迎えの車は窓が塞がれていた。三十分ほど走って地下へ降りて、そこから先は徒歩だ。通路はやたらと長くて曲がり角が多い。何度か同じ場所を通った気もするが確信は持てない。
――構造を覚えさせない造りだ。
歩数を数えるのはやめる。数えたところで意味がない。
通路の両側には組員が並んで立ち、全員のマスク越しの視線がこちらに刺さる。十三歳の外国人が極道の本拠地を歩いているのだ。目立たないほうがおかしい。
――顔を覚えられていく。
一人、二人、三人。数えるのもやめた。
「けっこう広いですねぇ」
トガの声は暢気なものだ。
「迷子になりそう! ならねえよ! なるっつーの!」
トゥワイスが両腕を広げて騒ぐ。
二人の後ろを歩く自分の半歩後ろには誰もいない。九年間ずっとそこにいた男の姿がない。足音が一つ足りないというだけのことだ。それだけのことがこんなに落ち着かないとは思わなかった。
――集中しろ。
通されたのは天井の低い部屋だ。机が一つ。椅子が三つ。壁際に組員が四人。そして机の向こうには、つば広の帽子を被った男が座っている。全身が黒く、顔は影になってよく見えない。
「座れ」
案内してきた男に言われて三人並んで腰を下ろす。
「確認だ。うちは今そちらと組むことになった。だが、組む以上は素性を確かめる。どこの組でもやることだ」
帽子の男がそこで一度言葉を区切る。
「名前から言え」
「トガヒミコ!」
「分倍河原仁!」
帽子がこちらを向く。少し考える。
――偽名を使うか。
いや、駄目だ。極道の素性確認で嘘をついたと知れれば、それだけで話が壊れる。偽名は一度でも綻べば終わりだし、この先ずっと二人の前でも使い続けなければならない。それに、この国でこの名前を聞いて意味がわかる人間はまずいない。
「アルテミス・エル・トローノ」
男はそれを書き留めもしない。
「……妙な名だな」
「外国の名前だ」
「そうか」
それで終わりだ。誰も何も言わない。
――通った。
「始める」
男は前置きを切り上げて、自分の名は名乗らない。
「お前たちは八斎會を裏切るつもりがあるか」
空気がぴんと張りつめる。
「ないです」
トガの即答だ。
「今はね!」
その返答に壁際の組員が動きかけた。
「待て」
男が手で制す。
「……嘘ではない」
「でしょ?」
「次」
「ねえよ!ぜってぇ裏切ってやる! 俺達は仲間だろ!」
トゥワイスが頭を抱えて叫ぶと、組員たちが顔を見合わせる。
「……こいつは」
「嘘ではない」
男は少しも動じず、淡々と続ける。
「言葉が逆になるだけだ。中身は正しい」
感心せずにいられない。
――使い慣れている。
この男は言葉の表面ではなくその下を読んでいるのだ。
「最後」
帽子がこちらを向く。
「お前は八斎會を裏切るつもりがあるか」
「ない」
答えてしまってから自分で驚いた。迷いも考える時間もなかった。口が勝手に動いたわけでもなく、ただ本当にそう思っていたからそう出た。
――裏切るつもりはない。
事実だ。こちらは対価をもらって仕事をしに来たのだ。契約を守るのは当然で、守らなければ次の取引ができなくなる。それだけの話だ。
「よし」
男が頷く。
「三人とも問題ない」
壁際の空気が少しだけ緩む。
「次は個性の詳細だ」
――来たか。
掌を膝の上で組む。これも当然の手続きだ。共同作業をする以上、相手の個性を把握しておくのは基本で、自分が逆の立場でもそうするだろう。
「変身の女」
「はーい」
「条件は」
「血を吸うこと! その人の血を吸えば、その人になれます!」
「量は」
「一口あればけっこうもちます。少ないと短いです」
「見た目以外に変わるものは」
「声はね似せられます。あ、でも個性は使えないです」
トガには隠す素振りもない。隠す理由がないのだから当然だ。
「複製の男」
「おう! 教えるわけないだろ!全部知ってくれよ!」
「条件は」
「触ることと、そいつを正確に知ってること! 顔も、中身も、全部! 知らねえと作れねえ!」
「作ったものはどれくらいもつ」
「壊れるまで! すぐ壊れる! 結構もつ!」
「本体が死んだら」
「複製は怪我したら消える!」
横目でトゥワイスを窺う。
――喋りすぎだ。
そう思っても止める理由がない。これも当然の質問で当然の回答だ。共同作業のために必要な情報でしかなく、止めればこちらが何かを隠していることになる。
そして。
「最後」
帽子がこちらを向く。
「お前の個性は」
口を開く。
「上位と下位を――」
声が出ていた。止まらない。
「――決める」
言い終わってから心臓が跳ねた。
――今、何を言った。
「続けろ」
「二つのものを選んで片方を上に、片方を下に置く。下になったものは、上になったものに干渉できない。壊せない。動かせない。上になったものは下を簡単に壊せる」
自分の声が部屋に響いていて、止めようとしても止まらない。
――こいつ。
背中に冷たいものが走る。誰もこちらを責めも脅しもしない。この男はただ質問をしただけで、それだけで九年間誰にも話さなかったことが出ていく。
