カルテル・デ・ヴィランズ   作:カルキよし

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36話 選んだ

 

  ドライブインの二階は、使われなくなった休憩室だ。

 

 畳が十二枚。日に焼けて色の抜けた畳の上に、誰かが昔こぼしたらしい茶の染みが三つ残っている。壁には県の観光ポスターが一枚、角が剥がれて丸まったまま貼りついている。押し入れの布団は湿っていたけれど、誰も文句は言わない。

 

 横になった順に、ひとりずつ音が消えていく。トゥワイスはマスクをかぶったまま、荼毘は壁にもたれたまま、スピナーは右手を握りしめたまま眠った。コンプレスは帽子を顔の上に乗せて、腹の上で手を組んで動かない。舞台の袖で出番を待つ役者みたいな寝方だ。

 

 アルテミスだけが眠れない。

 

 窓際に座って、数える。

 

 寝息が七つ。階下で水の音が一つ。

 

 九人。

 

 合っている。合っているのに、目が冴えて仕方がない。

 

 ビー玉の中のことは何も覚えていない。指が鳴った音がして、次に目を開けたら草の上にいた。そのあいだに雲の形が変わって、日の高さが変わって、マグネの肩に包帯が巻かれていた。

 

 自分の知らない数時間が、どこかに挟まっているのだ。

 

 窓の外は真っ暗で、山の稜線だけがかろうじて空と分かれて見えるだけだ。遠くの国道を、トラックが一台だけ通り過ぎていく。ヘッドライトが天井を横切って、すぐに消えてしまう。

 

 もう一度、数え直す。七つと一つと、自分で九人。

 

 何度数え直しても、同じだ。

 

---

 

 執事さんの手、はじめて見た。

 

 トガは階段の一番下の段に座って、膝を抱えてそれを見てる。

 

 厨房だったところのステンレスの台に、マグ姉が座ってる。上着を半分脱いで、左肩をこっちに向けて。その肩の前に執事さんが立って、手袋を外しはじめた。白い手袋。いつもはめてるやつ。それを指先から一本ずつ引っぱって、きちんと二つ折りにして台の端に置いた。

 

 手の甲に線がいっぱいある。

 

 白っぽいのと、ちょっと茶色いのと。細いのと、太いの。指の付け根から手首のほうまで、何本も何本も重なってる。古い傷だ。新しいのは一個もない。全部ずっと前に治ってるみたい。

 

 執事さんはそれを隠さない。

 

 針に糸を通して、マグ姉の肩を縫いはじめる。昨日の包帯の下は、ちょっと開いちゃってたらしい。糸が肌をくぐるたびに、マグ姉が「いっ」とか「ちょっと」とか言って、執事さんは「失礼いたします」って言って、手は止めない。

 

 縫い目がまっすぐ並んでいく。定規で引いたみたいにきれい。

 

 血がでてる。

 

 きれいな色。でもマグ姉のだから、飲みたいとは思わない。ふしぎ……好きな人の血は飲みたいはずなのに。マグ姉のことは好きなのに。

 

 なんでだろう。

 

「ねえ……執事さん」

 

「なんでございましょう」

 

「その手のやつ、痛かった?」

 

 針が一瞬だけ止まった。ほんとに一瞬。

 

「昔のことです」

 

 それだけ言って、また針を動かす。

 

 マグ姉がトガのほうを見て、ちょっと首を振る。それ以上は訊いちゃだめよっていう顔。

 

 トガはわかったよって顔をして、膝に顎をのせた。

 

 昔のことって言った。痛かったかどうかは言ってない。

 

 最後の結び目を作って糸を切って、執事さんはまた手袋をはめ直す。指先から一本ずつ。そうしたら、もういつもの執事さんの手になる。白くてきれいで、線なんか一本もない手。

 

「はい、おしまい」

 

 マグ姉が上着を羽織り直して、トガに手を振る。

 

「トガちゃんもう寝なさい。夜更かしは肌に悪いのよ」

 

「マグ姉も」

 

「あたしは年季が違うの」

 

 トガは笑って、階段を上がっていく。上がりながら一回だけ振り返ったら、執事さんは台の端の血を拭いてる。手袋のまま。

 

---

 

 昼過ぎに、クラウディオが買い物袋を提げて戻ってきた。

 

 袋の口から、鍋の柄が突き出ている。

 

 ホームセンターの一番安い棚に並んでいそうな、薄いアルミの両手鍋だ。値札のシールも、まだ取っ手の内側に貼りついたままだ。

 

 アルテミスはそれから、しばらく目が離せない。

 

 あの家を出る朝、台所に鍋が一つだけ残っていた。持っていくのか、と訊いたら、いいえ、とこの男は答えた。買い直すほうが安い。そう言って置いてきた。

 

 本当に、買い直してきたのだ。

 

「袋麺しかございませんでした」

 

