「お預かりした分の残りを申し上げます」
帳面を閉じたクラウディオが、静かに口を開く。
「……三日分でございます」
誰も何も言わない。
二週間前に死柄木が借用書に名前を書いた。あのとき借りた金が、もう底をつきかけているのだ。九人で食えばそうなる。最初からわかっていたことだ。
スピナーは壁にもたれたまま天井を仰ぐ。また、パンを四つに割る生活が始まるのだ。
「金がいるよな……」
ぼそりと言ったのは死柄木だ。
「どこから取る」
「ここだ」
アルテミスが床に地図を広げて、指で地方の山あいの町を一つ叩く。
「CRC……異形排斥の連中だ。黎明期からある古い集団で、今は分裂して本隊の生き残りがここに潜ってるらしい。古い礼拝堂を買い取って、そこで集まってる」
スピナーの背中が、壁からゆっくり離れていく。
「……そいつら、か」
アルテミスはスピナーのほうを見ない。
「寄付は現金で集めてる。銀行に記録を残すと警察に辿られるからだ。礼拝堂のどこかに溜めてあるはずだ」
「なんでそこなんだよ」
死柄木が訊く。
「奪われても騒げない金だからだ」
アルテミスの指が地図の上の町をなぞっていく。
「警察にもヒーローにもマークされてる。世間の支持もない。襲われても誰も本気で同情しない。通報したところで、ヒーローの優先順位は一番下だ」
アルテミスが地図から顔を上げて言葉を継ぐ。
「狙うなら、通報されても誰も本気で動かない金だ。家でそう教わった」
死柄木はしばらく地図を眺めて、それから首を掻く。
「……乗った」
「理由は聞かないのか」
「差別なんて許せないだろ……」
笑いながら死柄木が立ち上がって、壁際のスピナーのほうを顎で示す。
「こいつの顔見て、化け物って言う連中だろ」
スピナーの肩が小さく揺らぐ。
「うちのを化け物呼ばわりする奴の金で、うちのが飯食うんだ……悪くねえ話じゃねえか。あと……返すって書いたからな」
アルテミスは何も言わない。腹の中で数えているのは別の数字だ。
二週間前に出した金は、自分の金ではなかった。クラウディオが自分一人のために分けて積んだ、三か月分の逃げ道だ。それを九人で食った。
あの逃げ道を積み直すにはいくら要るか。
誰にも言わずに、その数字だけを数えている。
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礼拝堂があるのは町外れの坂の上だ。
白い壁がところどころ剥げて、屋根の十字架が少し傾いている。窓の色ガラスは半分割れて板で塞がれたままだ。中からは低い声が漏れていて、何人もの声が同じ言葉を繰り返す。
「わぁ!なんか歌ってます!」
トガが扉の隙間に顔を寄せてはしゃぐ。
「音痴過ぎだ!上手すぎんだろ!なんだこれ気持ちわりぃ!」
「静かにしなさいって」
マグネがトゥワイスの頭を押さえ込む。
コンプレスが帽子のつばに指をかけて笑う。
「では諸君……開演といこうか」
荼毘が扉を蹴り飛ばす。
中は思ったより広い。
長椅子が並んでいて、その前の壇の上に黒いマントの男が立つ。長椅子に座っている連中も全員が同じ黒いマントを着て、フードに髑髏の飾りがつく。髑髏の面で顔ごと覆っている者もいる。
祈りの声が止まった。
何十もの髑髏が一斉にこちらを向く。
「わぁかわいい!ドクロ!」
「かわいくねえ!キュート過ぎる!どっちだよ!」
壇の上の男の目がこちらを向く。その目が一人のところで止まった。
スピナーだ。
緑の鱗。縦に裂けた瞳孔。人の形をしていない顔。
「……穢れた化け物が!」
男の声が礼拝堂に響く。
「よくもこの聖域に!人の形を捨てた穢れが!よくも!」
長椅子の髑髏たちがざわめいて、何人かが腰を浮かす。その手には何かが握られている。
スピナーは動けない。
知っている声だ。子どもの頃から何度も聞いてきた。言葉は違っても同じ声だ。通りすがりの大人の目。教室の後ろの囁き。店の入口で止められたときの店員の顔。
人間じゃないものを見る目。
「ちょっと寄付して貰いに来ただけだ」
首を掻きながら、死柄木が言う。
「お前らの話に興味はねえ」
それから手を伸ばした。
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長くはかからなかった。
死柄木の手が触れた男が崩れる。荼毘の炎が壇の前の三人を呑む。トガのナイフがフードの下の喉を裂く。マグネの磁石が逃げようとした二人をまとめて引き寄せる。コンプレスの手のひらの中で、ビー玉が一つ踊っている。
クラウディオは出口の扉の前に立っていて、そこへ走ってきた者から順に糸が首に巻きつく。
スピナーは壇の上の男を殴っている。
何度も。
男が倒れても殴る手を止めない。髑髏の面が割れて、その下の顔が覗く。普通の顔だ。どこにでもいる中年の男の顔だった。
その顔を殴る。
化け物と言った口を。穢れと言った口を。
「スピナーくん楽しそうですね」
トガが長椅子の背もたれに腰かけて、足をぶらぶらさせている。
