地下は死にかけていた。通路の天井から絶えず砂が落ち、照明は半分が消えて残りも明滅している。壁の一部はもう元の形を保っていない。組み替えた構造が、戦闘の衝撃で自壊し始めていた。
少年は崩れた瓦礫を乗り越えながら走っていた。枠は二つ埋まっている。治崎廻への一枚は、あの男の修復が追いつけばまた動き出すから外せない。そしてあの男への備え。残りは一つ。
――どこに使う。
走りながら頭の中で候補を並べた。自分の身体を上位に置けば、瓦礫が落ちてきても潰れない。だがそれだけだ。瓦礫の下から出られないことに変わりはない。
「――坊主!」
声がして、通路の角から二人が飛び出してきた。
「トゥワイス」
「生きてたか!死んでねぇのかよ!無事でよかった!」
男は服が破れ、腕から血が出ていた。
「トガは」
「ここー!!」
その後ろからトガが顔を出した。こちらも頬が切れている。
「上はどうなってる」
「もう無理〜」
トガはあっさり言った。
「ヒーローがいっぱい!八斎會の人たちも、もう半分捕まってる」
「出口は」
「東の階段は塞がれてる、あたしたちも見てきたけど、人が立ってる」
トガが笑っていないことに気づいた。この女が笑わないのは初めて見た。
「他は」
「西も北も無理! 余裕だぜ! 全部無理だっつーの!」
壁に手をついた。
――囲まれている。
当然だった。これだけの規模で突入したなら外は固めているに決まっているし、警察が動いているならなおさらだ。
「坊主…どうする?どうしようもねぇ!」
「待て」
天井を見上げた。
――考えろ。
枠は一つで、三人。どう配っても足りなかった。
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通路の奥で瓦礫が崩れる音がして、三人同時にそちらを向いた。
崩れたのではなかった…砕けていた。瓦礫の山が内側から割られて、白い糸がそこから伸びていた。
呼吸が止まった。瓦礫が二つに割れて、隙間から黒い服の男が出てきた。埃だらけで、髪が乱れ、上着が破れている。九年間一度も見たことのない姿だった。
「坊ちゃん」
その声だけがいつも通りだった。
「……クラウディオ」
それしか言えなかった。男は瓦礫を乗り越えてきて、目の前で膝をついた。
「お迎えに上がりました」
「……六日だぞ」
「はい」
「連絡もしていない」
「はい」
「なぜ場所がわかった」
「迎えの車の経路を、追っておりました」
当たり前のようにそう言った。
「万一の際に備えて」
口を閉じた。
――こいつ。
あの日出向を止められなかった男が、あの日のうちに経路を追い始めていたのだ。
「お怪我は」
「ない」
「本当に」
「ないと言っている」
男の手が肩と腕を素早く確認して、息を吐いた。わずかに肩が落ちていた。九年間、この男がそんな動きをするのを見たことがなかった。
「こっちもいるわよ!」
瓦礫の向こうから、磁石を担いだ大柄な影が現れた。
「マグ姉!」
トガが声を上げた。
「あんたたち…揃ってんじゃない。よかった」
「どうやって入った」
「執事さんが穴開けたのよ。上から」
マグネが親指で背後を指した。
「換気口の脇。壁を糸で切って、あとは力技」
「……力技」
「見たほうが早いわよ。あの人壁を輪切りにしたんだから」
執事は何も言わなかった。
「出口は」
「開けてきた道が使えるわ。だけど…」
マグネの顔が少し曇った。
「途中がもう崩れてる。あたしたちが通った後に落ちたのよ」
「どの程度だ」
「天井一枚分。あたしの力じゃ動かせない。磁石でもどうにもならない」
天井を見上げた。
――枠。
一つ。使い道が決まった。
「クラウディオ」
「はい」
「立て」
執事が立ち上がった。その顔を見上げた。半歩後ろに立つこの男を見上げる角度は、九年変わっていない。
「一つしか残っていない」
「……枠のことでございますね」
「二つ埋まっている。外せない」
「はい」
「だから…一つしか配れない。クラウディオを上に」
執事の目がわずかに開いた。
「崩れた天井を、下に」
通路の空気が変わった気がしたが、実際には何も変わっていない。ただ順序が決まっただけだ。
「……坊ちゃん」
「行け」
「ご自身には」
「使わない」
言い切った。
「俺に使えば俺一人が助かる。お前に使えば、四人が出られる」
「……」
「計算だ」
執事はしばらく動かなかった。それから深く頭を下げた。
「かしこまりました」
それだけで、余計なことは何も言わなかった。この男はいつもそうだった。こちらが決めたことに理由を聞かない。
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崩落地点は思ったよりひどかった。厚みが三十センチ以上あるコンクリートの天井板がそのまま落ちていて、その下に瓦礫が積み重なっている。
「これ…無理でしょ」
トガが見上げて言った。
「重機がいるわよこれ」
マグネも首を振った。
クラウディオが前に出て、上着の袖をまくり、両手を板に当てた。そして押すと、板が音もなく真っ二つに割れた。
