一歩前に出るのに、理由は要らない。
九年そうしてきた。坊ちゃんが立ち止まれば私も立ち止まり、坊ちゃんの前に人が立てば、その間に入る。執事協会で最初に叩き込まれるのは作法でも語学でもなく、立ち位置だ。主の前に立つというのは、最初に死ぬ場所に立つということでしかない。
倉庫の壁に挟まれた道に、百人以上が立っている。誰も動かず、誰も撃たず、ただこちらに目を向けているだけだ。
「……多くね?」
スピナー様の声が、いつもより高い。
「百人はいるぞ!そんなにいねぇよ!二百だ!」
「前が大体四十……後ろが二十で高架と屋根に残り」
坊ちゃんが数え終える。声は平らだ。
「両端が厚くて横が薄い。横に逃げれば水路に出る」
「じゃあ横だろ」
「横は囮だ」
死柄木様が首を掻く手を止めた。
知らない顔ばかりだ。家の者ではない。血を選ばれた人間の目には、どこか同じ濁りが宿るものだ。この者たちの目にはそれがない。どこかで金を積まれて集められた人間だろう。それでも、並び方だけは正しい。この配置を組んだのは、この者たちではない。教えた者がいる。
前方の列が割れた。
押し合うでもなく命じられるでもなく、水が引くように左右に開いて道ができる。その道を、一人だけが進む。黒いシルクハットと黒い外套に、灰色の襟。小柄な方だ。歩き方に軍人の癖がなく、書類を持ち慣れた人間の歩き方だ。
「……誰だあれ?」
「バルバラ」
坊ちゃんが短く答える。
「家の商売担当だ」
議場の壁際にいつも立っていた方だ。席に座るのではなく、席の後ろに立って数字を読み上げる役目。商いと血液の系統の家で、当主になられたのは確か三年ほど前。一度も口をきいたことはない。執事は席持ちの方と口をきかないものだ。用があれば主を通す。一度もなかったということは、この方が坊ちゃんに直接の用を持ったことが、一度もなかったということだ。その方が今日は、自分の足でここまで来た。
坊ちゃんが息を吸うのが、隣から伝わってくる。
バルバラ様は五歩ほど手前で止まった。
そして、頭を下げる。
深く。腰から折る、家の者が当主に向けてする角度で。
遅れて、背後の列が動き出す。
四十が下げ、その後ろの列が下げ、高架の上の影が下げ、倉庫の屋根の上が下げる。波が伝わるように、後ろへ後ろへと広がっていく。百人を超える人間が、同じ角度で頭を下げている。
無音だ。足音も衣擦れも、咳一つない。それだけの人数が動いたのに、聞こえるのは遠くの国道を走る車の音だけだ。
「……なにこれ」
トガ様が小さく呟く。
「気持ち悪ぃな……おい……なんだこれ」
スピナー様の声に、はっきりと怯えが滲む。
無理もない。倒しに来た人間が、同じ顔で礼を尽くしている。理屈が通らないように見えるだろう。
私にとっては、筋の通った話だ。
この方々は坊ちゃんを、次の当主として扱っている。器は欠けさせられない。だから連れ帰る。連れ帰る相手に礼を欠けば、それは家の恥になる。
殺しに来ていないのだ、この者たちは。だから頭を下げられる。そういう組織で、私も育った。
バルバラ様が顔を上げた。
「アルテミス様」
高くも低くもない、よく通る声だ。
「お迎えに上がりました」
坊ちゃんは、何も言わない。
「アポロ様より
口元が動く。笑ったのではなく、言い終えた印のような動き方だ。
「本来であれば当主自らお越しになるところです。ですが……当主はメキシコを離れられません。離れれば席も組織も揺れます。そのあたりは……アルテミス様のほうがよくご存じかと」
坊ちゃんはやはり、黙したままだ。
「アイタナ様からも、預かっております」
その名が出た瞬間、坊ちゃんの肩が動いた。気づいたのは、おそらく私だけだ。
「言伝はございません。何も仰いませんでしたので」
バルバラ様は、淡々と言葉を継ぐ。
「ただ……ずっと泣いておられます。家出されてからずっとです……食事の量が落ちておりますし、家の者が何度か医者を呼んでおります……当家の者がついておりますので、身体は把握済みでございます」
風が道を抜けていく。
「あの方は……アルテミス様を愛しておられますよ」
バルバラ様はそう言い添えた。
脅しではない。この方は脅しを使わない。使う必要がないからだ。事実を並べて、相手の帳簿に数字が立つのを待つ。それがこの方の仕事の仕方だと、議場で何度も見ている。
