首が痒い
死柄木は左手の四本の指で首筋を掻いた。一本は浮かせたまま。
北の県道は朝になっても車が一台も通らない。通らないように、誰かが両端を塞いでいる。ガードレールの向こうは杉の斜面で、反対側は削られた崖だ。逃げ道が一本しかない道を選ばされている。
隣を歩いているのはガキの顔をした何かだ。トゥワイスが作ったトガのコピーが、あのガキの血を飲んでいる。わかっている。わかっているのに、横目に入るたびに一瞬だけ間違える。背丈も、歩き方も、目の色も。
「……弔くん」
あいつの声で、それが言った。
「なんか……来るよ」
言われなくてもわかっていた。道の先に黒い外套の男が立っている。白い髪を後ろに撫でつけて、白い手袋。背後には誰もいない。一人で立っているのに、県道の空気がそこだけ重たかった。
「うわ!出た……見えねぇぞ!!……居るって!!」
トゥワイスが死柄木の背中に隠れて、荼毘がポケットから手を出した。
死柄木はアルテミスの顔をしたものの手首を掴んでいた。四本の指で。崩さないように。作戦は聞いている。こいつは取られなきゃいけない。本気で守って、本気で負けて取られなきゃいけない。頭ではわかっている。
男が歩いてきた。急がず、構えるでもなく、散歩の途中みたいな足取りで。荼毘の炎が男の足元の路面を舐める。青い火が道を横切って、アスファルトが泡立つ。
男は止まらなかった。炎の縁を一歩ぶんだけ迂回した、それだけだ。視線は一度もこちらに向かない。死柄木を見ていない。荼毘を見ていない。トゥワイスなど、最初から道端の蟻だった。男の目は死柄木が掴んでいる手首の先にしかなかった。
「若」
声は低く、ひどく丁寧だった。
「お迎えに上がりました、急に居なくなってしまわれて余は夜も眠れませんでした……」
「……帰らない…マキシミリアーノ」
アルテミスの声でコピーが言った。上手い、あいつならそう言う。短く、平らに目を合わせずに。
男は聞いていなかった。外套の袖から管が何本も這い出てくる。濡れたように光るそれがゆっくりと空中を進んで、死柄木の手首のすぐ横で止まった。触れてはいない。指一本ぶん手前。
――離せってことか。
管は死柄木を狙っていなかった。死柄木の手が掴んでいるものを、傷つけずに外すための位置にあった。
死柄木は指を開こうとした。
一本目が離れない。
偽物だ。トガのコピーで泥でできていて、血が切れれば溶ける。取られるのが仕事で取られなきゃ作戦が壊れる。全部わかっている。わかっているのに、アルテミスの顔をした手首から指が剥がれない。
首が痒い。
二本目…三本目…四本目。
手が空になった。
管がコピーの体に巻きつく。持ち上げるというより、抱え上げるような巻き方だった。コピーが蹴って、腕を振って、管を引き剥がそうと暴れる。男は少しも力を込めず、暴れる子どもを壊れ物のように抱えたまま、ただ立っていた。
「……見もしねぇのかよ」
荼毘が呟いても、男は振り向かなかった。
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「っ!離せ!マキシミリアーノ!」
「若……ご辛抱を」
男が腕の中のものに向かって言った。
「超常黎明期から二百年、十七代の当主。この家が積み上げた血の到達点が、このような蟲の巣に」
熱が死柄木の頬を叩く、荼毘だ。青い炎が男ではなく、男の周りの路面と、ガードレールと、その向こうから出てきた部下の影に向けて噴き上がっている。道を焼いて、男の退路を塞ぐ火だった。
取り返しに行く火だった。
荼毘の手の甲で縫い目の皮膚が煙を上げている。自分の火に焼かれながら、もう一歩前へ出ようとしていた。死柄木はその肩を掴む、四本の指で。
「……偽もんだ」
荼毘の足が止まって、炎が揺れて少しずつ小さくなっていく。
「……知ってる、そんなアホじゃねぇ」
荼毘はそれだけ言った。
男は焼けた路面の上を、炎を一度も見ないまま歩いていった。腕の中でアルテミスの顔をしたものが、まだ暴れている。その背中が杉の斜面の向こうに消えた。
