一歩前に出るのに理由は要らなかった。
九年そうしてきた坊ちゃんが立ち止まれば私も立ち止まり、坊ちゃんの前に人が立てば、その間に入る。執事協会で最初に叩き込まれるのは作法でも語学でもなく、立ち位置だ。主の前に立つというのは、最初に死ぬ場所に立つということでしかない。
倉庫の壁に挟まれた道に百人以上が立っている。誰も動かず、誰も撃たず、ただこちらを見ている。夜明けの手前の灰色の光で、顔の輪郭だけがぼんやりと並んでいた。
知らない顔ばかりだ。家の者ではない。血を選ばれた人間の目には、どこか同じ濁り方がある。この者たちの目にはそれがない。どこかで金を積まれて集められた人間だ。
それでも並び方だけは正しかった。
前が四十、後ろが二十、高架の上と屋根に残り。逃げ道の両端が厚く側面が薄い。薄いところに逃げればそこが水路の出口になる。
――教えた者がいる。
この配置を組んだのは、この者たちではない。
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前方の列が割れた。
押し合うでもなく命じられるでもなく、水が引くように左右に開いて道ができた。
その道を一人歩いてくる。
黒いシルクハットと黒い外套に、灰色の襟。踵の低い靴。背は高くない。歩き方に軍人の癖がなく、書類を持ち慣れた人間の歩き方をしている。
顔は知っていた。
議場の壁際にいつも立っていた人だ。席に座るのではなく、席の後ろに立って数字を読み上げる役目。名をバルバラ様という。商いと血液の系統の家の方で、家の当主になられたのは確か三年ほど前だ。
一度も口をきいたことはない
執事は席持ちの方と口をきかない。用があれば主を通す。九年で一度もなかったということは、この方が坊ちゃんに直接の用を持ったことが一度もなかったということだ。
その方が今日は自分の足で来ている。
私の隣で坊ちゃんが息を吸うのがわかった。
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バルバラ様は五歩ほど手前で止まった。
そして頭を下げた。
深く。腰から折る、家の者が当主に向けてする角度で。
一拍遅れて背後の列が動いた。
四十が下げ、その後ろの列が下げ、高架の上の影が下げ、倉庫の屋根の上が下げた。波が伝わるように、後ろへ後ろへと広がっていく。百人を超える人間が同じ角度で頭を下げていた。
音がなかった。
足音も衣擦れも、咳一つない。それだけの人数が動いたのに、聞こえるのは遠くの国道を走る車の音だけだった。
「……なにこれ」
トガ様が小さく言った。
「気持ち悪ぃな……おい…なんだこれ」
スピナー様の声には、はっきりと怯えがあった。
無理もない。倒しに来た人間が、同じ顔で礼を尽くしている。理屈が通らないように見えるだろう。
私には通って見えた。
この方々は坊ちゃんを次の当主として扱っている。器は欠けさせられない。だから連れ帰る。連れ帰る相手に礼を欠けば、それは家の恥になる。
殺しに来ていないのだ、この者たちは。
だから頭を下げられる。
――そういう組織だ。
私もその中で九年を過ごした。
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バルバラ様が顔を上げた。
「アルテミス様」
声は高くも低くもなく、よく通った。
「お迎えに上がりました」
坊ちゃんは、何も言わなかった。
「アポロ様より
わずかに口元が動いた。笑ったのではなく、言い終えた印のような動き方だった。
「本来であれば当主自らお越しになるところです。ですが…当主はメキシコを離れられません。離れれば席も組織も揺れます、そのあたりは……アルテミス様のほうがよくご存じかと」
坊ちゃんはやはり何も言わなかった。
「アイタナ様からも、預かっております」
その名が出た瞬間、坊ちゃんの肩がほんのわずかに動いた。
気づいたのはおそらく私だけだ。
「言伝はございません。何も仰いませんでしたので」
バルバラ様は、淡々と続けた。
「ただ……ずっと泣いておられます。家出されてからずっとです……食事の量が落ちておりますし、家の者が何度か医者を呼んでおります…当家の者がついておりますので、数字は把握済みでございます」
風が道を抜けていった。
「あの方は……アルテミス様を愛しておられますよ」
バルバラ様はそう言った。
脅しではなかった。この方は脅しを使わない。使う必要がないからだ。事実を並べて相手の帳簿に数字が立つのを待つ。それがこの方の仕事の仕方だと議場で何度も見ている。
