カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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22話 ルミリオン

 

第23話 ルミリオン

 

 最初に伝わってきたのは音ではなく振動だった。

 

 地下の床がかすかに揺れて、少年は寝床から身を起こした。

 

「なに!今の」

 

 トガが隣で目を覚ましていた。

 

「上だ」

 

 二度目の振動が来た。さっきより強い。扉が乱暴に開いた。

 

「起きろ!ヒーローだ上から入られた」

 

 組員が二人立っていた。

 

 トゥワイスが飛び起きた。

 

「はぁ!? いつ! 嘘だろ! 本当かよ!」

 

「今だ。変身と複製の二人は上へ回れ。若頭のご指示だ。一人でも長く抑えろ」

 

 トゥワイスとトガが顔を見合わせた。

 

 行くな、と言いかけた。

 

 言ったところで変わらない。断れば連合と八斎會の取引が壊れる。そして今この地下に、連合の人間は三人しかいない。

 

「……気をつけろ」

 

 それだけを言った。

 

「任せろ! 無理だ! 任せとけっつーの!」

 

 トゥワイスが親指を立てた。トガは振り返らずに手を振った。

 

 二人が通路の奥に消えていった。

 

「若さんは、最深部へ」

 

 残った組員が別の方向を指した。

 

「……俺が?」

 

「若頭の個性を止められた方は、若さんお一人だと。誰が来ようと、一人は確実に止められる、と」

 

 喉の奥が冷えるのを感じた。

 

 当然の判断だった。ヒーローの名前は公開されている。上下を決めればそれで終わる。八斎會から見れば自分は最強の守りだ。

 

 枠がないのに。

 

 言えるはずがなかった。上限があると明かせば、それが今ゼロだと知れれば、この地下で自分の価値は消える。消えた人間が極道の地下でどう扱われるかは知っている。

 

「……わかった」

 

 歩き出しながら頭の中で枠を並べた。

 

 先生の個性への枠。あの男は収監されている。今すぐの危険はない。

 

 音の枠。音本の居場所がわからない。外した瞬間に捕まれば、全部喋らされる。

 

 昨日の夜に置いた、肌の枠。外して撃たれれば終わる。

 

 どれかを捨てなければならない。

 

 どれを捨てるかを少年は決めなかった。

 

 決めないまま通路を歩いた。どれを捨てても損が出る。損の小さいほうを選ぶ時間はあったのに、損が出ることそのものを選べなかった。

 

--

 

 最深部の扉は二重になっていた。

 

 一枚目を抜けた瞬間空気が変わった。消毒液の匂い。冷たい風。機械の音。

 

 広い部屋だった。壁沿いに台が並んでいる。白い布。金属の盆。細い管。注射器。冷却装置。

 

 病院に似ていた。病院ではなかった。

 

 部屋の中央に寝台が一つ置かれていた。子ども用の大きさだ。

 台の脇に銀色のケースが積まれていた。トガが言っていたものだろう。

 

 蓋が一つ開いていて、細い弾が並んでいた。中に液体が入っている。

 

 赤ではなかった。

 

 うっすらと桃色に見えた。

 少年はその色をしばらく見ていた。

 

 確かめもせずに置いた枠だった。中身が何でできているかを推理してその推理に一枠を賭けた。

 

 この色が自分の推理どおりのものなのかどうか、わからなかった。

 

 賭けが当たっているのかどうかも。

 

 寝台の枕元に、包帯の束が置いてあった。新しいものと使ったものが分けられていた。使ったほうには血がついていた。

 

 床に落ちていた紙を少年は拾った。

 

 記録表だった。日付が並んでいる。その横に数字。

 

 三日ごとに一行。それが一年分近く続いていた。

 

 ある地点から間隔が短くなっていた。一日半ごとに一行。

 

 少年は紙を握りしめた。

 

 全部わかってしまった。

 

 あの子から何かを取り出している。取り出すたびに体が壊れる。だから包帯が要る。壊れた体をあの男が治す。治せばまた取れる。

 

 だからあの子は生かされている。殺さない理由は慈悲ではない。材料が減るからだ。

 

 指が震えていた。

 

 自分の家は血のために人間を組み合わせた。ここでは、血のために人間を分解している。やり方が違うだけで根は同じだった。

 

 俺は逃げられた。

 

 それが一番こたえる、執事がいて、金があって、個性があって、逃げる先を選ぶ頭があった。

 

 あの子には何もない。

 

 

 

