荷物は思ったより少なかった。九人分の私物を段ボール四つとバッグ数個にまとめて、それで終わりだ。家具は置いていく。買い直すほうが安い。
マグネが段ボールの口をガムテープで閉じていく音だけが、夜明け前の家に響いている。トゥワイスは箱を一つ抱えて玄関と居間を三往復して、三往復とも同じ箱を同じ場所に置き直していた。スピナーは小さなファイルを一冊だけ自分の鞄にしまって、それ以外は全部箱に任せている。荼毘の荷物は最初から上着のポケットに収まる分しかない。
最後に台所を覗くと、流しの上に鍋が一つだけ残っていた。底が黒く焦げついたまま、何度擦っても落ちなかった鍋だ。
「持っていくか」
「いえ」
クラウディオが答える。
「現地で買い直したほうが荷が減ります」
「あれは…焦がした鍋だろ」
「はい」
「……そうか」
それ以上は言わなかった。クラウディオも言わなかった。結局鍋は流しの上に置いたままになる。
玄関で靴を履きながら一度だけ振り返った。卓の木目も縁側の柱も消えたテレビの画面も、明日には誰のものでもなくなる。
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車は二台。
ワンボックスが一台と、少し古い型のバンが一台。コンプレスが三日で用意したもので、どちらも書類は通っている。ナンバーは隣の県のものに付け替えてあった。
「前の車が私とアルテミス君、荼毘、スピナー、それから執事殿だ」
コンプレスが指を折って数える。
「後ろが死柄木、マグネ、トガ、トゥワイス。運転は私とマグネで受け持とう」
「……なんで俺が後ろなんだよ」
死柄木が言った。
「頭が先頭車にいると、止められたときに全部持っていかれるからさ」
「……ふうん……まあいい。早く行くぞ」
死柄木はそれ以上文句を言わずにバンへ乗り込む。トガが跳ねるようにその後ろに続いて、トゥワイスが「狭え! 広え!」と叫びながら最後に押し込まれた。
出たのは朝の四時。
まだ暗い。夜のうちに降った雨で路面が濡れていて、街灯の光が細長く伸びている。エンジンの音がやけに大きく聞こえる。
二列目の窓際に座る。隣にクラウディオ、前の助手席に荼毘、後ろの列にスピナー。バックミラーの中で、バンのヘッドライトが一定の距離を保ってついてくる。
車が動き出してからしばらく誰も喋らない。暖房が効きはじめて窓が少し曇る。荼毘が助手席の窓をわずかに開けて、冷たい空気と一緒に煙草の煙を外へ逃がしていた。ワイパーが一度だけ動いて、フロントガラスの水滴を払う。
膝の上で地図を開く。県境までの道は三本。一番太い道は使わない。二番目の道は途中で高速の入口の前を通る。三番目は遠回りになるが、人の目が少ない。コンプレスが選んだのは二番目と三番目の間を縫う道で、悪くない選び方だった。
スピナーが窓に額をつけている。
「……なんか、あっけねえな」
「何がだ」
「いや。八斎會と組んでから、ずっとあそこにいたのにさ」
「三日で出られるなら上等だ。持っていくものが少ないってのは、そういうことだ」
「身も蓋もねえな」
「事実だ」
窓の外を工場の壁が流れていく。シャッターの下りた店、明かりの消えた自販機と誰もいないバス停。まだ人の姿はない。
――ここまでは想定通りだ。
あの男が商店街を潰してから四日。家の追加が来るにしても、まだ間がある。来るとすれば先に来るのは手続きの要らない者だけで、それは今この国にいる者に限られる。
三日。足のつかない車。夜明け前の出発。二台に分けて、頭を後ろに置いた。やれることは全部やった。あとは県を出るまでの数時間だけだ。
「執事殿」
運転席からコンプレスが声をかけた。
「地図は頭に入っているかね」
「はい」
「では、道が塞がれたら言ってくれ。私は正規のルートしか知らない」
「かしこまりました」
クラウディオの横顔を見る。この男はたぶん三通りか四通りの経路を持っていて、聞かれるまで言わないだけだ。
車は国道に出た。東の空が少しずつ白んでくる。倉庫の並ぶ通りに入ると両側が背の高い壁になって、片側にだけ高架が走っている。コンクリートの橋脚が等間隔に並んで、その影が路面に縞を作っていた。この時間に走っている車はほとんどない。
トラックが一台、対向車線を通り過ぎる。その次もトラック。三台目も。荷台に幌のかかった、同じ型の白いトラックだった。
体を起こした。
「コンプレス」
「ああ」
コンプレスの声はもう低くなっている。
「気づいているよ。対向車線に三台、全部同じ型だ」
「四台目が来た」
道の先、二百メートルほど。路肩に車が止まっている。ハザードは点いていない。そのそばに人が立っている。二人。三人。
「――コンプレス」
「戻る」
ハンドルが切られた。タイヤが鳴って車体が大きく振られる。後ろのバンも続いて曲がろうとする。
その瞬間だった。
破裂音が四回。体が前に投げ出されて、シートベルトが胸に食い込む。車が傾いて、ホイールが路面を擦る甲高い音を立てながら止まった。後ろで同じ音がする。焼けたゴムの匂いが車内に流れ込んできた。
横から伸びてきたクラウディオの腕が、こちらの胸の前で止まっている。ベルトより先に体を受け止めるつもりだったらしい。
「全員無事か!」
コンプレスが叫ぶ。
