旧市街の朝は遅い。
シャッターの降りたアーケードに配達の自転車が一台だけ止まっている。天井から吊られた看板は色が抜け、もうどの店のものかもわからない。人通りはまだない。そのかわりに角を二つ曲がるたびに背中の視線が一つずつ増えていくのが、マグネにははっきりわかった。
前を歩いているのはアルテミスの姿をしたトガで、その半歩後ろに執事。マグネは二歩下がって肩の巨大磁石を担ぎ直した。
見られているのは自分じゃない。あの二人の背中だ。執事が付いている子が本物だと、向こうの人間なら誰でもそう考える。だからこの組が一番よく見られている。そういう作戦でそういう配置だった。わかっていても、背中がむずむずする。
「……クラウディオ」
アルテミスの声だった。高さも、平たさも語尾の切り方も。
「……なんでございましょう」
「腹が減った」
「……もう少々…ご辛抱を」
「冗談だ」
アルテミスの顔のまま声だけが少し落ちた。
「……ねえ、今の似てた?」
「半分ほど」
「えー……執事さん、今ちょっと困ったでしょ!」
「……いいえ」
「嘘だぁ!」
マグネは思わず吹き出した。似てないのは台詞の中身だけで、ほかは気味が悪いくらいそっくりだった。狭いのに遅くない歩幅。曲がり角の手前で右の壁にちらっとやる目。すれ違うときに肩を引かないで、半身を切る動き。あの子ほんとにこう歩くのよね。いつの間にそんなとこまで見てたのかしらこの子。
アーケードの切れ目で背後の足音がまた一つ増えた。あの子の形をした手が上着の裾に入って、指先を布に押しつけたままじっとさせている。
その瞬間、執事の足が半拍だけ遅れた。何に引っかかったのか、マグネにはわからなかった。
「トガ様……その手は」
「アルテミスくん、こうするでしょ?怖いとき」
トガは前を向いたまま、当たり前みたいにそう言った。執事は何も言わない。マグネから見えるのは、いつもどおりの真っ直ぐな背中だけだった。
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アーケードの出口に、男が一人立っていた。
灰色の背広で体格の良い男、肩に、四メートルはある鉄の柄が載っていて、先に人の頭ほどの鉄塊がついている。担いでるっていうより、柱に肩を貸してるみたいな持ち方だった。背後に十人。左右の路地にも影が動いている。
――あら……やだ。
マグネは男の立ち方を見て、口の中で呟いた。重心がどこにも偏っていない。十人を連れているのに、十人のほうを一度も振り返らない。こういう男は無駄なことを一つもしない。
男はまず、アルテミスの形をしたトガに向かって深く頭を下げた。それから顔を上げて、執事を見た。
「三十七番……」
執事の指が一度だけ止まった。
「……なにそれ」
マグネは小声で訊いた。
「協会の名簿の番号です」
執事は男から目を離さずに答えた。
「名を……いただく前の」
それ以上は何も言わなかった。
「若をこちらへ……渡せ」
「お断りいたします」
「そうか…だが変わらん」
怒りも驚きもない声だった。
「お前が若を連れ出した。だからお前を処分する。若に罪はない。筋は……それだけだ」
「存じております」
「なら話は早い…ここで殺さずに、処分は家でやる。それが筋だ」
「……存じております」
同じ答えを二度返して執事は半歩下がった。マグネは横目でそれを見た。この男が後ろに下がるところを、初めて見た。あの子の前に出るところなら何度も見てきたのに。
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「あの人とあんた。両方男よね」
「はい」
「じゃ、仲良くしてもらいましょ」
マグネは鉄の塊を肩から下ろした。個性を乗せる。男二人に同じ極を。空気がかすかに鳴った。
