二重扉の奥は短い通路で、突き当たりに扉が一つ。見張りの姿はない。
――出払ったか。
上の混乱に人手を回したのだろう。扉の前で足を止めて目を閉じる。
――外す。
まず音本の枠から。脳を上に、この地下の音を下に。ずっと埋めていた枠だ。外した瞬間に音が戻ってきた。いや……音は最初から聞こえていた。戻ってきたのは、世界がこちらに干渉してくる感覚のほうだ。遠くで何かが崩れる音がして、悲鳴のようなものも混じる。
――次。
肌の枠。自分の肌を上位に、他人の血液を下位に。置いたばかりのものだ。これを外せば、当たった時点で個性が消える。
――それでいい。
息を吐いて、外す。枠が二つ空いた。埋まったままなのは一つだけ。この国に来た日から置いている、あの男への備えだ。それは外さない。外す理由が一つも思いつかないからだ。
扉を押し開く。
暗い部屋に寝台が一つ。その上で白い服の子どもが膝を抱えたまま、こちらを見た。あの顔だ。何も期待していない顔。
後ろ手に扉を閉ざす。
「……動くな」
子どもは動かない。言われたからではない。最初から動く気がないのだ。
近づいていく。七メートル。五メートル。三メートル。子どもは逃げない。逃げるという選択肢を、持っていない。
「壊理」
名前を呼ぶと、肩がわずかに動いて、それだけだ。
「俺の名前は……アルテミスだ」
答えはなく、それで構わない。
「アルテミス・エル・トローノを上に。壊理を下に」
部屋の中では何も起きない。
これは備えだ。この子の個性が何なのかは知らない。だが、あの男が一年以上かけて絞り取っていたものだ。人間の体から個性を消す弾を作れるほどの何かが、この小さな体に入っている。それが暴れたとき、自分に届かないようにしておく。そして個性破壊弾が壊理を材料に作られたものなら、同時に対策もできる。
――次だ。
「壊理を上に」
「治崎廻を下に」
声が部屋に響いて、子どもが顔を上げた。初めて、表情らしきものが動く。何を言われたのかわかっていない顔だ。
「……いま」
小さな声だ。
「なに……したの」
「説明は後だ」
手を差し出す。
「立て。連れていく」
子どもは差し出された手を見つめたまま、取ろうとしない。
「……だめ」
「なぜだ」
「わたしに……さわったら」
声が震えている。
「こわれちゃう」
差し出した手が、止まった。
――そう教えられたのか。この一年で。
誰かに触れれば壊れる、と。だから逃げようとしないのか。
「壊れない」
手は引かない。
「今、そうしておいた」
「……?」
「お前が何をしても、俺には効かない。壊れない。だから、触っていい」
子どもはしばらくその手を見つめて、それからおそるおそる指を伸ばす。
触れた。
何も起きない。子どもの目が大きく開く。
「……あ」
それはこの子が一年ぶりに出した、意味のある音かもしれない。
「行くぞ」
その手を、握り返した。
---
扉が開く。振り返ると、白い面がそこに立っていた。
「……そこで何をしている」
治崎の声だ。肩に埃がついているのは、上で何かあったからだろう。男の目が、繋がれた二つの手に向く。
「離せ」
「断る」
「……ほう」
治崎が一歩踏み込む。
「見えないから届かなかった……と言ったな」
「言った」
「嘘だったか」
「ああ。嘘だ」
あっさりと認めてみせる。
「知っていて止めなかった。個性が使えなかったからだ」
「……使えなかった」
「上限がある。同時に置けるのは三つまでだ。あのときは、三つとも埋まっていた」
治崎の動きが止まった。
「今は」
「新しく二つ使った」
壊理の手を握ったまま、そう返す。
「残りは、一つもない」
男はしばらく黙って、それから手袋を外し始めた。
「……正直だな」
「言っても変わらないからだ」
「そうか」
治崎が歩き出す。
「ならば……取り返すだけだ」
速い。距離が一息で詰まる。壊理を背中に回す。
――間に合わない。
わかっている。この男を止める手段がない。枠は二つとも埋めたし、体術も逃げる足もない。治崎の腕が伸びて、こちらの肩を掴んで押しのける。背中の壊理へ、手が伸びて、壊理の腕を掴んだ。
――今だ。
目は閉じない。この男の個性は、触れたものを分解する。いつもなら、そこで終わりだ。
何も起きなかった。袖は裂けず、皮膚も骨も一片も崩れない。ただ掴んだだけだ。
「……なに」
掠れた声のまま、治崎がもう一度力を込める。それでも起きない。
「……馬鹿な」
治崎が腕を強く引く。壊理の体はびくともしない。
その瞬間だった。
「――――っ」
壊理が叫んだ。初めてその顔に恐怖が浮かんでいる。この一年、この手が伸びてくるのはきっと一つの意味しか持たなかったのだ。分解される。体が壊される。効くか効かないかは関係ない。掴まれた。それだけで十分なのだろう。
子どもの体から何かが溢れる。音はなく、ただツノが少し光った。