「……楽しくねぇよ」
スピナーの拳は下りない。
「……楽しくなんか……ねぇよ」
誰も止めなかった。
礼拝堂の奥に小さな部屋がある。
そこにいるのはアルテミスとクラウディオとコンプレスの三人だ。
コンプレスは金になりそうな物を、適当にビー玉にしていく。
「やれやれ……力任せに奪い取るだけの強盗なんて、およそスマートじゃないけれどねぇ……」
金庫が扉を開けたまま置かれていて、中に封筒が詰まっている。クラウディオが一つずつ中身を確かめて、鞄に移していく。
アルテミスは机の上の書類に目を通す。
スピナーは部屋の入口に立ってそれを見ている。拳からはまだ血が垂れ落ちていく。
「何見てんだ」
「内部の文書だ」
アルテミスが紙を一枚持ち上げる。
「この集団が分裂した理由が書いてある。どこからが異形かの線引きで揉めてる。角は人間か、尻尾は、鱗が三割なら人間で、四割なら異形か。会議の議事録だ」
別の紙にも名前が何十も並んでいる。
「破門された信者の名簿だな。自分たちの決めた線より、少しだけ外側にいた連中だ」
「……は」
スピナーは乾いた声で笑った。
「……バカじゃねえの」
「線を引くのに失敗した組織だ」
アルテミスが名簿を机に戻す。
「どこに引くか決められないからこそ、引くたびに割れた。最後に残ったのがここにいた連中という事だ」
しばらく黙ってから、スピナーが口を開く。
「……お前んとこの家も、こういうのあんのか」
アルテミスの手が止まった。
「ある」
名簿から目を離さないまま、言葉が続く。
「異形型は席に座れない……理由は違う。嫌ってるわけじゃない。掛け合わせに使いにくいからだ。異形を混ぜると体の強さで頭打ちになる場合が多い……だから使えない」
「……」
「使えないから下に置く、それだけだ」
スピナーの目がアルテミスの横顔に向く。
「……そっちのほうがムカつくな」
アルテミスは何も返さない。
こいつらは異形を嫌っていた。気持ち悪いと、穢れだと、人間じゃないと。少なくともそこには感情があった。
家は嫌ってすらいない。
ただ帳簿の上で、使えないと書いただけだ。
スピナーはそれ以上何も言わずに、礼拝堂のほうへ戻っていく。
名簿の一番下の名前を、しばらく見つめていた。
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帰りの車の中で、クラウディオが封筒の中身を数え終える。
「総額を申し上げます」
執事が金額を読み上げて頷く。
助手席の死柄木が後ろへ手を伸ばして、クラウディオの膝の上から束を一つ取り、アルテミスの胸に押しつけて寄越す。
「返済だ」
それを受け取って、数える。一枚ずつ。指が止まらない。
「……思ったより少ないな」
「そっちかよ」
後ろの席からスピナーが突っ込む。
胸のポケットから二つ折りの紙を出す。広げてからペンで一行書き足す。日付と受け取った額。
それから紙を折り直して、ポケットに戻す。少ない、と言ったのは返済の額のことではない。
クラウディオが積んでいた逃げ道には、まだ全然届かないのだ。
窓の外では、暗い山道がヘッドライトの中を流れていく。
「それと」
「まだあんのかよ」
「全員殺した」
車の中の話し声が、少しだけ途切れる。
「静かな強盗のつもりだった。金を取って、何人か黙らせて出ていく。それなら騒げない連中は騒がない」
「……」
「全員殺せば記事になる。地方の礼拝堂で宗教団体が皆殺し。小さくても必ず載る」
「今さらかよ」
荼毘が窓に頭をもたせかけたまま言う。
「今さらだ」
アルテミスはそれ以上何も言わない。
責めているのではない。止めなかったのは自分だ。止めるつもりも最初からなかった。
ただ帳簿の一行がずれた。
ずれた理由もわかっている。この連中が金だけで動かないことは、とうに知っていた。知っていて、怒りの分を勘定に入れていなかった。
スピナーは自分の拳を見つめている。血はもう乾いていた。
殴った男の顔を思い出す。髑髏の面の下の、どこにでもいる普通の顔を。
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翌朝、横浜の事務所でバルバラは新聞の地方面を開く。
小さな記事だ。三段にも満たない。
――山間の礼拝堂で宗教団体の信者が多数死亡。団体は異形型個性への排斥を掲げる過激派として、警察が以前から監視していた。現場付近では、爬虫類に似た容姿の男が目撃されている。
「……トカゲの顔の男、ねぇ」
女は新聞を机に置いて、シルクハットのつばを押し上げる。
「連合の指名手配にいたよね。そういう顔」
赤いペンで記事の地名に丸をつけて、ぽつりとこぼす。
「家なら、どれだけ強くても席には座れない顔だね」
誰に聞かせるでもない声だ。
それから地図を広げて、丸をつけた町から車で動ける範囲に、もう一つ大きな円を描く。
円の中にいくつもの町が入った。
そのどこかに十三歳がいる。