灰色の男が一歩踏み出すと、二人のあいだの空気が押し返す。二歩目で男の革靴が石畳の上を滑った。前へ出た分だけ、後ろへ戻される。男は足を止めた。自分の靴先と執事を見て、それからマグネを見た。
目が合った。
――バレた。
一秒もかからなかった。男は鉄の柄を部下に預け、背広の内側に手を入れると、出てきたのは拳銃だった。磁力が乗るのは人だけで、鉛の弾には乗らない。やっぱり、無駄なことを一つもしない男だった。
「伏せて!」
叫んだのと執事がトガの頭を抱え込んだのが同時だった。
銃声がアーケードの天井に跳ねる。弾はマグネの足元の石畳を削って、トガのほうには一発も飛んでこない。あの子の顔をしてる限り、撃てないのだ。
執事は、もうトガの真後ろに体を入れていた。袖口から糸が走る。左から来た男の足首に一本、右の男の手首に一本。二人が石畳に転がる。三人目の喉元に届いた糸を、別の男が素手で掴んで引きちぎった。
数が違いすぎる。
「下!」
マグネは顎で地下街の階段を示した。三人で駆け下りる。振り向きざまに磁石を振って、追ってきた二人を階段の上へ弾き返した。
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地下街は薄暗かった。天井の蛍光灯が半分だけ点いて、閉じたシャッターが両側にどこまでも並んでいて、奥が小さな広場になっている。湿った空気に古い油の匂いが混じっていた。
二つ目の角を曲がったところで、上着の中で電話が震えた。
『ふたつとも持ってかれた!!持ってかれてねぇ!!』
トゥワイスだった。
「……ってことは、持ってかれたのね」
マグネはアルテミスの姿のトガを見た。
「トガちゃん」
「あぁ…」
アルテミスの声が、少しだけ弾んだ。
「出番だね」
マグネは脇に抱えていた包みを握り直した。トガの着替えだ。これを渡すのが、今日のあたしのいちばん大事な仕事だったりして、と思った。
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トガは自分の足で広場へ戻っていった。ちょうど、灰色の男が階段を下りてきたところだった。
アルテミスの形をしたものが、その正面で立ち止まる。男がわずかに目を細めた。その目の前で、輪郭が崩れた。背が伸びて、髪の色が戻って、顔の骨が組み変わっていく。アルテミスの声が途中で高く裏返った。
「あっ!」
トガの声だった。
「ごめぇん!時間切れちゃった」
舌を出して、困ったように笑っている。作戦をしくじった女の子の顔だった。
マグネは駆け寄って、包みを頭からかぶせた。ちらりと振り返ると、執事はとっくに壁のほうを向いていた。
「……執事まで付けて、囮か」
男が呟いた。
「本物に執事を付けないはずがない。付けたのは、本物だと思わせるためだ。……なら本物は」
そこで言葉が止まった。
――はい、おしまい。
マグネは服の上からトガの背中を軽く叩いた。上手だったわよの代わりに。
銃口がゆっくりと持ち上がる。それはマグネに向いていた。
「磁力を解け」
「嫌よ」
「若はもういない。お前に用はない。用があるのはそいつだけだ」
「なおさら嫌ね」
トガを背中にかばって、鉄の塊を両手で握り直す。
三人のうちこの男を止められるのは誰か。考えるまでもなかった。トガはついさっき元の体に戻ったばかりで、服一枚しか持っていない。執事の糸は素手でちぎられた。そもそも、この男が欲しがっているのは執事本人だ。残るのはあたししかいない。
あたしまで逃げたら、誰もこいつを止められないのは本当。でも逃げる必要もない。こういう男を足止めして、殴って黙らせるのは、昔からあたしの仕事だった。だって結構強いんだから。それに妹分の前でかっこ悪いとこは見せらんないでしょ!
