カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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31話 包囲

 

 

 荷物は思ったより少なかった。九人分の私物を段ボール四つとバッグ数個にまとめて、それで終わりだ。家具は置いていく。買い直すほうが安い。

 

 マグネが段ボールの口をガムテープで閉じていく音だけが、夜明け前の家に響いている。トゥワイスは箱を一つ抱えて玄関と居間を三往復して、三往復とも同じ箱を同じ場所に置き直していた。スピナーは小さなファイルを一冊だけ自分の鞄にしまって、それ以外は全部箱に任せている。荼毘の荷物は最初から上着のポケットに収まる分しかない。

 

 最後に台所を覗くと、流しの上に鍋が一つだけ残っていた。底が黒く焦げついたまま、何度擦っても落ちなかった鍋だ。

 

「持っていくか」

 

「いえ」

 

 クラウディオが答える。

 

「現地で買い直したほうが荷が減ります」

 

「あれは…焦がした鍋だろ」

 

「はい」

 

「……そうか」

 

 それ以上は言わなかった。クラウディオも言わなかった。結局鍋は流しの上に置いたままになる。

 

 玄関で靴を履きながら一度だけ振り返った。卓の木目も縁側の柱も消えたテレビの画面も、明日には誰のものでもなくなる。

 

---

 

 車は二台。

 

 ワンボックスが一台と、少し古い型のバンが一台。コンプレスが三日で用意したもので、どちらも書類は通っている。ナンバーは隣の県のものに付け替えてあった。

 

「前の車が私とアルテミス君、荼毘、スピナー、それから執事殿だ」

 

 コンプレスが指を折って数える。

 

「後ろが死柄木、マグネ、トガ、トゥワイス。運転は私とマグネで受け持とう」

 

「……なんで俺が後ろなんだよ」

 

 死柄木が言った。

 

「頭が先頭車にいると、止められたときに全部持っていかれるからさ」

 

「……ふうん……まあいい。早く行くぞ」

 

 死柄木はそれ以上文句を言わずにバンへ乗り込む。トガが跳ねるようにその後ろに続いて、トゥワイスが「狭え! 広え!」と叫びながら最後に押し込まれた。

 

 出たのは朝の四時。

 

 まだ暗い。夜のうちに降った雨で路面が濡れていて、街灯の光が細長く伸びている。エンジンの音がやけに大きく聞こえる。

 

 二列目の窓際に座る。隣にクラウディオ、前の助手席に荼毘、後ろの列にスピナー。バックミラーの中で、バンのヘッドライトが一定の距離を保ってついてくる。

 

 車が動き出してからしばらく誰も喋らない。暖房が効きはじめて窓が少し曇る。荼毘が助手席の窓をわずかに開けて、冷たい空気と一緒に煙草の煙を外へ逃がしていた。ワイパーが一度だけ動いて、フロントガラスの水滴を払う。

 

 膝の上で地図を開く。県境までの道は三本。一番太い道は使わない。二番目の道は途中で高速の入口の前を通る。三番目は遠回りになるが、人の目が少ない。コンプレスが選んだのは二番目と三番目の間を縫う道で、悪くない選び方だった。

 

 スピナーが窓に額をつけている。

 

「……なんか、あっけねえな」

 

「何がだ」

 

「いや。八斎會と組んでから、ずっとあそこにいたのにさ」

 

「三日で出られるなら上等だ。持っていくものが少ないってのは、そういうことだ」

 

「身も蓋もねえな」

 

「事実だ」

 

 窓の外を工場の壁が流れていく。シャッターの下りた店、明かりの消えた自販機と誰もいないバス停。まだ人の姿はない。

 

 ――ここまでは想定通りだ。

 

 あの男が商店街を潰してから四日。家の追加が来るにしても、まだ間がある。来るとすれば先に来るのは手続きの要らない者だけで、それは今この国にいる者に限られる。

 

 三日。足のつかない車。夜明け前の出発。二台に分けて、頭を後ろに置いた。やれることは全部やった。あとは県を出るまでの数時間だけだ。

 

