ボクはこの国の街並みが嫌いではない。看板が多すぎるし道は狭いし、建物の高さも揃っていなくて美しくはないが、人が働いて金が回って明日も同じ時間に電車が来るという前提で全員が生きている。
国にそれができるなら組織にもできるはずだと思ってボクは日本行きを提案したんだ。販路の話だと説明して会議を通したのは嘘ではない。この国の裏には金があって手を入れる余地もある。だけど本当の理由は別にあって、外を見ておきたかった。二百年同じ屋敷の中で血を数えている連中に、外の勘定を見せてやりたかった。
――こんなことになるなら…提案しなければよかったかな。
ボクはビルの非常階段の踊り場から、下の路地を見下ろしている。路地に倒れている七人は全員動かない。服は乱れていないし血も流れていないし傷も見当たらない。ただ中身だけが抜けている。皮膚が張りを失って骨の形に沿って落ちくぼみ、髪の色が抜けて指が枯れ枝のように曲がっている。二十代の男が、九十を越えた老人の姿で転がっていた。
「――席次六番」
ボクは声をかけた。路地の中央に立つ男の背中から六本の管が伸びていて、血を吸い終わった蚊が口を舐めるように先端がまだ小さく動いている。
「……話は取れたのですか」
「取れた」
マキシミリアーノは、こちらを見ない。
「この蟲は飛田の連中と繋がっていた。連合に武器を流した仲介の一人だ」
「それで…行き先は」
「知らぬと言った」
「では」
「知らぬ者は…要らぬ、せめて余の糧とした迄よ。」
管がゆっくりと背中に収まっていくのを見ながらボクは帽子の縁を押さえた。
――七人だ。
一人から話を取るのに七人で、しかもそのうち五人は路地の入口に居合わせて見てしまっただけの通行人だった。
「席次六番。進言してもよろしいですか」
「申せ」
「三日で十九人です」
マキシミリアーノが、初めてこちらを向いた。
「それが何だ」
「いくら何でも…多すぎます」
ボクは急がずに階段を一段ずつ下りる。この男の前で急ぐと、こちらの焦りが値踏みされる。
「高速道路の件でこの国のヒーローは既に動いています。あの時点で、こちらの個性の性質はほぼ割れました。触れば老いる。それだけ分かれば、対処法を組まれます」
「組めるものなら組めばよい」
「組ませない方が早い…と申し上げています」
倒れている男の一人を見下ろすと顔に覚えがある。五分前まで荷物を抱えて歩いていた男だ。
「若の所在は金で買えます。ボクの方で線は引いてあります。あと十日程いただければ」
「十日」
「はい」
「十日の間、若はあの蟲けらの巣で寝起きするのだな?」
声が低くなった。
「ボクは――」
「…余は待たぬ」
管が一本だけまた伸びてボクの喉の高さで止まる。触れてはいない、三十センチほど手前だ。ボクは動かない。動けばその分だけ短くなる。
「…バルバラ」
「はい」
「そなたは賢い……そうであろう?」
声に嘲りはなく本気で言っている。そこがこの男の一番厄介なところだ。
「だが…そなたの賢さは商人のものだ。損と得で物を数える。余は数えぬ」
「……存じております」
「若は十七代の到達点だ。あの血を…蟲けらの巣に一晩でも置くことが既に損だ。そなたの勘定にはその項目がない」
管が引いていった。
「十日もない」
「……かしこまりました」
ボクは頭を下げてそれ以上は言わなかった。言えば次は三十センチが縮む。この男は席次が上で命令系統の上ではボクはこの男に従う。だがそれだけではなく、この男には交渉が効かない。条件を出しても代案を出しても届かず、損と得の話をしている限り永遠に噛み合わない。この男は血の話しかしないからだ。
――当主なら…止められるのかな。
ふと、そう思ってすぐに打ち消した。あの人はメキシコを離れられないからこの男が来ている。
「バルバラよ」
「はい」
「次の場所を出せ」
手帳を開きながら自分の手が少しだけ湿っているのに気づいた。
「……三か所あります。どれも連合に近い筋です」
「近い順に回る」
「はい」
歩き出した男の後ろについて一度だけ振り返る。路地の七人は、そのままだ。
それから振り返らないことにした。
---
――報告書を三度読んだ。
エンデヴァーは車の後部座席で目を閉じている。高速道路。被害者は被疑者合わせて十六名。全員著しい老化の所見。外傷、出血、争った形跡はいずれもなし。現場に急行したヒーロー三名、同様の所見にて死亡。三名の名前は覚えている。一人は三年前に事務所の合同訓練に来ていた真面目な男で救助の手順を何度も確認して最後に握手を求めてきた。あの男が倒れている人間に駆け寄って死んだ。
