・アルテミスが護送車を襲った男の正体を連合に明かしました。エル・トローノの幹部で席次六番のマキシミリアーノ。背中の管で寿命を吸う個性で、射程は三〜五メートル、触れられなければ効きません
・彼の目的はアルテミスを連れ戻すことで、治崎が殺されたのは、アルテミスを手元に置こうとしたことが家に漏れたためです
・アルテミスは家を出た理由も話しました。エル・トローノは二百年、強い個性同士を掛け合わせて個性婚をしてきた家で、アルテミスは十歳で次の当主に内定しました
・個性婚という言葉に、荼毘が小さく反応していました
・家には血を残すための愛人を置く決まりがあり、内定と同時に十一の分家が自分の家の娘をその席に入れようと、三年にわたって争いました
・繋ぎの当主である兄のアポロは、止めれば自分が降ろされるため動けませんでした。守る人がいなくなるため動けませんでした
・許嫁が決まったあとは、一人になれないほど見張られる日々が四か月続き、心が限界を迎えて逃げました
・同い年の男の子にも「似たようなことを言われた」と話しましたが、中身は語りませんでした
・自分がいれば全員が狙われると、アルテミスはクラウディオと出ていこうとしましたが、連合の全員に引き止められ、最後はクラウディオの一言で「もう少しだけ」残ることになりました
鍋の底を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
夕食の片付けはここに来てからずっとクラウディオの役目になっていた。作るのも、洗うのも。誰かが決めたわけではない。執事が台所に立つのを誰も止めなかっただけだ。
アルテミスは卓の端で、その音を聞いていた。
水が止まって皿の重なる音がした。
背中の方でコンプレスが咳払いをした。
「少年」
「何だ」
「いや、少年……にというわけではないのだが」
言いながらコンプレスは卓の上に何かを置いた。
封筒だった。薄い。
居間には全員がいる。死柄木はいつもの場所でゲーム機を触り、荼毘は壁に背を預けて煙草を咥え、トガは足を組んで座り、トゥワイスはその隣、マグネとスピナーは卓の向こう側にいた。
封筒の中身は見なくても察しがついた。
「幾らだ」
「今月の残りだ」
コンプレスが指で押して封筒を滑らせる。
「来月は……無い」
誰も何も言わなかった。
封筒を持ち上げて中を覗いた。紙幣が数枚。この人数で数日分。
「八斎會からの分が止まったのか」
「止まったというより……元から無くなっている」
コンプレスは帽子の縁を指で撫でた。
「あそこから入っていたのは我々六人分の活動費だ。君たち三人が向こうへ出向いていた間、その三人分は別会計だった。向こう持ちでな。それが…まるごと消えた」
つまり、と頭の中で引き算をした。
入ってくる金が消えて、食う人間の数は元に戻った。
「……六人分の金で、九人が食ってきたのか」
「一か月半な。我ながらよくもったと思うよ」
コンプレスの口調は軽かったが内容は軽くなかった。
封筒を卓に戻した。
「電気と水は」
「今月分は払ってある。来月は知らん」
「家賃は」
「ここは元々、八歳会が持っていた物件のひとつだ。家賃は発生していない……ただ」
コンプレスが言葉を切った。
「名義人が捕まっている。いつまで使えるかは、誰にも分からん」
それは金の話ではないだろうと思った。だが今それを掘り下げても意味はない。
「食費を削れば、あとどれくらい保つ」
「三日が四日になる」
「そうか」
卓の木目を見ていた。
視線がいくつも自分に向いているのが分かった。
誰も口には出さない。だが、この部屋で金を持っている可能性がある人間は一人しかいない。メキシコの麻薬組織の跡取りが、逃げてくるときに手ぶらだったはずがない。全員がそう考えている。
考えていて誰も言わない。
そのことに少しだけ苛立った。
「――貸せよ」
最初に口を開いたのは、死柄木だった。
ゲーム機から目を上げない。指も止まっていない。それでも、部屋の空気は一瞬で変わった。
「持ってんだろ…お前」
「……」
「黙ってんのは持ってるってことだよな」
答えなかった。
「なあ」
死柄木がゲーム機を置いた。
「俺はお前を拾った。飯も食わせた。寝床もやった。昨日は帰るなとまで言った」
首筋に手が伸びて止まる。
「それが全部、金で回ってたって話だ」
言い方は乱暴だった。乱暴でなければ言えなかったのだろう、と思った。
この男は、自分より下に置いた人間に物を借りるのを、たぶん人生で一度もやったことがない。
「……貸せ」
もう一度死柄木が言った。