そしてその数字は正しかった。
アイタナ様は、本当に泣いておられるはずだ。あの方は本気だった。九年のうちの最後の一年、私は何度もあの方を見ている。坊ちゃんの部屋の前で足を止めては、結局入らずに帰っていかれた。
あの方の家がしたことと、あの方がしたかったことは、別のものだった。
――ただ、それは。
私は坊ちゃんの横顔を見た。
動いていなかった。
目も、口元も、指先も。バルバラ様が並べた数字は、坊ちゃんの帳簿の上では一行も動いていない。
当たり前だ。
坊ちゃんにとってあの婚約は監視そのものだった。部屋に人が入り、同行がつき、何時に寝たかまで記録された四か月。飯の味がしなくなり数字が読めなくなった四か月。その中心に、あの方の家がいた。
坊ちゃんは……好意というものをうまく受け取れない。
人が自分に向ける熱を、坊ちゃんは全部同じ棚に入れてしまわれる。値踏みも、執着も、愛情も。区別がつかないのではなく
区別する必要を感じたことがないのだと思う。あの家では、どれも同じ結果しか生まなかったからだ。
だから、あの方の涙は届かない。
九年見てきてそれだけはわかる。
そして私は、届かなかったことに――
息をひとつ吐いて……それ以上は考えない。
バルバラ様の目がわずかに細くなった。
外れたと判断したのだ。この方は自分の手が空を切ったとき、粘らない。次の勘定に移る。
そして、こちらを見た。
「クラウディオ」
敬称はなかった。
当然だ。席を持つ家の者が執事に敬語を使えば、その執事の立場が悪くなる。家の者に注意されて周りの執事に角が立つ。だから使わない。守るために崩さない。
子どもの頃から刷り込まれる作法だ。
九か月ぶりに、私は正しい形で呼ばれた。
裏切り者として罵られるのではなく、行方をくらました執事としてでもなく、ただ名を呼ばれた。まだ内側の人間として扱われているということだ。
それがどういう意味かもわかっている。
「坊ちゃんと帰るんだな、クラウディオ」
バルバラ様は、事務の口調で言った。
「先に言っておくけどね、君は確実に死ぬ」
「……」
「協会の預かりにはならない。当家が引き取って、そちらで処分する。時期も場所も、もう決まっている。逃げ場はないと思ってくれていい」
知っている。
港で船を降りた日から、その算段は私の中で終わっている。
今までの日々を、私はそのつもりで組み立ててきた。
「……ただし」
バルバラ様は続けた。
「執事協会の未来は守られる。執事長の首は飛ばないし、解体もない。当家が保証する。当主の署名も取ってある」
それも知っている。
協会は坊ちゃんに、最高の執事をつけた側であって、逃がした側ではない。逃がしたのは私一人、だから私一人で足りる。足りるようにしてきた。
この方は取引として成立していると思っている。
実際半分は成立している。
「君の取り分は………それで全部だ」
バルバラ様は言った。
「悪い話じゃないだろう」
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悪い話ではない。
九年間、私は数字で物を考えてきた。坊ちゃんの脱出費用を三か所に分け、身分証の手配先を二つ押さえ、私がいなくなった後に手順だけで回るよう逆算してきた。
その私の帳簿で計算しても、この取引は通る。
私が帰れば協会は残る。坊ちゃんも家に帰られる。追われることもなくなり、あの方の家は席を失わずに済み、アポロ様は当主の座を保たれる。
道理は全部向こうにある。
断る理由は、一つしかない。
その一つを私は口にしたことがない。九年一度も。
坊ちゃんに言えば、坊ちゃんは私を帰さなくなる。帰さなくなれば、坊ちゃんの逃げ道が一つ減る。
だから言わない。
言わないまま、私は口を開いた。
――何を言うつもりだったのか。
「かしこまりました」だったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。
声になる前に遮られた。
「……クラウディオ」
私の声ではない。
バルバラ様の声でもない。
後ろだった。
死柄木様が、そこに立っていた。
こちらを見ていた。バルバラ様でも坊ちゃんでもなく、私を見ていた。
「行くんじゃねぇよ」
それだけだった。
この方は理由を言わない、あの夜も同じだ。なぜ坊ちゃんを置くのかと問われて、「俺の連合だ」としか言わなかった、それで終わりにしてしまう方だ。