倒れている者がいれば行く、それがヒーローだから当たり前だとエンデヴァーは思った。そしてその性質がそのまま殺されている。
「エンデヴァー」
運転席から、バーニンが声をかけた。
「現場あと二分です。所轄が半径二百メートルで規制線張ってます」
「……二百では足りん」
「え」
「四百に広げさせろ…今すぐだ」
バーニンが無線を取るのを聞きながらエンデヴァーは目を開けた。報告書の最後の行に対処法の記載はないが、誰も生きて帰ってきていないのだから当然だ。分かっているのは二つだけ。触れさせてはならない。そして、倒れている者に駆け寄ってはならない。
――後者ができるか。
車が停まって降りた瞬間に匂いが来た。埃と湿った布と、それから名前のつけられない乾いた匂い。まだ昼の商店街の入口で、シャッターの半分は開いていて、八百屋の軒先には値札の付いた箱が並んだままになっている。その前に人が倒れていた。
「……ひっ」
背後でカマドが息を吸う音がしても、エンデヴァーは動かなかった。九人かあるいは十人。全員が老人だ。いや…違う。一人の足元に通学用の鞄が転がっていて、持ち主の背丈が合わない。腕が細く、制服のサイズがその体に対して大きすぎる。
髪が白い。
エンデヴァーは、そこから目を逸らさなかった。逸らせば見なかったことになる。
「……バーニン」
「……はい」
「救急を近づけるな」
「でも…まだ息が――」
「近づけるなと言っている…」
自分の声が思ったより低く出てバーニンが口を閉じる。エンデヴァーは商店街の奥を見た。薄暗いアーケードの下に人影が一つ立っている。外套の色が分かるほどの距離ではないが、輪郭が異常だ。背中から腕ほどの太さの何かが六本かそれ以上生えていて、天井の高さに沿って広がり、先端がゆっくりと動いている。風はない。自分で動いている。
「――全員…下がれ」
エンデヴァーは言った。
「五十メートル以上だ。誰も近づくな。倒れている者にもだ」
「エンデヴァーさん…それじゃ救助が…!」
「今は無理だ」
言いながら自分の中で何かが軋むのが分かる。目の前に生きているかもしれない人間が十人いて、助けに行けば自分も同じになるし、行かなければ助からない。
――選べ。
あの日と同じ形だ。十四歳のとき路地で親子が悪漢に襲われていた。自分は行けなかった。行けなかったのではなく、力が足りなくて届かなかった。だから強くなると決めて三十年以上そのために生きてきた。今力はある。届かないのは、距離のせいではない。エンデヴァーは一歩前に出た。
「……ヒーローか」
アーケードの奥から声がした。訛りはあるが、はっきりした日本語だ。
「ならば…聞くがよい」
人影がこちらへ急ぐ理由がない者の歩き方でゆっくりと歩いてくる。
「余は探し物をしている。外国人の…十三の子どもだ。名をアルテミスという」
エンデヴァーは答えなかった。
「知る者がおれば…出よ。話が済めば余はこの街を出る」
「……何人殺した」
エンデヴァーは言った。
「高速道路で十六人。ヒーローを三人。ここで、十人だ」
人影が足を止め、アーケードの影から出て顔が見えた。白髪に痩せた頬で年齢の見当がつかない。そして、目だけが異様に若い。
「数えたのか」
男は不思議そうに言った。
「なぜだ?」
エンデヴァーは答えない、答える言葉が出てこなかった。なぜ数えるのかなど聞かれたのは初めてだった。
「蟲を数える者はおらぬであろう?」
男は言った。
「そなたらは、足元の蟻を踏んだとき数を数えるか」
背中の管が広がる。六本ではなく八本か九本。アーケードの梁に沿って伸びて、天井を撫でるように動いている。
「余は…急いでおるのでな」
管の一本が横を向いた。エンデヴァーの方ではなく、四百メートル下がらせたはずの規制線の手前。商店街の出口に避難しきれなかった数人が残っていて、店の軒先に固まったまま動けないでこちらを見ている。管の先端が赤く光った。
「……!!ッ!待てっ!」
エンデヴァーが踏み出したが、遅いと自分で分かった。距離は五十メートル以上あって下がらせたのは自分だ。
「――ッ」
背後でバーニンが叫んだ。
熱線が走った。
