最初に気づいたのは匂いではなかった。
治崎廻の前には報告書が三枚並んでいる。一枚目。先月まで週に二度だった所轄の巡回が、三度に増えた。時間帯もずれた。二枚目。港の取引先が支払いの期日を延ばしてほしいと言い出している。理由は書いていない。三枚目。組員二名がそれぞれ別の日に、別の場所で尾行の気配を感じたという。どちらも確認は取れていない。
三枚とも単体なら何でもない。巡回の増加は近隣で別件があれば起こるし、取引先の遅延は日常茶飯事だ。尾行の気配など気のせいで片付く。
だが
治崎は報告書を揃えて机に置く。
――同じ時期に……三つ。
偶然という言葉を、この男は信用していない。世界には法則があり、結果には原因がある。原因のわからない事象は、まだ観測できていないだけだ。三つ同時に起きたなら共通の原因があるはずだ。
「クロノ」
「はい」
扉の脇に控えていた男が一歩前へ進み出す。
「どこからだと思う」
「……調べさせておりますが、まだ」
「わかっている。聞いているのはお前の見立てだ」
クロノスタシスが少し考え込む。
「警察単独ではないかと。ヒーローが噛んでいます」
「根拠は」
「巡回の時間が無駄がない形に変わっています。警察だけなら、ああはなりません」
「……そうか」
窓のない壁に目を移す。この部屋にも時計はない。
「いつ来る」
「わかりません」
「どこから」
「それも」
「そうだろうな」
男は手袋の指を組む。
わからない。いつ来るか、どこから来るか、何人で来るかも。わかっているのは来るということだけだ。
――ならば十分だ。
「段取りを変える。入中を呼べ」
五分後、マスコットのような男が部屋に入ってきた。
「お呼びで」
「地下の構造を組み替えろ」
「へい。どの辺りを」
「全部だ」
入中の動きがぴたりと止む。
「……全部……ですか」
「三層目より下を、全部だ」
治崎が机に図面を広げる。
「今の構造は内部の人間が覚えている。覚えているということは、漏れる可能性があるということだ」
「しかし……うちの者も迷いますぜ」
「迷わせろ」
男の指が図面の上をなぞっていく。
「通路は三度以上曲げる。行き止まりを増やせ。階段は、同じ階に二つ以上繋げるな」
「……はあ」
「それと……非常口を一つだけ残せ。俺が指定する場所に」
「一つだけ?」
「多ければ向こうにも使われる」
入中は図面を覗き込んで低く唸った。
「三日はかかりますぜ」
「二日でやれ」
「……へい」
男が出ていくと、治崎は図面を巻き取っていく。
――これで入ってきた者は迷う。迷えば時間がかかる。時間がかかればこちらが動ける。
「次だ」
治崎が別の紙を出す。
「完成した分は……今どこにある」
「第一倉庫にまとめて」
「分けろ」
「……分ける……とは」
「四箇所だ」
男は紙に四つの点を書いていく。
「地下に二つ。外に二つ。外の一つは組と無関係な場所にしろ」
「無関係と申しますと」
「賃貸の倉庫でいい。個人名義で借りろ。組の人間の名前は使うな」
クロノスタシスの眉間に皺が寄った。
「それは……」
「言え」
「万一の際回収できなくなる恐れが」
「それでいい」
治崎が顔を上げて言う。
「一箇所に置いて、そこを押さえられたら終わりだ。分けておけば、三箇所取られても一箇所残る」
「……はい」
「一箇所残れば……やり直せる」
男は紙を裏返す。
「全部を守ろうとする者が全部を失う。親父がそう仰っていた」
クロノスタシスは何も言わない。その名が出ると、この男は黙る。治崎もそれ以上は続けなかった。
「では……製造の話だ」
「はい」
「前倒しにする」
「……どの程度」
「予定の倍だ」
部屋の空気がわずかに張りつめていく。
「廻」
「言え」
「それは……壊理の負担が」
治崎は手袋を直す。
「一回あたりの採取量は変えない」
「では」
「回数を増やす」
「……同じことでは」
「同じではない」
男が机の上で指を組む。
「一度に多く採れば体が壊れる。回数を分ければ、間に回復する。効率は落ちるが失うよりはましだ」
「……はい」
「間隔はこれまで三日に一度だった。それを一日半に一度にする」
クロノスタシスが下を向く。
「回復が……追いつきますか」
「追いつかせろ」
「……」
「医者を張り付けろ。栄養も管理させろ。眠らせろ。使えるものは全部使え」
治崎はそこで一度言葉を切った。
「壊してはならん」
その言い方に感情はない。
壊してはならない。それはいたわりの言葉ではなかった。
――あれは組長の孫だ。そして計画の中心だ。
どちらの意味でも失うわけにはいかない。この男の中で、その二つは矛盾しない。組長のために組を立て直す。そのために組長の孫を使う。矛盾していると言う者は組の中に何人もいたが、治崎には一度も矛盾に見えたことがなかった。
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「別件の報告が」
クロノスタシスが封筒を差し出す。
「例の子どもの件です」
治崎の指が止まった。
「言え」
「エル・トローノ。メキシコ。麻薬が主軸の組織です」
