第23話 ルミリオン
最初に伝わってきたのは音ではなく振動だった。
地下の床がかすかに揺れて、少年は寝床から身を起こした。
「なに!今の」
トガが隣で目を覚ましていた。
「上だ」
二度目の振動が来た。さっきより強い。扉が乱暴に開いた。
「起きろ!ヒーローだ上から入られた」
組員が二人立っていた。
トゥワイスが飛び起きた。
「はぁ!? いつ! 嘘だろ! 本当かよ!」
「今だ。変身と複製の二人は上へ回れ。若頭のご指示だ。一人でも長く抑えろ」
トゥワイスとトガが顔を見合わせた。
行くな、と言いかけた。
言ったところで変わらない。断れば連合と八斎會の取引が壊れる。そして今この地下に、連合の人間は三人しかいない。
「……気をつけろ」
それだけを言った。
「任せろ! 無理だ! 任せとけっつーの!」
トゥワイスが親指を立てた。トガは振り返らずに手を振った。
二人が通路の奥に消えていった。
「若さんは、最深部へ」
残った組員が別の方向を指した。
「……俺が?」
「若頭の個性を止められた方は、若さんお一人だと。誰が来ようと、一人は確実に止められる、と」
喉の奥が冷えるのを感じた。
当然の判断だった。ヒーローの名前は公開されている。上下を決めればそれで終わる。八斎會から見れば自分は最強の守りだ。
枠がないのに。
言えるはずがなかった。上限があると明かせば、それが今ゼロだと知れれば、この地下で自分の価値は消える。消えた人間が極道の地下でどう扱われるかは知っている。
「……わかった」
歩き出しながら頭の中で枠を並べた。
先生の個性への枠。あの男は収監されている。今すぐの危険はない。
音の枠。音本の居場所がわからない。外した瞬間に捕まれば、全部喋らされる。
昨日の夜に置いた、肌の枠。外して撃たれれば終わる。
どれかを捨てなければならない。
どれを捨てるかを少年は決めなかった。
決めないまま通路を歩いた。どれを捨てても損が出る。損の小さいほうを選ぶ時間はあったのに、損が出ることそのものを選べなかった。
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最深部の扉は二重になっていた。
一枚目を抜けた瞬間空気が変わった。消毒液の匂い。冷たい風。機械の音。
広い部屋だった。壁沿いに台が並んでいる。白い布。金属の盆。細い管。注射器。冷却装置。
病院に似ていた。病院ではなかった。
部屋の中央に寝台が一つ置かれていた。子ども用の大きさだ。
台の脇に銀色のケースが積まれていた。トガが言っていたものだろう。
蓋が一つ開いていて、細い弾が並んでいた。中に液体が入っている。
赤ではなかった。
うっすらと桃色に見えた。
少年はその色をしばらく見ていた。
確かめもせずに置いた枠だった。中身が何でできているかを推理してその推理に一枠を賭けた。
この色が自分の推理どおりのものなのかどうか、わからなかった。
賭けが当たっているのかどうかも。
寝台の枕元に、包帯の束が置いてあった。新しいものと使ったものが分けられていた。使ったほうには血がついていた。
床に落ちていた紙を少年は拾った。
記録表だった。日付が並んでいる。その横に数字。
三日ごとに一行。それが一年分近く続いていた。
ある地点から間隔が短くなっていた。一日半ごとに一行。
少年は紙を握りしめた。
全部わかってしまった。
あの子から何かを取り出している。取り出すたびに体が壊れる。だから包帯が要る。壊れた体をあの男が治す。治せばまた取れる。
だからあの子は生かされている。殺さない理由は慈悲ではない。材料が減るからだ。
指が震えていた。
自分の家は血のために人間を組み合わせた。ここでは、血のために人間を分解している。やり方が違うだけで根は同じだった。
俺は逃げられた。
それが一番こたえる、執事がいて、金があって、個性があって、逃げる先を選ぶ頭があった。
