護送車の中は揺れていた。
治崎廻は座席に固定されていた。両腕は肘から手首まで拘束具で覆われ、指の一本も動かせない。首には個性抑制の装具、口も半分覆われている。
前の座席に二人、後ろに二人。運転席と助手席にも一人ずつ。六人だった。車の前後には別の車両がついている。
厳重だと治崎は思った。
――当然か。
地下が落ちた後、瓦礫の中から引きずり出された。あのときの自分は、まだ体を治し続けていた。戻されるそばから修復する。それだけを何時間も繰り返していた。
止まったのは突然だった。
上で誰かが、壊理の個性を消したのだろう。ヒーローの中に、見ただけで個性を消す男がいることは知っていた。巻き戻しが止まって、息をついた瞬間にはもう囲まれていた。目を合わせられ、今度は自分の個性が消えた。それだけで終わりだった。
治崎は拘束された腕を見た。
――残っている。
腕は両方ある。地下で戻され続けたが、失ってはいない。個性も抑制されているだけで、装具を外せば戻る。
つまり。
――まだ治せる。
組は壊滅した。八斎衆は散り、弾は押収された。だが分散させた四箇所のうち、組と無関係な名義の倉庫は割れていないはずだ。そしてこの手がまだ動くということは、オヤジの体はまだ治せる。
二十年でも三十年でも、刑期を終えれば出られる。出られなければ外にいる者にやらせる。方法はいくらでもある。
治崎は目を閉じた。
――終わっていない。
そう自分に言い聞かせた。
車が止まった。予定のない停車だった。
「どうした」
助手席の男が無線に手をかけた。
「前が……止まってます」
「事故か」
「いえ」
男の声が変わった。
「前の車の中、誰も動いてません」
治崎は目を開けた。窓は塞がれていて外は見えない。だが音は聞こえた。
何も聞こえなかった。
サイレンも人の声も足音も。高速道路の上のはずだった。昼過ぎだ。車が走っている音がしないのはおかしい。
治崎の向かいに座っていた男が腰を上げた。警官ではなかった。護送に付けられたヒーローで、乗り込むときに一度だけ名乗っていた。スナッチ……砂のヒーローだと。
「お前ら、伏せてろ」
低い声だった。怒鳴ってはいないのに、車内の全員がその声に従った。
「何が来てるのかわからん。俺が見る。顔を上げるなよ」
男の体の輪郭がさらさらと崩れはじめた。肩から腕にかけてが砂になり、座席の警官たちの上に薄い膜のように広がっていく。六人全員がその下に入ったとき、後部扉が鳴った。
金属が内側に曲がった。鍵でも蝶番でもなく、扉の中央が押し潰されるように凹んだ。二度目で外れて、昼の光が入ってきた。
---
黒い外套の男が立っていた。
白い手袋に、後ろに撫でつけた白髪。その背中から肉色の管のような太いものが何本も伸びていて、先端が地面に垂れている。男の周りには人が倒れていた。
前の車両の警官たち、バイクの警官、そして道路に止まった一般車から降りてきたらしい私服の人間も。全員が皺だらけで髪が白くなり、皮膚が縮み、目が落ちくぼんでいる。若い警官だったはずの体が老人になっていた。
「――撃つな!下がってろ!」
スナッチが叫び、銃を抜きかけた後部の警官の腕を砂が押さえ込んだ。
黒い外套の男が車内を覗き込んだ。砂の膜を見て、それから半身が砂になった男を見た。
「……砂か」
背中の管の一本が跳ねて砂の膜を貫いたが、何も起きなかった。管の先は砂の中で空を切っていた。
「命の通わぬ土くれか。不味そうなものを纏うておる」
「お前か」
スナッチが車の外へ出た。体の半分を砂のまま車内に残して、警官たちを覆い続けている。
「高速道路を止めて、これだけの人間を……お前一人でやったのか」
「余に問うておるのか」
「答えろ」
