時計の針は思っていたよりずっと遅く進んだ。
店には少年とクラウディオしかいなかった。黒霧も、死柄木も、それからよくわからない大男のような何かも、昼過ぎに黒い靄の中へ消えていった。
少年はカウンターの端で本を読んでいた。
正確には読んでいるふりをしていた。三十分前から、同じページを開いたままだった。
「坊ちゃん」
「なんだ」
「紅茶を淹れました」
「いらない」
「では置いておきます」
カップが少年の手元に置かれた。湯気が細く立ちのぼる。
少年は本から顔を上げず壁の時計に目をやった。
出ていってから二時間。
本に目を戻す。
また時計を見る。
二時間と四分。
クラウディオは何も言わなかった。カウンターの内側で、グラスを一つずつ磨いていた。この店に客が来たことなど一度もないのに、その手つきは本物のバーテンダーのように丁寧だった。
「……遅いな」
少年がぽつりと言った。
「作戦の時間としては妥当ではないでしょうか」
「勝っていたら…とっくに戻ってる」
グラスを磨く音が一瞬だけ止まった。
「オールマイトを殺していたら、その場に長くいる理由がない。すぐに撤退してここに戻ってくる。戻ってこないのは、殺せていないか、逃げられないかのどちらかだ」
「……では…坊ちゃんの読みどおりに」
「読みが当たっても嬉しくない」
少年は本を閉じた。
冷めかけた紅茶に、ようやく手を伸ばした。
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靄が広がったのはそれからさらに一時間後だった。
店の真ん中に黒い渦が開く。そこから何かが転がり落ちてきた。
死柄木だった。
床に叩きつけられて呻き声を上げる。服は裂け、両腕と両足から血が流れていた。何か所も撃ち抜かれている。顔に張りついていた手は外れかけ、その下の目が痛みと怒りで濁っていた。
続いて黒霧がよろめくように姿を現した。靄が薄く輪郭が安定していない。
それだけだった。
大男は戻ってこなかった。
「……クソ」
床に這いつくばったまま、死柄木が吐き捨てた。
「クソ…クソ…クソが……! 手下どもは一瞬でやられた……ガキどもは強かった……脳無も……オールマイトは、全然、弱ってなんか……!チーターが……!!」
声が途中で痛みにかすれた。
少年は椅子から立ち上がりカウンターを回り込んだ。
床の死柄木を見下ろす。血の量、撃たれた箇所、黒霧の状態。一つずつ目で確かめていく。
脳無に全部賭けていた。逃げ道が黒霧一人だった。生徒を数に入れていなかった。
三つともそのまま当たっていた。
「……案の定…だったか?」
少年は少しだけ首を傾げた。
「日本語では」
死柄木が血走った目で少年を睨み上げた。
何か言い返そうとして口を開けて、痛みに顔を歪めて。
「……うるせぇな…合ってるよ」
それだけ言って床に額をつけた。
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『弔』
モニターから柔らかな声が落ちてきた。
死柄木の肩がびくりと震えた。
『よく戻ってきたね。まずはそれが一番だ』
「先生……俺……」
『悔しいだろう……でもね…弔。今回の失敗は失敗じゃない。君は平和の象徴がどういうものか、自分の目で確かめた。選んだ仲間を集める必要があることもわかった。次に活かせばいい』
死柄木は床に拳を押しつけていた。
指が一本ずつ震えながら開いていく。
『休みなさい。君はまだ成長できるよ』
少年はモニターを見ていた。
映像のない黒い画面。
責めない。叱らない。怒鳴りもしない。ボロボロで帰ってきた子どもに次がある、強くなれると優しく言い聞かせる。
家で、似たような声を何度も聞いたことがあった。
期待をかける大人の声。お前は特別だ、お前ならできる、お前は一族の未来だ。優しくてあたたかくて、その実一度も手綱を緩めない声。
甘やかしているのではないと思った。
壊れないように握っている。
この男は死柄木弔を育てているのではなく、死柄木弔が自分の手の中から落ちないように、ずっと力加減を調整している。
『アルテミス君』