あの子には何もない。
壁から人間が出てきた。
「失礼するよ!」
大柄でマントをつけた金髪の青年だった。
反射的に後ろへ下がった。
青年は部屋を一瞥して、すぐに少年を見つけた。
「君――」
言いかけたところで二枚目の扉が開いた。
「そこまでだ」
白い面の男が入ってきた。後ろにクロノスタシスと組員が二人。
「ルミリオン?だったか。壁を抜けてくるとはな。厄介だ」
少年は壁際まで下がった。
ルミリオン。通り名だ。だがこの世界では名前として機能する。そして七メートルの内側にいる。
条件は揃っていた。
枠だけがなかった。
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戦闘は一瞬で始まった。
金髪の青年は速かった。床をすり抜け壁から現れ、組員の一人を沈めた。クロノスタシスが髪を放つ。抜けた。治崎が手を伸ばす。抜けた。
触れないのだと理解した。あの男の分解が効かない。
「アルテミス」
治崎が面の奥から言った。
「止めろ。名前は今呼んだ」
少年は動けなかった。
「どうした」
答えられなかった。
治崎の目が一瞬だけこちらを向いた。面の奥で何かを測る目だった。
その一瞬に金髪の青年が壁際の少年に気づいた。四人を相手にしながら、こちらを振り向いた。
「そこの君! 下がってて! 危ないから!」
少年は言葉を失った。
この地下に、八斎會の守りとして立っている人間に向かって、この男は「危ないから」と言った。
敵だと思われていない。
ただの十三歳だと思われている。
「……不潔だ」
白い面の男が初めて後ずさると、部屋の奥の扉が細く開いた。
出てくるなと思ったが、声が出なかった。
あの子は扉の隙間から部屋を見ていた。音に気づいて様子を見に来たのだろう。
「――壊理ちゃん!」
青年の顔が変わった。四人を相手にしながら、あの子のほうへ動こうとした。
クロノスタシスが腰から短い筒を抜いた。
銃だった。
銃口が白い服のほうを向いていた。
取られるくらいなら、壊す。それがこの組の判断だった。少年の口が勝手に動いた。
「壊理を上に――」
何も起きない、三つとも埋まっていた。
自分の個性を奪われないために。
自分の口を守るために。
自分の肌を守るために。
全部自分のために埋めた枠だった。
そして、ここへ来るまでの通路で一つ外す時間はあった。
外さなかったのは自分だ。
銃声がした。
金髪の青年があの子の前に飛び込んでいた。
青年が床に倒れていた。弾は背中に当たっていた。血はほとんど出ていなかった。
しばらく動かなかった。それからゆっくりと起き上がろうとして、床に手をついた。
その手が床をすり抜けなかった。
「……あ」
もう一度床に触れる。抜けなかった。
「ルミリオン」
治崎が、面の奥から言った。
「残念だったな」
青年は答えなかった。膝をついたまま自分の手を見ていた。
それから扉の隙間で立ち尽くしている白い服の子どもに向かって、笑った。
「……大丈夫だよ。君は悪くない」
そして、立ち上がった。
少年は息を呑んだ。
個性が消えたのだ。壁も抜けない。攻撃も避けられない。この地下で、たった今ただの人間になった。
それなのにこの男は立った。
「まだ……終わってないよ」
「……正気か」
治崎の声に、初めて感情が混じった。
「個性を失って何ができる。お前は今ただの人間になった」
「そうだね」
青年は拳を握った。
「でもヒーローってのはさ。個性の名前じゃないんだよ」
青年が床を蹴った。
速かった。個性がなくても、体は動く。あの個性の欠点を補うために何年も鍛え続けた体だった。
組員の一人が顔面を打たれて倒れた。クロノスタシスの髪が、今度は抜けずに肩に刺さる。それでも止まらない。もう一人を肘で沈めた。
治崎の手が伸びた。
抜けなかった。肩の一部が抉れた。
青年の膝が折れた。手をついて立ち上がろうとした。二度。三度。
少年は壁際で見ていた。