そして、治崎の腕が細くなった。
「……は!?」
男が自分の腕を見下ろす。袖の中で腕が縮んでいく。いや、縮んでいるのではない。
若返っている。
子どもの腕になっていく。そしてそのまま、先へ進む。
「やめ――クソッ!」
治崎が手を離す。離しても止まらない。腕から肩へ。肩から胸へ。
戻っていく。
男が床に膝をつく。治崎の右手が、自分の左腕を掴んだ。分解しようとしているのだ。腕の中に入り込んでくるものを、腕ごと崩して組み直す。この男ならそれができるはずだ。
腕は崩れて、組み直される。だが組み直された腕の中で、巻き戻しは止まっていない。
「……なぜだ」
治崎の声が、初めて上ずった。
「なぜ、分解できない……!」
壊理を上に置いたのだ。あの男は壊理にも、壊理から出たものにも触れられない。あの巻き戻しは壊理の個性で、あの男に残っているのは自分の体を直すことだけなのだろう。
治崎が戦術を切り替える。自分の体に手を当てて、修復が始まる。戻された部分を元に戻す。戻したそばから、また戻される。それを繰り返す。
壊理の手を引いて後ろに下がる。壊理は震えたまま、自分が何をしたのかわかっていない顔だ。
――自分で壊してから……自分で治す。
冷静に、そう思う。
――自給自足の完成だな。
治崎は動けない。修復に全部を使っているのだ。一瞬でも止めれば、消える。立ち上がることも追うこともできない男を、見下ろした。
口が、勝手に動いた。
「他人の体を壊して治すのは、得意だったな」
治崎が顔を上げると、面がずれていて、白い顔が覗く。
「自分の体でも……せいぜい上手くやるんだな」
言ってから、自分の言葉に驚いた。
――何を言っている。
計算ではない。この男を痛めつけたところで、何の得にもならず状況は一つも良くならない。九年間、そんな言葉を口にしたことはなかった。
それでも言っていた。記録表のことを考えていた。三日ごとに一行。それが一日半ごとになっていた。金髪の男のことを考えていた。全部失って、それでも立ち上がった男のことを。
――怒っているのか、俺は。
自分の感情に、名前がつかない。
「……ふざけるな……!」
「…………連れて行くなクソガキ!!それが無ければ、俺はただオヤジを……ッ! 直れ……!直れェッ!!」
床の上で治崎が呻く。答えない。答える価値もない。
---
通路は崩れかけている。上の戦闘が、ここまで届いているのだ。
壊理の手を引いて走る。子どもは軽い。六歳の体重がどれくらいか正確には知らないが、この軽さは異常だと思う。
三層。二層。
途中で何度か組員とすれ違ったが、誰も止めない。それどころではないのだろう。上はもう崩壊している。
東の通路に出た。金髪の男が言っていた経路だ。突き当たりに階段が見えて、その先から光が漏れ出す。人の声も聞こえる。ヒーローの声だ。
そこで足を止めて、握っていた手を離す。
「壊理」
「……」
「この先を……真っ直ぐ行くんだ」
子どもが顔を上げる。
「階段を上がれば人がいる。ヒーローだ。お前を助けに来た連中だ」
階段を指す。
「一人でも、行けるだろう」
「……いっしょに……いかないの」
答えない。行けるはずがない。自分はこの地下に、八斎會の戦力として配置されていた人間だ。国際指名手配の組織の跡継ぎで、ヴィラン連合の一員だ。あの階段を上がれば確保される。そしてこの子も巻き込まれる。ヴィランと一緒にいた子どもとして扱われて、保護が遅れる。説明もややこしくなるだけだ。
――行かないほうが、早い。
計算だ。いつもの正しい計算だった。
「俺は、別の道から出る」
嘘ではない。出口の当てはないが、嘘ではない。
子どもはしばらくこちらを見上げて、それから階段のほうを見て、また、こちらを見る。
「……あの」
「なんだ」
小さな手が動いて、袖を軽く掴んで、すぐに離す。
「ありがとう……」
声が途切れて、息を吸う音がした。
「お兄ちゃん」
動けなかった。子どもはそれだけ言って背を向け、階段のほうへ歩き出す。一歩。二歩。途中で一度だけ振り返る。
手は振らない。振り方を知らない。ただそこに立ち尽くす。
白い服が、階段を上がっていく。
「――いたぞ!」
「子どもだ! 確保しろ!」
足音がいくつも近づいてくる。
そこで初めて背を向けて、走り出す。崩れかけた通路を逆方向へ。背中で大人たちの声が響く。誰かが、あの子の名前を呼んでいた。
あの子が階段を上がるのを見届けて、壊理への備えを一つ外した。振り返らずに走りながら、頭を巡らす。
――枠は、一つだ。
今使っているうちの一つは外せない。治崎の枠だ。修復が追いつけば、あの男はまた動き出す。そして最後の一つは、あの男への備えだ。
――あと一つで切り抜けなければならない。
ずっと自分のために使ってきた枠だった。
今は、一つが自分のためではない。
通路の先で天井が落ちる音がして、走る速度を上げた。