八斎會の地下は時間がわからない。窓がない。外の音も入らない。照明はずっと同じ明るさで、夜も昼も変わらない。
出向から六日が経った。与えられた部屋の隅に座って天井を仰ぐ。
枠はまだ外せていない。俺の脳を上に、この地下の音を下に。範囲を変えたその一つが埋まったまま、もう六日だ。あの帽子の男がどこにいるかわからない以上、外せない。使える枠は一つだけだ。
部屋の外には常に二人の組員が立つ。監視ではないと向こうは言う。案内役だそうだ。どちらでも同じことだ。
「飯だぜ!お腹いっぱいだ!腹が減って死にそうだぜ!」
廊下から戻ってきたトゥワイスの手に、紙の包みが一つ。
「今日はコンビニのおにぎりだってよ。四個。俺とトガちゃんでな」
床に座り込んで包みを開けながら、顎で部屋の隅を指す。
「坊主のは向こうだ」
部屋の隅には、六日前にはなかった小さな机がある。その上の膳では、焼き魚と味噌汁と白飯と漬物から湯気が立つ。
「これを食え。おにぎりはもらう」
「いや、向こうが坊主用に出したもんだろ。俺が食ったら角が立つ」
「立たない」
「立つっつーの」
この男の言う通りだ。組が「若」に出した膳を随行の人間が食ったとなれば、組の顔を潰したことになる。裏の理屈だ。嫌になるほど知っている理屈だ。
「ねぇ、アルテミスくん」
戻ってきたトガが、床に座って膝を抱え込む。
「ここの人たちってさ、あたしたちのこと嫌いだよね。すれ違ったら道を空けられたの。あたしのときだけ。みんな汚いもの避けるみたいな顔してた」
トガは笑っている。
「気にしてないよ?慣れてるから」
「そういうもんだぜ」
トゥワイスが、おにぎりを頬張りながら頷く。
「極道からすりゃ格が違うんだよ。あいつらは筋モンで、俺らは野良だ。同じヴィランでも、そこは別なんだとよ」
二人とも傷ついている様子はない。本当に慣れているのだ。それが一番きつい。
翌日、地下の通路を歩いていると組員が壁際に寄った。
「どうぞ、お通りください」
頭まで下げられる。次の角でも同じことが起きて、その次でもだ。
知られている。あの尋問の部屋にいたのは、音本と組員が四人。それだけだ。それが六日で地下の全員に広まったのだ。エル・トローノの跡取りが来ている、と。
「若さん。お部屋の寝具を新しいものに替えておきました。若頭のご指示です」
「……別にいい」
「遠慮せず」
組員は深く頭を下げて去っていく。しばらくその場から動けない。
同じだ。
地球の裏側まで来たのに同じだった。血で順番がつく。生まれで扱いが変わる。本人が何をしたかは関係ない。トガは道を空けられ、自分は頭を下げられるのだ。同じ連合から来た三人のうち、自分だけが「若」だ。
メキシコを出たときは、これから逃げたつもりでいた。逃げた先の極道の地下で、また同じ順番がついて回っている。しかも断れない。この扱いを拒めば組の面子を潰して、連合との取引に響く。
トガとトゥワイスは、三日に一度外へ駆り出されていく。
「使い走りだよ。荷物運んで見張りして。個性も使わせてもらえないの」
戻ってきたトガの報告だ。
「あ、でもね。向こうの若い子が怪我したの。そしたら若頭が来て、触ってはい終わり。血も止まって骨も戻ってた」
「……その男は、喜んでいたか」
「ありがとうございますって言ってたけど。……怖がってた」
そうだろうな、と思う。治すことも壊すことも、同じ手でできる。その手に治されて、心から安心できる人間はいない。
それが起きたのは、七日目の夜だった。水を取りに部屋を出て、通路の角を曲がる。
そこに子どもがいた。
五つか六つか、そのくらいだろう。白い服の袖から覗く両腕には、肩の下から手首まで隙間なく包帯が巻かれている。頬にも白いテープ。角のある、細い白い髪の子どもだ。
その子がこちらを見ている。逃げない。声も出さない。表情がない。怯えているのとも違うし、何かを訴えているのとも違う。
何も……なかった。
屋敷で、いろいろな人間を見てきた。恐怖も媚も、敵意も、全部見た。この顔はどれでもない、この子は何も期待していないのだ。誰かが助けに来るとも、状況が変わるとも思っていない。だから何も顔に出ない。その状態になるまでにどれだけの時間が要るかを、知っている。
「……お前」
「壊理」
声が割り込んだ。通路の奥から白い面の男が姿を見せる。
「勝手に出るなと言ったはずだ」
子どもの肩がびくりと跳ねる。その反応だけが人間らしかった。
