カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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23話 自給自足

二重扉の奥は短い通路で、突き当たりに扉が一つ。見張りの姿はない。

 

 ――出払ったか。 

 

 上の混乱に人手を回したのだろう。扉の前で足を止めて目を閉じる。

 

 ――外す。

 

 まず音本の枠から。脳を上に、この地下の音を下に。ずっと埋めていた枠だ。外した瞬間に音が戻ってきた。いや……音は最初から聞こえていた。戻ってきたのは、世界がこちらに干渉してくる感覚のほうだ。遠くで何かが崩れる音がして、悲鳴のようなものも混じる。

 

 ――次。

 

 肌の枠。自分の肌を上位に、他人の血液を下位に。置いたばかりのものだ。これを外せば、当たった時点で個性が消える。

 

 ――それでいい。

 

 息を吐いて、外す。枠が二つ空いた。埋まったままなのは一つだけ。この国に来た日から置いている、あの男への備えだ。それは外さない。外す理由が一つも思いつかないからだ。

 

 扉を押し開く。

 

 暗い部屋に寝台が一つ。その上で白い服の子どもが膝を抱えたまま、こちらを見た。あの顔だ。何も期待していない顔。

 

 後ろ手に扉を閉ざす。

 

「……動くな」

 

 子どもは動かない。言われたからではない。最初から動く気がないのだ。

 

 近づいていく。七メートル。五メートル。三メートル。子どもは逃げない。逃げるという選択肢を、持っていない。

 

「壊理」

 

 名前を呼ぶと、肩がわずかに動いて、それだけだ。

 

「俺の名前は……アルテミスだ」

 

 答えはなく、それで構わない。

 

「アルテミス・エル・トローノを上に。壊理を下に」

 

 部屋の中では何も起きない。

 

 これは備えだ。この子の個性が何なのかは知らない。だが、あの男が一年以上かけて絞り取っていたものだ。人間の体から個性を消す弾を作れるほどの何かが、この小さな体に入っている。それが暴れたとき、自分に届かないようにしておく。そして個性破壊弾が壊理を材料に作られたものなら、同時に対策もできる。

 

 ――次だ。

 

「壊理を上に」

 

「治崎廻を下に」

 

 声が部屋に響いて、子どもが顔を上げた。初めて、表情らしきものが動く。何を言われたのかわかっていない顔だ。

 

「……いま」

 

 小さな声だ。

 

「なに……したの」

 

「説明は後だ」

 

 手を差し出す。

 

「立て。連れていく」

 

 子どもは差し出された手を見つめたまま、取ろうとしない。

 

「……だめ」

 

「なぜだ」

 

「わたしに……さわったら」

 

 声が震えている。

 

「こわれちゃう」

 

 差し出した手が、止まった。

 

 ――そう教えられたのか。この一年で。

 

 誰かに触れれば壊れる、と。だから逃げようとしないのか。

 

「壊れない」

 

 手は引かない。

 

「今、そうしておいた」

 

「……?」

 

「お前が何をしても、俺には効かない。壊れない。だから、触っていい」

 

 子どもはしばらくその手を見つめて、それからおそるおそる指を伸ばす。

 

 触れた。

 

 何も起きない。子どもの目が大きく開く。

 

「……あ」

 

 それはこの子が一年ぶりに出した、意味のある音かもしれない。

 

「行くぞ」

 

 その手を、握り返した。

 

---

 

 扉が開く。振り返ると、白い面がそこに立っていた。

 

「……そこで何をしている」

 

 治崎の声だ。肩に埃がついているのは、上で何かあったからだろう。男の目が、繋がれた二つの手に向く。

 

「離せ」

 

「断る」

 

「……ほう」

 

 治崎が一歩踏み込む。

 

「見えないから届かなかった……と言ったな」

 

「言った」

 

「嘘だったか」

 

「ああ。嘘だ」

 

 あっさりと認めてみせる。

 

「知っていて止めなかった。個性が使えなかったからだ」

 

「……使えなかった」

 

「上限がある。同時に置けるのは三つまでだ。あのときは、三つとも埋まっていた」

 

 治崎の動きが止まった。

 

「今は」

 

「新しく二つ使った」

 

 壊理の手を握ったまま、そう返す。

 

「残りは、一つもない」

 

 男はしばらく黙って、それから手袋を外し始めた。

 

「……正直だな」

 

「言っても変わらないからだ」

 

「そうか」

 

 治崎が歩き出す。

 

「ならば……取り返すだけだ」

 

 速い。距離が一息で詰まる。壊理を背中に回す。

 

 ――間に合わない。

 

 わかっている。この男を止める手段がない。枠は二つとも埋めたし、体術も逃げる足もない。治崎の腕が伸びて、こちらの肩を掴んで押しのける。背中の壊理へ、手が伸びて、壊理の腕を掴んだ。

 

 ――今だ。

 

 目は閉じない。この男の個性は、触れたものを分解する。いつもなら、そこで終わりだ。

 

 何も起きなかった。袖は裂けず、皮膚も骨も一片も崩れない。ただ掴んだだけだ。

 

「……なに」

 

 掠れた声のまま、治崎がもう一度力を込める。それでも起きない。

 

「……馬鹿な」

 

 治崎が腕を強く引く。壊理の体はびくともしない。

 

 その瞬間だった。

 

「――――っ」

 

 壊理が叫んだ。初めてその顔に恐怖が浮かんでいる。この一年、この手が伸びてくるのはきっと一つの意味しか持たなかったのだ。分解される。体が壊される。効くか効かないかは関係ない。掴まれた。それだけで十分なのだろう。

 

 子どもの体から何かが溢れる。音はなく、ただツノが少し光った。

 