「やったが、何だ」
スナッチの砂が一瞬だけ波打った。
「お前が干からびさせた連中にも、帰りを待ってる家族がいる」
声が低くなった。
「親がいて…女房がいて…子どもがいる!今夜、誰も帰ってこない家が……ここに倒れてる数だけできる。残された人間がどうなるか……考えたことはあるのか!」
男はしばらくスナッチを見ていた。それから本当に不思議そうに首を傾げた。
「蟲の残りなど……余は数えたこともない」
スナッチの砂が弾けた。
撃ち出された砂の礫を男の管が何本も持ち上がって払い、払いきれなかった礫が外套を裂いた。管がスナッチに向かい、砂の盾がそれを受け止める。管は砂の中で何も吸えずに引き戻された。
だがスナッチは攻めきれなかった。体の半分をまだ車内に残している。警官たちを覆っている砂を引けば、彼らが剥き出しになる。男はそれに気づいていた。
「なるほど……蟲けらを庇うておるのか」
管の一本が砂の盾を大きく回り込んだ。狙ったのはスナッチではなく、車内だった。スナッチが砂を車内へ寄せて、警官たちを覆う膜が厚くなった。その分だけ、自分の胸の前が薄くなった。
別の管がそこへ刺さった。砂ではなく生身の胸だった。
「――ッ」
スナッチの膝がアスファルトについた。体の砂がざらざらと崩れ落ちていく。崩れながら、それでも最後の砂は車内へ流れ込んでいった。
治崎はそれを見ていた。砂が、一番手前に伏せていた若い警官の上に集まって固まった。人一人分の形に、隙間なく、石のように。
「……伏せてろ、と……言った……ろう……」
それが最後だった。スナッチの体は、残った砂ごと老人の骸になって道路に倒れた。
「……騒がしい蟲であった」
男は管を引き抜いて車内に目を戻した。砂の膜はもうなかった。剥き出しになった警官たちが座席の上で震えていた。
「なんだお前は!何が目的だ!」
一人が叫んだ。
「目的…か」
男は治崎を見つけた。
「これだ」
管が伸びた。声も出ず、抵抗する時間もなかった。五人が老人の姿で座席に沈んだ。
管が六人目に伸びて、止まった。固まった砂の塊だった。人の形をしていて、中でまだ誰かが息をしている気配がした。男はその塊をしばらく見下ろしていた。
「……土くれを掘る趣味はない」
管が引かれた。
治崎はその光景を見ていたが、拘束されたまま動けなかった。
――何だ…これは。
初めて見る個性だった。いや、種類としては知っている。生命力の吸収。そういう個性は記録にある。
だがこの規模は違う。この男は十人以上を、躊躇なく数十秒で処理した。まるで掃除をするような手つきで。
男が車内に入ってきた。狭い空間に背中の管が折り重なって収まり、治崎の正面に立つ。
「治崎廻…であったか?」
名前を呼ばれて、治崎は顔を上げた。
「……誰だ」
「余は……マキシミリアーノ・エル・トローノ」
その音を聞いた瞬間に、治崎の思考が繋がった。
――エル・トローノ。
「……あの子どもの」
「口を慎め…痴れ者め」
管の一本が治崎の頬をかすめた。触れてはいなかった。
「あの子ども…ではない。若だ…!」
男の声が低くなった。
「超常黎明期から二百年……我らが血を磨き続けて到達した最上の一点だ…!貴様のような蟲けらが、あの子ども……と呼んでよいものではない!」
治崎は答えなかった。抑制装具が首にあって個性は使えない。腕は固定されている。できることが一つもなかった。
「……貴様に問おう」
男が続けた。
「若を……手元に置こうとしたな」
治崎の呼吸が止まった。
――漏れている。
「あの地下で若に取引を持ちかけた。うちに来い……と。守ってやる……と」
「……誰から聞いた」
「貴様の組の者だ」
男は興味もなさそうに言った。
