」
「謝るなよ」
コンプレスが帽子を深く被り直す。
「……私も撤回する」
「いいのか?」
「条件が悪いことと……生きられないことでは後者のほうが重い。プライドを優先して死ぬのは愚か者のする事だ」
トゥワイスが何か言いかけてやめたのも、言葉にするにはこの場の空気がもう定まりすぎているからだろう。死柄木はしばらく執事を見ていた。
「……お前」
「はい」
「……使えるな」
「恐れ入ります」
賛成も反対も口にしないまま黙っておく。この場で一番冷静な計算をしたのが自分ではなかったことが、少し悔しい。
---
二度目の顔合わせは別の倉庫だ。前回より広くて明るく、埃も少ない。たぶん八斎會の持ち物だろう。治崎は前と同じように箱の上に腰を下ろしたままだ。
「もう一度話がしたいと」
「傘下には入らねぇ……」
開口一番、死柄木は迷いなく言い切った。
「だが……組むのは考えてやる」
「考えてやる……か」
面の奥で短く息が漏れる。
「結構だ。では対等な協力関係としよう」
「……話が早くて助かるよ……ヤクザ」
あまりにあっさり認めるから、警戒を一段引き上げる。
――早すぎる。
この男が前回の主張をこうも簡単に引っ込めるはずがない。
「……ただし」
来た。
「一つだけ……条件がある」
治崎の面がこちらを向いた。
「その子どもをこちらへ寄越せ」
誰の呼吸も聞こえない。
「断る」
死柄木の声に迷いはない。
「なぜだ」
「うちのだって言ったろ」
「あの場でも聞いた。だが……理由になっていない」
「理由が要るのか」
「取引には要る」
治崎が指を組む。
「こちらは資金を出す。拠点を貸す。人員も回す。お前たちが今喉から手が出るほど欲しいものを、全部だ。対価が子ども一人。悪い話か?」
「悪いな」
「その子どもに……それだけの価値があると」
「あるかどうかじゃねえ」
死柄木が首を掻く。
「うちの奴を物みてえに数えられるのが気に入らねえ……俺たちは会社じゃねぇんだよ……」
その後頭部を見上げる。
――何を言っている。
こちらが今どれだけ不利な立場にいるか、この男はわかっているはずだ。条件を蹴れば話は終わる。終われば明日食う物もない。それなのに断った。理屈ではなく、気に入らないという理由で。
「……そうか」
治崎はそれ以上押さない。
「ではその話はいい」
眉をひそめる。
――引いた? この男が。
「代わりに……別の話をしよう」
治崎が脚を組み替えて、話を移す。
「共同作業の話だ。こちらの計画には、表の目を逸らす人手が要る。その人員をそちらから出してもらう」
「何人だ」
「三人でいい」
「三人?」
「多く寄越されてもこちらの管理が煩雑になるだけだ。要るのは数ではない」
死柄木が少しだけ考える素振りをしてから口を開く。
「……まあいいぜ。誰を出すかはこっちで――」
「人選はこちらが指定する」
一拍、間が空く。
「……あ?」
「共同作業だ。使う側が使う人間を選ぶのは当然だろう」
「対等って言ったよな……お前」
「対等だからこそだ」
治崎の声は変わらない。
「傘下であれば……こちらが命じて終わりだ。だが対等であるなら、条件は擦り合わせる必要がある。俺は人選を条件に挙げている。それだけのことだ」
掌に汗が滲む。
――そういうことか。
この男は正面から要求して断られることを、最初から想定していた。断られたうえで引いて、譲歩したように見せかけたのだ。そして別の枠組みで同じものを取りに来る。
「誰を出せって言うんだ」
「まず……変身のできる者」
トガが首を傾げて瞬く。
「次に……複製のできる者」
トゥワイスの肩がびくりと跳ねる。
そして。
「最後にその子どもだ」
予想どおりだ。
「……ふざけんな」