私は動けなかった。
名を呼ばれること自体は、たった今もあった。バルバラ様は作法どおりに呼んだ。家の内側に置かれた執事の名として。
協会にいた頃は番号で呼ばれた。あの家では「坊ちゃんの執事」で通った。名を口にされるときは、いつも作法の中だった。作法の外で私の名を呼ぶのは、九年のあいだ坊ちゃんだけだった。
この方は今日まで私を「執事」としか呼ばなかった。
一度も名を呼ばなかった方が、今……呼んだ。家の作法でも、協会の番号でもない、ただの名として。
それだけのことで、私の中の帳簿が一列ずれた。
――計算が合わなくなる。
帰る理由は全部残っている。協会も、坊ちゃんの安全も、道理も。
なのに口が動かない。
「……」
バルバラ様が、死柄木様を見た。
初めてこの方の顔から事務の色が消えた。値踏みでも、計算でもない。ただ理解できないものを見る顔だった。
この方の帳簿には、その一行が載っていない。
「……なぜ」
バルバラ様が、口を開いた。
「そいつを引き止める理由が、君に――」
熱が走った。
言葉が終わる前に右手の列が炎に飲まれていた。
荼毘様だ、話を聞いてもいなかったのだろう。バルバラ様が息を吸った時点で、もう手を上げていた。
「うるせえんだよ」
青い火が、道の右半分を舐めた。
悲鳴が上がり列が崩れる。頭を下げていた人間が一斉に顔を上げ、そこで初めて、この場は戦場になった。
「前だ!」
死柄木様が動いた。
前方の列に飛び込み、立ち塞がった三人に手を触れる。触れた端から、輪郭が崩れて散った。崩壊は速い。悲鳴を上げる暇さえない。
「トゥワイス!先頭!」
「え、俺!?俺無理だって!任せろ任せろ!」
「いいから走んなさい!」
マグネ様がトゥワイス様の背を叩いた。
同時に、崩れた列の中から立ち上がりかけた男に手を伸ばす。
極性が乗った。
トゥワイス様が走り出す。前に立った男が、触れてもいないのに後ろへ弾き飛ばされた。同じ極は近づけない。その隣の男が伸ばした手も、同じように弾かれる。
道が、割れた。
トゥワイス様が先頭を走り、触れる前に人が飛んでいく。その後ろを、九人が走った。
「坊ちゃん!」
私は坊ちゃんの腕を取って、走った。
背中に熱があり前に道があった。水路側の薄いところは、初めから囮だ。だから真正面を抜ける。
高架の上で、誰かが叫んでいた。
追う声ではない、命令を求める声だった。屋根の上で、何人かが銃を構えかけているのが見える。
その声を、後ろからもう一つの声が叩き伏せた。
「
バルバラ様の声だった。議場で数字を読み上げていたときと同じ、よく通る声。ただ、あのときより少しだけ速い。
「
撃つな 止まれ 若に誰も触れるな。
屋根の上の銃口が一斉に下がった。崩れた列から立ち上がりかけた男たちが、伸ばしかけた手を引っ込める。前を塞ぐ者も、背を追う者も、もういない。
当然だ。この乱戦で一発でも撃てば、どこに当たるかわからない。ここで坊ちゃんに傷がつけば、この方の家の席が飛ぶ。
逃がしたのではない。撃てないだけだ。
それでも今は足りる。
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朝の光の中に、白いトラックが止まっている。さっき対向車線を走っていたのと同じ型の、幌のかかった荷台。一台ではない。次の交差点にも、その次の交差点にも、同じ白が等間隔に置かれている。県境へ向かう方角ほど間隔が詰まっていた。橋のたもとには黒い上着が三人。河川敷へ下りる階段の上にも二人。
どれも動かない。こちらを見てもいない。ただ、そこにいる。
――追ってこないのではない。
追う必要がないのだ。
さっきの道は網の一つの結び目にすぎなかった。結び目を一つ抜けても、網の中にいることに変わりはない。バルバラ様が撃たせなかったのは、坊ちゃんに当たるからだけではない。撃たなくても、この街から出られないことを知っているからだ。
道は抜けた。街は、抜けていない。
息を整えながら、私は気づいた。
――私はまだ何も答えていない。
バルバラ様の言葉に、私は一言も返していない。受けるとも、断るとも言っていない。
口を開きかけて、遮られただけだ。
だから、答えは今も宙に浮いたままになっている。
九年……私は自分の始末を自分でつけてきた。手紙も、金も、身分証の手配も、全部一人で決めた。誰かに決めてもらったことは一度もない。
今日初めて決めずに済んだ。
それがどういう気分なのか。
しばらく名前のつけようがなかった。