カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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3話 案の定

 

 

 時計の針は思っていたよりずっと遅く進んだ。

 

 店には少年とクラウディオしかいなかった。黒霧も、死柄木も、それからよくわからない大男のような何かも、昼過ぎに黒い靄の中へ消えていった。

 

 少年はカウンターの端で本を読んでいた。

 

 正確には読んでいるふりをしていた。三十分前から、同じページを開いたままだった。

 

「坊ちゃん」

 

「なんだ」

 

「紅茶を淹れました」

 

「いらない」

 

「では置いておきます」

 

 カップが少年の手元に置かれた。湯気が細く立ちのぼる。

 

 少年は本から顔を上げず壁の時計に目をやった。

 

 出ていってから二時間。

 

 本に目を戻す。

 

 また時計を見る。

 

 二時間と四分。

 

 クラウディオは何も言わなかった。カウンターの内側で、グラスを一つずつ磨いていた。この店に客が来たことなど一度もないのに、その手つきは本物のバーテンダーのように丁寧だった。

 

「……遅いな」

 

 少年がぽつりと言った。

 

「作戦の時間としては妥当ではないでしょうか」

 

「勝っていたら…とっくに戻ってる」

 

 グラスを磨く音が一瞬だけ止まった。

 

「オールマイトを殺していたら、その場に長くいる理由がない。すぐに撤退してここに戻ってくる。戻ってこないのは、殺せていないか、逃げられないかのどちらかだ」

 

「……では…坊ちゃんの読みどおりに」

 

「読みが当たっても嬉しくない」

 

 少年は本を閉じた。

 

 冷めかけた紅茶に、ようやく手を伸ばした。

 

---

 

 靄が広がったのはそれからさらに一時間後だった。

 

 店の真ん中に黒い渦が開く。そこから何かが転がり落ちてきた。

 

 死柄木だった。

 

 床に叩きつけられて呻き声を上げる。服は裂け、両腕と両足から血が流れていた。何か所も撃ち抜かれている。顔に張りついていた手は外れかけ、その下の目が痛みと怒りで濁っていた。

 

 続いて黒霧がよろめくように姿を現した。靄が薄く輪郭が安定していない。

 

 それだけだった。

 

 大男は戻ってこなかった。

 

「……クソ」

 

 床に這いつくばったまま、死柄木が吐き捨てた。

 

「クソ…クソ…クソが……! 手下どもは一瞬でやられた……ガキどもは強かった……脳無も……オールマイトは、全然、弱ってなんか……!チーターが……!!」

 

 声が途中で痛みにかすれた。

 

 少年は椅子から立ち上がりカウンターを回り込んだ。

 

 床の死柄木を見下ろす。血の量、撃たれた箇所、黒霧の状態。一つずつ目で確かめていく。

 

 脳無に全部賭けていた。逃げ道が黒霧一人だった。生徒を数に入れていなかった。

 

 三つともそのまま当たっていた。

 

「……案の定…だったか?」

 

 少年は少しだけ首を傾げた。

 

「日本語では」

 

 死柄木が血走った目で少年を睨み上げた。

 

 何か言い返そうとして口を開けて、痛みに顔を歪めて。

 

「……うるせぇな…合ってるよ」

 

 それだけ言って床に額をつけた。

 

---

 

『弔』

 

 モニターから柔らかな声が落ちてきた。

 

 死柄木の肩がびくりと震えた。

 

『よく戻ってきたね。まずはそれが一番だ』

 

「先生……俺……」

 

『悔しいだろう……でもね…弔。今回の失敗は失敗じゃない。君は平和の象徴がどういうものか、自分の目で確かめた。選んだ仲間を集める必要があることもわかった。次に活かせばいい』

 

 死柄木は床に拳を押しつけていた。

 

 指が一本ずつ震えながら開いていく。

 

『休みなさい。君はまだ成長できるよ』

 

 少年はモニターを見ていた。

 

 映像のない黒い画面。

 

 責めない。叱らない。怒鳴りもしない。ボロボロで帰ってきた子どもに次がある、強くなれると優しく言い聞かせる。

 

 家で、似たような声を何度も聞いたことがあった。

 

 期待をかける大人の声。お前は特別だ、お前ならできる、お前は一族の未来だ。優しくてあたたかくて、その実一度も手綱を緩めない声。

 

 甘やかしているのではないと思った。

 

 壊れないように握っている。

 

 この男は死柄木弔を育てているのではなく、死柄木弔が自分の手の中から落ちないように、ずっと力加減を調整している。

 

