最初に伝わってきたのは音ではなく振動だった。地下の床がかすかに揺れて、寝床から身を起こす。
「なに!今の」
隣でトガも目を覚ます。
「上だ」
二度目の振動は、さっきより強い。扉が乱暴に開く。
「起きろ!ヒーローだ上から入られた」
戸口に組員が二人。トゥワイスが跳ね起きた勢いで毛布を蹴飛ばす。
「はぁ!? いつ! 嘘だろ! 本当かよ!」
「今だ。変身と複製の二人は上へ回れ。若頭のご指示だ。一人でも長く抑えろ」
トゥワイスとトガが顔を見合わせる。
行くな、と言いかけた。言ったところで何も変わらない。断れば連合と八斎會の取引が壊れる。そして今この地下に、連合の人間は三人しかいない。
「……気をつけろ」
それだけを口にする。
「任せろ! 無理だ! 任せとけっつーの!」
トゥワイスが親指を立てて、トガは振り返らずに手を振って、二人が通路の奥に消えていく。
「若さんは、最深部へ」
残った組員が別の方向を指す。
「……俺が?」
「若頭の個性を止められた方は、若さんお一人だと。誰が来ようと、一人は確実に止められる、と」
喉の奥がすっと冷えていく。当然の判断だ。ヒーローの名前は公開されている。上下を決めればそれで終わる。八斎會から見れば、自分は最強の守りだ。
枠がないのに。
言えるはずがない。上限があると明かせば、それが今ゼロだと知れれば、この地下で自分の価値は消える。消えた人間が極道の地下でどう扱われるかは知りすぎるほど知っているのだ。
「……わかった」
歩き出しながら頭の中で枠を一つずつ数え直す。あの男の個性への枠。あの男は収監中で、今すぐの危険はない。脳の枠。音本の居場所がわからない。外した瞬間に捕まれば、全部喋らされる。昨日の夜に置いた、肌の枠。外して撃たれれば終わりだ。
どれかを捨てなければならない。
どれを捨てるかを決めないまま、通路を歩く。どれを捨てても損は出るのだ。損の小さいほうを選ぶ時間はあったのに、損が出ることそのものを選べなかった。
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最深部の扉は二重だ。一枚目を抜けた瞬間に空気が変わる。消毒液の匂い。冷たい風。機械の音。広い部屋で、壁沿いに台が並ぶ。白い布、金属の盆、細い管、注射器、冷却装置。
病院に似ている。病院ではない。
部屋の中央に、子ども用の大きさの寝台が一つ。台の脇には銀色のケースが積んである。トガが言っていたものだろう。蓋の開いた一つに細い弾が並び、中で液体が揺れている。
赤ではない。うっすらと桃色だ。
その色をしばらく見つめる。確かめもせずに置いた枠だ。中身が何でできているかを推理して、その推理に一枠を賭けたのだ。この色が推理どおりのものなのかどうかはわからない。賭けが当たっているのかどうかも。
寝台の枕元には包帯の束。新しいものと使ったものは分けてあり、使ったほうには血がついたままだ。
床に落ちていた紙を拾う。記録表だ。日付の横に数字が並ぶ。三日ごとに一行。それが一年分近く続く。ある地点から間隔が縮んで、一日半ごとに一行。
紙を握りしめた。
全部わかってしまった。
あの子から何かを取り出しているのだ。取り出すたびに体が壊れて、だから包帯が要る。壊れた体をあの男が治す。治せばまた取れる。だからあの子は生かされているのだ。殺さない理由は慈悲ではない。材料が減るからだ。
指先が震えている。自分の家は血のために人間を組み合わせた。ここでは血のために人間を分解しているのだ。やり方が違うだけで、根は同じだ。
俺は逃げられた。
それが一番こたえる。執事がいて、金があって、個性があって、逃げる先を選ぶ頭があった。
あの子には何もない。
壁から人間が出てくる。
「失礼するよ!」