 そして、治崎の腕が細くなった。

 

「……は!?」

 

 男が自分の腕を見下ろす。袖の中で腕が縮んでいく。いや、縮んでいるのではない。

 

 若返っている。

 

 子どもの腕になっていく。そしてそのまま、先へ進む。

 

「やめ――クソッ!」

 

 治崎が手を離す。離しても止まらない。腕から肩へ。肩から胸へ。

 

 戻っていく。

 

 男が床に膝をつく。治崎の右手が、自分の左腕を掴んだ。分解しようとしているのだ。腕の中に入り込んでくるものを、腕ごと崩して組み直す。この男ならそれができるはずだ。

 

 腕は崩れて、組み直される。だが組み直された腕の中で、巻き戻しは止まっていない。

 

「……なぜだ」

 

 治崎の声が、初めて上ずった。

 

「なぜ、分解できない……!」

 

 壊理を上に置いたのだ。あの男は壊理にも、壊理から出たものにも触れられない。あの巻き戻しは壊理の個性で、あの男に残っているのは自分の体を直すことだけなのだろう。

 

 治崎が戦術を切り替える。自分の体に手を当てて、修復が始まる。戻された部分を元に戻す。戻したそばから、また戻される。それを繰り返す。

 

 壊理の手を引いて後ろに下がる。壊理は震えたまま、自分が何をしたのかわかっていない顔だ。

 

 ――自分で壊してから……自分で治す。

 

 冷静に、そう思う。

 

 ――自給自足の完成だな。

 

 治崎は動けない。修復に全部を使っているのだ。一瞬でも止めれば、消える。立ち上がることも追うこともできない男を、見下ろした。

 

 口が、勝手に動いた。

 

「他人の体を壊して治すのは、得意だったな」

 

 治崎が顔を上げると、面がずれていて、白い顔が覗く。

 

「自分の体でも……せいぜい上手くやるんだな」

 

 言ってから、自分の言葉に驚いた。

 

 ――何を言っている。

 

 計算ではない。この男を痛めつけたところで、何の得にもならず状況は一つも良くならない。九年間、そんな言葉を口にしたことはなかった。

 

 それでも言っていた。記録表のことを考えていた。三日ごとに一行。それが一日半ごとになっていた。金髪の男のことを考えていた。全部失って、それでも立ち上がった男のことを。

 

 ――怒っているのか、俺は。

 

 自分の感情に、名前がつかない。

 

「……ふざけるな……!」

 

「…………連れて行くなクソガキ!!それが無ければ、俺はただオヤジを……ッ! 直れ……!直れェッ!!」

 

 床の上で治崎が呻く。答えない。答える価値もない。

 

---

 

 通路は崩れかけている。上の戦闘が、ここまで届いているのだ。

 

 壊理の手を引いて走る。子どもは軽い。六歳の体重がどれくらいか正確には知らないが、この軽さは異常だと思う。

 

 三層。二層。

 

 途中で何度か組員とすれ違ったが、誰も止めない。それどころではないのだろう。上はもう崩壊している。

 

 東の通路に出た。金髪の男が言っていた経路だ。突き当たりに階段が見えて、その先から光が漏れ出す。人の声も聞こえる。ヒーローの声だ。

 

 そこで足を止めて、握っていた手を離す。

 

「壊理」

 

「……」

 

「この先を……真っ直ぐ行くんだ」

 

 子どもが顔を上げる。

 

「階段を上がれば人がいる。ヒーローだ。お前を助けに来た連中だ」

 

 階段を指す。

 

「一人でも、行けるだろう」

 

「……いっしょに……いかないの」

 

 答えない。行けるはずがない。自分はこの地下に、八斎會の戦力として配置されていた人間だ。国際指名手配の組織の跡継ぎで、ヴィラン連合の一員だ。あの階段を上がれば確保される。そしてこの子も巻き込まれる。ヴィランと一緒にいた子どもとして扱われて、保護が遅れる。説明もややこしくなるだけだ。

 

 ――行かないほうが、早い。

 

 計算だ。いつもの正しい計算だった。

 

「俺は、別の道から出る」

 

 嘘ではない。出口の当てはないが、嘘ではない。

 

 子どもはしばらくこちらを見上げて、それから階段のほうを見て、また、こちらを見る。

 

「……あの」

 

「なんだ」

 

 小さな手が動いて、袖を軽く掴んで、すぐに離す。

 

「ありがとう……」

 

 声が途切れて、息を吸う音がした。

 

「お兄ちゃん」

 

 動けなかった。子どもはそれだけ言って背を向け、階段のほうへ歩き出す。一歩。二歩。途中で一度だけ振り返る。

 

 手は振らない。振り方を知らない。ただそこに立ち尽くす。

 

 白い服が、階段を上がっていく。

 

「――いたぞ!」

 

「子どもだ! 確保しろ!」

 

 足音がいくつも近づいてくる。

 

 そこで初めて背を向けて、走り出す。崩れかけた通路を逆方向へ。背中で大人たちの声が響く。誰かが、あの子の名前を呼んでいた。

 

 あの子が階段を上がるのを見届けて、壊理への備えを一つ外した。振り返らずに走りながら、頭を巡らす。

 

 ――枠は、一つだ。

 

 今使っているうちの一つは外せない。治崎の枠だ。修復が追いつけば、あの男はまた動き出す。そして最後の一つは、あの男への備えだ。

 

 ――あと一つで切り抜けなければならない。

 

 ずっと自分のために使ってきた枠だった。

 

 今は、一つが自分のためではない。

 

 通路の先で天井が落ちる音がして、走る速度を上げた。

 

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