「……頭下げろってんなら下げねえぞ。それでも貸せ」
部屋の全員がこちらを見ていた。
すぐには答えなかった。
金はある。手元にもそれ以外にも。
だがその金の全部が自分の自由になるものではない。
クラウディオがどういう考えで三つに分けたのかは、知っている。だから知っていることを……悟られないようにしている。
封筒は三つ。一つは自分の手元に。残りは、クラウディオが持っている。
なぜ分けたのか。
一つの場所に置いておけば、一度取り上げられたら終わるからだ。自分が突然いなくなったとき、俺の手元にしか金がなければ、俺はその金が尽きた時点で詰む。だから分けた。
――それは俺一人が生き延びるための金だ。
あいつが俺一人ぶんで計算して積んだ金だ。
それを九人で食う。
三か月分が二週間に変わる。
そして二週間後、あの男が用意した逃げ道は無くなっている。
「……おい」
死柄木の声が低くなった。
「聞こえてんだろ」
「……聞こえてる」
顔を上げた。
「考えてた」
「何をだよ」
「……額だ」
嘘ではなかった。嘘ではないが本当でもなかった。
言えるはずがなかった。この金の意味を説明することは、クラウディオが何を覚悟しているかを、この部屋の全員に、そして本人に、教えることになる。
卓の下で指を組んだ。
三秒だけ考えた。
――どうせ、使う機会はないだろ。
その三秒でそう結論を出した。
あの男は逃げ道をこちらに用意して、自分は使わないつもりでいる。使わないものを大事に取っておいても仕方がない。
なら今食う。
「貸す」
アルテミスは言った。
「三か月分だ。九人でやりくりするなら、二週間ってところだろうな」
死柄木が眉を寄せた。
「三か月分って何だよ」
「大人二人が三か月暮らせる金だ。それが、俺の出せる全部だ」
部屋の隅で微かに音がした。
台所の入口にクラウディオが立っていた。
いつからそこにいたのかは分からない。この男はいつもそうだ。呼んでいないのに、必要なときには必ず視界の端にいる。
そちらは見なかった。
「クラウディオ」
「はい」
「出してくれ」
一拍、間があった。
その一拍が何を意味するのか、この部屋で分かるのは自分だけだった。
「……かしこまりました」
それだけだった。
理由も聞かず、確認もせず、止めもしなかった。クラウディオは軽く頭を下げて、廊下の奥へ消えていった。
足音が遠ざかる。
卓の木目を見たままでいた。
「ふうん」
マグネの声だった。
顔を上げると目が合った。
マグネは何も言わず肩をすくめただけだった。
「何だ」
「別に。あんた、金に未練がある顔してなかったなって思っただけ」
「……」
「……それだけよ」
それきりマグネは話題を変えなかった。変えなかったが、掘り下げもしなかった。
崩れた天井の下から引き上げてもらったときと同じだ。この人は、助けたことを後から数えない。他人の懐にも、同じ距離で立っている。
隣でトゥワイスが何か言いかけた。
「なあ…それって――」
言葉が途中で止まる。
「いや何でもねえ! 金は金だ、貸し借りだ、それだけの話だよなァ!」
急に大きくなった声を、自分で打ち消すように、トゥワイスは両手を振った。
それを黙って見ていた。
――気づいてるのかこの二人は。
何に気づいているのかは、たぶん本人たちも説明できないだろう。ただ、この金が普通の金ではないことだけを、どこかで嗅ぎ取っている。
そして、二人とも聞かない。
昨日と同じだった。全員が言い訳だと知っていて、誰も指摘しなかった夜と。
「…よし」
死柄木が立ち上がった。
「話は済んだな」
「まだだ」
「座れ」
「あ?」
「まだ済んでない」
立ち上がって台所へ行った。引き出しから紙を一枚と、ペンを取って戻ってくる。
卓の上に両方を置いた。
「書け」
死柄木が紙を見下ろした。
「……何だこれ」
「借用書だ」
部屋が静かになった。
荼毘が煙を吐く音だけが聞こえた。
「……借用書」
「金額、日付、借りた奴の名前。それと、返すって一文。書いたら貸す」
「はあ?」
死柄木の声が裏返った。
「なんで紙書かせんだよ……。ガキかお前は」
「ガキだ」
即答した。
「十三だ。昨日そう聞いただろ」
死柄木が口を開けて閉じた。紙を死柄木の前に少し押した。
「Las palabras se las lleva el viento, y lo escrito
permanece」
(ラス パラブラス セ ラス ジェバ エル ビエント、イ ロ エスクリト ペルマネセ)
死柄木の表情が固まった。
荼毘が壁から背を離して、こちらを見た。トガが目を丸くしている。スピナーが「え、今の何」と小声で言った。