「なるほどな」
男が帽子のつばを持ち上げて言う。
「あの日若頭の手が止まったのはそれか」
「…………」
「射程は」
――言うな。
奥歯を噛む。
「七メー――」
舌が動いた。
――違う。
舌が動いているのではない。喉でも口でもない。自分の身体の中を探す。質問が耳に入った瞬間、頭の奥が勝手に答えを探しに行く。探し終えたものがそのまま口まで運ばれていく。止められないのは口ではなく、その前だ。
――脳だ。
この男の質問は音として耳に届き、脳に届いて、こちらの中身に手をかけている。名前も顔も個性の名も、まだ何一つわからないままだ。
だが。
――個性でなくていい。
やっているのは音がこちらの頭に干渉することだ。ならば断つのは脳への干渉で足りる。
「使える回数に制限は」
質問が重なった時。
「俺の脳を上に」
声に出していた。
「この部屋の音を下に」
部屋の空気が変わる。壁際の組員が一斉に身構える。
音は消えない。男の声も組員の息遣いも自分の心臓の音も、全部そのまま聞こえている。当然だ。上下を決めたところで音が鳴り止むわけではなく、消えたのは干渉だけだ。下になったものは上になったものを動かせない。この部屋の音は……もうこちらの頭を動かせない。
「……ほう」
男は身じろぎもしない。
「今何をした」
答えない。答えられるが答えない。
――効いている。
声は聞こえるし、意味もわかる。ただ、勝手に答えを探しに行く感覚だけが消えている。
「答えろ。お前は誰だ」
問いが飛ぶ。頭の奥は静かなままだ。
「……そうか」
男が帽子を被り直す。
「私の個性が通らんか」
「音本さん」
壁際の組員が身を乗り出す。
「こいつ、今――」
「騒ぐな」
――音本。
その音を頭の中に置く。名前が一つ手に入った。遅すぎたがないよりはましだ。
「面白いな」
音本はこちらを見たまま言う。掌の汗を握り潰す。
――遅かった。
二つだ。個性の本質と射程の一部。枠は残り一つになった。
――外せない。
この男が同じ部屋にいる限り、この枠は外せない。外した瞬間にまた引き出されるのだから、この拠点にいる間はずっとだ。自由に動かせる枠が一つしかない状態で、極道の本拠地に泊まることになる。
音本はしばらく黙って、帽子の影の奥で何かを考えているらしい。
「……エル・トローノ」
低くその音が転がって背筋が冷える。
「どこかで聞いたな」
男が机を指で叩く。
「玉座だったか」
――知っているのか。
「妙な名だと思ったが思い出した。裏の名簿に載っている」
叩く音が止んだ。
「……メキシコか」
壁際の組員の一人が声を漏らす。
「音本さん。あれ……例のカルテルじゃ」
「黙れ」
男が短く制したがもう遅い。部屋の全員の目がこちらを向いている。
――終わった。
この国でこの名前の意味がわかる人間はまずいない。そう踏んだのは、日本の裏社会を甘く見ていたからだ。
天井を仰ぐ。枠で個性は防げる。
だが名前は防げない。
自分の名前は生まれたときから自分についている。それが全部を説明してしまった。
「聞かせろ」
音本の声だ。
「お前は……その組の何だ」
問いが飛んでくる。個性は通っていない。それでも口を開く。
「……跡継ぎだ」
言わなくてよかった。言えなかったはずだ。だがこの部屋の全員がもう察しているのだ。ここで黙れば認めたのと同じことで、こちらが必死に隠したという事実だけが残る。
――どうせ漏れるなら。
自分の口から出したほうがまだ管理できるはずだ。
「なぜ日本にいる」
「逃げてきた」
「追われているのか」
「……ああ」
そこで口を閉ざす。それ以上は言わずに済んだ。
三つ……個性。家。追手。
――最悪だ。
残っているのは、枠の上限と名前が必要だということだけだ。
「確認は済んだ」
音本が腰を上げる。
「二人は下の部屋へ案内する。荷物を置け」
組員が扉を押し開く。
「子どもは残れ。若頭がお会いになる」
トゥワイスの動きが止まった。
「……は?」
椅子が倒れる。
「おい待てよ」
机に手をついて身を乗り出す。
「なんで一人だけだ! 何でもねぇ!おかしいだろうが!」
「若頭のご意向だ」
「意向で子どもだけ残すのかよ!」
トゥワイスの声が部屋に響く。
「今さっき、そいつの腹ん中を全部引っ張り出したよな!? そのうえで二人きりにするってか! 冗談じゃねえ! 冗談だっつーの!」
組員たちの肩に力が入る。
「ねぇ」
トガが笑ったまま口を挟む。
「おかしくない?」
その声だけが妙に静かだ。
「確認が済んだんでしょ?三人とも問題ないって、さっき自分で言いましたよね」
「……」
「じゃあ……なんでアルテミスくんだけ残すんです?」
音本は何も返さない。
「あたしたちが邪魔?」
トガは首を傾げたまま笑顔を崩さない。壁際の組員の一人が一歩下がった。
「行け」
二人の目がこちらに向く。
「坊主」
「すぐ済む」
「そういう問題じゃ――」