「……っ、はぁ」
トゥワイスが死柄木の背中から顔を出した。
「行った……行ってねぇ……行った」
そして急に黙って、目を閉じて何かを聞くような顔をした。
「……もう一個!持ってかれた!持ってかれてねぇ!いや持ってかれてるっつーの!」
トゥワイスは震える手で電話を取り出した。
「マグ姉に……知らせねぇと……俺たちの秘密だ……いや知らせろよ!」
死柄木は空になった左手を見ていた。四本の指がまだ何かを掴んでいた形のまま、少しだけ曲がっている。
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西の河川敷は風が強かった。
スピナーは橋脚の裏に貼りついていた。コンクリートの壁面に手のひらと足の裏を吸いつかせて、水面から六メートルの高さに。右手は使っていない。握りしめたまま一度も開いていない。指の中にビー玉が一つ入っている。
――なんで俺なんだよ。
コンプレスにこれを渡された。一番速く逃げられるのは君だと言われた。壁を登れる。高いところに逃げられる。追ってくる連中は、下からしか来られない。理屈はわかる。わかるけど…なんで俺なんだ。
橋の上でコピーが連れて行かれるのが見えた。コンプレスが派手に手品をやって何人か引きつけて、それでもコピーはちゃんと取られちまった。予定どおりだ。今、下の河原を三人の男が走っている。上を見ていない。見ても、橋脚の影に何が貼りついているかまではわからない。
右手が汗で濡れていた。
落としたら。
考えるのをやめる。左手と両足だけで橋脚を横に移動する。ヤモリみたいだと、昔さんざん笑われた手足だった。いや実際ヤモリだ、その手足だけが今この河原でいちばん速い。
握った拳の中でビー玉はとても軽い。軽いのが怖かった。
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確保した若が二人、倉庫に運び込まれたのは午後だった。
ボクは荷台の扉の前で腕を組んで、正直ちょっと浮かれていた。二つのうちどっちかが本物で、どっちが本物か確かめる方法なんて家に帰ればいくらでもある。三つ割りの作戦を二つまで拾って、しかも一つはトガヒミコだと向こうが自分からばらしてくれた。帳簿としてはまあまあ上出来だ。
隣にはマキシミリアーノ殿が立っていた。あの人がいると倉庫の空気が冷える。
エルナンは少し遅れて戻ってきた。背広の左肩が裂けていて、下のシャツに打ち身の痕が透けている。
「珍しいじゃん、どうしたのそれ」
「磁石の奴だ」
エルナンはそれだけ言って、倉庫の中を見回した。
「……レイはどこだ」
「さぁ?電気屋さんなら変電所じゃない?」
「旧市街が落ちた……地下街ごとだ」
「日本の電気って、案外脆いんだね」
「俺が撃とうとしたときにな」
ボクは返事をしなかった。エルナンも、それ以上は言わなかった。
「……あいつの網が落ちるのを、初めて見た」
どういう意味か訊く前に、部下が扉を開けた。荷台の奥に毛布が二つ丸まって、毛布の端から顔が二つ出ている。金色の髪。猫みたいな目。同じ顔が二つ並んで、ボクを見上げて、同時に笑った。
「ごめぇんね」
「ごめぇんね」
「時間切れちゃった♥」
「時間切れちゃった♥」
ボクは何も言えなかった。
「……複製だ」
エルナンが言った。
「あの二倍の男の……姿は……トガヒミコの個性だろう」
三つに割れて……三つとも外れだった。一つはトガヒミコで、二つは複製だった。三つとも偽物?なら本物はどこにいた……全部で三人。それがボクの数えた数だった。四人目なんて最初から数えていなかった…やられた。
「トガヒミコの変身は……たしか」
口が勝手に続きを言っていた。解析班の資料の三枚目に書いてあった一行。
「……血を……飲むんだっけ」
やってしまった、隣で空気が止まる。
「……血を?」
マキシミリアーノ殿がそう言った。
「若の?血を……?」
管が出た。