大柄でマントをつけた、金髪の青年だ。反射的に一歩退く。青年は部屋を一瞥して、すぐにこちらを見つける。
「君――」
言いかけたところで、二枚目の扉が開く。
「そこまでだ」
白い面の男が姿を見せる。後ろにクロノスタシスと組員が二人。
「ルミリオン?だったか。壁を抜けてくるとはな。厄介だ」
壁際まで退く。ルミリオン。通り名だ。だがこの世界では名前として機能するし、七メートルの内側にもいる。
条件は揃っていた。
枠だけがない。
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戦闘は一瞬で始まった。金髪の青年は速い。床をすり抜け、壁から現れ、組員の一人を沈める。クロノスタシスが髪を放っても抜けて、治崎が手を伸ばしても抜けていく。触れないのだ。あの男の分解が効かない。
「アルテミス」
面の奥から治崎の声が飛ぶ。
「止めろ。名前は今呼んだ」
動けない。
「どうした」
答えられない。治崎の目が一瞬だけこちらを向く。面の奥で何かを測る目だ。
その一瞬に、四人を相手にしながら金髪の青年がこちらを振り向く。
「そこの君! 下がってて! 危ないから!」
言葉を失う。この地下に八斎會の守りとして立っている人間に向かって、この男は危ないからと言うのだ。
敵だと思われていない。ただの十三歳だと思われているのだ。
「……不潔だ」
白い面の男が初めて後ずさったところで、部屋の奥の扉が細く開く。出てくるな、と思っても声が出ない。あの子が扉の隙間から部屋を覗く。音に気づいて様子を見に来たのだろう。
「――壊理ちゃん!」
青年の顔色が変わって、四人を相手にしながらあの子のほうへ動こうとする。クロノスタシスが腰から短い筒を抜く。
銃だった。
銃口の先には白い服。取られるくらいなら、壊す。それがこの組の判断だ。口が勝手に動いた。
「壊理を上に――」
何も起きない。三つとも埋まっているのだ。
全部自分のために埋めた枠だ。そして、ここへ来るまでの通路で一つ外す時間はあった。
外さなかったのは自分だ。
銃声がした。
金髪の青年が、あの子の前に飛び込んでいた。
青年が床に倒れたまま動かない。弾は背中に当たったのに、血はほとんど出ていない。しばらくして、ゆっくり起き上がろうと床に手をつく。
その手が床をすり抜けなかった。
「……あ」
もう一度床に触れても、抜けない。
「ルミリオン」
治崎が面の奥から言う。
「残念だったな」
青年は答えない。膝をついたまま、自分の手に目を落とす。それから扉の隙間で立ち尽くしている白い服の子どもに向かって、笑った。
「……大丈夫だよ。君は悪くない」
そして、立ち上がる。
息を呑む。個性が消えたのだ。壁も抜けない。攻撃も避けられない。この地下で、たった今ただの人間になったのだ。
それなのにこの男は立った。
「まだ……終わってないよ」
「……正気か」
治崎の声に、初めて感情が滲む。
「個性を失って何ができる。お前は今ただの人間になった」
「そうだね」
青年が拳を固く握り込む。
「でもヒーローってのはさ。個性の名前じゃないんだよ」
青年が床を蹴る。速い。個性がなくても体は動く。あの個性の欠点を補うために、何年も鍛え続けた体だ。
組員の一人が顔面を打たれて沈む。クロノスタシスの髪が、今度は抜けずに肩に刺さる。それでも止まらない。もう一人も肘で崩す。
治崎の手が伸びて、もう抜けない。肩の一部が抉れて、青年の膝が折れる。手をついて立ち上がろうとする。二度。三度。
壁際で見ている。昨日の夜に自分は結論を出している。個性を失えば守れなくなるだけだ、と。目の前の男は個性を失ったまま、まだあの子のほうへ手を伸ばしている。
「連れていけ!壊理は奥へ戻せ!」
治崎が組員に顎で指図を出す。白い服が扉の奥へ引きずられていく。最後まで、あの子は何も言わなかった。