「……トゥワイス」
椅子から腰を上げる。
「ここで騒げば話が壊れる。壊れれば連合に金も拠点も入らない。それは俺がここへ来た意味がなくなるということだ」
「……そんなの」
「行け」
言い切る。
トゥワイスはしばらく動かずに、それから机を殴った。
「……クソが」
小さい声だ。珍しく一言だけで終わりだ。
トガが目の前まで来て顔を覗き込む。
「アルテミスくん」
「なんだ」
「死なないでね」
「……死なない」
「よかった」
トガはあっさりと背を向ける。扉が閉まって部屋に一人だけが残った。
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次の部屋は驚くほど清潔だ。床にも壁にも埃一つ見当たらない。空気の匂いまで他の場所と違う。治崎は机の向こうに座り、嘴のような面をつけたままだ。
「座れ」
座る。治崎はしばらく何も言わず、ただこちらを眺める。
「あの日」
ようやく口が開く。
「俺の手はあの男の前で止まった」
「…………」
「理由は見当がついている」
指がわずかに動く。
――どこまでだ。
尋問のことには一言も触れず、聞いたのか聞いていないのかすら示さない。
――こいつ。
わからない。わからないから……こちらは全部を知られている前提で話すしかないのだ。そういう造りの男だ。
「本題に入ろう」
治崎が机の上に紙を一枚置く。何も書かれていない紙だ。
「お前は追われているな」
答えなかった。
「まぁいい……だがもう隠す意味はないぞ」
男が指先で紙を押す。
「ではこう聞こう……今のヴィラン連合にお前を守る力があるか」
喉が鳴った。
「拠点がない。資金がない。人員がない。武器も車も、情報網もない。先日俺が並べたものと同じだ。あれから何か変わったか」
「…………」
「変わっていない。だからお前たちはここへ来た」
正しい。一つも間違っていないのだ。
「うちは違う」
治崎の声は続く。
「組員は五十を超える。拠点は複数ある。金もある。情報も入る。この地下は外から見つけられない。入っても出られない」
「……」
「お前一人を匿うことなど、造作もない」
男が少しだけ身を乗り出す。
「うちに来い」
机の木目に目を落とす。
「連合にいる限り、お前はいつか見つかる。あの連中には、お前を守る力がない。守る気があったとしてもだ」
――その通りだ。
「守れない者の傍にいるのは、非効率だ。感情の問題ではない。計算の問題だ」
――その通りだ。
「お前は……計算のできる人間だろう」
その一言が一番刺さって顔を上げた。
――この男は俺を正しく見ている。
損得で動く人間だと見抜いているのだ。実際そうだ。九年間そうやって生きてきた。この部屋の中で一番正しいことを言っているのは、間違いなくこの男だ。
「…………断る」
自分の声が聞こえる。
「理由を聞こう」
「…………」
「理由だ」
口を開いても言葉が出てこない。
――なぜだ。
連合にいる理由を並べようとして並ばない。鞄を解いたあの夜も同じだった。出ていく理由はいくらでも作れたのに一つも使わず、残る理由は一つも作れないまま残った。
――同じだ。
「……理由は……ない」
「ないのか」
「……ない」
治崎はしばらく黙ってこちらを眺める。
「不合理だな」
「ああ」
「自分でわかっているのか」
「わかっている」
「……そうか」
男は紙を裏返しただけだ。
「話は終わりだ」
「……いいのか」
「今日はな」
治崎が椅子から腰を上げる。
「お前の状況はこれから悪くなる。よくはならない。追手は近づく。連合は弱くなる。金は減る」
扉に向かいながら男が言う。
「気が変わったら言え。いつでも受け入れる」
「…………」
「俺は急がない」
扉が開いて閉じた。しばらく椅子から動けなかった。
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案内された地下の部屋には二人が座っていて、扉を開けた瞬間にトゥワイスが飛び上がった。
「おい大丈夫か! お前今にも死にそうじゃねえか! 嘘だろ、生きてる! 生きててよかった畜生!!」
「無事だ」
「何された!」
「何もされていない」
「嘘つけ!」
「……交渉だ」
壁際に腰を下ろす。
「うちに来いと言われた」
「はぁ!?」
「断った」
「……そうか」
トゥワイスはそこで黙り、黙ったまま隣に座る。トガが反対側に座って三人で壁にもたれる。誰も何も言わない。
天井を仰ぐ。
――理由はない。
さっき自分でそう答えた。本当になかった。
だが。
あの部屋を出てからずっと考えている。理由がないのに断ったということは、理由以外の何かで決めたということだ。それが何なのかはまだわからない。
――わからないまま決めたのか。
九年間そんなことは一度もなかった。
隣でトゥワイスが眠りかけ、反対側ではトガが鼻歌を歌う。
目を閉じる。半歩後ろに誰もいない。
それでも両側に人がいた。