ドライブインの二階は、使われなくなった休憩室だ。
畳が十二枚。日に焼けて色の抜けた畳の上に、誰かが昔こぼしたらしい茶の染みが三つ残っている。壁には県の観光ポスターが一枚、角が剥がれて丸まったまま貼りついている。押し入れの布団は湿っていたけれど、誰も文句は言わない。
横になった順に、ひとりずつ音が消えていく。トゥワイスはマスクをかぶったまま、荼毘は壁にもたれたまま、スピナーは右手を握りしめたまま眠った。コンプレスは帽子を顔の上に乗せて、腹の上で手を組んで動かない。舞台の袖で出番を待つ役者みたいな寝方だ。
アルテミスだけが眠れない。
窓際に座って、数える。
寝息が七つ。階下で水の音が一つ。
九人。
合っている。合っているのに、目が冴えて仕方がない。
ビー玉の中のことは何も覚えていない。指が鳴った音がして、次に目を開けたら草の上にいた。そのあいだに雲の形が変わって、日の高さが変わって、マグネの肩に包帯が巻かれていた。
自分の知らない数時間が、どこかに挟まっているのだ。
窓の外は真っ暗で、山の稜線だけがかろうじて空と分かれて見えるだけだ。遠くの国道を、トラックが一台だけ通り過ぎていく。ヘッドライトが天井を横切って、すぐに消えてしまう。
もう一度、数え直す。七つと一つと、自分で九人。
何度数え直しても、同じだ。
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執事さんの手、はじめて見た。
トガは階段の一番下の段に座って、膝を抱えてそれを見てる。
厨房だったところのステンレスの台に、マグ姉が座ってる。上着を半分脱いで、左肩をこっちに向けて。その肩の前に執事さんが立って、手袋を外しはじめた。白い手袋。いつもはめてるやつ。それを指先から一本ずつ引っぱって、きちんと二つ折りにして台の端に置いた。
手の甲に線がいっぱいある。
白っぽいのと、ちょっと茶色いのと。細いのと、太いの。指の付け根から手首のほうまで、何本も何本も重なってる。古い傷だ。新しいのは一個もない。全部ずっと前に治ってるみたい。
執事さんはそれを隠さない。
針に糸を通して、マグ姉の肩を縫いはじめる。昨日の包帯の下は、ちょっと開いちゃってたらしい。糸が肌をくぐるたびに、マグ姉が「いっ」とか「ちょっと」とか言って、執事さんは「失礼いたします」って言って、手は止めない。
縫い目がまっすぐ並んでいく。定規で引いたみたいにきれい。
血がでてる。
きれいな色。でもマグ姉のだから、飲みたいとは思わない。ふしぎ……好きな人の血は飲みたいはずなのに。マグ姉のことは好きなのに。
なんでだろう。
「ねえ……執事さん」
「なんでございましょう」
「その手のやつ、痛かった?」
針が一瞬だけ止まった。ほんとに一瞬。
「昔のことです」
それだけ言って、また針を動かす。
マグ姉がトガのほうを見て、ちょっと首を振る。それ以上は訊いちゃだめよっていう顔。
トガはわかったよって顔をして、膝に顎をのせた。
昔のことって言った。痛かったかどうかは言ってない。
最後の結び目を作って糸を切って、執事さんはまた手袋をはめ直す。指先から一本ずつ。そうしたら、もういつもの執事さんの手になる。白くてきれいで、線なんか一本もない手。
「はい、おしまい」
マグ姉が上着を羽織り直して、トガに手を振る。
「トガちゃんもう寝なさい。夜更かしは肌に悪いのよ」
「マグ姉も」
「あたしは年季が違うの」
トガは笑って、階段を上がっていく。上がりながら一回だけ振り返ったら、執事さんは台の端の血を拭いてる。手袋のまま。
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昼過ぎに、クラウディオが買い物袋を提げて戻ってきた。
袋の口から、鍋の柄が突き出ている。
ホームセンターの一番安い棚に並んでいそうな、薄いアルミの両手鍋だ。値札のシールも、まだ取っ手の内側に貼りついたままだ。
アルテミスはそれから、しばらく目が離せない。
あの家を出る朝、台所に鍋が一つだけ残っていた。持っていくのか、と訊いたら、いいえ、とこの男は答えた。買い直すほうが安い。そう言って置いてきた。
本当に、買い直してきたのだ。
「袋麺しかございませんでした」
「十分よ」