「執事殿」

 

 運転席からコンプレスが声をかけた。

 

「地図は頭に入っているかね」

 

「はい」

 

「では、道が塞がれたら言ってくれ。私は正規のルートしか知らない」

 

「かしこまりました」

 

 クラウディオの横顔を見る。この男はたぶん三通りか四通りの経路を持っていて、聞かれるまで言わないだけだ。

 

 車は国道に出た。東の空が少しずつ白んでくる。倉庫の並ぶ通りに入ると両側が背の高い壁になって、片側にだけ高架が走っている。コンクリートの橋脚が等間隔に並んで、その影が路面に縞を作っていた。この時間に走っている車はほとんどない。

 

 トラックが一台、対向車線を通り過ぎる。その次もトラック。三台目も。荷台に幌のかかった、同じ型の白いトラックだった。

 

 体を起こした。

 

「コンプレス」

 

「ああ」

 

 コンプレスの声はもう低くなっている。

 

「気づいているよ。対向車線に三台、全部同じ型だ」

 

「四台目が来た」

 

 道の先、二百メートルほど。路肩に車が止まっている。ハザードは点いていない。そのそばに人が立っている。二人。三人。

 

「――コンプレス」

 

「戻る」

 

 ハンドルが切られた。タイヤが鳴って車体が大きく振られる。後ろのバンも続いて曲がろうとする。

 

 その瞬間だった。

 

 破裂音が四回。体が前に投げ出されて、シートベルトが胸に食い込む。車が傾いて、ホイールが路面を擦る甲高い音を立てながら止まった。後ろで同じ音がする。焼けたゴムの匂いが車内に流れ込んできた。

 

 横から伸びてきたクラウディオの腕が、こちらの胸の前で止まっている。ベルトより先に体を受け止めるつもりだったらしい。

 

「全員無事か!」

 

 コンプレスが叫ぶ。

 

「……いってえ」

 

 スピナーが頭を押さえている。

 

「何だ今の。撃たれたのか?」

 

「タイヤだ」

 

 路面に細い針のようなものが散っている。金属ではない。半透明で、朝の光を通していて、アスファルトの割れ目から生えているように見える。

 

「……個性だ、路面から出してる。踏ませて割る気だ」

 

「降りるぞ!」

 

 コンプレスが扉を開けた。外の空気は冷たく、濡れたアスファルトと排気ガスの匂いがする。後ろのバンから死柄木たちが降りてきて、トガが飛び降りるなりすぐに低く身構えた。

 

 最後に降りて周囲を見る。

 

 前方に人が立っている。十人ほど。距離は百メートルを切っている。全員が同じ黒い上着を着て、顔の下半分を布で覆い、同じ間隔で並んでいた。足は止まっていない。濡れた路面を踏む靴音が揃っている。急がず隊列を崩さず、歩いてくる。

 

 先頭の男が短く何か言った。巻き舌の耳に馴染んだ響き。

 

「――スペイン語……」

 

 クラウディオが呟く。

 

「何て言ってんだ、あれ」

 

「配置につけ……と」

 

 配置。頭の中で繰り返す。

 

 ――囲む気か。

 

「荼毘!」

 

 死柄木が言った。

 

「散らせ」

 

「言われなくても!」

 

 荼毘の手から青い炎が噴き出した。道の幅いっぱいに走って先頭の数人を呑み込む。濡れたアスファルトから白い湯気が一斉に立ち上って、熱がこちらの頬まで届く。悲鳴が上がる。三人が倒れて、残りが左右に散った。速い。散り方が訓練されている。燃える仲間を誰も振り返らない。

 

「後ろよ!」

 

 マグネが叫んだ。振り返ると反対側にも人がいる。こちらは五人。もう五十メートルもない。

 

 マグネが手を突き出した。

 

「――極!」

 

 五人の中に一人だけ混じっていた女の構成員が、磁力に引かれて宙を飛ぶ。そのまま残りの四人の塊に突っ込んで、まとめて弾き飛ばした。人の体が路面を擦る音が響いて、五人が倒れる。一人も起き上がってこない。