炎の壁を間に合わせた。熱線がそれにぶつかって弾け、アーケードの屋根が抜け、ガラスが降って、看板が落ちる。軒先にいた数人はその場にしゃがみ込んでいて全員が生きている。
「ッ動くな!!」
エンデヴァーは叫んだ。
「そこから動くな!!伏せていろ!」
声が届いたかは分からない。男はそれを見ながら背中の管をまた一本持ち上げる。
「…ほう」
男は言った。
「間に合うのだな」
――試された。
エンデヴァーは腹の底が冷えるのを感じた。今のは攻撃ではなく、こちらが何を守るか、どこまで届くかを測られた。
管の一本が真横へ伸びた。アーケードの柱の陰に、子どもがいる。さっき見た制服の子よりもっと小さい五つか六つの子で、親とはぐれたのか柱に張り付いて動けなくなっているその体に管が巻きついた。
「やめろッ!!!」
エンデヴァーは踏み出した。距離四十メートル、炎で一気に詰めれば三秒で届く。だが管は子どもの胴に巻きついているだけで、先端が触れていない。
――吸っていない。
まだ、吸っていない。つまり、こちらを呼んでいる。
「近寄るがよい」
男が言った。
「余の間合いは、そこからおよそ五歩だ。試すか」
エンデヴァーは止まって、止まった自分に舌打ちする。子どもは泣きも声を上げもせず、目だけが動いてこちらを見ている。
「……何が望みだ」
「申したであろう。外国の十三の子どもだ」
「……知らん!!この国に何人いると思ってるんだ!」
「では…要らぬな」
管が跳ねて子どもの体が宙に投げ出された。十メートル以上の高さで放物線を描いて商店街の外へ、落下地点はコンクリートだ。エンデヴァーは考えなかった。炎が背中から噴き出し体が飛ぶ。空中で腕を伸ばして受け、着地の衝撃を膝で殺して体をひねる。腕の中で子どもが息を吸う音がした。
生きている。
顔を上げると男は、もうそこにいなかった。二十メートル先のビルの壁面に管を打ち込んで壁を這うのではなく管を伸ばして引き寄せてはまた伸ばす。虫が糸を渡るような動きだ。
速い。
そして向かった先には、避難誘導の途中で立ち止まっていた四十代くらいの男がいる。誘導していた所轄の警官が振り返った瞬間には、もう終わっていた。管が背中に刺さって、一秒。それだけで男の体は前に倒れ、倒れるときにはもう別人になっていた。
「――ッ!」
エンデヴァーは、腕の中の子どもを見た。ここで放すわけにはいかず、安全な場所まで運ばなければならない。その三秒でまた一人死ぬが、運ばなければこの子が死ぬ。
――選べ。
「バーニン!!」
エンデヴァーは叫んだ。
「受け取れ!下がったままでいい!動くな!」
規制線の向こうでバーニンが両腕を広げ、エンデヴァーは子どもを投げた。人を投げるという行為に体が一瞬だけ抵抗したが、それが一番速い。バーニンが受け止めたときにはもう飛んでいた。炎で路面を焦がして追う。男はビルの三階の高さでこちらを見て待っている。
届く。あと十五メートル。
男の背中から、管がもう一本、下へ伸びた。
――また。
路地の入口に避難が間に合わなかった杖の老人が立っている。管が伸びる。エンデヴァーは進路を上ではなく下へ変えて、老人の前に割り込んで炎の壁を作った。管がそれに触れて引いた。
「ほう…なるほど」
男の声が、上から降ってきた。
「そちらも守るか」
守る。当たり前だ。エンデヴァーは答える余裕もなく、老人を抱えて後方へ走る。十メートル、二十メートル走って規制線の内側に下ろし、振り返ると男はもう反対側の路地にいてそこにまた誰かがいる。
――何人いる。
四百メートルに広げさせたはずだった。だが商店街は広く、裏口があって路地が交差し、店の奥にも人が残っている。避難完了の報告はまだ来ていない。そして、この男はそれを知っていて、一人ずつこちらの見えるところで触っていく。
「エンデヴァーさん!」
カマドの声だった。
「南側から回り込めます! 私が――」
「……来るな!」
エンデヴァーは即答した。
「え!?」
「触られたら終わりだ。お前の炎は届く前に間合いに入る」
「……でも!」
「来るなと言っている!」
自分の声が割れた。三人死んでいる。合同訓練で握手を求めてきた男が駆け寄って死んでいて、同じことを部下にさせるわけにはいかない。だが、そう言った瞬間にこちらの手数は一つに固定された。自分一人で、追いながら全員を拾う。
できるはずがない。男の管がまた跳ねて、今度は二人同時だ。ビルの二階の窓から引きずり出された若い女と、路地から連れ出された男が左右に分かれて宙に放られた。距離はそれぞれ三十メートル。