そしてその数字は正しい。アイタナ様は、本当に泣いておられるはずだ。あの方は本気だった。最後の一年、私は何度もあの方を見ている。坊ちゃんの部屋の前で足を止めては、結局入らずに帰っていかれた。
あの方の家がしたことと、あの方がしたかったことは、別のものだった。
坊ちゃんの横顔を窺う。動いていない。目も、口元も、指先も。バルバラ様が並べた数字は、坊ちゃんを一行も動かしていない。当たり前だ。
坊ちゃんにとって、あの婚約は監視そのものだった。部屋に人が入り、同行がつき、何時に寝たかまで記録された四か月。飯の味がしなくなり、数字が読めなくなった四か月。その中心に、あの方の家がいた。
坊ちゃんは……好意というものをうまく受け取れない。
人が自分に向ける熱を、坊ちゃんは全部同じ棚に入れてしまわれる。値踏みも、執着も、愛情も。区別がつかないのではなく、区別する必要を感じたことがないのだと思う。あの家では、どれも同じ結果しか生まなかったからだ。
だから、あの方の涙は届かない。見てきたからわかる。
そして私は、届かなかったことに――
息をひとつ吐いて、それ以上は考えない。
バルバラ様の目が細くなる。
外れたと判断したのだろう。この方は自分の手が空を切ったとき、粘らない。次の勘定へと移っていく。
そして、目がこちらへ移る。
「クラウディオ」
敬称はない。当然だ。席を持つ家の者が執事に敬語を使えば、その執事の立場が悪くなる。家の者に注意されて、周りの執事に角が立つ。だから使わない。守るためにこそ崩さない。子どもの頃から刷り込まれる作法だ。
私は正しい形で呼ばれた。裏切り者として罵られるのではなく、行方をくらました執事としてでもなく、ただ名を呼ばれた。まだ内側の人間として扱われているということだ。
それがどういう意味かも、わかっている。
「坊ちゃんと帰るんだな、クラウディオ」
バルバラ様の口調は、事務のそれだ。
「先に言っておくけどね、君は確実に死ぬ」
「……」
「協会の預かりにはならない。当家が引き取って、そちらで処分する。時期も場所も、もう決まっている。逃げ場はないと思ってくれていい」
知っている。港で船を降りた日から、その算段は私の中で終わっている。今までの日々を、私はそのつもりで組み立ててきた。
「……ただし」
バルバラ様の言葉が続く。
「執事協会の未来は守られる。執事長の首は飛ばないし、解体もない。当家が保証する。当主の署名も取ってある」
それも承知の上だ。協会は坊ちゃんに最高の執事をつけた側であって、逃がした側ではない。逃がしたのは私一人だ。だから、私一人で足りる。足りるようにしてきた。
この方は、取引として成立していると思っているのだろう。
実際、半分は成り立つ取引だ。
「君の取り分は………それで全部だ」
バルバラ様が言う。
「悪い話じゃないだろう」
悪い話ではない。私は数字で物を考えてきた。坊ちゃんの脱出費用を四か所に分け、身分証の手配先を二つ押さえ、私がいなくなった後に手順だけで回るよう逆算してきた。
その私の計算でも、この取引は通ってしまう。
私が帰れば、協会は潰れずに済む。坊ちゃんも家へ帰られ、追われることもなくなる。あの方の家は席を失わずに済み、アポロ様も当主の座を保たれるだろう。
道理は、全部向こうのものだ。断る理由は一つしかない。その一つを私は口にしたことがない。一度も。
坊ちゃんに言えば、坊ちゃんは私を帰さなくなる。帰さなくなれば、坊ちゃんの逃げ道が一つ消えてしまう。
だから言わない。言わないまま、私は口を開いた。
――何を言うつもりだったのか。
「かしこまりました」だったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。
声になる前に、遮られた。
「……クラウディオ」
私の声ではない。
バルバラ様の声でもない。
後ろからだ。
死柄木様がそこに立っている。
目がこちらを向く。バルバラ様でも坊ちゃんでもなく、私をだ。
「行くんじゃねぇよ」
それきりだ。この方は理由を言わない。あの夜も同じだ。なぜ坊ちゃんを置くのかと問われて、「俺の連合だ」としか言わなかった。それで終わりにしてしまう方だ。