マグネが左腕を吊ったまま、右手だけで袋を破りはじめる。歯で端を噛んで引き裂くのを見て、トゥワイスが「ワイルドだな!上品だな!」と叫ぶ。
ガスはカセットコンロが一台。鍋は一つ。九人分の袋麺を一度には茹でられないから、三回に分けるしかない。
一回目が茹で上がる。
「よし任せろ!俺が運ぶ!運ばねえ!運ぶっつってんだろ!」
「待ちなさいトゥワイス、取っ手熱いわよ」
「熱っ!ぬるい!熱っ!!」
トゥワイスが手を離して鍋が傾く。麺の半分が、畳の上へ滑り落ちていく。
「あーっ!」
「三秒ルール!」
しゃがみ込んで手を伸ばすトガの襟首を、マグネが右手一本で掴んで引き戻す。
「畳は三秒ももたないわよ!」
宙で足をばたつかせながら、トガの指先には麺が一本だけつままれている。
「……一食分の損失だ」
「細けえな坊主!細かくねえ!大事だ!ごめんな!」
二回目が茹で上がる。荼毘が丼を覗き込んで、顔をしかめる。
「伸びてるじゃねぇか」
「じゃあ食べなきゃいいでしょ」
「食う」
言うが早いか誰よりも先にすすり終えて、丼を傾けて汁まで飲み干す始末だ。
「汁まで飲むなよ!それ鍋の残りで俺らの分も――」
「汁に誰の分とかねぇよ」
「あるだろ!」
丼を抱えて抗議するスピナーの横で、コンプレスが空の鍋の蓋を手に取る。
「さて。三回目が茹で上がるまでの幕間に、ささやかな余興をお目にかけようか」
蓋を裏返して、表に返して、また裏返す。指を一つ鳴らす。持ち上げた蓋の下に白い卵が一つ。
「は!?どっから出した!?」
「手品師に種を訊くのは野暮だよ、スピナー」
トガが三回拍手して、トゥワイスが「すげえ!インチキだ!すげえ!」と叫ぶ。
「……で、その卵は誰のだ」
「くじで決めよう。公平にね」
コンプレスが手のひらの中で割り箸を九本揃えて差し出す。先に印がついているのは一本だけ。全員が一本ずつ引いて、印のついた箸は死柄木の指の間だ。
「……いらねえ」
「当たりは当たりだよボス」
三回目の鍋に落とされた卵が、死柄木の丼へ滑り込む。
死柄木は黙って、それを口に運ぶ。
スピナーが箸を持とうとして、落とす。
右手の指がうまく開かないらしい。何度か握って、開いて、ようやく箸をつかむ。つかんだ箸の先が、少しだけ震えて止まらない。
アルテミスは、それから目を逸らさない。
「アルテミスくん」
隣でトガが、丼を抱えたまま覗き込んでくる。
「目……きれいな色だね!」
箸を止めた。
「……家の色だ」
「ふうん。でもきれいだよ!」
トガはそう言って、麺をすすり込む。
それで終わりだ。家の色だと答えたのに、それが何を意味するのか、この娘は一つも訊かない。
家ではこの色を褒められるときはいつも、その先に続きがあった。いい血だ。いい器だ。いい子を産ませられる。
この娘の「きれい」には、続きがない。
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食べながら組み立てていた。
誰も話さないなら、材料を拾うしかない。
マグネの傷は左肩。弾なら穴が開く。縫い目の並び方からして、あれは刃物で裂かれた線だ。刃物が届く距離まで、何かに近づいていたのだ。
クラウディオの袖口の血を思い出す。肩を貸して腕を回せば、そこにつく。支えたのはマグネだ。
マグネの磁石は人を飛ばせる。自分は飛べない。だから、飛ばされた側と残った側がいたはずだ。トガとクラウディオが飛ばされて、マグネが残った。
なのに、マグネを支えて出てきたのはクラウディオだった。
飛ばされたあとで、戻ったのだ。
戻れと誰が言ったのか。言われていないなら、自分で決めて戻ったのか。九年間、主の指示なしに動いたことのない男が。
スピナーの右手を見た。開いたり閉じたりしている指を。あの手が何時間も一度も開かれなかった理由も、たぶん見当がつく。握っていたものが何だったのかも。
誰も何も言わない。言わないことにしたのだろう。
だからアルテミスも言わない。
丼の底に残った汁に、自分の顔が映っている。灰色の目が、こっちを見返す。
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夕方、鍋を洗っているクラウディオの隣に立つ。