「……いってえ」
スピナーが頭を押さえている。
「何だ今の。撃たれたのか?」
「タイヤだ」
路面に細い針のようなものが散っている。金属ではない。半透明で、朝の光を通していて、アスファルトの割れ目から生えているように見える。
「……個性だ、路面から出してる。踏ませて割る気だ」
「降りるぞ!」
コンプレスが扉を開けた。外の空気は冷たく、濡れたアスファルトと排気ガスの匂いがする。後ろのバンから死柄木たちが降りてきて、トガが飛び降りるなりすぐに低く身構えた。
最後に降りて周囲を見る。
前方に人が立っている。十人ほど。距離は百メートルを切っている。全員が同じ黒い上着を着て、顔の下半分を布で覆い、同じ間隔で並んでいた。足は止まっていない。濡れた路面を踏む靴音が揃っている。急がず隊列を崩さず、歩いてくる。
先頭の男が短く何か言った。巻き舌の耳に馴染んだ響き。
「――スペイン語……」
クラウディオが呟く。
「何て言ってんだ、あれ」
「配置につけ……と」
配置。頭の中で繰り返す。
――囲む気か。
「荼毘!」
死柄木が言った。
「散らせ」
「言われなくても!」
荼毘の手から青い炎が噴き出した。道の幅いっぱいに走って先頭の数人を呑み込む。濡れたアスファルトから白い湯気が一斉に立ち上って、熱がこちらの頬まで届く。悲鳴が上がる。三人が倒れて、残りが左右に散った。速い。散り方が訓練されている。燃える仲間を誰も振り返らない。
「後ろよ!」
マグネが叫んだ。振り返ると反対側にも人がいる。こちらは五人。もう五十メートルもない。
マグネが手を突き出した。
「――極!」
五人の中に一人だけ混じっていた女の構成員が、磁力に引かれて宙を飛ぶ。そのまま残りの四人の塊に突っ込んで、まとめて弾き飛ばした。人の体が路面を擦る音が響いて、五人が倒れる。一人も起き上がってこない。
「楽勝じゃん」
トガが言った。
「この人達……なんか弱くないです?」
「……弱いわね」
マグネが答えた。
「幹部じゃないのよ、これ」
倒れている男を見下ろす。顔に見覚えはない。多分二十代で上着の下に防具を着けている。構成員だ。メキシコにいくらでもいる、名前も家格も持たない人間だった。
――こんなものを何人寄越した。
背中が冷えた。
「……待て……全員止まれ」
「あ?」
死柄木が振り返った。
「何だよ」
「数がおかしい」
倒れている人間を指す。
「前に十人、後ろに五人。八人倒した。残りは七人のはずだ。……立ってる数が合わない」
全員が周囲を見た。
高架の上に人影がある。倉庫の屋根の上にも。路地の入口に、トラックの陰に、曲がり角の向こうに。どれも遠くて攻撃してこない。ただ立っている。黒い上着が白んできた空を背にして点々と並んでいて、吐く息だけがそれぞれの口元で白く揺れていた。
さっきまで誰もいなかったはずの通りが、いつの間にか人で縁取られている。
「……いくつだ」
スピナーが呟いた。
「三十……いや、もっといる」
「百はいるわね」
マグネが言った。
息を吐いて、頭の中で数を組み直す。
――違う。
これは倒しに来ていない。倒す気なら最初から全員で来る。十人ずつ寄越して順番に潰される理由がない。あれはこちらの位置を確かめるために置かれた駒だ。
そして今、こちらは車を失って道の真ん中に立っている。
「コンプレス、車は」
「タイヤが四本とも割れている。両方ともだ。……何台かビー玉にして持っておけばよかったかな」
「走れるか」
「無理だね」
道の先で、散った連中がまた集まり始めている。燃えた者を引きずって下げて、代わりに後ろから新しい顔が出てくる。入れ替わっている。補充がある。
――そうか。
「……止めに来てるんだ」
「は?」
「こいつらは俺たちを倒す気がない。足を止めて位置を知らせる。それだけだ。倒しても意味がない。倒れた分だけ後ろから出てくる」
誰も何も言わなかった。
「じゃあ何のために――」
スピナーが言いかけて止まった。止まった理由は全員同じだ。足止めの先に何が来るのか。
空を見上げる。夜が明けかけている。灰色の雲が低く垂れ込めて、高架の向こうで鳥が一羽だけ鳴いた。
両側が倉庫の壁で、高架が一本。逃げ道は前か後ろの二つしかなく、その両方に人がいる。
――計算されてる。
「クラウディオ、この場所は」
「……よろしくない場所でございます」
クラウディオが静かに言った。
「両側が塞がっております。上に出れば高架、下に降りれば水路。どちらも追う側には都合がよろしい」
「選ばれたってことか」
「はい」
周囲を見回す。百人以上が動かずに立っている。誰も撃ってこないし近づいてもこない。高架の下を風が抜けていく音と、遠くのどこかで鳴っている踏切の音。それ以外に何も聞こえない。百人がいて、百人分の音がしない。ただ待っている。
――誰を。
答えは一つしかなかった。
「全員、固まれ」
死柄木が言った。声は落ち着いている。
「散るな。ここで散ったら終わりだ」
九人が道の中央に寄る。その真ん中に立った。
枠は三つある。一つは埋まっているから、使えるのは二つ。この人数に対して二つ。
――足りない。
拳を握る。握った手が少しだけ震えていて、その震えを誰にも見られないように上着の裾で隠した。
隣でクラウディオが一歩前に出た。