 

「楽勝じゃん」

 

 トガが言った。

 

「この人達……なんか弱くないです?」

 

「……弱いわね」

 

 マグネが答えた。

 

「幹部じゃないのよ、これ」

 

 倒れている男を見下ろす。顔に見覚えはない。多分二十代で上着の下に防具を着けている。構成員だ。メキシコにいくらでもいる、名前も家格も持たない人間だった。

 

 ――こんなものを何人寄越した。

 

 背中が冷えた。

 

「……待て……全員止まれ」

 

「あ?」

 

 死柄木が振り返った。

 

「何だよ」

 

「数がおかしい」

 

 倒れている人間を指す。

 

「前に十人、後ろに五人。八人倒した。残りは七人のはずだ。……立ってる数が合わない」

 

 全員が周囲を見た。

 

 高架の上に人影がある。倉庫の屋根の上にも。路地の入口に、トラックの陰に、曲がり角の向こうに。どれも遠くて攻撃してこない。ただ立っている。黒い上着が白んできた空を背にして点々と並んでいて、吐く息だけがそれぞれの口元で白く揺れていた。

 

 さっきまで誰もいなかったはずの通りが、いつの間にか人で縁取られている。

 

「……いくつだ」

 

 スピナーが呟いた。

 

「三十……いや、もっといる」

 

「百はいるわね」

 

 マグネが言った。

 

 息を吐いて、頭の中で数を組み直す。

 

 ――違う。

 

 これは倒しに来ていない。倒す気なら最初から全員で来る。十人ずつ寄越して順番に潰される理由がない。あれはこちらの位置を確かめるために置かれた駒だ。

 

 そして今、こちらは車を失って道の真ん中に立っている。

 

「コンプレス、車は」

 

「タイヤが四本とも割れている。両方ともだ。……何台かビー玉にして持っておけばよかったかな」

 

「走れるか」

 

「無理だね」

 

 道の先で、散った連中がまた集まり始めている。燃えた者を引きずって下げて、代わりに後ろから新しい顔が出てくる。入れ替わっている。補充がある。

 

 ――そうか。

 

「……止めに来てるんだ」

 

「は?」

 

「こいつらは俺たちを倒す気がない。足を止めて位置を知らせる。それだけだ。倒しても意味がない。倒れた分だけ後ろから出てくる」

 

 誰も何も言わなかった。

 

「じゃあ何のために――」

 

 スピナーが言いかけて止まった。止まった理由は全員同じだ。足止めの先に何が来るのか。

 

 空を見上げる。夜が明けかけている。灰色の雲が低く垂れ込めて、高架の向こうで鳥が一羽だけ鳴いた。

 

 両側が倉庫の壁で、高架が一本。逃げ道は前か後ろの二つしかなく、その両方に人がいる。

 

 ――計算されてる。

 

「クラウディオ、この場所は」

 

「……よろしくない場所でございます」

 

 クラウディオが静かに言った。

 

「両側が塞がっております。上に出れば高架、下に降りれば水路。どちらも追う側には都合がよろしい」

 

「選ばれたってことか」

 

「はい」

 

 周囲を見回す。百人以上が動かずに立っている。誰も撃ってこないし近づいてもこない。高架の下を風が抜けていく音と、遠くのどこかで鳴っている踏切の音。それ以外に何も聞こえない。百人がいて、百人分の音がしない。ただ待っている。

 

 ――誰を。

 

 答えは一つしかなかった。

 

「全員、固まれ」

 

 死柄木が言った。声は落ち着いている。

 

「散るな。ここで散ったら終わりだ」

 

 九人が道の中央に寄る。その真ん中に立った。

 

 枠は三つある。一つは埋まっているから、使えるのは二つ。この人数に対して二つ。

 

 ――足りない。

 

 拳を握る。握った手が少しだけ震えていて、その震えを誰にも見られないように上着の裾で隠した。

 

 隣でクラウディオが一歩前に出た。

 

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