「……クラウディオ」
声を落とした。
「あたしが飛ばすから、トガちゃん抱えて出口まで行きなさい」
「……マグネ様は」
「逃げるのはあんたたちの仕事。止めるのはあたしの仕事」
「マグネ様…坊ちゃんに言ったことをお忘れですか……」
「いいから!いきなさい!」
クラウディオは動かない。
「行きなさい!」
二度目でようやくトガを抱き上げて走り出す。マグネは鉄の塊を振りかぶった。
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振り下ろしたのと、明かりが消えたのが同時だった。
蛍光灯が一斉に落ちて、地下街は底まで黒くなった。非常灯すら点かない。シャッターの向こうで冷蔵庫の唸りが止まり、遠くのエスカレーターの軋みが途切れる。
磁石が二人を弾き飛ばす手応えがあった。闇の向こうへ何かが滑っていく風の音。銃声が一つ、二つ。弾はさっきまでマグネが立っていた場所の床を削った。振りかぶったときに、半歩ずらしてある。
真っ暗で、自分の手も見えない。
いいえ……見えないのはお互い様よ。向こうも撃てない。こっちの位置がわからないから。
でもね……あたしは見えなくても届く。
マグネは巨大磁石を握り直し、反対側の極を男へ向けた。両手の中の鉄の塊がぐっと一方向へ引かれる。右の奥。重い。人ひとりぶんの重さが、磁石の向こうでこちらへ引きずられて、革靴が石の床を擦る音が近づいてくる。
磁石があいつの居場所を教えてくれるのよね。
引かれる方向へ腰から振った。鈍い音がした。コンクリートの柱を殴ったような手応えだった。
倒れない。
鉄の塊が途中で止まった。暗闇の中で、男の手が磁石の頭を掴んでいる。人の頭ほどの鉄を片手で。
次の瞬間、左の肩が焼けたように熱くなった。刃物だ、銃じゃない。見えない中で、この男は間合いに合った道具に持ち替えている。
「――っ、この!」
マグネは極を裏返した。引き寄せから弾く側へ。掴まれていた磁石ごと、男の体が闇の向こうへ吹き飛んだ。シャッターに叩きつけられる轟音が、地下街じゅうに反響する。
膝をつきそうになるのを、磁石を杖にしてこらえる。肩が熱い。息が荒い。でも向こうからも次が来ない。一度引きずり込まれて殴られた男は、見えない中でもう一度近づいてはこない。やっぱりそういう男ね……やらしい。
来なさい…いくらでも相手になるわ。
マグネは暗闇に向かって磁石を構え直した。そのとき左腕に何かが触れた。蜘蛛の糸みたいに細くてぴんと張ったものが、一本また一本。暗闇の中で、壁から柱へ、柱から壁へ、糸が張られていく音がした。
「マグネ様!」
すぐ近くで声がして、マグネはしばらく返事ができなかった。
「……なんで戻ってくんのよ……あんた」
やっと出た声は思ったより普通だった。
「今いいとこだったのに」
磁石を握っていた指から少しだけ力が抜けた。
広場の反対側で低い声がした。灰色の男が電話の相手に短く答えている。確保二。撤収。了解した。通話の切れる気配のあとで、声が闇に向けられた。
「三十七番……今度でいい」
少し間があった。
「……男……名は」
マグネは暗闇を睨んだまま答えた。
「女よ。『マグネ』覚えときなさい」
「……覚えておこう」
足音が遠ざかっていく。肩に執事の腕が回された。細いのに少しも揺れない腕だった。
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地上に出ると通りの信号が全部消えていた。アーケードの電光看板も、コンビニの明かりも、見える限りの窓が暗い。朝の光の中でこの一角だけが目を閉じたみたいに黙っている。
「……ついてたわね」
「ええ」
答えながら執事は消えた信号機をしばらく見上げていた。
石段の上で、トガが服にくるまって手を振っている。
「執事さん、戻ってきたのです」
「お待たせいたしました」
石段に座らされて、マグネは執事の顔を見上げた。
「……ねぇ…あんた、なんで戻ってきたの」
「坊ちゃんのご命令ですので」
「嘘ばっかり」
笑ったら、肩に響いた。
「あの子……今どこにいると思ってんのよ」
クラウディオは答えない。かわりに、いつもの仕草で袖の埃を払おうとした。白い袖口にマグネの血が乾きかけていて、払いかけた手が途中で止まってそのまま下りた。
マグネはそれを見なかったことにしてあげた。