「組が潰れて…行き場を失った蟲けらが、売れるものを探していた。安い買い物だったと聞いている」
治崎は天井を見た。
――そうか。
組が散れば情報が出る。当然のことだった。自分がその立場なら同じことをする。
「答えるがいい…」
管が近づいた。
「何故……若を欲した」
治崎はしばらく黙っていた。答える義理はない。だが沈黙しても結果は変わらない。
「……俺の個性が…通らなかった」
「ほう」
「唯一の例外だった。あれを外に置いたままで…計画は進められない」
「……計画」
「……個性を消す弾だ」
治崎は言った。
「それを売ってこの国の裏を支配する…そのための計画だった」
男はしばらく動かず、それから笑った。声を上げてではなく、喉の奥で短く鳴らしただけだった。
「……個性を…消す」
「ああ」
「……蟲けらの分際で」
その声から温度が消えた。
「……我らが二百年かけて磨いてきたものを、貴様は弾に詰めて売ろうとしたのか」
「……」
「そして…その弾が効かぬ唯一の存在が若だと知って、手元に置こうとした」
男の背中の管が、一斉に持ち上がった。
「……つまり貴様は…」
声が震え始めた。
「血を……商品にしようとして…!!」
管が、しなった。
「その頂点を……!自分の道具にしようとしたのだな……!」
管の一本が治崎の肩に刺さった。痛みはなかった。代わりに力が抜けた。
それが何なのか、治崎にはすぐにわかった。自分の中から何かが出ていっている。寿命だ。
「余は……無駄な殺生はせぬ」
男は静かに言った。
「必要な分だけ頂く。それが余の作法だ」
「……」
「だが……貴様は別だ」
管が二本目、三本目と刺さった。
「貴様には…必要な分という概念を適用せぬ」
治崎の視界が狭くなった。拘束具の中で、腕が細く痩せていくのがわかる。
――待て。
腕が。この腕は。
「……やめろ」
初めて声が出た。
「この腕は……残っているんだ……!」
「……ほう」
「まだッ……治せるんだっ……!」
拘束された腕を持ち上げようとした。上がらなかった。
「親父を……!!治せるんだっ…………!!!」
「……知らぬな……騒がしい…黙っておれ…」
「待て……! 殺すな……ッ!!」
男の管が、四本目を刺した。
「俺が死ねば……親父は治せない!! 親父は!俺しか治せないんだ!!やめろ……親父……俺は…!親父を……!」
「蟲けらの事情等に余が興味を持つとでも思うたか?」
その一言で終わった。
治崎の体が縮んでいく。皮膚に皺が寄り、指が枯れ枝のようになり、爪が黄色くなった。視界が白く濁っていく。
――違う。
こんなはずではなかった。計画は正しかった。個性は病だ。病は治すものだ。その理屈に一つの誤りもない。
親父を頂点にするために全部やった。壊理を使ったことも、組の者を切ったことも、親父を眠らせたことも。全部そのためだった。
――なのに。
治崎は口を動かしたが、声はほとんど出なかった。
「ごめんなさい……」
男はそれを聞いていた。聞いて、何も言わなかった。
「……親父…ごめんなさい……!」
言葉が途切れた。
「……もう……なぉせない……」
最後の管が抜かれた。
座席に残っていたのは、小さく縮んだ白髪の老人の骸だった。着ていた拘束具のほうが大きく見えた。
マキシミリアーノは背中の管を収め、手袋を確かめるように指を一本ずつ引いた。
「……不味い…ゲテモノよ…」
それだけ言って、車を降りた。
---
二百メートル離れた歩道橋の上に、四人がいた。
「……おい」
最初に声を出したのはスピナーだった。
「あれ……なんだ」
誰も答えなかった。高速道路の上で車が七台止まっていて、そのすべての周囲に人が倒れている。動いている者は一人もいない。
コンプレスが双眼鏡を下ろした。