「……ごめんなさい」
「行くぞ」
治崎は子どもの手を取らない。触れずに歩き出して、子どもがその後ろをついていく。すれ違いざまに、治崎が足を止めた。
「……何も見ていないな」
問いではない。
「……」
「賢明だ」
あの子が誰で、なぜ包帯だらけで、何に使われているのか。何一つわからない。ただ一つだけ、あれが道具の扱いだということはわかる。人が人を使っている。使われる側は、逆らうことを覚えていない。
自分の家と同じ形だった。
自分には膳が出て、あの子には包帯が巻かれている。同じ地下で、同じ男の手の中で。
水を取るのも忘れて部屋に戻り、拳を握り込む。屋敷にいた頃、ずっとそうしてきたように。
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同じ頃、連合の新しい拠点には屋根があった。八斎會が用意した郊外の廃業した保養所で、部屋は十二もある。風呂も動く。三食が出るようになって五日目だ。
「ねぇ……執事さん。それ、焦げてるわよ」
「……あ」
クラウディオが慌てて火を止めても、黒い煙はまだ上がっている。
「珍しい。こないだも味噌汁の塩入れ忘れてたでしょ」
「……」
「心配なんでしょ」
クラウディオは答えない。
「あんた……あの子と何年一緒にいるんだっけ」
「九年でございます」
「離れたことは」
「……一度も、ございません」
マグネはしばらく黙っていた。
「そりゃ……焦げるわよね」
そう言って台所を出ていく。クラウディオは焦げた鍋を見下ろしたまま、しばらくして静かに中身を捨てた。
その夜、マグネは縁側で月を仰ぐ。空の見える場所で夜を過ごすのは久しぶりだ。コンプレスが帽子を取って、隣に腰を下ろす。
「あたしのせいよね……あたしがあの日キレなきゃ、あの子は個性を見せなかった。見せなきゃ……あの潔癖症に目をつけられなかった」
「君が謝るなら、あの日、あの男に頭を下げるのを賛成した私も謝らねばならない」
「それは違うでしょ」
「同じことさ。誰かの選択の先で、誰かが痛い目を見る。この商売はタネを明かせばそういうものだ、それを全部背負っていたら明日歩けなくなる」
「……」
「君は……死ななかった」
しばらく、二人で月を見ていた。
「あの子……ちゃんと飯食ってるかしら」
「執事殿が心配しているのは、そこだろうな。今日も鍋を焦がしていた」
「知ってる、二度目よ」
二人は少しだけ笑って、それからまた黙り込む。
廊下の奥の明かりのない部屋で、死柄木が膝を抱えている。積まれているのは八斎會が運び込んだ箱で、中身は食料に薬、毛布に現金だ。
「……なんかさ」
スピナーが扉から顔を出す。
「やっと人間らしい生活になったのにさ。誰も嬉しそうじゃないよな。三人……いねえからかな」
死柄木は答えない。扉が閉まって部屋はまた暗い。
全部……借りだ。
食い物も屋根も薬も……あの男が出したものだ。対価は三人だ。その三人は……マグネを殺しかけた男の手元にいる。
首筋に手をかけて、掻かない。
「……忘れてねえよ」
誰にも聞こえない声で、そう言った。
「全部、返してもらう」
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その週、横浜の貸しビルの一室にエル・トローノの幹部が集まっていた。
「ソル・ナシエンテ商事。登記は二年前。所在地は横浜」
銀髪の女が、机の上の書類の束をシルクハットで軽く叩く。エル・トローノの金と商いをほぼ一人で回しているバルバラが、二年前から温めていた札だ。
「休眠会社を買ったんだよね。実際に動いてた会社だから、履歴も取引先も全部本物。中南米から食品と工芸品を輸入して卸してる。去年の売上は四億。ちゃんと税金も納めてる」
「……二年前?」
「若がいなくなる前から、ボクは日本を見てたの。いつか入るつもりだったからね。こんなに早く使うことになるとは思わなかったけど」
「……今でなければならん理由は」
「表にオールマイト、裏にオール・フォー・ワン。あの二人が上から押さえてたから、この国には誰も入れなかったの。で、両方消えた。入るなら今しかないんだよ」
女が書類を並べていく。
「エル・トローノの名前は世界中の当局が持ってる。だから名前は一度もどこにも出さない。人員は二百。四か月かけて、留学、就労、技能実習、観光、船員に全部ばらして入れる。五人以上の固まりは作らない」
「……よく考えてあるな」