「十分よ」

 

 マグネが左腕を吊ったまま、右手だけで袋を破りはじめる。歯で端を噛んで引き裂くのを見て、トゥワイスが「ワイルドだな!上品だな!」と叫ぶ。

 

 ガスはカセットコンロが一台。鍋は一つ。九人分の袋麺を一度には茹でられないから、三回に分けるしかない。

 

 一回目が茹で上がる。

 

「よし任せろ!俺が運ぶ!運ばねえ!運ぶっつってんだろ!」

 

「待ちなさいトゥワイス、取っ手熱いわよ」

 

「熱っ!ぬるい!熱っ!!」

 

 トゥワイスが手を離して鍋が傾く。麺の半分が、畳の上へ滑り落ちていく。

 

「あーっ!」

 

「三秒ルール!」

 

 しゃがみ込んで手を伸ばすトガの襟首を、マグネが右手一本で掴んで引き戻す。

 

「畳は三秒ももたないわよ!」

 

 宙で足をばたつかせながら、トガの指先には麺が一本だけつままれている。

 

「……一食分の損失だ」

 

「細けえな坊主!細かくねえ!大事だ!ごめんな!」

 

 二回目が茹で上がる。荼毘が丼を覗き込んで、顔をしかめる。

 

「伸びてるじゃねぇか」

 

「じゃあ食べなきゃいいでしょ」

 

「食う」

 

 言うが早いか誰よりも先にすすり終えて、丼を傾けて汁まで飲み干す始末だ。

 

「汁まで飲むなよ!それ鍋の残りで俺らの分も――」

 

「汁に誰の分とかねぇよ」

 

「あるだろ!」

 

 丼を抱えて抗議するスピナーの横で、コンプレスが空の鍋の蓋を手に取る。

 

「さて。三回目が茹で上がるまでの幕間に、ささやかな余興をお目にかけようか」

 

 蓋を裏返して、表に返して、また裏返す。指を一つ鳴らす。持ち上げた蓋の下に白い卵が一つ。

 

「は!?どっから出した!?」

 

「手品師に種を訊くのは野暮だよ、スピナー」

 

 トガが三回拍手して、トゥワイスが「すげえ!インチキだ!すげえ!」と叫ぶ。

 

「……で、その卵は誰のだ」

 

「くじで決めよう。公平にね」

 

 コンプレスが手のひらの中で割り箸を九本揃えて差し出す。先に印がついているのは一本だけ。全員が一本ずつ引いて、印のついた箸は死柄木の指の間だ。

 

「……いらねえ」

 

「当たりは当たりだよボス」

 

 三回目の鍋に落とされた卵が、死柄木の丼へ滑り込む。

 

 死柄木は黙って、それを口に運ぶ。

 

 スピナーが箸を持とうとして、落とす。

 

 右手の指がうまく開かないらしい。何度か握って、開いて、ようやく箸をつかむ。つかんだ箸の先が、少しだけ震えて止まらない。

 

 アルテミスは、それから目を逸らさない。

 

「アルテミスくん」

 

 隣でトガが、丼を抱えたまま覗き込んでくる。

 

「目……きれいな色だね!」

 

 箸を止めた。

 

「……家の色だ」

 

「ふうん。でもきれいだよ!」

 

 トガはそう言って、麺をすすり込む。

 

 それで終わりだ。家の色だと答えたのに、それが何を意味するのか、この娘は一つも訊かない。

 

 家ではこの色を褒められるときはいつも、その先に続きがあった。いい血だ。いい器だ。いい子を産ませられる。

 

 この娘の「きれい」には、続きがない。

 

---

 

 食べながら組み立てていた。

 

 誰も話さないなら、材料を拾うしかない。

 

 マグネの傷は左肩。弾なら穴が開く。縫い目の並び方からして、あれは刃物で裂かれた線だ。刃物が届く距離まで、何かに近づいていたのだ。

 

 クラウディオの袖口の血を思い出す。肩を貸して腕を回せば、そこにつく。支えたのはマグネだ。

 

 マグネの磁石は人を飛ばせる。自分は飛べない。だから、飛ばされた側と残った側がいたはずだ。トガとクラウディオが飛ばされて、マグネが残った。

 

 なのに、マグネを支えて出てきたのはクラウディオだった。

 

 飛ばされたあとで、戻ったのだ。

 

 戻れと誰が言ったのか。言われていないなら、自分で決めて戻ったのか。九年間、主の指示なしに動いたことのない男が。

 

 スピナーの右手を見た。開いたり閉じたりしている指を。あの手が何時間も一度も開かれなかった理由も、たぶん見当がつく。握っていたものが何だったのかも。

 

 誰も何も言わない。言わないことにしたのだろう。

 

 だからアルテミスも言わない。

 

 丼の底に残った汁に、自分の顔が映っている。灰色の目が、こっちを見返す。

 