男の手が資料を広げていく。
「規模は……把握できているだけで構成員数万。南米、北米、欧州、東南アジアに販路。年間の売上は円換算で兆に届くという話も」
「……兆か」
「数字の裏は取れていません。ですが……少なく見積もっても、うちの千倍以上かと」
受け取った資料に写真は一枚もない。文字だけだ。
「血族主義の組織です。何世代も……個性の強い者同士で子を作らせてきたと。幹部は十一。全員が血縁」
「……なるほどな」
そこで少しだけ腑に落ちる。
――あの個性は作られたものか。
二百年、意図的に人間を交配させた結果だ。純度を高め続けた末に出てきたもの。
「それと」
クロノスタシスの報告は続く。
「かなり前に……跡取りが行方不明になっています」
「……ほう」
「組織の公式見解は専属の執事が連れ去った、と。現在国際的に捜索中です」
治崎は資料を机に置いて、しばらく動かない。
「……」
「あの子どもを置いておくのは……やはり危険では」
答えが返らないので、クロノスタシスが言葉を重ねる。
「兆単位の資金を持つ組織が、血眼になって捜している人間です。もしうちにいると知れれば――」
「消し飛ぶな」
「はい」
「うちなど一日もたん」
あっさりとした認め方だ。
「では」
「置く」
「…………」
「置くと言った」
男が立ち上がり、窓のない壁の前で足を止めて振り向かずに言う。
「考えてもみろ……クロノ」
「はい」
「あの子どもの個性は……俺の個性を止めた」
「……はい」
「ならば弾も止まる」
クロノスタシスの目がわずかに開く。
「あの個性は順位を決めるものだ。上と下を置けば、下は上に干渉できん。弾が当たっても通らんだろう」
「……」
「つまり……俺の計画の中でただ一つの穴だ」
治崎がようやく振り向く。
「その穴を外に置いておけるか」
「しかし……うちに置けば組織が」
「来ればいい」
一切の迷いがない。
「弾が揃えば、規模は関係ない」
クロノスタシスは言葉を失った。
「構成員が何人いようが、撃てば終わりだ。個性を失った人間が集まったところで、ただの人間の群れだ」
「……相手は兆単位の金を」
「金で個性は戻らん」
治崎が手袋を直す。
「むしろ……向こうから買いに来る」
その声には一片の疑いもない。
「考えてもみろ。血で個性を磨いてきた組織だ。二百年かけて積み上げたものが弾一発で消える。奴らにとってこれほど恐ろしい商品はない」
「……」
「売り手はこちらだ。値はこちらがつける」
男が椅子に戻って腰を下ろす。
「エル・トローノなど最良の客だ」
クロノスタシスは何も言わない。言えないのだ。
血を重ねてきた組織ほど、あの弾を恐れるだろう。だが恐れた相手が金を持って来るのか、こちらを潰しに来るのかまではわからない。ましてや問題は、完成する前に見つかった場合だが――それを言ってもこの人は計画を止めない。止めないなら言う意味がない。
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一人になってから、治崎は資料をもう一度開く。跡取り。行方不明。
――連れ去られた、か。
この男はそれを信じていない。連れ去られた子どもはあんな目をしない。初めて会ったあの日、あの子どもは自分の意思でそこにいた。誰にも押さえられておらず、逃げようともしない。連合の連中の中で、一人だけ場違いなほど落ち着いていた。
――自分で出てきたな。
それなら筋が通る。跡取りの座を捨てて、組織から逃げて日本に来たのだ。なぜかは知らん。興味もない。
だが、そうであるなら。
――なぜ断った。
治崎の指が机を叩く。あの部屋で自分は正しいことしか言っていない。連合には資金がない。拠点がない。人員がない。情報網がない。あの子どもを守る力が一つもない。うちにはある。全部ある。
追われている子どもが、守れる場所と守れない場所を選べるなら答えは一つだ。計算のできる人間ならそうする。そして……あの子どもは計算ができる。
――なのに断った。
理由を聞いて、ないと言った。嘘ではない。嘘をつく人間の目ではなかった。本当に理由がなかったのだ。
机を叩く音が少しずつ速まっていく。治崎は自分が苛立っていることに気づいた。
――不潔だ。
その言葉が勝手に浮かぶ。いつもならこれで片付く。理解できないものは、不潔だ。不潔なものは、切除する。それで終わりだ。
だが今回は終わらない。この不潔さには形がないからだ。病なら治せる。異物なら取り除ける。汚れなら洗える。理由のない選択はどれでもない。
治崎は手袋をはめ直す。
――原因がある。
必ずある。あの子どもがあの場所を選んだ理由が、どこかにある。自分がそれを観測できていないだけだ。観測できれば切除できる……切除すればあの子どもはこちらに来る。
――手元に置けばわかるはずだ。
資料を引き出しにしまって鍵を回す。窓のない部屋で、照明は一定の明るさを保ったままだ。
この男は自分が何に苛立っているのかを、最後まで言語化しなかった。管理の問題だと、そう片づけた。計画の穴を埋める。それだけの話だと。
そしてこの男は本気でそう信じていた。