口を開いたのはエルナンだった。どこにでもいる勤め人のような体つきの男だが、そのスーツの下に何が詰まっているかは、家の誰もが知っている。
「ボクの仕事だからね。ボクは役員として入る。レイは電気と通信の技術者。エルナンは船の乗組員」
「船か」
「目立たないからね。荷役の中にいたら、誰も二度見しない」
「……なるほど」
バルバラはそこで一度言葉を切って、卓の一番奥へ目を移す。
「マキシミリアーノ殿……入国の手続きですが」
「不要であろう」
即答だ。
「余は、蟲けらの決めた手続きなど踏まぬ」
「……ただの入国手続きで――」
「我らは血族だ。二百年血を磨き続けてきた一族だ。その者が、役所に紙を出して、判を押してもらって許しを乞うと?」
「……あなたが密入国で捕まったら全部終わります。船から荷主、荷主から会社。ボクが入れる二百人も、拠点も、金も、流通も」
「ならば、見た者を片付ければよいのだ」
誰もすぐには口を開けない。
「……日本の入管に、何人いると思ってるんですか」
「知らぬ。知る必要がない。余が通るなら消える。それだけのことだ」
「マキシミリアーノ殿」
口を挟んだのはエルナンだ。
「俺は若を責める気はありません。席の取り合いに疲れて家を出られた。それは当主の務めとは関係のない話です」
マキシミリアーノの眉が動く。
「執事は別です。筋を飛ばして若を連れ出した以上、あれは殺します。ですが当主のご指示は、若を無傷で連れ帰れ、です。余計な事件を起こせとは言われていません」
「だからこそ、余が急ぐのだ」
マキシミリアーノの声が震えを帯びていく。
「若は今、蟲の巣の中におられる。二百年の到達点が、名もなき蟲けらどもと同じ屋根の下で眠り、同じ皿から食っている。それを一日でも長く放置せよと、貴殿は言うのか?」
エルナンはしばらく黙って、それから椅子に座り直す。
「……そうですか」
「エルナン……」
バルバラが小さく名前を呼ぶ。
「筋の話は通じる相手にしか通じない。この方にはこの方の筋がある」
卓の端でレイが腰を上げた。何も言わず、誰とも目を合わせないまま部屋を出ていった。
船は予定どおりに入港した。横浜、午前六時。コンテナ四十本。書類は完璧で、税関も三十分で抜けていく。
「売るのは三番目の品質。一番いいのを流したら、この国の既存の流通が二か月で全部死ぬ。死にかけた連中は必死になって、警察に垂れ込む。少し良くて少し安い。それくらいがちょうどいいの」
岸壁で荷役の作業服を着たエルナンが頷く。
「商売人だな」
「ボクの仕事だからね」
マキシミリアーノが日本に入ったのは、その三日後だった。連絡はない。バルバラのもとに届いたのは、ニュースの見出しだ。
――港湾作業員三名、意識不明で発見。極度の脱水と衰弱。外傷なし。
港の事務所に現れた男の服には、埃一つついていない。密入国してきた人間の格好ではなかった。
「余は長旅で消耗していたのでな。補った」
「殺しては――」
「殺しておらぬ。余は無駄な殺生はせぬ。三人もいれば足りる。足りたからやめた」
バルバラが机の縁を握りしめる。慈悲で残したのではない。腹が満ちたから箸を置いただけだ。
「……次からは……事前に仰ってください。後始末がありますので」
「好きにせよ……余は若を捜す」
扉が閉まって、女は引き出しを開けて、新しい書類の束を取り出す。
「……二年分……作り直しか」
その夜、事務所の屋上ではレイが煙草をふかしている。
「……見てたでしょ……昼間の」
バルバラが隣に来て、フェンスに背を預ける。
「見てたぜ」
「なんか言いなよ」
「言って変わるのか」
「変わらないけど。言いたくなるじゃん……普通」
「ならねえだろ」
湾岸の明かりが規則正しく並んでいる。
「あの人さぁ。なんで、あんなに若のこと好きなんだろうね」
「好きじゃねえだろ」
「え?」
「あの人が見てんのは、二百年の血だ。若はその容れ物ってだけだよ。若が個性を失くしたら、たぶん次の日には興味を失くす」
バルバラは答えない。その通りだと思ってしまったからだ。
「ねぇ、レイ。あの人が先に見つけたらさ、どうなると思う?連れて帰るだけだよね?当主の指示もあるし」
「……そうだな」
「でしょ」
「そうだな」
二度目は少し遅かった。バルバラはそれ以上訊かずにおく。訊いて答えが返ってきたら困るからだ。
湾岸の明かりが規則正しく並んでいる。
その向こうのどこかの地下で、十三歳が拳を握っている。