「……確認した…が…」
帽子のつばの下で、声が掠れていた。
「息のある者はいない」
「何人だ」
「十六」
「……十六?」
「……数えられる範囲で…だ」
スピナーが後ずさった。
「十分も経ってねえぞ」
「ああ」
「俺ら…着いたの五分前だぞ」
「そうだな」
コンプレスの手が震えていた。この男が震えるのを、死柄木は初めて見た。
「……弾は」
死柄木が言った。
「…取れるのか」
「無理だろ……」
コンプレスが首を振った。
「護送車の中には入れる……だけど…あの男がまだあそこにいる」
四人の視線が一点に向いた。
黒い外套の男が車の脇に立っていた。白昼の高速道路の上だ。カメラも人目も、いくらでもある。その中で男は隠れようともせず、ゆっくりと手袋を直して、それから空を見上げていた。
「……なあ」
荼毘が口を開いた。煙草をくわえたまま、その男を見ている。
「行くか?」
三人が同時に荼毘を見た。
「…は」
「行くか……って聞いてんだよ」
「冗談だろ」
スピナーの声が裏返った。
「見ただろ今の!十六人だぞ!?一人で!」
「見てたよ」
「刀じゃ届かねえよ!あれ…触られたら終わりだろ!?」
「まあな」
荼毘は煙を吐いた。
「焼けば…届くんじゃねえの」
「……君」
コンプレスが遮った。
「私は…君の火力を疑っていない。だが、あれは相性の問題ではない」
「あ?」
「あの男はこちらが何人で行こうと、同じ手順で処理する」
帽子のつばを下げる。
「十六人が、十六回に分けて殺されたのではない。まとめて処理されたのだ。一人ずつ丁寧にやったのではなく、順に、作業として片付けた」
「……」
「あれは…数で対抗する相手ではない」
スピナーが刀の柄を握り直した。握っている手が白くなっていた。
「…死柄木」
声が震えていた。
「……どうする」
死柄木は答えなかった。歩道橋の手すりに手をかけている。指は四本で、親指は浮かせたままだった。崩していない。この男が何かに触れて崩さないのは珍しかった。
――なんだ……あいつ。
個性の種類は見当がつく。生命力とか、寿命とか、そのあたりだろう。問題はそこではない。あの男は白昼の高速道路で十六人を処理した後に、空を見上げている。逃げようとも隠れようともしていない。誰かが来ることを、まったく想定していない。
――あれは。
あの立ち方を死柄木は知っていた。神野で見た。先生があの日、同じ立ち方をしていた。
誰も自分を止められないと、心の底から信じている人間の立ち方だ。
「……帰んぞ」
死柄木はそう言った。
「おい」
「……帰んぞって言ってんだよ」
振り返らずに歩き出した。
「……弾は諦めるのか」
「諦めるっつってねえ」
死柄木は首筋を掻いた。
「今日は帰る。それだけだ」
「……そうか」
荼毘が煙草を落として踏み、それ以上は言わなかった。
四人が歩道橋を降りた。誰も振り返らなかった。
死柄木は歩きながら考えていた。
――何だあいつは。
あの男の目的がわからない。弾を奪いに来たわけではない。車の中には入ったが、何も持ち出していなかった。
八斎會への恨みか。だがそれなら、組が潰れた時点で済んでいる。
――治崎を殺しに来たのか。
わざわざ護送車を止めて、昼間の高速道路で十六人を巻き込んで。治崎一人のために。
死柄木は足を止めた。
――治崎が何をした?
この数日であの男がしたことといえば、組を潰されたことくらいだ。それと。
――うちの三人を借りてった。
しばらく立っていたが、繋がりそうで繋がらなかった。関係があるはずがないと思った。あんな化物と、うちの留守番がどう繋がる。
「死柄木?どうした」
「……なんでもねえ」
死柄木はまた歩き出した。
そのときは、本当にそう思っていた。