厨房の窓から西日が差し込んで、ステンレスの台が橙色だ。この男は、アルミの薄い鍋を、屋敷の銀器と同じ手つきで洗うのだ。縁を指でなぞって、取っ手の付け根まで泡を回して、水を切る。値札のシールは、いつの間にか消えていた。
結んだ髪の紐が、まだ直っていない。
「……紐がずれている」
クラウディオの手が止まる。
九年、この男が言ってきた台詞だ。坊ちゃん、髪が。毎朝、毎晩。鏡の前に立たされて、後ろから手が伸びてきて、ずれた襟や跳ねた髪を直された。
逆になったことは、一度もない。
「……失礼いたしました」
クラウディオは濡れた手を拭いて、紐を結び直す。いつもより、ほんの少しだけ時間がかかる。
それを見届けて、それ以上は何も言わない。
鍋が水切りかごの上で、小さく音を立てる。
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夜になって、電話が鳴った。
死柄木の電話だ。畳の上に放り出してあった端末が震えて、全員の目がそっちへ向く。死柄木は面倒くさそうに取り上げて、しばらく黙って、相手の話を聞くだけだ。それから短く何か返す。
通話が切れると、首を掻く。
「……先生の主治医だ」
全員が死柄木を見た。
「場所を用意するってよ。誰にも見つからねぇとこ」
「主治医って……あの人の?」
コンプレスが帽子のつばを押し上げる。
「ああ……迎えを寄越すとさ」
断る理由はない。カルテルは若を取り損ねて、あの白い髪の男はきっともう待たない。見つからない場所は、今いちばん必要なものだ。
トゥワイスが「病院かよ!ホテルかよ!」と騒いで、スピナーが「どっちでもいいよ屋根があれば」と布団に倒れ込んだ。
窓の外の暗い山を見る。
先生の医者。
自分の中で、一つの枠がいつもどおり働いているのを、確かめた。
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同じ夜、公安委員会の最上階の一室には、明かりが一つだけ点いていた。
会長は机の上の報告書を揃え直す。声を荒げたことが一度もないと言われている、中年の女だ。首元に、小粒の真珠が一連。
旧市街の広域停電。原因は調査中。変電設備に異常なし。同時刻、市内三か所で所属不明の外国人集団による拘束行為。いずれも、同一人物と思われる少年を対象とする。拘束された少年は、全員が偽物だった。
そしてカルテルは撤収した。
撤収の理由は書かれていない。書けるほどの情報がないのだ。わかっているのは、一つの国の裏社会を丸ごと動かせる組織が、子ども一人のために他国の街を半日止めたということだけ。
窓が、外から軽く叩かれる。
開ける前に、もう男は部屋の中にいた。赤い翼が、背中でゆっくりと畳まれていく。
「こんばんは〜遅くなりました」
「報告は読みましたか」
「はい、道中で……いやぁ……派手にやりますね、あっちの人たち」
ホークスは笑って、応接の椅子の背に腰を引っかける。座らない。
「任務は二つです」
会長が切り出す。
「一つ目。ヴィラン連合への潜入。接触の入口は以前伝えたとおり」
「……荼毘ですよね。了解です」
「二つ目」
会長は報告書の下から、写真を一枚抜き出す。
神野の中継映像から切り出した一コマだ。粗い画面の中で、黒いコートの子どもがこちらを向いている。灰色の目だけが、妙にはっきり写っていた。
「アルテミス・エル・トローノ。十三歳。現在は連合と行動を共にしている」
「……十三歳」
「説得して……保護まで誘導してください。力ずくは不可。傷をつけることも不可。彼に何かあれば、この国で何が起きるかは、エンデヴァーの報告書にあるとおりです」
ホークスは写真を受け取って、しばらく眺めて、すぐには返さない。
「十三歳を説得……ねぇ」
口元が笑う。
「俺、子どもには好かれるほうなんですけど」
彼女はその顔を見ていた。口元は笑っている。目は写真から一度も離れない。
首元の真珠に、一度だけ指が触れる。
「……期待しています」
「はいはい……じゃ〜行ってきます」
窓が開いて、閉じた。部屋に残ったのは、赤い羽根一枚だけだ。
会長は写真を報告書の上に戻す。灰色の目が天井を見上げている。
血で選ばれた子どもだという。二百年かけて使えるように作られた子どもだと。
こちらは翼で選んだ。