 壁から人間が出てきた。

 

「失礼するよ!」

 

 大柄でマントをつけた金髪の青年だった。

 

 反射的に後ろへ下がった。

 

 青年は部屋を一瞥して、すぐに少年を見つけた。

 

「君――」

 

 言いかけたところで二枚目の扉が開いた。

 

「そこまでだ」

 

 白い面の男が入ってきた。後ろにクロノスタシスと組員が二人。

 

「ルミリオン?だったか。壁を抜けてくるとはな。厄介だ」

 

 少年は壁際まで下がった。

 

 ルミリオン。通り名だ。だがこの世界では名前として機能する。そして七メートルの内側にいる。

 

 条件は揃っていた。

 

 枠だけがなかった。

 

---

 

 戦闘は一瞬で始まった。

 

 金髪の青年は速かった。床をすり抜け壁から現れ、組員の一人を沈めた。クロノスタシスが髪を放つ。抜けた。治崎が手を伸ばす。抜けた。

 

 触れないのだと理解した。あの男の分解が効かない。

 

「アルテミス」

 

 治崎が面の奥から言った。

 

「止めろ。名前は今呼んだ」

 

 少年は動けなかった。

 

「どうした」

 

 答えられなかった。

 

 治崎の目が一瞬だけこちらを向いた。面の奥で何かを測る目だった。

 

 その一瞬に金髪の青年が壁際の少年に気づいた。四人を相手にしながら、こちらを振り向いた。

 

「そこの君! 下がってて! 危ないから!」

 

 少年は言葉を失った。

 

 この地下に、八斎會の守りとして立っている人間に向かって、この男は「危ないから」と言った。

 

 敵だと思われていない。

 

 ただの十三歳だと思われている。

 

「……不潔だ」

 

 白い面の男が初めて後ずさると、部屋の奥の扉が細く開いた。

 

 出てくるなと思ったが、声が出なかった。

 

 あの子は扉の隙間から部屋を見ていた。音に気づいて様子を見に来たのだろう。

 

「――壊理ちゃん!」

 

 青年の顔が変わった。四人を相手にしながら、あの子のほうへ動こうとした。

 

 クロノスタシスが腰から短い筒を抜いた。

 

 銃だった。

 

 銃口が白い服のほうを向いていた。

 

 取られるくらいなら、壊す。それがこの組の判断だった。少年の口が勝手に動いた。

 

「壊理を上に――」

 

 何も起きない、三つとも埋まっていた。

 

 自分の個性を奪われないために。

 

 自分の口を守るために。

 

 自分の肌を守るために。

 

 全部自分のために埋めた枠だった。

 

 そして、ここへ来るまでの通路で一つ外す時間はあった。

 

 外さなかったのは自分だ。

 

 銃声がした。

 

 金髪の青年があの子の前に飛び込んでいた。

 

 

 青年が床に倒れていた。弾は背中に当たっていた。血はほとんど出ていなかった。

 

 しばらく動かなかった。それからゆっくりと起き上がろうとして、床に手をついた。

 

 その手が床をすり抜けなかった。

 

「……あ」

 

 もう一度床に触れる。抜けなかった。

 

「ルミリオン」

 

 治崎が、面の奥から言った。

 

「残念だったな」

 

 青年は答えなかった。膝をついたまま自分の手を見ていた。

 

 それから扉の隙間で立ち尽くしている白い服の子どもに向かって、笑った。

 

「……大丈夫だよ。君は悪くない」

 

 そして、立ち上がった。

 

 少年は息を呑んだ。

 

 個性が消えたのだ。壁も抜けない。攻撃も避けられない。この地下で、たった今ただの人間になった。

 

 それなのにこの男は立った。

 

「まだ……終わってないよ」

 

「……正気か」

 

 治崎の声に、初めて感情が混じった。

 

「個性を失って何ができる。お前は今ただの人間になった」

 

「そうだね」

 

 青年は拳を握った。

 

「でもヒーローってのはさ。個性の名前じゃないんだよ」

 

 青年が床を蹴った。

 

 速かった。個性がなくても、体は動く。あの個性の欠点を補うために何年も鍛え続けた体だった。

 

 組員の一人が顔面を打たれて倒れた。クロノスタシスの髪が、今度は抜けずに肩に刺さる。それでも止まらない。もう一人を肘で沈めた。

 

 治崎の手が伸びた。

 

 抜けなかった。肩の一部が抉れた。

 