昨日の夜自分は結論を出した。個性を失えば守れなくなるだけだ、と。
目の前の男は、個性を失ったまままだあの子のほうへ手を伸ばしている。
「連れていけ!壊理は奥へ戻せ!」
治崎が組員に顎で指した。白い服が扉の奥に引きずられていく。最後まであの子は何も言わなかった。
「……待て」
青年の声に誰も待たなかった。
治崎が少年の前に立った。
「なぜ止めなかった。名前は呼んだ。距離も足りていた」
枠がゼロだとは、言えなかった。
「……壁の中にいる間は、届かない」
嘘をついた。
「俺の個性は相手が見えていないと置けない。あの男はほとんどの時間を床と壁の中にいた。出てきたときにはもう撃たれていた」
治崎はしばらく黙っていた。
「……二百年の血も、肝心なときには役に立たんか」
少年は何も言い返さなかった。
信じたかどうかはわからなかった。
「上が騒がしいからな……俺は行く、その男は放っておけ。もう何も持っていない」
扉が閉まった。
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部屋に残されたのは、少年と床に手をついたままの金髪の青年だけだった。
先に口を開いたのは青年のほうだった。
「……君……いくつだい」
「……は?」
「歳だよ」
青年は壁に手をついて体を起こしていた。肩から血が垂れている。それでも笑っていた。
「十三」
「そうか。じゃあ……逃げるんだ」
少年の思考が、止まった。
「上が開いてる。俺が抜けてきた経路はまだ塞がれてないはずだ。三層上がって東に。そこから出られる」
「……何を言っている。あんた俺が誰かわかってるのか」
「わからないよ。でも……十三歳だろう」
青年はあっさりと言った。
「それだけで十分だよ」
「……さっき、あんたは俺に下がれと言った」
「言ったっけ?」
青年は本当に覚えていない顔をした。
「……言った」
「そっか。じゃあ今も下がっててほしいな。できれば……ずっと遠くまで」
少年は言葉を失った。
自分は敵側の人間だ。この地下に八斎會の守りとして置かれていた。そして今何もしなかった。この男が撃たれるのを黙って見ていた。
それをこの男は知っている。知っていて逃げろと言う。
「……今、自分が何を失ったかわかっているのか」
青年は自分の手を見た。しばらく見ていた。
「わかってるよ。でもあの子は撃たれなかった」
顔を上げてまた笑った。
「だから……いい」
損得で説明がつかない。この男の選択はどの計算にも合わない。
拠点を襲われた日のあの木の男もそうだった。敵として立っていたのに、怖かったろうと言われた。
家ではヒーローは家に逆らわない。逆らえないように、できている。この国のヒーローは全員どこかがおかしい。
「早く行くんだ、上はまだ持ちこたえてる」
「……あんたは」
「俺はあの子を追う」
「その体でか」
「歩けるよ」
青年は壁を伝って立ち上がった。膝は笑っていたが倒れない。自分の心配は一言もしなかった。
少年は拳を握って、三つの枠のことを考えた。
自分の個性を守るために、一つ。自分の口を守るために、一つ。自分の肌を守るために、一つ。
全部自分のためだった。
そして通路で外す時間はあった。損の小さいほうを選べば、一つは空いていた。選ばなかったのはどれを捨てても損が出るからだ。
損を出したくなくて、あの子もこの男も守れなかった。
九年間計算だけで生きてきた。計算はいつも正しかった。
正しくて何も守れなかった。
「……クソ」
初めてその言葉が口から出た。
少年は二重扉のほうへ歩き出した。
「そっちは出口じゃないよ!」
「知っている」
振り返らずに答えた。
「奥へ行く」
「奥って、君――」
背後で何か言われた気がしたが、聞こえなかったことにした。
枠を空ける。
歩きながら決めていた、今度は損が出ても構わなかった。
どれを捨てるか。答えはとっくに出ていた。