「……おい」
死柄木が顔をしかめた。
「日本語で言え」
「言葉は風が持っていく…書かれたものは残る」
席に戻って座った。
「うちの方じゃよく言う。商売の前に必ず言う奴がいる」
「……」
「口で言ったことは消える。消えたことにできる。お前が明日、そんな話はしてねえって言ったら、それで終わりだ。俺には何も残らない」
「言わねえよ…そんなこと」
「言わないだろうな」
頷いた。
「だから書け」
理屈が通っていないことは自分でも分かっていた。言わないと分かっている相手に書かせる意味はない。
それでも書かせたかった。理由は、自分でもうまく説明できなかった。
死柄木はしばらく紙を睨んでいた。
それから舌打ちをして、乱暴に腰を下ろした。
「金額」
「大人二人が三か月暮らせる額。数字は、現物を数えてから入れる」
「日付」
「今日だ」
死柄木がペンを取った。
持ち方が、妙だった。
右手の親指、人差し指、中指、薬指。四本でペンを握って、小指だけが、紙から浮いている。
浮かせたまま動かさない。
それを見ていた。
この男が物を掴むときはいつもそうだ。五本揃えれば、崩れる。だから一本だけ意識して離している。
数秒ペンが止まって、それから死柄木が書いた。
金額の欄は空けたまま、日付を書き一番下に名前を書く。
死柄木弔。その四文字を見た。
一度だけ目を上げて死柄木を見た。
死柄木は書き終わった紙をこちらへ押しやるとペンを放り出して立ち上がった。
「……これでいいんだろ」
「ああ」
「返すってのも書いたぞ」
「見えてる」
紙を持ち上げて、折った。二つに折って、もう一度折る。
胸のポケットに入れた。
「おい」
「何だ」
「……いつまでに返せって話は、しねえのか」
ポケットの上を軽く押さえた。
「いつでもいい」
「は?」
「期限を切ったら、お前がそれまでに死んだ場合俺が損する」
死柄木が、変な顔をした。
「縁起でもねえこと言うな」
「事実だ」
アルテミスは立ち上がって、居間を出ていった。
廊下の奥から、クラウディオが戻ってくる足音がした。
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全員が寝床へ引き上げた後も、死柄木は居間に残っていた。
卓の上には数え終わった紙幣が積んである。封筒から出されて、束ごとに輪ゴムで留められていた。数えたのはあの執事だ。数える手つきがあまりに慣れていて気味が悪かった。
明日、コンプレスに預けることになる。自分で管理するつもりはない。数字は苦手だ。
ゲーム機を手に取って、電源を入れてすぐに切った。
やる気が起きなかった。
――返す。
あの紙に自分で書いた。
書かされたというのが正しい。あのガキが言い出したことで、自分から言ったわけではない。
それなのにさっきから頭に引っかかっている。
返すという言葉が。
金を借りるのは初めてじゃない。先生から渡されていた金は、返せと言われたことがない。八斎會から入っていた金も、あれは組んだ代わりに取ったもので、返す話ではなかった。
今まで手に入れた金は全部そうだった。
もらうか奪うか。
返す、というのは今までのどれとも違う。
違うのは分かる。何が違うのかが分からない。
死柄木は天井を見上げた。
裸電球が一つぶら下がって光っている。埃をかぶった傘の縁が、さっきから同じ場所に影を落としている。
――電気代……誰の名義で払ってる?
ふいにその声が耳の奥で鳴った。
初めて会った日だ。あのガキがこの店に入ってきて、十分も経たないうちに言った。勝手に隠し棚を見つけて、配線を辿って、それで最後にそれを聞いた。
あのときは、何様だと思った。
今は。
死柄木はしばらく電球を見上げていた。
この明かりも金だ。
そんな当たり前のことを、今日まで一度も考えたことがなかった。考える必要がなかった。今までは誰かが払っていた。誰が払っているのかも知らなかった。
これからはあの紙に書いた分から出ていく。
自分が書いた返すという一文の下から。
立ち上がって壁のスイッチに手を伸ばした。
指がスイッチの手前で止まった。消すべきだと思った。金がないのだから。
止まったまましばらく動かなかった。
結局手を下ろした。
死柄木は明かりを点けたまま部屋を出ていった。
いつも読んでくださって、本当にありがとうございます。
お知らせです。明日から試験的に投稿時間を20時10分に変更します。しばらく様子を見て、そのまま続けるか元に戻すかを決めようと思います。
これからもよろしくお願いします。