そこから先は早かった。男が触れたものが順に崩れていく。コンクリートも鉄筋も抵抗しなかった。上位のものは、下位のものを簡単に壊せる。その理屈だけがそこにあった。
「……え」
トゥワイスが口を開けていた。
「なにあれ!やばい!なんだあれ!」
「坊ちゃんの個性です」
クラウディオが瓦礫を掻き出しながら答えた。
「私のものではございません」
その背中を見ていた。
――九年で初めてだ。
この男に枠を使ったのは。屋敷では必要がなかった。守るべきものが何もなかったからだ。
通路が開いた。
「行けます」
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外の空気が近づくにつれて音が増えた。サイレン、拡声器、人の声。換気口の脇に開けられた穴から夜の空気が入ってくる。六日ぶりの、外の匂いだった。
「先に出る」
マグネが言った。
「あたしが磁石で道を作るわ。トガちゃんと仁くんは、その後ろ」
「坊ちゃんは…私と」
「わかった」
穴を抜けると、資材置き場のような場所に出た。フェンスの向こうで赤い光が回っている。思ったより遠い。包囲の中心は正面の入口に集まっているらしい。
「行くわよ」
五人が走り出した。フェンスまで二十メートル。十五。十。
そのとき、背後で地面が鳴った。
少年が振り返ると、たった今出てきた穴の周囲が陥没していた。地下が限界に来たのだ。亀裂がこちらに向かって走り、建物の外壁が傾いて上のほうから崩れ始める。
コンクリートの塊が落ちてくる。
「坊ちゃん!」
クラウディオが振り返った。遠かった。三メートル。この男の腕は届かない。それを冷静に理解した。
――枠がない。
クラウディオに預けたから、自分には何も残っていない。瓦礫を上位に置くことも、自分を上位に置くこともできない。九年間計算だけで生きてきて、最後に選んだ配り方がこれだった。
――正しかったはずだ。
そう思いながら、落ちてくる影を見上げた。
「――ちょっと!」
マグネの声がした。体が横に引かれて、足が地面から離れた。一瞬何が起きたのかわからなかった。
――磁力。
「トガちゃん!受け止めなさい!」
体が宙を飛んでいた。自分の意思では何もできない。磁石が引き合っている。
「はーい!」
両腕を広げたトガが視界に飛び込んできて、衝突した。二人とも地面に転がった。背後で轟音がして、さっきまで自分が立っていた場所に外壁の塊が落ちていた。
「……っ……いった〜」
トガが下敷きになったまま唸った。
「わぁ……アルテミスくん、すっごく強引なのです…」
「……寝言は寝て言え……それと離せ」
「離してるよ」
立ち上がると膝が笑っていた。マグネが駆け寄ってきた。
「無事ね!?」
「……ああ」
「よかった」
それだけ言って、マグネはすぐに周囲を見回した。
「まだ危ないわよ!行くわ!ノンストップよ!」
説明はなかった。貸し借りの話もしなかった。
――そうか。
この人は前に自分が助けた人間で、今その人に助けられた。自分には何もできなかった。枠もなく、頭も回らず、落ちてくるものを見上げていただけだ。
それでも生きている。
「坊ちゃん」
クラウディオが隣に来た。
「お怪我は」
「ない」
「本当に」
「……ない」
男は腕を確認して、何も言わずに歩き出した。
---
フェンスを越えた。マグネが磁石で歪ませた隙間から五人が抜けると、背後で地下が完全に落ちる音がした。サイレンが増えて、赤い光が空を舐めていた。
「こっちだ!」
トゥワイスが先導した。路地に入って三度曲がり、貨物のヤードを抜ける。誰も追ってこなかった。彼らの目は崩れた建物のほうを向いていた。あの中にはまだ人が残っている。組員も、ヒーローも。
そして、確保されたはずの小さな子どもも。
走りながら一度だけ振り返った。
――届いたか。
あの子が階段を上がったのは見た。そこから先は知らないし、知る方法もない。
前を向いた。
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二時間後。五人は郊外の高架下に座り込んでいた。誰も口を開かなかった。
トゥワイスが腕の血を拭き、トガが膝を抱えている。マグネが磁石を地面に置き、クラウディオが隣に座った。
「…坊ちゃん」
「なんだ」
「枠をお戻しいたしましょうか」
「……ああ」
目を閉じて、外した。クラウディオの上位が消えて、枠が一つ空いた。
残りは二つ。治崎への一枚と、あの男への備え。
――治崎の枠はどうする。
あの男が地下で生きているかどうかはわからない。瓦礫の下かもしれないし、ヒーローに確保されたかもしれない。どちらにしても、外すのは早いと判断した。
「……クラウディオ」
「はい」
「六日も…悪かった」
執事の動きが止まった。
「……何を仰いますか…坊ちゃんが謝るようなことは……」
「飯は」
「は」
「ちゃんと食べていたのか」
男は答えなかった。しばらくして、小さく言った。
「……鍋を…二度焦がしました」
「二度…九年で二回目か?」
「はい」
少年は少しだけ笑った。笑ったつもりだった。うまくできたかはわからなかった。
高架の上を電車が通った。その音が消えるまで、誰も何も言わなかった。