――両方は、無理だ。
エンデヴァーは、その一瞬で計算した。炎で加速して左を取れば右が落ちるし、右を取れば左が落ちる。高さは七、八メートルで打ちどころによっては死ぬ。両方を諦めて男に向かえば、二人死んで、そのかわり捕まえられるかもしれない。
――かもしれない。
確証はない。この男は間合いに入った瞬間に触ってきて、触られれば終わり、終われば残った全員が死ぬ。計算が成立しないままエンデヴァーは左に飛んだ。女を受けてそのまま右へ体をひねり、炎を噴かせて地面を蹴ったが間に合わない。男の体が路面に落ちる鈍い音を、エンデヴァーは女を抱えたまま聞いた。落ちた男は腕を押さえて呻いている。骨は折れているが、生きている。
生きていた。
――間に合った。
そう思った自分に吐き気がした。何が間に合ったのか、落ちるのを見ていただけだ。それでも生きていることに安堵している自分がいる。
「……そなた」
上から声がする。男は街灯の上に管で体を支えて立ち、こちらを見下ろしている。
「一つも落とさぬな」
「……」
「見事なものだ」
嘲りではなく、本当にそう思って褒めている。
「だが…それでは余に届かぬぞ」
エンデヴァーは女を下ろして立ち上がる。炎が体の周りで膨れ上がり、路面のアスファルトが溶け始めた。
――届かせる。
「興が乗ってきた…届かせてみよ」
男が笑って管を伸ばす。今度は人ではなく、商店街の奥のまだシャッターの開いている店で、中に影が動いている。人がいる。管が店の中へ入っていく。エンデヴァーは炎を最大まで上げて地面を蹴り距離を詰めた。十メートル、五メートル。間合いだ。
――入る。
触られる覚悟で、入る。伸ばした指先が外套の裾に触れた瞬間、男の姿が消えた。管が店の梁を掴んで体を引き上げ、屋根を抜けて上空へ。エンデヴァーの手は空を切った。店の中に人はおらず、動いていた影は倒れた棚の布だった。
「――ッ」
追おうとして足が止まった。背後で悲鳴が上がって振り返ると、さっき運んだはずの規制線の内側に管が届いていた。距離を取らせた場所だった。安全だと判断した場所だった。その中にいた一人、二人に管が触れて離れ、二つの体が崩れるように倒れた。
エンデヴァーは動けなかった。規制線を広げたのも、そこに人を集めたのも自分だ。守るために集めた場所を、狙われた。
「……補給だ」
男の声が、上から聞こえた。
「そなたの炎は熱い。余も…少々使った」
背中の管がゆっくりと収まっていくと男の頬に張りが戻っていた。白髪の色は変わらないが、皮膚が若返っている。
「そなたの名は?」
「……エンデヴァー」
「ヒーローの位は」
「……一位だ」
男がしばらく黙ってそれから首を傾げた。
「この国の一位がそなたか」
「……」
「拾うことに……それだけの力を使うのか」
エンデヴァーは答えなかった。答えなければならないのに、男はそれ以上待たなかった。
「この街にはおらぬな」
そう言って管をビルの屋上へ、さらにその向こうへ伸ばした。
「待てっ!!」
エンデヴァーは一歩踏み出して、止まった。足元で骨の折れた男が呻いている。その先に干からびた体が二つ、その先にしゃがみ込んで動けない数人、その先にバーニンが抱えている子ども。追えば置いていくことになる。救急はまだ入れず、この場に立っているヒーローは自分しかいない。
――行けば、取れるかもしれない。
そう思った自分の声が、はっきり聞こえた。行けば。あの日と同じだった。十四歳の自分は、悪漢に襲われる親子を見ていた。行けば届くかもしれないと思って、足が動かなかった。そのまま見殺しにした。あのとき動かなかったのは、恐怖だった。
今は違う。今は動かないことを自分で選んでいる。
「……くそっ!」
エンデヴァーは炎を消して膝をつき、骨の折れた男の脈を取った。
「バーニン!救急を入れろ!中央通りは片付いた、南側の確認を急がせろ!」
叫びながら次の干からびた体に向かって触れたが、脈はなかった。
――数える。
エンデヴァーは、その顔を見た。エプロンをした六十がらみの男で、さっきまでこの商店街のどこかで店を開けていたはずだが、名前は分からない。高速道路で十六人、ヒーローが三人、この商店街で十人。そして今、何人増えた。
――数えるさ。
誰も数えないなら自分が数える。エンデヴァーは立ち上がって次の体を探した。