『アルテミス君』

 

 不意に声が少年に向いた。

 

『留守番、ご苦労だったね』

 

「仕事だからな」

 

『弔の傷の手当てを、頼めるかな』

 

「クラウディオ」

 

「かしこまりました」

 

 少年はそれだけ答えてモニターから目を逸らした。

 

 あの声に長く耳を向けていたくなかった。

 

---

 

 クラウディオの手際は、黒霧が言葉を失うほどだった。

 

 どこから取り出したのかわからない救急道具を広げ、死柄木の服を切り、傷口を洗い、撃ち込まれたものが残っていないか確かめる。

 

「触んな」

 

「動かないでください」

 

「触んなって言って……っ、いってえ!」

 

「弾は抜けています。骨にも当たっていません。運がよろしい」

 

「どこがだよ……!」

 

「命があるので」

 

 クラウディオは平然と答え、細い糸で傷口を縫い始めた。自分の袖口から出した糸だった。針も使わず糸の先が勝手に皮膚をくぐり、閉じていく。

 

 黒霧の靄がはっきりと固まった。

 

「……それは…医療の心得まであるのですか」

 

「主人をお守りする以上怪我をさせる前と、させた後の両方を学びます」

 

 死柄木は途中から暴れるのをやめていた。

 

 縫われていく腕をぼんやり眺めながら、小さく舌打ちをした。

 

「……器用な奴」

 

「恐れ入ります」

 

 少年は、少し離れた壁にもたれてそれを見ていた。

 

 何も言わなかった。

 

---

 

 深夜。

 

 店の灯りは、カウンターの上の一つだけになっていた。

 

 死柄木は包帯だらけの腕をカウンターに投げ出して、ぼんやりと空のグラスを眺めていた。眠れないのか、眠る気がないのか。顔の手は外したまま、横に置かれている。

 

 足音がしてグラスに水が注がれた。

 

 顔を上げると少年が水差しを持って立っていた。

 

「……なんだよ」

 

「水だ」

 

「見りゃわかる」

 

「失血している。飲め」

 

 死柄木はしばらくグラスを睨んでいた。

 

 それから指を一本浮かせて、四本でグラスを持ち上げた。崩さないように、慎重に。

 

 一口飲んでグラスを置く。

 

「……笑いに来たのかよ」

 

「笑っていない」

 

「さっき笑ってただろ。案の定とか言って」

 

「事実を言っただけだ」

 

 少年は、水差しをカウンターに置いた。

 

「脳無も、黒霧も、作戦も、悪くはなかった。穴があっただけだ」

 

「……」

 

「次は穴を塞いでから行け」

 

 それだけ言って少年は物置の方へ歩き出した。

 

 死柄木は何も答えなかった。

 

 背中越しに、グラスがもう一度持ち上げられる、小さな音だけが聞こえた。

 

---

 

 物置に戻るとクラウディオが扉の脇に座っていた。

 

「お水を差し上げたのですか」

 

「見てたのか」

 

「いえ。水差しがなくなっておりましたので」

 

 少年は段ボールの寝台に倒れ込んだ。

 

「……あのモニターの声は…嫌いだ」

 

「先生…ですか」

 

「家の大人と同じ声だ」

 

 少年は腕で目を覆った。

 

「優しくて…ずっと握ってる声だ」

 

 クラウディオはしばらく答えなかった。

 

「……坊ちゃんは…死柄木様を握ろうとは思わないのですね」

 

「思わない」

 

 少年は少しだけ考えてから言った。

 

「握ったら壊れる。あいつはたぶんな」

 

 それは自分のことを言っているようにも聞こえた。

 

 クラウディオは何も言わず、毛布を少年の肩まで引き上げた。

 

---

 

 数日後。

 

 包帯の取れかけた死柄木が、物置の扉を蹴り開けた。

 

「おい…ガキ」

 

「アルテミスだ」

 

「知ってる」

 

 死柄木は手に持っていた紙を少年の前に放り投げた。

 

 新聞だった。ある地方都市で、ヒーロー殺しと呼ばれる男が起こした事件の記事。

 

「こいつ…どう思う」

 

 少年は新聞を拾い上げた。

 

 記事に目を落としてから、死柄木を見上げる。

 

 この男が自分から意見を聞きに来たのは初めてだった。

 

「……穴を探せということか」

 

「うるせぇよ…いいから言え」

 

 少年は口の端を少しだけ持ち上げた。

 

「座れ。長くなる」

 

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