死柄木が一歩前へ踏み出す。
「さっき断っただろうが」
「渡せとは言っていない……貸せと言っている」
「同じだろ」
「いいや……違う」
面の奥の声は続く。
「作業が終われば返す。期間も切る。こちらの組で寝食させるが、所属は連合のままだ。何一つ……奪ってはいない」
「屁理屈だ」
「では断る理由を聞こう」
男が少しだけ身を乗り出す。
「共同作業の人員を実績で選ぶ。それのどこが不当だ」
「実績?」
「先日……この手が止められた」
治崎が自分の右手を持ち上げる。
「俺の個性を防いだ者がそこにいる。うちの組であれをやれる者はいない」
声はどこまでも淡々としたものだ。
「八斎衆の前で……俺は一度手を止められている。その相手を向こうに残したまま、俺が『対等な協力関係を結んだ』と言えばどうなる」
「……」
「若頭が子どもに止められて……そのまま引き下がった。組の者はそう理解するだろうな……俺はそれを許すわけにいかない」
天井を仰ぐ。
――筋が通っている。
腹立たしいほど通っている。あの日の出来事をこの男は自分の面子の問題に組み替えた。個性が欲しいとも正体を調べたいとも一言も言っていない。組の秩序を保つために実績のある者を指名する。極道の理屈として完璧だ。
「断れば……この話はなかったことになる」
「断る」
死柄木が言いかけたところに声を被せる。
「待て」
遮った途端、全員の目がこちらに集まった。
「……アルテミス」
「行く」
自分の声が自分のものでないように聞こえる。
「お前――」
「三人だ」
死柄木を見上げて言葉を継ぐ。
「向こうは三人でいいと言っている。トガとトゥワイスと、俺だ。期間も切ると言った。その間連合には金と拠点が入る」
「おい、待て……そういう話じゃねえだろ」
「そういう話だ」
「ここで断れば明日の飯がない。断った先に別の案があるなら聞く。ないなら受ける以外にない」
死柄木は答えない。答えられないのだろう。自分も同じだからだ。
「坊ちゃん」
背後から低い声がした。
「お顔が割れます。八斎會の組員は数十人規模と伺っております。その全員に、坊ちゃんのお顔と個性の一端が知られることになります」
クラウディオの声はいつもどおりだ。
「裏の人間から裏の人間へ……情報は流れます」
――わかっている。
唇を噛む。解析が終わっていれば、追手はもう日本に入っている。その状況で数十人の裏の人間に顔を晒す。
最悪だ。
――だが。
ここで断れば明日の飯がない。マグネの傷に使う薬もない。スピナーの咳もボロ小屋にいる限り治らない。そしてその条件を呑ませないために、死柄木は今自分を売るのを断った。
――なら、俺が行けば済む。
「……わかっている」
クラウディオのほうは振り返らないままもう一度言う。
「わかっていて……行く」
執事が深く頭を下げたまま、小さく呟く。
「……私の申し上げたことが、こうなりましたか」
顔は上がらない。
「……かしこまりました」
「決まりだな」
治崎が箱から腰を上げる。
「三日後には迎えを出す。場所は追って伝える」
扉の方へ歩いていくその背中に、死柄木の声が飛ぶ。
「おい」
「なんだ」
「傷つけたら……殺す」
治崎の足が止まって、面の奥から短く息が漏れた。笑ったのかもしれない。
「預かった物は、丁寧に扱う主義だ」
扉が重く閉まる。その扉をしばらく見ていた。
――物……か。
背後でトガが「わーい、わーい、お出かけだね! アルテミスくんも一緒!」とはしゃいで、トゥワイスが「ガキ二人連れて遠足かよ! 保護者じゃねぇぞ俺は! 絶対ついて来いよ!」と騒いでいる。二人ともこれがどういう場所への出向なのか、たぶんわかっていない。
掌を開くと、爪の跡が四つ残っていた。