私は動けない。名を呼ばれること自体は、たった今もあった。バルバラ様は作法どおりに呼んだ。家の内側に置かれた執事の名として。
協会にいた頃は番号で呼ばれていた。あの家では「坊ちゃんの執事」で通る。名を口にされるときは、いつも作法の中だ。作法の外で私の名を呼ぶのは、坊ちゃんだけだった。
この方も今日まで、私を「執事」としか呼ばなかった。
一度も名を呼ばなかった方が、今……呼んだ。家の作法でも、協会の番号でもない、ただの名として。
それだけのことで、私の中の帳簿が一列ずれていく。計算が合わない。帰る理由は全部残っている。協会も、坊ちゃんの安全も、道理も。
なのに、口が動かない。
「……」
バルバラ様の目が、死柄木様に向く。
この方の顔から、事務の色が消えた。値踏みでも、計算でもない。ただ理解できないものを見る顔だ。
「……なぜ」
バルバラ様が口を開く。
「そいつを引き止める理由が、君に――」
熱が走った。
言葉が終わる前に、右手の列はもう炎の中だ。
荼毘様だ。話を聞いてもいなかったのだろう。バルバラ様が息を吸った時点で、もう手を上げていた。
「うるせえんだよ」
青い火が、道の右半分を舐めていく。
悲鳴が上がり、列が崩れる。頭を下げていた人間が一斉に顔を上げ、そこで、この場は戦場になった。
「前だ!」
死柄木様が動く。
前方の列に飛び込み、立ち塞がった三人に手を伸ばす。触れた端から、輪郭が崩れて散っていく。崩壊は速い。悲鳴を上げる暇さえない。
「トゥワイス!先頭!」
「え、俺!?俺無理だって!任せろ任せろ!」
「いいから走んなさい!」
マグネ様がトゥワイス様の背を叩く。
同時に、崩れた列の中から立ち上がりかけた男に手を伸ばす。
極性が乗る。
トゥワイス様が走り出す。前に立った男が、触れてもいないのに後ろへ弾き飛ばされた。同じ極は近づけない。その隣の男が伸ばした手も、同じように弾かれる。
道が、割れた。
トゥワイス様が先頭を走り、触れる前に人が飛んでいく。残りの者がその後ろに続く。
「坊ちゃん!」
私は坊ちゃんの腕を取って、駆け出した。
背中に熱があり、前に道がある。水路側の薄いところは、初めから囮だ。抜けるなら真正面だ。
高架の上で、誰かが叫んでいる。
追う声ではない。命令を求める声だ。屋根の上で、何人かが銃を構えかけているのが見える。
その声を、後ろからもう一つの声が叩き伏せた。
「
バルバラ様の声だ。議場で数字を読み上げていたときと同じ、よく通る声。ただ、あのときより少しだけ速い。
「
撃つな 止まれ 若に誰も触れるな。
屋根の上の銃口が、一斉に下がった。崩れた列から立ち上がりかけた男たちが、伸ばしかけた手を引っ込める。前を塞ぐ者も、背を追う者も、もういない。
撃てるはずがない。この乱戦で一発でも撃てば、どこに当たるかわからない。ここで坊ちゃんに傷がつけば、この方の家の席が飛ぶ。逃がしたのではなく、撃てないだけだ。
坊ちゃんの腕を引いたまま、角を曲がる。
朝の光の中に、白いトラックが止まっている。さっき対向車線を走っていたのと同じ型の、幌のかかった荷台。一台ではない。次の交差点にも、その次の交差点にも、同じ白が等間隔に並ぶ。県境へ向かう方角ほど、間隔が詰まっていく。橋のたもとには黒い上着が三人。河川敷へ下りる階段の上にも二人。
どれも動かない。こちらを見てもいない。ただ、そこにいる。
――追ってこないのではない。
追う必要がないのだ。
さっきの道は、網の一つの結び目だった。結び目を一つ抜けても、網の中にいることに変わりはない。バルバラ様が撃たせなかったのは、坊ちゃんに当たるからだけではないのだろう。撃たなくても、この街から出られないことを知っているからだ。
道は抜けた。街は抜けていない。
息を整えながら、ふと気づく。
――私はまだ何も答えていない。
バルバラ様の言葉に私は一言も返していない。受けるとも、断るとも言っていない。
口を開きかけて遮られただけだ。
だから……答えは今も宙に浮いたままだ。
私は自分の始末を自分でつけてきた。手紙も、金も、身分証の手配も、全部一人で決めた。誰かに決めてもらったことは、一度もない。
今日初めて決めずに済んだ。
手袋をはめ直す。右を直してから左を直して、もう一度右を直した。