二本ではなかった。外套の袖から裾から、襟の内側から黒い管が一斉に溢れ出して荷台の中の二つの顔に届く。笑ったままの顔が崩れて、白い泥になって毛布の上に広がった。
「いやぁん!」
「いやぁん!」
それで止まらなかった。扉を開けた部下が、声を上げる間もなく管に巻かれた。頬がこけて、髪が抜けて、手の甲に皺が走って、膝から崩れる。荷台の脇に立っていたもう一人も。泥の上に乾いた枯れ枝みたいなものが二つ転がった。
「血を……!!蟲が……!!口に…………!!!!」
あの人の言葉が、途切れ途切れになっていた。余が抜けている。当主の前でも一度も崩れなかった言い回しが、ただの単語の並びになっていた。
「二百年だ……!!二百年かけて。一滴も外に…!零さぬように……!それを……蟲の!舌の上に!許さぬ……!歴史も無い…蟲共が……!」
管がボクのほうへ来て、喉の前で止まった。十センチもない。前に言われたとおり、三十センチが縮んだ。ボクは息をしなかった。動けば当たる……動かなくても当たるかもしれない。
「マキシミリアーノ殿」
エルナンだった。いつの間にか、ボクとあの人のあいだに立っていた。管の先が、エルナンの胸の手前で止まっている。背広の裂けた左肩が、目の前にあった。
「筋が違います…部下は関係がない」
エルナンの声は、いつもの事務の声だった。
「部下を干しても…若は戻らない。バルバラを干しても…若は戻らない…ならば意味はない。筋が通らないことを俺はしません。殿もなさらないはずです」
長い沈黙があって、管が一本ずつ袖の中へ戻っていった。あの人の顔に表情が戻る。戻ってきたのはいつもの、何も浮かんでいない顔だった。
「……若は……器だ」
あの人は、泥のほうを見たまま言った。
「器に蟲の口がついたなら洗えばよい。連れ帰ってから……洗えばよい」
それから、ゆっくりとエルナンを見た。
「あの巣は……一匹残らず干す」
杖の音が倉庫の出口へ遠ざかっていった。ボクはそこでようやく息を吐いた。膝が笑っている。
エルナンが振り返りもせずに、転がった部下の枯れた手首を取って脈を確かめていた。二人ぶん。確かめてからそっと下ろす。
ボクは、泥と枯れ枝みたいになった二人を見ていた。わかったことが一つある。あの人の帳簿には若という項目がないんだ、血としか書いていない。
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「さて…………お待たせしたね」
指先でビー玉を弾く。
「我らが若君のご登場だ」
指を鳴らす音。アルテミスが閉じ込められる直前に聞いたのも、同じ音だった。
背中に草が当たった。
空が高い。さっきまで高架下の灰色の天井があったはずの場所に、青い空が広がっている。雲の形が変わっていて、日の高さも違う。起き上がると、山あいの潰れたドライブインの裏だった。錆びた看板が傾いていて、その向こうに県境を示す標識が見える。
「おかえり!アルテミスくん」
トガの声がした。顔を上げると、服にくるまったトガがしゃがみこんでこちらを覗いていた。いつもの顔だった。自分の顔ではなかった。
死柄木。荼毘。トゥワイス。トガ。マグネ。スピナー。コンプレス。クラウディオ。八人だ、自分を入れて九人。
全員いる。
マグネの左肩に包帯が巻かれて、白い布の下から赤いものが滲んでいる。
「みんな無事で良かったわ……ホント」
荼毘の手の甲がいつもより黒かった。
「とりあえず……一件落着だな」
死柄木は少し離れたところで、左手をぼんやりと見ていた。スピナーは地面に座り込んで、右手を膝の上で開いたり閉じたりしている。何も持っていない手を。
クラウディオがいつものように半歩後ろに立っていた。髪を結んだ紐が少しずれていて、白い袖口に乾いた血の跡がある。こちらの視線に気づいて、クラウディオは袖口を内側へ折り返した。何も言わなかった。
「……何があった」
「ないしょ♥」
トガが言って、誰もそれ以上は答えなかった。
何度数え直しても九人だ。それなら良いのかもしれない。