 青年の膝が折れた。手をついて立ち上がろうとした。二度。三度。

 

 少年は壁際で見ていた。

 

 昨日の夜自分は結論を出した。個性を失えば守れなくなるだけだ、と。

 

 目の前の男は、個性を失ったまままだあの子のほうへ手を伸ばしている。

 

「連れていけ!壊理は奥へ戻せ!」

 

 治崎が組員に顎で指した。白い服が扉の奥に引きずられていく。最後まであの子は何も言わなかった。

 

「……待て」

 

 青年の声に誰も待たなかった。

 

 

 治崎が少年の前に立った。

 

「なぜ止めなかった。名前は呼んだ。距離も足りていた」

 

 枠がゼロだとは、言えなかった。

 

「……壁の中にいる間は、届かない」

 

 嘘をついた。

 

「俺の個性は相手が見えていないと置けない。あの男はほとんどの時間を床と壁の中にいた。出てきたときにはもう撃たれていた」

 

 治崎はしばらく黙っていた。

 

「……二百年の血も、肝心なときには役に立たんか」

 

 少年は何も言い返さなかった。

 

 信じたかどうかはわからなかった。

 

「上が騒がしいからな……俺は行く、その男は放っておけ。もう何も持っていない」

 

 扉が閉まった。

 

---

 

 部屋に残されたのは、少年と床に手をついたままの金髪の青年だけだった。

 

 先に口を開いたのは青年のほうだった。

 

「……君……いくつだい」

 

「……は?」

 

「歳だよ」

 

 青年は壁に手をついて体を起こしていた。肩から血が垂れている。それでも笑っていた。

 

「十三」

 

「そうか。じゃあ……逃げるんだ」

 

 少年の思考が、止まった。

 

「上が開いてる。俺が抜けてきた経路はまだ塞がれてないはずだ。三層上がって東に。そこから出られる」

 

「……何を言っている。あんた俺が誰かわかってるのか」

 

「わからないよ。でも……十三歳だろう」

 

 青年はあっさりと言った。

 

「それだけで十分だよ」

 

「……さっき、あんたは俺に下がれと言った」

 

「言ったっけ?」

 

 青年は本当に覚えていない顔をした。

 

「……言った」

 

「そっか。じゃあ今も下がっててほしいな。できれば……ずっと遠くまで」

 

 少年は言葉を失った。

 

 自分は敵側の人間だ。この地下に八斎會の守りとして置かれていた。そして今何もしなかった。この男が撃たれるのを黙って見ていた。

 

 それをこの男は知っている。知っていて逃げろと言う。

 

「……今、自分が何を失ったかわかっているのか」

 

 青年は自分の手を見た。しばらく見ていた。

 

「わかってるよ。でもあの子は撃たれなかった」

 

 顔を上げてまた笑った。

 

「だから……いい」

 

 損得で説明がつかない。この男の選択はどの計算にも合わない。

 

 拠点を襲われた日のあの木の男もそうだった。敵として立っていたのに、怖かったろうと言われた。

 

 家ではヒーローは家に逆らわない。逆らえないように、できている。この国のヒーローは全員どこかがおかしい。

 

「早く行くんだ、上はまだ持ちこたえてる」

 

「……あんたは」

 

「俺はあの子を追う」

 

「その体でか」

 

「歩けるよ」

 

 青年は壁を伝って立ち上がった。膝は笑っていたが倒れない。自分の心配は一言もしなかった。

 

 少年は拳を握って、三つの枠のことを考えた。

 

 自分の個性を守るために、一つ。自分の口を守るために、一つ。自分の肌を守るために、一つ。

 

 全部自分のためだった。

 

 そして通路で外す時間はあった。損の小さいほうを選べば、一つは空いていた。選ばなかったのはどれを捨てても損が出るからだ。

 

 損を出したくなくて、あの子もこの男も守れなかった。

 

 九年間計算だけで生きてきた。計算はいつも正しかった。

 

 正しくて何も守れなかった。

 

「……クソ」

 

 初めてその言葉が口から出た。

 

 少年は二重扉のほうへ歩き出した。

 

「そっちは出口じゃないよ!」

 

「知っている」

 

 振り返らずに答えた。

 

「奥へ行く」

 

「奥って、君――」

 

 背後で何か言われた気がしたが、聞こえなかったことにした。

 

 枠を空ける。

 

 歩きながら決めていた、今度は損が出ても構わなかった。

 

 どれを捨てるか。答えはとっくに出ていた。

 

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