不意に声が少年に向いた。
『留守番、ご苦労だったね』
「仕事だからな」
『弔の傷の手当てを、頼めるかな』
「クラウディオ」
「かしこまりました」
少年はそれだけ答えてモニターから目を逸らした。
あの声に長く耳を向けていたくなかった。
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クラウディオの手際は、黒霧が言葉を失うほどだった。
どこから取り出したのかわからない救急道具を広げ、死柄木の服を切り、傷口を洗い、撃ち込まれたものが残っていないか確かめる。
「触んな」
「動かないでください」
「触んなって言って……っ、いってえ!」
「弾は抜けています。骨にも当たっていません。運がよろしい」
「どこがだよ……!」
「命があるので」
クラウディオは平然と答え、細い糸で傷口を縫い始めた。自分の袖口から出した糸だった。針も使わず糸の先が勝手に皮膚をくぐり、閉じていく。
黒霧の靄がはっきりと固まった。
「……それは…医療の心得まであるのですか」
「主人をお守りする以上怪我をさせる前と、させた後の両方を学びます」
死柄木は途中から暴れるのをやめていた。
縫われていく腕をぼんやり眺めながら、小さく舌打ちをした。
「……器用な奴」
「恐れ入ります」
少年は、少し離れた壁にもたれてそれを見ていた。
何も言わなかった。
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深夜。
店の灯りは、カウンターの上の一つだけになっていた。
死柄木は包帯だらけの腕をカウンターに投げ出して、ぼんやりと空のグラスを眺めていた。眠れないのか、眠る気がないのか。顔の手は外したまま、横に置かれている。
足音がしてグラスに水が注がれた。
顔を上げると少年が水差しを持って立っていた。
「……なんだよ」
「水だ」
「見りゃわかる」
「失血している。飲め」
死柄木はしばらくグラスを睨んでいた。
それから指を一本浮かせて、四本でグラスを持ち上げた。崩さないように、慎重に。
一口飲んでグラスを置く。
「……笑いに来たのかよ」
「笑っていない」
「さっき笑ってただろ。案の定とか言って」
「事実を言っただけだ」
少年は、水差しをカウンターに置いた。
「脳無も、黒霧も、作戦も、悪くはなかった。穴があっただけだ」
「……」
「次は穴を塞いでから行け」
それだけ言って少年は物置の方へ歩き出した。
死柄木は何も答えなかった。
背中越しに、グラスがもう一度持ち上げられる、小さな音だけが聞こえた。
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物置に戻るとクラウディオが扉の脇に座っていた。
「お水を差し上げたのですか」
「見てたのか」
「いえ。水差しがなくなっておりましたので」
少年は段ボールの寝台に倒れ込んだ。
「……あのモニターの声は…嫌いだ」
「先生…ですか」
「家の大人と同じ声だ」
少年は腕で目を覆った。
「優しくて…ずっと握ってる声だ」
クラウディオはしばらく答えなかった。
「……坊ちゃんは…死柄木様を握ろうとは思わないのですね」
「思わない」
少年は少しだけ考えてから言った。
「握ったら壊れる。あいつはたぶんな」
それは自分のことを言っているようにも聞こえた。
クラウディオは何も言わず、毛布を少年の肩まで引き上げた。
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数日後。
包帯の取れかけた死柄木が、物置の扉を蹴り開けた。
「おい…ガキ」
「アルテミスだ」
「知ってる」
死柄木は手に持っていた紙を少年の前に放り投げた。
新聞だった。ある地方都市で、ヒーロー殺しと呼ばれる男が起こした事件の記事。
「こいつ…どう思う」
少年は新聞を拾い上げた。
記事に目を落としてから、死柄木を見上げる。
この男が自分から意見を聞きに来たのは初めてだった。
「……穴を探せということか」
「うるせぇよ…いいから言え」
少年は口の端を少しだけ持ち上げた。
「座れ。長くなる」