---

 

 夕方、鍋を洗っているクラウディオの隣に立つ。

 

 厨房の窓から西日が差し込んで、ステンレスの台が橙色だ。この男は、アルミの薄い鍋を、屋敷の銀器と同じ手つきで洗うのだ。縁を指でなぞって、取っ手の付け根まで泡を回して、水を切る。値札のシールは、いつの間にか消えていた。

 

 結んだ髪の紐が、まだ直っていない。

 

「……紐がずれている」

 

 クラウディオの手が止まる。

 

 九年、この男が言ってきた台詞だ。坊ちゃん、髪が。毎朝、毎晩。鏡の前に立たされて、後ろから手が伸びてきて、ずれた襟や跳ねた髪を直された。

 

 逆になったことは、一度もない。

 

「……失礼いたしました」

 

 クラウディオは濡れた手を拭いて、紐を結び直す。いつもより、ほんの少しだけ時間がかかる。

 

 それを見届けて、それ以上は何も言わない。

 

 鍋が水切りかごの上で、小さく音を立てる。

 

---

 

 夜になって、電話が鳴った。

 

 死柄木の電話だ。畳の上に放り出してあった端末が震えて、全員の目がそっちへ向く。死柄木は面倒くさそうに取り上げて、しばらく黙って、相手の話を聞くだけだ。それから短く何か返す。

 

 通話が切れると、首を掻く。

 

「……先生の主治医だ」

 

 全員が死柄木を見た。

 

「場所を用意するってよ。誰にも見つからねぇとこ」

 

「主治医って……あの人の?」

 

 コンプレスが帽子のつばを押し上げる。

 

「ああ……迎えを寄越すとさ」

 

 断る理由はない。カルテルは若を取り損ねて、あの白い髪の男はきっともう待たない。見つからない場所は、今いちばん必要なものだ。

 

 トゥワイスが「病院かよ!ホテルかよ!」と騒いで、スピナーが「どっちでもいいよ屋根があれば」と布団に倒れ込んだ。

 

 窓の外の暗い山を見る。

 

 先生の医者。

 

 自分の中で、一つの枠がいつもどおり働いているのを、確かめた。

 

---

 

 同じ夜、公安委員会の最上階の一室には、明かりが一つだけ点いていた。

 

 会長は机の上の報告書を揃え直す。声を荒げたことが一度もないと言われている、中年の女だ。首元に、小粒の真珠が一連。

 

 旧市街の広域停電。原因は調査中。変電設備に異常なし。同時刻、市内三か所で所属不明の外国人集団による拘束行為。いずれも、同一人物と思われる少年を対象とする。拘束された少年は、全員が偽物だった。

 

 そしてカルテルは撤収した。

 

 撤収の理由は書かれていない。書けるほどの情報がないのだ。わかっているのは、一つの国の裏社会を丸ごと動かせる組織が、子ども一人のために他国の街を半日止めたということだけ。

 

 窓が、外から軽く叩かれる。

 

 開ける前に、もう男は部屋の中にいた。赤い翼が、背中でゆっくりと畳まれていく。

 

「こんばんは〜遅くなりました」

 

「報告は読みましたか」

 

「はい、道中で……いやぁ……派手にやりますね、あっちの人たち」

 

 ホークスは笑って、応接の椅子の背に腰を引っかける。座らない。

 

「任務は二つです」

 

 会長が切り出す。

 

「一つ目。ヴィラン連合への潜入。接触の入口は以前伝えたとおり」

 

「……荼毘ですよね。了解です」

 

「二つ目」

 

 会長は報告書の下から、写真を一枚抜き出す。

 

 神野の中継映像から切り出した一コマだ。粗い画面の中で、黒いコートの子どもがこちらを向いている。灰色の目だけが、妙にはっきり写っていた。

 

「アルテミス・エル・トローノ。十三歳。現在は連合と行動を共にしている」

 

「……十三歳」

 

「説得して……保護まで誘導してください。力ずくは不可。傷をつけることも不可。彼に何かあれば、この国で何が起きるかは、エンデヴァーの報告書にあるとおりです」

 

 ホークスは写真を受け取って、しばらく眺めて、すぐには返さない。

 

「十三歳を説得……ねぇ」

 

 口元が笑う。

 

「俺、子どもには好かれるほうなんですけど」

 

 彼女はその顔を見ていた。口元は笑っている。目は写真から一度も離れない。

 

 首元の真珠に、一度だけ指が触れる。

 

「……期待しています」

 

「はいはい……じゃ〜行ってきます」

 

 窓が開いて、閉じた。部屋に残ったのは、赤い羽根一枚だけだ。

 

 会長は写真を報告書の上に戻す。灰色の目が天井を見上げている。

 血で選ばれた子どもだという。二百年かけて使えるように作られた子どもだと。

 こちらは翼で選んだ。

 

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