「……待て」
青年の声に、誰も待たない。
治崎が目の前に立つ。
「なぜ止めなかった。名前は呼んだ。距離も足りていた」
枠がゼロだとは言えない。
「……壁の中にいる間は、届かない」
本当のことを一つ混ぜて、肝心なことを隠した。
「俺の個性は相手が見えていないと置けない。あの男はほとんどの時間を床と壁の中にいた。出てきたときにはもう撃たれていた」
治崎はしばらく黙ったままだ。
「……二百年の血も、肝心なときには役に立たんか」
何も言い返さずにおく。信じたかどうかはわからない。
「上が騒がしいからな……俺は行く、その男は放っておけ。もう何も持っていない」
扉が閉まる。
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部屋に残ったのは、自分と、床に手をついたままの金髪の青年だけだ。先に口を開いたのは青年のほうだった。
「……君……いくつだい」
「……は?」
「歳だよ」
青年が壁に手をついて体を起こす。肩から血が垂れていても、笑みは消えない。
「十三」
「そうか。じゃあ……逃げるんだ」
思考が、止まった。
「上が開いてる。俺が抜けてきた経路はまだ塞がれてないはずだ。三層上がって東に。そこから出られる」
「……何を言っている。あんた俺が誰かわかってるのか」
「わからないよ。でも……十三歳だろう」
青年の声はあっさりしたものだ。
「それだけで十分だよ」
「……さっき、あんたは俺に下がれと言った」
「言ったっけ?」
本当に覚えていない顔だ。
「……言った」
「そっか。じゃあ今も下がっててほしいな。できれば……ずっと遠くまで」
言葉を失う。自分は敵側の人間だ。この地下に八斎會の守りとして置かれている。そして今、何一つしていない。この男が撃たれるのを黙って見ているだけだった。それをこの男は知っていて、逃げろと言う。
「……今、自分が何を失ったかわかっているのか」
青年は自分の手に目を落として、しばらく黙り込む。
「わかってるよ。でもあの子は撃たれなかった」
顔を上げて、また笑う。
「だから……いい」
――あの子は撃たれなかった。
違う。最初から撃たれるはずがなかったのだ。計画の中心を、あの男が自分の組の銃で壊させるわけがない。狙われたのはあの子ではなく、庇いに飛び込む男のほうだった。
損得で説明がつかない。この男の選択はどの計算にも合わない。拠点を襲われた日のあの木の男もそうだった。敵として立っていたのに、怖かったろうと言われたのだ。家ではヒーローは家に逆らわないし、逆らえないようにできている。この国のヒーローは、全員どこかがおかしい。
「早く行くんだ、上はまだ持ちこたえてる」
「……あんたは」
「俺はあの子を追う」
「その体でか」
「歩けるよ」
青年は壁を伝って身を起こす。膝は笑っているのに倒れない。自分の心配は一言もしない。
拳を握って、三つの枠のことを思い返す。自分の個性を守るために、一つ。自分の口を守るために、一つ。自分の肌を守るために、一つ。
全部自分のためだ。
そして通路で外す時間はあった。損の小さいほうを選べば、一つは空いていた。選ばなかったのは、どれを捨てても損が出るからだ。損を出したくなくて、あの子もこの男も守れないままだ。
九年間、計算だけで生きてきた。計算はいつも正しかった。
正しくて、何も守れなかった。
「……クソ」
初めてその言葉が口から出た。二重扉のほうへ歩き出す。
「そっちは出口じゃないよ!」
「知っている」
振り返らずに答えを返す。
「奥へ行く」
「奥って、君――」
背後で何か言われた気がしたが、聞こえなかったことにしておく。
枠を空けるのだ。
歩きながら決めていた。今度は損が出ても構わない。どれを捨てるか。答えはとっくに出ていた。